第10話:識別番号──名もなき獣 / UNIT-08 : BEAST
高天原の最上層に位置するカケルの私室は、下界のあらゆる喧騒と不浄を遮断した、完全なる静寂の揺籠であった。
少年は、まだ目覚めない。カケルは、指が沈み込むほど厚みがあり、雲のような弾力を湛えた純白の寝具に横たえられた少年の顔を、覗き込むようにしてじっと見つめていた。
その布地は、アマテラスの技術の結晶である、汚れ一つ、皺一つ許さない特殊繊維『シルキー・レイ』。触れるだけで微かな光を放ち、常に最適な体温を維持するその生地の上に、泥にまみれていたはずの異邦人が横たわっている光景は、どこか不気味なほどに美しく、同時にひどく歪だった。
自動洗浄システムによって洗浄され、本来の姿を現した少年の素顔。それを間近で見た瞬間、カケルは息をするのも忘れ、その場に縫い留められたようになっていた。
それは、カケルの想像力を遥かに凌駕する、暴力的なまでの「美」の顕現だった。
陽光をたっぷりと吸い込んだような、深みのある褐色の肌。その頬には、長い睫毛が深い影を落としている。高天原の住人のような、遺伝子調整された左右対称の人工的な美しさではない。眉間には微かな苦悩の皺が刻まれ、引き結ばれた唇は意志の強さを物語り、頬にはいくつもの古い傷跡が白い線となって走っている。
それら全ての「不完全さ」が、彼という存在の獰猛な生命力を引き立て、見る者の魂を鷲掴みにするような、強烈な引力を放っていた。枕の上では、水に濡れた鮮血を思わせる赤い髪が、消えかけの残り火のように鮮やかに広がっている。
そしてカケルの視線は、吸い寄せられるようにその右腕──剥き出しの義手へと注がれた。
洗浄されたことでその無骨な合理性をさらに剥き出しにした鉄の腕。複雑に噛み合う歯車、鈍い光を放ち、冷たく軋む黒鉄のシリンダー。肉体と機械が癒着する境界線の生々しさは、この純白の聖域において異物でしかなかった。
アマテラスの教義本の中では、下層民は『楽園の調和を乱す、醜く野蛮な異形の存在』として記されている。
けれど、目の前に横たわる少年はどうだろう。
この圧倒的な存在感。
生身の温もりと、殺伐とした鉄の質感が混ざり合うその危険な調和から、カケルは一秒たりとも目を離すことができなかった。
「君は……下界から……?」
その時、少年の瞼が戦慄いた。
ゆっくりと、重い石扉が開くように瞼が持ち上がる。現れたのは、カケルの持つ澄んだ瑠璃色とは対極にある、底知れぬ重厚な金色の瞳だった。
「……っ」
カケルは思わず息を呑んだ。
それは暗い地の底で磨き抜かれた凶器のような、鋭く、それでいて一切の光を拒絶するような冷徹な輝き。少年は、焦点の定まらない瞳で、カケルを、そして人生で初めて見るであろう純白の天井を、虚ろに捉えている。
一方、少年の中では、視界に映る圧倒的な情報量を脳が処理しきれず、感覚を麻痺させていた。
この白すぎる世界は、彼にとっては死後の世界か、あるいは神経を焼き切るための巧妙な拷問部屋のように不気味で空虚に映っていた。ふかふかの寝具は足場を奪う底なし沼のようで、過剰に清浄な空気は、鉄錆と血の匂いに慣れた肺をヒリヒリと焼く。
「……おはよう。気分はどうかな?」
カケルは相手を警戒させないよう、なるべく優しく、声を震わせないように語りかけた。
「驚かせてごめんね。君が庭園に落ちてきた時、ひどく汚れて怪我もしていたから……僕の判断で、傷の手当てをさせてもらったんだ。……ここは安全だよ。君を傷つけるものは、もう何もないから」
少年は押し黙ったままだった。
まるで死地に取り残された飢えた獣のような眼差しで、カケルの顔、自分の『鉄の腕』、そして室内を飾る真鍮と白磁の調度品を交互に見渡している。
プシュゥ……。
不意に、少年の鉄の腕の隙間から、不吉な高圧蒸気が漏れた。彼は歯を食いしばり、カケルの助けを借りることなく、殺気を孕んだ動作で自力で上体を起こそうとし始めた。シルキー・レイの滑らかな布地の上で、重たい鉄の腕がズズッと沈み込む。義手の接合部が悲鳴のような金属音を上げ、少年の眉間に太い血管が浮き上がり、額に脂汗が滲む。
「あっ、無理をしないで……!」
カケルは咄嗟に動き、少年の背中にそっと手を伸ばした。
掌に伝わる、死を間近にした者のような驚くほど高い体温と、鋼のように強張った筋肉の感触。そのすぐ隣にある、凍てついた金属の塊の異常な温度差に、カケルは微かに身震いした。
「喉、乾いているだろう? 少しでいいから、飲んでみて。僕は、橘カケル。……君の名前は?」
カケルは彼を支えたまま、サイドテーブルの水差しを手に取った。透き通るような白磁の杯に聖水を満たし、震える少年の乾いた唇へゆっくりと近づける。
杯が触れようとした、その瞬間だった。
──ガシャンッ!!
硬質な破壊音を立て、白磁の杯が床に砕け散った。
少年が、殺意を帯びた反射でその鉄の右腕を閃かせ、力任せに払いのけたのだ。
ぶつかった衝撃で聖水が激しく飛び散り、カケルの頬や、一点の汚れもなかった純白の衣服を容赦なく濡らす。カケルは初めて、自分の肌に纏わりつく「底冷えするような冷たさ」と「生々しい不純物の湿り気」の感触を知り、その場に凍りついた。
自分へ向けられた、明確で、理性を欠いた拒絶。
その牙の鋭さに、カケルは言葉を失う。
「……触るんじゃねえ。馴れ馴しくすんな」
少年の、喉の奥から這い出すような、獣の低い威嚇音。彼はカケルの腕を乱暴に振りほどき、狂気すら宿る金色の瞳で鋭く射抜いた。その眼差しには救われた感謝など微塵もなく、底なしの不信と、煮え滾るような敵意だけが剥き出しになっていた。
「……名前なんて、そんなもん、俺にはねえよ」
「そんな……。生まれた時、誰だって親や周りの人から名前を与えられるじゃないか。祝福されて、その人がその人であるために、大切な名前を……」
カケルは信じられない思いで、少年の顔を見つめた。
高天原という『正解』の世界で、すべてを名前で管理されて生きてきたカケルにとって、個を証明する名前がないなど、想像の範疇を超えていた。名前は命の輝きそのものであり、世界のすべてはアマテラスによって完璧に定義されているはずだったからだ。
しかし少年は、そんなカケルの無知をあざ笑うように、自らの右肩の接合部を冷酷に指し示した。そこには、生身の肉に直接太いボルトと配線が食い込み、醜悪に癒着したような無骨な鉄の塊と、カケルが庭園で目にした、レーザーで焼き付けられたような無機質な文字列が鈍く光っていた。
『UNIT-08』
「俺にあるのは、この識別番号だけだ。……お前らみたいな、温かい鳥籠の中で綺麗事抜かして生きてる奴らと一緒にすんじゃねえよ」
少年の言葉は、鋭い刃物となってカケルの無垢な胸を容赦なく切り裂いた。
カケルは、何も言い返せなかった。
少年の鉄の腕から漏れる「プシュリ……」という熱い蒸気の音だけが、息が詰まるような静寂の部屋に虚しく響く。
カケルは、ただ少年の歪んだ腕を見つめていた。
自分が「生きるための意志を宿した造形」などと、残酷なほどに呑気に感銘を受けていたその鉄の腕。そこには、想像を絶するような過酷な日々と、血を吐くような底辺の地獄が幾重にも刻み込まれているのだ。それを、カケルは今、初めて突きつけられた。
自分を安全な場所から動かない無知な観察者だと突きつけられ、差し伸べた手が、いかに彼を脅かす暴力でしかなかったか。
彼を救ったつもりでいた自分こそが、この少年の警戒心を最も深く逆撫でる「無自覚な加害者」であったという残酷な事実に、カケルは息を潜め、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




