九時の朝食
「召し上がりますか」
ミナに聞き返されて、私は頷いた。
朝食を頼んだだけなのに、随分思い切ったことを言った気がした。
「では、すぐに」
「着替えもお願い。あの、急がなくていいから」
急がなくていいと付け足したせいで、かえってミナが急いだ。衣装棚を開け、二枚の服の間で迷っている。
「何でもいいわ」
「王宮の方にお会いになるのでしたら」
「水色ので」
選ぶと、ようやく彼女の手が動いた。
いつも王宮へ着ていく服ではない。袖口が柔らかく、机に腕をついても窮屈にならないので、私はその服が好きだった。
◇
朝食の部屋へ入ると、父がいた。
新聞を畳みかけて、私を見上げる。
「眠れたか」
「はい。寝坊いたしました」
「そういうことにはならんだろう」
父は脇の椅子に置いてあった封書へ触れた。
王家の封蝋が見えた。
それが何なのか、聞かなくても分かった。
「食後に話そう。先に食べなさい」
席へ着くと、ミナが紅茶を注いだ。
卵と、焼いたパン。小皿には蜂蜜がある。
私がパンを割る間、父は新聞を広げ直した。わざとらしいほど大きな音がした。
「使者は、お待ちなのでしょう」
「茶を出してある。ルッツも飲んでいる」
それはそうだろうと思ったが、少し笑ってしまった。
父は新聞の上からこちらを見た。
「どうした」
「いえ」
温かいパンの真ん中に、バターが沈んでいく。
父が、卓の向こうの蜂蜜を寄せてくれた。
「お前は、これをつけていたな」
「子供の頃です」
「今は違うのか」
私は小匙を取った。
王宮へ行く前に甘いものを食べると、後で喉が渇く。それでいつからか、つけなくなった。
薄く塗って口へ入れると、父がまた新聞へ目を戻した。
美味しいかどうか、聞かれなくてよかった。
父はもう朝食を終えていた。読み終えた頁を、さっきから何度も開いている。
半分ほど食べて、私は時計を見た。
九時三十四分。
普段なら、会議に出す資料の最終確認を終えている時刻だった。
そのことを考えた途端、まだ飲み込んでいないパンが喉につかえた。
「水を」
ミナが差し出したグラスを受け取る。
父は何も言わなかった。
食べ終えてから封書を開けた。正式に婚約を解くという通知と、返還する贈答品についての照会だった。
読み終えると、父が手を差し出した。
「返書はこちらで出す。お前が確認するものは、後で家令に持ってこさせる」
「ありがとうございます」
薄い紙が私の手から離れた。
◇
応接室へ入ると、三人が揃って立ち上がった。
ルッツ様の頬には、赤い跡が一本ついている。今朝の髭剃りで切ったのかもしれない。
「長くお待たせいたしました」
「とんでもございません。早速ですが、船頭組合との更新案を」
「殿下のお机へ、昨日お届けしています」
ルッツ様が後ろの若い文官を見た。
若い方は何か書き留めた。
「お机の、どちらに」
「未決裁のものを置く、右側の文箱です」
「あちらは昨夜、片づけられておりまして」
花瓶の横へ寄せられた書類が浮かんだ。
私は背筋を伸ばした。
「原案の写しは、青い棚の三段目にあります。北部輸送の綴りです。殿下の署名をいただく用紙は、もう一度作っていただければ」
「先方が、金額の根拠についても説明を求めています」
「同じ綴りに、水位の報告と船の増便数を挟んであります」
分かることに答えているだけなのに、胸の重さが薄れていった。
私は説明を一つ追加しかけた。
その前に、ルッツ様が身を乗り出した。
「でしたら、ご同道いただけますか。馬車は待たせております」
私は口を閉じた。
ルッツ様は、ようやく仕事が進むという顔をしていた。
「私が、王宮へ?」
「はい。そこから組合へ使いを出しますので。殿下もお待ちです」
背後で、ミナがお茶の盆を置いた。
小さな音だった。
「私は、伺いません」
ルッツ様の視線が止まる。
「昨夜のことでしたら、存じております。しかし、これは輸送の件です」
「殿下の婚約者として、お手伝いしていた仕事でございます」
「ええ。ですから、その、片がつくまで」
言いにくそうだった。
頼みを断られたことがないのだ。少なくとも、私からは。
「今朝、正式な通知も届きました。今の私が殿下の名で交渉をするのは、先方にも誤解を招きます」
「説明だけでも構いません。ご判断は殿下がなさいます」
そう言われると思っていた。
何度も、そうやって席に座った。
説明が済むと追加の質問が来る。確認する相手が不在なら私が探し、返事を待つ間に、別の書類を渡される。
「申し訳ありませんが、お引き受けできません」
後ろの若い文官が、顔を上げた。
「本日の正午を過ぎますと、輸送枠を他国の商会へ回されます。北部には、冬までに入れなければならない麦が」
「承知しています」
強い声が出た。
若い方が肩を引いたので、私は慌てて言い直した。
「……すみません。そのための案を、お届けしています。輸送局の方には、もうご相談を?」
「王太子殿下のご指示で、先にこちらへ」
私は時計を見なかった。
見たら、やはり参りますと言いそうだった。
「では、次は輸送局へお願いします。局の方が、船頭組合との現行契約も持っていらっしゃいます」
ルッツ様はすぐには答えなかった。
横にいたもう一人の文官が、彼の袖へ触れた。
「ルッツ様。お戻りにならないと」
彼は口を引き結び、頷いた。
私も立ち上がる。
「その前に、お預かりいただきたいものが」
家令に頼んでおいた包みを持ってきてもらった。通行証、鍵、それから手元にあった覚書。父の使用人が内容物を確かめ、一覧を二部作ってくれている。
ルッツ様はその中の紙へ目を止めた。
「今朝の案件ですか」
「説明用の控えです。こちらも、お持ちください」
彼は控えを抜き出して、ざっと読んだ。
「これがあれば、私が」
言いかけて、黙った。
一覧に受領の署名をする音が、しばらく続いた。
◇
馬車が去った後も、私は玄関にいた。
門のところで御者が馬を急がせた。
間に合えばいい。
間に合わなかったら、どうなるのだろう。
「お嬢様」
家令に声を掛けられた。
「出入りの仕立屋が、午後に伺いたいそうです。ご予定はいかがなさいますか」
「今日?」
「婚礼衣装のお打合せですので、お断りしてよろしいかと」
婚礼衣装。
白い生地の見本を、先月見た。
私は何を選んだのだったか。
「お願いします。先方に、ご迷惑をお掛けしてしまうわね」
「まだ裁断前と伺っております」
家令が下がる。
私は階段に片足を掛けた。
部屋へ戻れば、王宮の馬車が来たときに窓から見える。つい、そう考えた。
「お庭へいらっしゃいますか」
ミナが尋ねた。
「いいえ。書庫へ」
何でもいいから、別のものを読みたかった。
書庫の扉に手を掛けたところで、玄関の呼鈴が鳴った。
早すぎる。
私は振り返った。
今度の使者が抱えていたのは、帝国の紋章がついた書簡だった。




