赤い封筒
廊下へ出ると、家令が応接室の前に立っていた。
「旦那様にもお知らせしております」
「お父様は?」
「登城中でございます。お戻りまでお待ちいただくようにと、申し上げたのですが」
中から、私を呼ぶ声がした。
家令が扉を開く。私は中へ入った。
「エレノア。なぜ返事を寄越さない」
殿下の手には、手紙が二通あった。
どちらも、まだ見ていない。
「ご用件は、家令が伺っております」
「君に聞いている。あの男と話したいわけではない」
殿下は手紙を机へ置いた。
「東区の結界が、明日で切れる」
私は頷いた。
日付を間違えたのかと、一瞬思った。間違えていない。今日は婚約を解かれてから三日目で、更新期限は明日だ。
「魔石の払い出し申請は、お届けしております」
「それが見当たらない」
「先月十四日、赤い封筒で」
殿下が眉を寄せた。
「あれか」
「お心当たりが?」
「まだ署名が要るものだったのか」
私は机に置かれた手紙を見た。
封筒を二通、わざわざここまでお持ちになったのだ。
王宮にいる誰かへ、赤い封筒を探すように命じるよりも。
「ご署名をいただくために、お届けしました」
「分かっている。だから、君が来てくれ」
「封筒は、どちらにあるのでしょう」
「箱へ入れさせた」
殿下は椅子へ腰を下ろした。
少し疲れた顔をしていた。眉間の皺を指で押すところは、見慣れている。
「リリアが、机の上に書類があると気が滅入ると言うのでな。しばらく使わないものを片づけさせた」
「赤い封筒は、期限のあるものを入れると決めております」
「知っている。覚えていれば、別にしておいた」
私は口を閉じた。
「今から探せば間に合うだろう。君なら、誰に何を聞けばよいか分かる」
「執務室の侍従へ、お尋ねください」
「聞いた。場所が分からないそうだ」
「では、その日のお当番と、お片づけに入った方へ」
私は言いながら、もう捜し物の手順を考えていた。
何日の何時に、どの部屋を空けたか。侍従が覚えていなければ、荷を運んだ使用人が覚えている。
自分の口を止めるのが遅れた。
「ほら、分かるのではないか」
殿下が立った。
私は立ったままだったので、すぐ近くまで顔が来た。
「馬車を待たせている。着替えは、そのままでいい」
「私は、参りません」
殿下が止まった。
「明日なのだぞ」
「存じております」
「なら、なぜ」
怒鳴られるより、困惑した顔をされる方がつらかった。
本当に分からないのだ、この方には。
「殿下の執務をお手伝いする役目は、もう終わりました」
「ああ、何度も聞いた。だが、これは結界だ」
それはそうだ。
東区には、市場と施療院がある。夜になると露店が並ぶ通りもある。
以前、施療院へ寄った帰りに、ミナと揚げた菓子を買った。
そんな場所を、見捨てるつもりかと聞かれれば、答えに困る。
「殿下がお戻りになって、封筒をお探しください」
私は、ゆっくり言った。
「ご署名の後は、魔石庫の管理官へお渡しになれば進みます。更新するのは結界師の方々です」
「そのくらい知っている」
「では」
「君が一緒なら早いと言っているのだ」
家令が扉の内側へ入ってきた。
「殿下。お茶のお代わりを」
「要らん」
私は家令を見た。彼は私を見ず、殿下の冷めたカップを持ち上げた。
私はもう一度、殿下へ顔を向けた。
「お引き受けできません」
「命令だ」
足が、半歩動きかけた。
私は椅子の背へ手を置いた。
「王家から侯爵家への正式なご命令でしたら、父へお伝えください。私は、殿下のご命令で執務に就く官職をいただいておりません」
「いつから、そんな口の利き方を」
殿下は、その先を言わなかった。
私も、言葉を足さなかった。
冷めたお茶の香りだけがした。
「一刻で済む」
殿下が言った。
「封筒を見つけて、段取りを伝える。それだけで帰ればよい」
一刻で済んだことが、何度あっただろう。
私は尋ねなかった。
「私にも、どのくらい掛かるか分かりません」
「だから、一緒に来て確かめればいい」
どんな答え方をしても、殿下の中では、私が行く話になる。
家令の持ったカップが、微かに鳴った。
「殿下。これ以上は、侯爵が戻りましてからと」
家令が口を挟む。
殿下は彼を見た。私も、思わずそちらを見た。
給仕の盆を持ったまま、家令は頭を下げている。
「私の父へは、お伝えしていただかなくて結構です」
私は殿下へ言った。
「封筒を探していただければよいだけですので」
家令の声を聞いて、口から出てしまった。
殿下の口元が動いた。
まずいことを言ったのかもしれない。けれど、取り消す言葉は出なかった。
「君は、冷たい女だな」
私は指先へ力を入れた。
椅子の背に彫られた葉の模様が、手袋越しに当たった。
「……そうかもしれません」
殿下の表情が動いた。
否定しなかったからだろうか。
「分かった。もうよい」
机の手紙を掴み、殿下は扉へ向かった。
家令が開けた扉の向こうに、護衛の方が二人立っていた。
私は頭を下げた。
馬車の音が聞こえなくなるまで、顔を上げなかった。
◇
翌日は、何度も時計を見た。
朝食の途中で。書庫で本を開いてから。昼食の後にも。
ミナに尋ねられ、読んでいる本を取り違えた。
「そちらは、園芸の本でございます」
「そうね」
分かっていたつもりだったが、頁には土の配合が書かれていた。
私は本を閉じた。
ミナが裁縫箱を持ってきた。私の外套の袖に、ほつれがあるという。
見ているだけでもよいかと尋ねると、彼女は椅子を寄せてくれた。
針が布を抜ける。糸の端を切る。単純な作業なのに、見ていると少し落ち着いた。
「私も、何か縫おうかしら」
「では、こちらを」
渡されたのは、穴の開いた布だった。練習用だという。
何度か針を通した。時計を見たくなるたび、一針ずつ進めた。
夕方には、布が少し縮んでいた。
夕方になって、父が帰ってきた。
廊下の足音を聞きつけ、私は部屋を出た。父は外套を家令へ渡しているところだった。
「更新は済んだ」
私を見るなり、父は言った。
「結界の」
「はい。あの、期限には」
「二時間前だそうだ。現場から完了の報告が上がった」
私は、壁へ手を添えた。
冷たい石だった。
「封筒は、見つかったのですね」
「燭台をしまう箱に入っていた。荷を運んだ者が覚えていたそうだ」
父は私の手を見て、それから顔へ目を戻した。
「昨日の訪問は聞いた。次に来られたら、私を呼び戻してくれ」
「お仕事が」
「家の用だ。戻る」
私は頷いた。
父は先に食堂へ行った。
私はしばらく、廊下の壁へ手をついたままでいた。
◇
夜、王宮から封書が来た。
殿下からではなかった。基金の会計担当者の名前がある。
何かの確認だろうか。
私は封を切りかけ、家令に渡した。
「ご用件を、確かめていただけますか」
家令はその場で手紙を開いた。
読み進めるうちに、片方の眉が上がった。
「お嬢様。こちらは、明朝お話をした方がよいかと」
「何でしょう」
彼は一度、文面を確かめた。
「孤児院への支払いについて、問い合わせが来ております」




