子供たちは待てません
孤児院の院長は、約束より半刻早く着いた。
玄関へ出ると、家令に勧められても外套を脱ごうとしていなかった。すぐ帰らなければならないという。
「長くは取らせませんので」
そう言って、布袋から帳面を出した。
窓辺の机をお貸しすると、細かな字が並ぶ頁を開く。
「今月の補助金が、まだ届いておりません」
昨夜の手紙で知っていた。それでも、改めて聞くと、胸が縮む。
会計担当者からは、年度の支出承認が下りておらず、支払いができないと連絡が来ていた。
私に承認を出せないことは、向こうも分かっている。
殿下への取次ぎを、してほしいのだ。
「こちらが、先月までの分でございます」
院長の指が頁を辿った。
粉屋、薪屋、肉屋。
私は、院長の指先に小さな割れ目があるのを見ていた。
「食料は、何日分残っていますか」
「五日ほどは。店の方にも、少し待っていただいています」
「寝具のお届けは」
「まだ、何も。そちらは今年でなくても結構です。繕えば使えますから」
私は帳面から顔を上げた。
寝具の話は、院長からお願いされたわけではない。視察に訪れたリリア様が、薄くなった毛布を見て申し出てくださったのだ。
その支度を整える前に、日々の食事まで止まった。
「お嬢様のお立場が変わったことは、伺っております」
院長が、慌てて言った。
「会計の方から、こちらへ相談するようにと聞きまして。お忙しいところを」
「いえ」
私は椅子を引いた。
「父と、話をさせてください。お帰りをお急ぎでしたら、後で使いを」
「待ちます」
すぐに答えが返った。
私は、ミナへお茶を頼んだ。
院長は帽子を置いたが、外套は脱がなかった。
◇
父の書斎には家令も来た。
補助金の額と、残っている食料のことを伝えると、父は書き物を脇へ寄せた。
「まず、足りない分を出そう」
「ありがとうございます」
「それで、来月は」
私は口を閉じた。
「また、止まるかもしれません」
「では、来月も我が家からか」
父の声に、咎める調子はなかった。
家令が基金の手紙を机へ広げた。
「会計担当者は、承認が下りれば払えると申しております。残高が足りないわけではないようです」
「申請は、先月お届けしました」
私は言った。
それでは子供たちの食事は戻らない、と自分でも思った。
「寄付として、終わらせない方がよいでしょうか」
父が私を見る。
「院への支払いが遅れた分を、我が家で立て替える形に。基金が支払うとき、二重に渡らないように」
「それなら、先に額を確かめよう」
家令が頷いた。
「先方の帳簿と照合いたします。本日分の食料は、屋敷からお届けしてよろしいでしょうか」
「それを頼む」
私は立ち上がりかけた。
院長に伝えて、厨房へ行って、荷物の用意を。
家令はもう扉のそばにいた。
「まず院長先生へ、ご説明して参ります」
私は座り直した。
「当面のお金は、三か月分お願いできないでしょうか」
父が私を見た。
「ひと月では、後任を決めた頃に、また次の支払いが来てしまいます。あちらから、取り次いでほしいと言われても、結局同じことに」
「なるほど」
父は、家令が置いていった数字を確かめた。
「三か月なら出せる。ただ、次も我が家が出すとは約束できん。基金から返ってこなかった場合は、そのことも考えねばならない」
「はい」
寄付なら早いのに、という考えがまだ残っていた。
父の金で早く済ませて、それから、次はどうするのだろう。
私は父の承諾を待ってから、院長のいる部屋へ戻った。
◇
昼過ぎには、双方の帳簿が揃った。
王宮へ使いを出した家令が戻る間に、私は院長と支出の内訳を確かめた。
「肉は、ここ二か月で高くなりましたね」
「ええ。それで豆を増やしているのですが、あまり続くと、年長の子たちが」
院長がそこで口をつぐんだ。
私は、院の食堂を思い浮かべた。食器の音と、誰かがいつも喋っている長い卓。
年長の子は、配膳を手伝う。
自分の分を、後にすることもある。
「三か月分、立て替えます」
院長が顔を上げた。
「今月だけでは、また急に止まったとき困るでしょう。三か月の間に、正式な窓口を決めてもらいます」
「そこまで、お願いしても」
「父が認めてくれました」
私だけで決めたように言ってしまったので、付け足した。
家令が戻り、基金の会計担当者が確認した書面を渡してくれた。
承認が下り次第、侯爵家へ返済すること。こちらの立替額を、基金の台帳にも記すこと。
父が書面を読み、署名した。
「返済の期日は、月末として請求いたします」
家令の言葉に、父が頷く。
院長は何度も礼を言った。
「寝具の方は、どうぞお気になさらず」
帰り際、その一言だけ小さな声だった。
私は見送りながら、何か言おうとした。
春までには、とか。別の支援先を、とか。
やめた。
院長は厨房で分けてもらったパンの籠を抱え直し、馬車に乗った。
その隣には、家令が頼んだ会計係が座る。支払いを済ませ、店への説明もしてくるという。
◇
殿下へ送る手紙は、何度も書き直した。
初めのものは長すぎた。
孤児院の人数、給食の回数、支払いが遅れると誰が困るか。知っていただきたいことを足すうちに、二枚になった。
読んでくださるだろうか。
読むように書き換えるのは、いつも私の役目だった。
私は一枚目を裏返した。
立替の額と、基金の会計担当者に確認したこと、返済期日だけを残す。
最後に、正式な後任を置いてほしいと書いた。
返事は、翌日の午後に来た。
『君は王国を困らせて楽しんでいるのか』
私は、もう一度読み返した。
その下には、私が直接出向けば会計担当者への説明も早いのだから、そうすればよかったとあった。
自分の手紙を、読んでいただけたのだろうか。
家令が額を確認したことも、院長が朝から来ていたことも、もう一度書くべきなのか。
「お嬢様」
ミナが、扉のところにいた。
「旦那様が、お呼びです。お取り込み中でしたら、後ほどと」
「今、行くわ」
私は筆記具へ伸ばしていた手を引いた。
殿下の返書は、家令に渡した。
渡す前に、折り目を揃えた。何か言い返したくなるのを、指先で押さえるように。
返済の書面では、会計担当者と話がついている。殿下のお気持ちを宥めなくても、請求はできるはずだった。
それでも、返書の一行が頭から離れない。
「この後の返済については、あなたからお願いできますか」
「承知いたしました」
「私から、補足することは」
家令は返書を読み、首を振った。
「請求に必要な書面は、昨日いただいております」
それだけ聞いて、私は父の書斎へ向かった。
机には王宮の紋章が押された招待状があった。
「明日、会議をするそうだ」
父が私へ差し出す。
宛名には、グランフェルト侯爵令嬢とあった。
議題は、行政上の引継ぎに関する確認。
出席者の一番上に、アルベルト殿下の名前があった。




