青い棚の三段目
「本日の会談が、中止になりました」
外交局の文官は、椅子を勧めても座らなかった。
私も、応接室の戸口に立ったままだった。
「帝国大使からのご連絡ですか」
「はい。担当者と、その権限を確認できないため、と」
差し出された書簡に目を通す。
来月からの関税優遇を短期延長するための、事前協議だった。今朝、王国側から出席者の変更を伝えたらしい。新しい担当者の名前は、空欄になっていた。
「お名前をお知らせすれば、日程は改めていただけると思います」
「その説明を、大使へお願いできませんか」
「私から?」
文官は頷いた。
「殿下が、エレノア様なら先方も納得すると」
応接室へ入ると、彼はようやくついてきた。
私は椅子へ座り、書簡を返した。
「どなたが交渉をお引き継ぎになるのでしょう」
「まだ、ご指示がなく」
「その状態で、私がお伝えできることはございません」
彼は書簡の端を、指で撫でた。
「大使は、あなたをご存じですので」
「存じているからこそ、今も私が担当していると思われたら困ります」
自分でも、硬い言い方だと思った。
文官の顔から困惑が消えない。
「殿下との仲を、お取り持ちいただきたいわけではないのです」
頬が熱くなった。
「そのお話は、しておりません」
「失礼いたしました」
彼は深く頭を下げた。
私は膝の上へ手を置いた。
私の断り方が曖昧なのか、それとも、断っているということ自体が伝わっていないのか。
「外交局長へ、担当者の任命についてご確認ください。お返しする書類や、連絡の履歴は王宮にございます」
「局長は、殿下の案件なので、殿下のご指示を待つようにと」
またそこへ戻るのか、と思った。
私は口元へ手をやりかけ、膝へ戻した。
「では、殿下のご判断をお待ちください」
◇
外交局の馬車が帰った後、家令が来客用の帳面を持ってきた。
今日は、私の名前が何度も書かれている。
「以後、王宮からのご用件は、私が先に伺ってもよろしいでしょうか」
「そんなことまで、お願いしていいの?」
家令は少し首を傾げた。
「お客様の用件を伺うのは、私の仕事です」
それもそうだった。
私は帳面の開かれた頁を見た。
「お願い。ただ、私へ確認が必要なことでしたら」
「そのようにいたします」
家令は私が続きを言うのを待たず、帳面を閉じた。
応接室に、一人残された。
先ほどまで忙しかったのに、急に、何をしたらよいのか分からなくなった。
昼食の席で、父が通知の受理について教えてくれた。
婚約指輪は昨夜返却済み。王家から預かった式典用の徽章は二点あり、こちらは家令が封をして届ける。
私への贈り物として渡された装身具は、目録を照会し、返却するか残すかを双方の家で決めるという。
「殿下は、ずいぶん前から準備なさっていたのでしょうか」
父の手が止まった。
「書面を揃える時間はあったようだ」
私は頷いた。
怒っているのか、悲しいのか、どちらでもないのか、自分で決められなかった。
ただ、昨日の昼、私が北部の天候について説明している間にも、殿下は知っていらしたのだと思った。
「私に話があったのは、一昨日だ」
父が言った。
私は顔を上げた。
「陛下から呼ばれた。殿下とお前の性格が合わず、今後のためにも解消したいというお話だった」
「一昨日」
「お前にも伝えてある、と聞いた」
父の皿の上で、肉が半分残っていた。
「話をしようと思ったが、お前は夜更けに帰ってきて、昨日は私の方が朝から出ていた。それで、あの場だ」
私は昨夜、こちらへ来ようとした父を止めたことを思い出した。
「お前に先に確かめるべきだった」
父はそう言うと、食事へ戻らなかった。
私も、すぐには何も言えなかった。
食器の触れる音だけがした。
父が、私の方の塩を取ろうとして手を止めた。
私は容器を渡した。
「陛下は、何と」
「お前に落ち度があったという話にはしない、と」
私は空になった自分の皿を見た。
昨夜の広間にいらした方々は、どう思っただろう。
声に出すと、父の顔が険しくなる気がした。
「お前の意向を確かめてから返答すると申し上げた。解消そのものを止めるべきか、私にも分からなかった」
父は塩を振らずに容器を戻した。
「止めてほしかったか」
私は、しばらく考えた。
「あの夜会の前に、私へ話してほしかったです」
父が目を伏せた。
誰に、とは言わなかった。
◇
夕方、廊下で若い男性とすれ違った。
今日来た三人のうちの一人かと思ったが、違った。外套の襟に輸送局の小さな徽章がついている。
私に気づくと、深く礼をした。
「エレノア様。資料の受領証をお持ちしました」
彼は家令へ封筒を渡し、それからこちらへ向き直った。
「今朝の包みは、輸送局でお預かりいたしました」
「もう、ご確認いただけたのですか」
「はい。ルッツ様が、ご説明くださったので」
署名を終えたルッツ様の顔が浮かんだ。
これがあれば、と言いかけた声も。
「渡し場の方は」
「決まりました。午後の便から荷を載せます」
私は、息を吸った。
「正午に、間に合ったのですか」
「ぎりぎりでした。返事を運ぶ使者を待つ間、局長が組合へ保証状を出してくださいまして」
彼は額に触れた。疲れているようだったが、笑っていた。
「橋が直るまでの臨時便です。殿下の署名は、昼過ぎに届きました」
「費用は」
「増便分はご用意の案どおりです。保証のための手数料が、別に少し」
案どおりなら、船頭の人数も足りる。
荷下ろし場の手配は。
北部の倉庫への到着は。
尋ねようとすると、彼が脇へ抱えていた工程表を持ち直した。
私の知らない筆跡で、いくつも書き込みがある。
「失礼いたします。局へ戻らなければ」
「はい。お疲れさまでした」
彼は頭を下げ、家令に見送られて出ていった。
扉が閉じる。
何も聞き漏らしていないかと考えたが、もう聞く相手はいなかった。
◇
部屋へ戻ると、机に小さな空きができていた。
王宮の鍵を置いていた皿を、ミナが脇へ移していたのだ。
「お片づけしてもよろしいですか」
「ええ」
彼女は皿を持ち上げ、裏を確かめた。
「何か、別のものをお置きになります?」
「まだ、分からないわ」
扉を叩く音がした。
ミナが、皿を持ったまま振り返った。
家令だった。明朝、父が庭へ出る際に同行してほしいという。
「私も?」
「お嬢様も。ご都合が悪くなければ、と」
悪くはなかった。
明日の予定が、初めて一つできた。
「では、そのようにお返事を」
家令が下がってから、机の上に残っていた王宮の予定表を見た。
何日も先まで、細かい文字が並んでいる。
持っていなければいけないような気がしていた。
でも、麦は運ばれる。
私は予定表を、手紙をしまう抽斗へ入れた。
鍵は掛けなかった。
夕食の席で、父が明日の散歩のことを尋ねた。
私は、雨が降らなければと答えた。
父は頷き、窓を見た。私もつられて外を見た。
庭の暗がりに、灯が一つ揺れていた。




