婚約破棄、承知いたしました
短編『私を捨てた王国の「後始末」はいたしません』の連載版です。
短編では描かなかった出来事や、その後のエレノアの暮らしを書いていきます。人物や展開に一部変更がありますので、短編をお読みくださった方も、改めてお付き合いいただければ嬉しいです。
夜会の料理に、一つだけ手をつけた。
小さな焼き菓子だった。口へ入れると、中から林檎が出てきた。夕食を食べ損ねた胃には、少し甘すぎる。
「エレノア。こちらへ」
呼ばれて、私は皿を近くの給仕へ預けた。
王太子アルベルト殿下が、大広間の中央に立っていた。その隣にはリリア・モートン男爵令嬢がいる。
今夜は随分そばにいらっしゃる、と思った。
昼間、殿下へ届けた書類を、彼女が両手で脇へ寄せていたことを思い出した。花瓶を置く場所がないと仰って。
「お待たせいたしました」
殿下の前で足を止める。近くにいた方々が、少しずつ私たちから離れた。
踊るための場所を空けたのかと思ったが、楽団の音が途切れた。
「君との婚約を破棄する」
殿下の口が、そう動いた。
私は返事をしなかった。
聞こえていた。ただ、次に何か続くのだと思った。取り消すとか、別の方の話だとか、そういうことを。
「聞いているのか、エレノア」
「……はい」
「君には、リリアを傷つけたことを反省してもらう」
リリア様を見ると、彼女は殿下の袖を掴んだ。
「私が、何を」
「まだ言うのか。慈善活動の予算を出し渋り、彼女を責めたそうだな」
あのことか。
先週、リリア様から、孤児院へ新しい寝具を届けたいと相談された。よいお話だったので、枚数と届け先、それから商店の見積書をお願いした。
昨日届いたのは、寝具の色見本だけだった。
「必要な書類が揃っておりませんでしたので、そのご説明を」
「泣かせる必要があったのかと聞いている」
私は口を閉じた。
泣いていらしたことは知っている。困ってしまって、お茶を入れ直していただいた。
何とお声を掛けたらいいのか分からないまま、予定していた面談の時間が来た。
そのまま席を立ったのが、いけなかったのだろうか。
「殿下、あの、もう……」
リリア様が小さな声を出した。
殿下はその手に自分の手を重ねた。
「君が遠慮することはない」
見覚えのある仕草だった。
私が十歳の頃、知らない大人ばかりの席で緊張していると、殿下はよくそうしてくださった。大丈夫だ、父上は怒っているわけではない、と。
指輪が大きすぎて、手を動かすたびに回ってしまったことまで思い出した。
「君はいつも、手続きの話ばかりだ」
殿下の声で、顔を上げた。
「相手の気持ちを考えたことがあるのか。王太子妃は、書類を片づけていれば務まるものではない」
昼間、書類を片づけるよう仰ったのは、殿下だった。
そんなことが浮かんでしまった。
今、考えることではない。
「父上にもお話ししてある。明朝、侯爵家へ正式な通知が届く」
父にも、もう話が行っているのだろうか。
会場の端を探すと、父がこちらへ歩こうとしていた。私は咄嗟に首を振った。
何のためにそうしたのか、自分でも分からない。父が殿下へ何か言うところを、この人たちに見られたくなかった。
「承知いたしました」
殿下が眉を寄せた。
「何をだ」
「婚約の解消を、承りました」
言えた。
そのことに、まずほっとした。
途中で声がおかしくなったら、どうしようかと思っていた。
「……それでいいのか」
私は殿下を見た。
よくはない、と言ったら、何か変わるのだろうか。
リリア様の手は、まだ殿下の袖にある。
「殿下がお決めになったことですので」
手袋の留め具が、うまく外れなかった。
いつもはミナが外してくれる。細い鎖を爪で引っ掛けると、指先が痛んだ。
誰かに手伝ってもらおうかと思ったが、この場では頼みにくかった。
ようやく左の手袋を外す。
指輪の下だけ、肌の色が少し違っていた。
「お返しいたします」
侍従が銀盆を差し出してくれた。
指輪を置くと、思ったより高い音がした。殿下はそれを見てから、私へ視線を戻した。
「随分、あっさりしているな」
何か言わなければと思った。
けれど、うまい返事は出てこなかった。
「それと、殿下」
「何だ」
「私がお預かりしていたお仕事は、明日から、どなたへお返しすればよろしいでしょうか」
殿下が口を開け、すぐ閉じた。
「今、その話をするのか」
「明朝も、会議がございますので」
北部の輸送枠は、正午までだった。
それを口にしようとして、やめた。ここで説明を始めたら、また、後で要点だけ書いておけと仰るだろう。
「ルッツに渡せばいい。細かいことは、あいつが分かる」
「では、手元にあるものはルッツ様へ。執務室の資料は、そのまま残してございます」
「好きにしろ」
殿下は苛立ったように言った。
「君がいなければ仕事ができないとでも思っているのか」
「いいえ」
できるはずだった。
私も最初からできたわけではない。教わって、間違えて、何度も確認して、覚えた。
そのたび、後で自分が困らないように書き残した。どなたかが使ってくださればよい。
「では、失礼いたします」
礼をすると、床の模様が目に入った。
右の靴の先に、白い粉がついている。
さっきの焼き菓子だ。
歩き出してからも、その粉が気になった。
◇
父は、馬車の扉が閉まるまで何も言わなかった。
向かいに座ると、膝に置いた私の手を見た。
「寒いか」
「いえ」
左手だけ、手袋を持ったままだった。
嵌めようとしたら、裏地が指に引っ掛かった。父が何か言いかけ、黙った。
私は直すのを諦めて、手袋を膝へ置いた。
「明日のことは、私が確認する」
「はい」
「今夜は、もういい」
何が、とは聞かなかった。
聞いたら、泣いてしまうかもしれなかった。
馬車が曲がると、父の肩越しに王宮の灯が見えた。まだ夜会は続いているのだろう。
明朝の馬車を断らなければ、と考えた。
それから、私はもう王宮へ行かなくてよいのだと思い出した。
◇
ミナは玄関で私を見るなり、父を見た。
父が短く何かを伝えると、彼女は頷いて私の外套を受け取った。
「お湯はございます。お食事は、どうなさいますか」
「いらないわ」
「スープだけでも」
そう言われると、空腹だった気もした。
「少し、お願い」
着替えを済ませると、机に盆が置かれた。
温かいスープと、薄く切ったパン。私は椅子へ座り、机の端に重なっていた紙をずらした。
明日、殿下へご説明する予定の覚書だった。
橋の迂回路。渡し場の契約。増額の根拠。
添付する写しが、一枚足りない。
立ち上がりかけて、座り直した。
「お嬢様?」
「何でもない」
スープを飲んだ。
熱くて、少し舌を焼いた。
食べ終えるまで、ミナは部屋にいた。用もないのに鏡の前の瓶を並べ替え、櫛についた髪を取っていた。
私が匙を置くと、すぐに来た。
「朝は、いつもどおりでよろしいですか」
六時に起きて、七時に王宮へ。
答えそうになって、私は首を振った。
「起こさなくていいわ」
「何時まででございますか」
「……分からない。起きるまで」
ミナは困った顔をした。私も少し困った。
「では、八時に一度だけ様子を見に参ります。お休みでしたら、そのままに」
「ええ。それでお願い」
灯を落としてもらい、寝台へ入った。
眠れないだろうと思ったのに、体は重かった。
目を閉じると、殿下の声より先に、明朝の正午という言葉が浮かんだ。
ルッツ様は、あの棚をご存じだっただろうか。
私は暗がりで、指輪のあったところを触った。
何もなかった。
◇
次に目を開けると、カーテンの隙間から日が差していた。
時計を見た。
九時を過ぎている。
「ミナ!」
上掛けを払いのけたところで、昨日のことを思い出した。
そうだった。もう、行かなくていい。
寝台の縁に座り直すと、扉が開いた。
「お目覚めでございますか」
「……ええ。大きな声を出して、ごめんなさい」
ミナは用意していたらしい水差しを置いた。
それから扉を振り返り、閉める。
「王宮から、使者がお見えです」
「どなた?」
「ルッツ様と、ほかにお二人。八時からお待ちです」
私は時計を見た。
残り三時間もない。
「渡し場の件ね。殿下のご署名は?」
ミナが困ったように口を結んだ。
「その件も含めて、お嬢様に聞けば分かると、殿下が」
寝台の下へ伸ばしかけた足を止めた。
机には、昨夜の覚書が残っている。
持っていけば早い。着替えて、馬車を出してもらえば、正午には間に合う。
私は覚書から目を離した。
「ミナ。朝食は、まだいただける?」
お読みいただきありがとうございます。
第10話までは、毎日19:30に更新する予定です。
続きもお付き合いいただければ嬉しいです。
空席あり




