第09話:夕日の残照と鉄の義手 / CRIMSON RESIDUE
カケルの私室に併設された浴室は、最新の霊子工学が結集した、一種の聖域とも呼べる空間だった。
天井からは白金製の精緻なノズルが幾重にも垂れ下がり、壁面には青白く発光する霊力伝導管が、まるで神経系のように張り巡らされている。
無菌状態で管理され、空気さえも微細なフィルターで磨き上げられたその場所に、泥と煤の塊である少年──UNIT-08は、自動洗浄台の上に静かに横たえられた。
「汚染度、最大値を計測。通常の清掃では除去不可能です。高天原規約に基づき、特殊溶剤による深部洗浄を実行します」
システム音声が浴室に冷たく響き、少年の横たわる洗浄台が密閉された透明な隔壁で覆われた。
次の瞬間、無数のノズルから高圧で噴射されたのは、あらゆる細菌や不純物を分子レベルで分解する青白い特殊溶剤だった。霧状になったエーテルが青い雷光を浴びて微細に発光し、隔壁内を虹色のプリズムが乱反射する幻想的な光景に変えていく。しかし、その輝きは、汚れを徹底的に排除しようとするシステムの冷徹な意志の表れでもあった。
「……信じられませんわ。この聖域に、このような獣を持ち込むなんて」
後を追ってきた琥珀は、入り口で眉間に深い皺を寄せていた。
少年の服が機械アームによって剥ぎ取られ、バイオハザード用の回収ボックスへ放り込まれる。布に染み付いていた下層界の、重く、澱んだ臭いが、排気システムが追いつく間もなく空間に拡散した。
「──っ、くっ……!」
琥珀は吐き気を催したように、思わず顔を背ける。
死臭と焦げた油、そして幾重にも重なった錆の匂い。高天原という無菌室で育った彼女にとって、それはもはや悪臭という名の物理的な暴力だった。
「なんておぞましい悪臭なのでしょう! カケル様、お分かりになりますか? これが、下層民の、穢れた臭いですわ! 数値化するまでもなく、存在そのものが猛毒なのです!」
琥珀は顔を歪め、激しい言葉を浴びせ続ける。
しかし、カケルはその声に応えることはなかった。
激しい溶剤の奔流の中で、少しずつ「泥の塊」から「一人の少年」へとその姿を露にしていくUNIT-08を、瞬きさえ忘れて見つめていた。厚い煤が剥がれ落ちるたびに、その剥き出しの「鉄の腕」が、高天原の洗練された意匠とは一線を画す、不器用で暴力的なまでの鈍い輝きを放ち始める。カケルは、透明な隔壁越しに、祈るような眼差しでその光景を凝視していた。
琥珀が「猛毒」と呼び、システムが「最大汚染」と定義したその存在。
だが、カケルの目には、それは排斥されるべきゴミなどではなく、この閉ざされた白磁の世界に投げ込まれた、初めての「真実」のように映っていた。
──プシュゥゥゥ……。
システム終了の合図とともに、隔壁内の青白い霧がゆっくりと晴れていく。特殊溶剤の刺激臭が薄れ、代わりに、熱を持った鉄と、湿った獣のような匂いが微かに鼻孔をくすぐった。
カケルは、隔壁に張り付くようにして、その中を覗き込んだ。泥と煤が完全に洗い流された洗浄台の上。そこに横たわっていたのは、カケルの想像を遥かに超える、暴力的なまでの「命」の姿だった。
「……あ」
カケルの喉から、声にならない息が漏れた。
浴室の冷たい青色照明の中で、そこだけが発火したように輝いていた。燃え盛る炎そのものを固めたような、鮮烈で、荒々しい赤色の髪。高天原のどこを探しても存在しない、危険信号のようなその色彩が、濡れて重たげに少年の額に張り付いている。
カケルは戸惑った。今自分が感じている、魂が揺さぶられる様な感覚は、琥珀からも、黒鉄からも教わったことがない。ただ、剥き出しの己の感性で、眼前の少年を受け止めるしかなかった。
鮮烈な赤の下に広がるのは、カケルたちのような透き通る白皙の肌とは対極の肉体。太陽と土に塗れ、過酷な風雨を生き抜いてきた証──深く、力強い褐色の肌だった。
カケルは、その色彩の暴力に圧倒されながらも、少年の顔立ちから目を離すことができなかった。整ってはいるが、それは高天原の貴人たちのような、左右対称に調律された繊細な美しさではない。
眉間には微かな苦悩の跡があり、唇は強く結ばれ、頬にはいくつもの古い傷跡が刻まれている。それは、死の間際にありながらもなお「生きること」を諦めていない、猛々《たけだけ》しいまでの生命力の塊。
磨き上げられた人形のように完璧で、それゆえに空虚な自分たちの顔とは決定的に違う。不完全で、汚れ、傷だらけだというのに──どうしてこれほどまでに、美しく、強い輝きを放っているのだろう。
カケルは恐怖よりも先に、その少年の存在そのものに、魂を鷲掴みにされるような畏怖を感じていた。
「──ッ!? あ、ああ……ああああああッ!!」
少年の姿を完全に視界に入れた瞬間、琥珀は喉を掻きむしり、発狂せんばかりの悲鳴を上げた。彼女は持っていた扇子を床に叩きつけ、腰が抜けたように後ずさる。
「赤……『赤』ですわ! カケル様、お分かりになりますか!? 高天原の戒律において、赤は災いと破壊、そして滅びを呼ぶ最凶の禁忌色! タケミカヅチ、即刻、即刻処分なさい! 今すぐにこの『化け物』を、跡形もなく消去するのですわ!!」
琥珀の叫びは理性を失い、獣のような咆哮に変わっていた。だが、カケルはその怒声を受け流すように、洗浄台に横たわる少年にさらにもう一歩近づいた。
「……綺麗な色だね」
その一言が、浴室の冷たい空気を凍りつかせた。
「な……カケル様、何を……何を仰いますか!?」
琥珀は驚愕に目を見開き、震える声でカケルを諭そうとする。
「それはノイズです、穢れです! この世界の調和を根底から覆す毒の色なのですわ! 落ち着いてください、アマテラス様の教えを思い出して……!!」
カケルは琥珀を振り返らず、傍らに静止しているタケミカヅチを見上げた。
「タケミカヅチ。君の目から見て、この髪の色はどう思う? ……綺麗かな?」
タケミカヅチの十字型スリットが、淡い光を放ちながら少年の赤い髪を走査した。
「……色彩データ、照合完了。波長650ナノメートル、高彩度の赤を確認。自然界における『夕日の残照』および『生命の循環』に類する、視覚的価値の高い配色であると定義します。……肯定。非常に、『綺麗』な個体であると判定します」
「ふふ、君とは話が合うね」
カケルは満足げに微笑むと、ようやく琥珀の方を向き、穏やかながらも拒絶できない冷徹な響きを込めて告げた。
「琥珀。悪いけど、今日の講義は明日に回そう」
「な……ッ! 予定の変更は、アマテラス様の演算に対する冒涜にございますわ!」
琥珀は顔を真っ赤にし、秩序を乱された苦痛に身を震わせた。しかし、カケルは少年の褐色に染まった手を取り、静かに首を振った。
「お願いだ。この子が回復するまで、僕はそばにいてあげたいんだ。……だから、邪魔をしないで」
「…………っ」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、琥珀はそれ以上言葉を紡げなくなった。
カケルの言葉には、皇太子としての、絶対的な意志が宿っていたからだ。
「……勝手になさいませ!」
琥珀が羽織の裾を翻した、そのとき。
洗浄台から鋭い警告音が鳴った。
『失血および複数の裂傷を確認。生体反応、危険域』
「治療して。僕が許可する」
カケルの命令に応じ、機械腕が少年の傷口を青白い止血膜で覆っていく。
苦痛に眉を寄せる少年の手を、カケルはそっと握った。
「大丈夫。君を死なせないから」
琥珀は羽織の裾を乱暴に翻し、タケミカヅチを連れて浴室を去った。
廊下に出た瞬間、彼女は抑えきれない怒りをタケミカヅチにぶつけた。
「タケミカヅチ! なぜ私の命令を聞かなかったのです! ターゲットを排除せよとの命令は、私に与えられた権限のはずでしょう!?」
「否定します」
タケミカヅチは、歩みを止めずに冷たく淡々と返した。
「当ユニットの行動規範において、皇太子・カケル様の『保護・随伴』の意志決定権は最優先事項にございます。管理官・琥珀。当機に異議を唱える際は、管理者ログへ正規の不服申立申請を行ってください。現時刻より、承認には三百時間を要します」
「この、ガラクタが……ッ!!」
琥珀の屈辱に満ちた絶叫が、静まり返った黄金の回廊に空虚に響き渡った。




