第08話:楽園に堕ちた鋼のノイズ / STEEL NOISE
高天原の完璧に調律された静寂の中に、突如として放り込まれた「異物」。あまりにも白すぎる無影の光の中に、それは無惨に横たわっていた。
影さえも許されないはずの白磁の床を、どす黒い泥と赤黒い血が、見るに堪えない不浄な絵の具のように汚している。その色彩の侵食は、完璧を誇る楽園の肌に刻まれた、深い裂傷のようでもあった。
「……人だ」
カケルは息を呑んだ。
そこにいたのは、自分と同じくらいの年齢に見える、一人の少年だった。
全身を濃密な煤と鉄錆の匂いで汚し、纏っている服は千切れる寸前まで無残に裂けている。その裂け目から覗く肌は、高天原の住人にはあり得ないほど荒れ、至るところに生々しい擦過傷が刻まれていた。
少年は意識を失っているのか、指先ひとつ動かさない。
ただ、荒い呼吸を漏らすたびに、剥き出しになった右腕──肩から先が複雑な歯車とシリンダーで構成された「鉄の腕」の隙間から、「プシュリ……」と、不吉な熱を持った蒸気が、断末魔の吐息のように漏れ出していた。
少年の、酷く冷たく見えるその義手に、奇妙な刻印が刻まれているのがカケルの目に留まった。
──『UNIT-08』
高天原の、神々しい響きを持つ「氏名」という概念とは決定的に異なる、ただの個体識別のための無機質な記号。カケルにはその正確な意味がわからなかったが、レーザーで焼き付けられたようなその書体の冷たさが、少年の歩んできた過酷な人生を象徴しているように思えてならなかった。
カケルは、その記号を痛ましく思いながら、膝が泥に汚れることも厭わず、震える手を差し伸べた。
「君……大丈夫……?」
その指先が、少年の煤けた頬に触れようとした、その時だった。
「……汚らわしい!」
背後で、空気を切り裂くような鋭い音が響いた。
琥珀が手にした扇子を、手摺りへと叩きつけたのだ。彼女の冷徹な瞳が、手元の操作端末を狂ったように閃かせる。
「カケル様、いけません! 直ちに、そこを離れなさい!」
演舞場へ続く回廊から、先ほどの小鳥を消し去った神機兵『フツヌシ』よりも数倍巨大な、重装戦闘用神機兵『タケミカヅチ』が重低音を響かせて跳躍してきた。多脚型の脚部が白磁の床に突き刺さり、不快な金属音を立てる。
琥珀の叫びは、もはや端正な教育係のそれではなく、内臓を掻きむしるような生理的な嫌悪と恐怖を孕んだ悲鳴に近かった。彼女にとって、カケルという完璧な聖域が、その「不浄な泥」に触れることは、高天原の楽園そのものが崩壊するに等しい悪夢なのだ。
「タケミカヅチ、直ちに、直ちにこの汚物を処分しなさい! 投棄でも焼却でも構いません! 一粒の灰も残さず、この世界から消し去るのです!」
琥珀の命令に応じ、タケミカヅチの頭部にあるレンズが赤く発光し、排除モードへと完全移行した。機体から放たれた高熱を帯びた閃光が、ジリジリと空気を焦がしながら、横たわる少年の頭上へと展開される。
「やめろっ!!」
カケルが、少年の前に躍り出た。
無防備な背中を機械の刃に向け、覆い被さるようにして泥まみれの少年を庇う。
──ガギィィィッ!!
空間を揺るがす火花が散った。
タケミカヅチの視覚センサーが、皇太子という絶対的な優先対象を捕捉し、緊急停止のエラー表示を吐き出す。機体は、その極薄の電磁刃を、カケルの服のわずか数ミリ手前で強引に静止させた。
『……現座標に皇太子・カケル様を確認。……排除命令を強制キャンセルします。守護対象の安全を最優先プロトコルへ移行……』
「カケル様、何を……何をなさるのです! 狂われましたか!!」
琥珀が半狂乱になって叫ぶ中、カケルの腕の中で、泥の塊がゆっくりと動いた。泥の中から伸びた不格好な「鉄の腕」が、カケルの純白の衣服を、赤黒く汚しながら力任せに掴む。その握力は、死の淵にありながらもなお生きようとする、暴力的なまでの意志に満ちていた。
「ああぁぁっ!!」
琥珀が再び悲鳴を上げた。
自らの育てた皇太子が、汚されていくことへの絶望に顔を歪ませ、怒りで見開かれた眼が倒れている少年に容赦ない殺意となって突き刺さる。
しかし、カケルは動かなかった。掴まれた腕から伝わってくるのは、小鳥を消し去った冷たい光線とは真逆の、必死に拍動する熱。
──これは、命の熱だ。
少年の煤けた瞼が、ゆっくりと、ひどく重そうに開いた。
「こ、ここは……」
掠れた、石を噛むような乾いた声。
カケルは、少年の冷たい鉄の指を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「……大丈夫、安心して。ここは高天原。もう、苦しまなくていいんだよ。僕が助けるから」
その言葉を受け取るようにして、少年は再びガクリと力尽き、意識を失って白磁の床に倒れ伏した。
「カケル様! 今ですわ! タケミカヅチ、今すぐその不浄な塊を処分なさい! 跡形もなく消し去るのです!!」
琥珀のヒステリックな金切り声が、再び庭園に響き渡った。彼女はもはや半狂乱で、端末を叩きつけるように操作し、神機兵に再起動を命じる。
「待って。タケミカヅチ──中断だ」
カケルは、床に横たわる少年を見つめたまま、低く、けれど透き通った声で命じた。その声には、もはや迷いも、琥珀への伺いもなかった。タケミカヅチのレンズが青く変わり、待機状態へと移行する。
「な……ッ! なんですって!? カケル様、正気ですか! このような穢れを放置するなど、世界の調律を乱す大罪ですわ!」
琥珀の顔が怒りと困惑で真っ赤に染まる。
彼女がカケルの腕を掴もうと一歩踏み出した、その時だった。
「──そこまでにしましょう、琥珀殿」
重厚な、大地を圧するような声がその狂乱を遮った。
漆黒の甲冑を纏った巨躯──黒鉄が、騒ぎを聞きつけ姿を現した。彼は、狂気に駆られて少年へとタケミカヅチを差し向けようとする琥珀の前に、鉄壁のように立ちはだかった。
「黒鉄! 貴方、何を見ているのです! 早く、その不浄を処分するよう神機兵に命じなさい!」
「琥珀殿」
黒鉄が、二度目の静止を投げかけた。その声は低く、けれど絶対的な拒絶を込めた響きを持っていた。彼は鉄面の下から、静かに琥珀を見据える。
黒鉄の重厚な威圧感が、琥珀のヒステリーを物理的に押し込めた。彼はカケルを制止するどころか、その小さな背中を頼もしげに見守り、琥珀の干渉をその身で遮り続けている。
「……タケミカヅチ。この子を僕の部屋に運んで。……そうだ、まずは治療を。それから、お風呂にも入れてあげなくちゃ。こんなに汚れていては、可哀想だ」
「お、お風呂でございますか!? 冗談も大概になさいませ!!」
琥珀は再び酸素を失った魚のように口をパクつかせ、信じられないものを見るかのように目を見開いた。
「カケル様の清浄な私室にそのような獣を招き入れるなど、断固拒否いたします! 調和を乱すにも程がありますわ! その者はバグです! 汚れです! 排除されるべき穢れなのですわ!!」
「琥珀。僕は、この世界の『調和』のために存在しているんだよね。……ならば、不完全なものや傷ついたものに慈悲を持つことも、僕の務めだ」
カケルがゆっくりと立ち上がった。
泥で汚れた膝を、彼は払おうともしない。
「タケミカヅチ。移送を」
「……了解。対象を、移送します」
タケミカヅチの巨大な金属の腕が、少年を丁重に抱き上げた。むき出しの鉄の腕が力なく揺れ、宮殿の奥へと消えていく。カケルもまた、少年の安否を確かめるように、迷いのない足取りでその後を追った。
黒鉄は、琥珀が激情に駆られて後を追わぬよう、不動の姿勢で彼女の行く手を塞ぎ、静かにカケルの背中を見送っていた。
静まり返った庭園に取り残された琥珀は、怒りと屈辱で全身を小刻みに震わせていた。彼女を形作っていたはずの完璧な美しさが、内側から沸き起こる醜い感情によって、音を立てて歪んでいく。
「……ありえませんわ。あのような……穢らわしい存在を、私たちの楽園に……」
パキ、と乾いた音がした。
琥珀の手の中で、美しく装飾されていた白磁の扇子が力任せに握り潰され、無残に歪む。その瞳に宿ったのは、正義ではなく、自らの「美しき完璧」を汚されたことへの、暗く濁った、執念深い殺意だった。




