第07話:綻ぶ楽園、鉄の咆哮 / BROKEN EDEN
黄金の光が天窓から降り注ぐ、白亜の講堂。
カケルは、琥珀が空間に映し出す青白いホログラムを、ぼんやりと眺めていた。
ホログラムには、複雑な歯車と回路が組み合わさった巨大な天秤が浮かんでいる。片方の皿には「数百万の市民の安寧」が、もう片方の皿には「一握りの不要な情動」が乗り、天秤は一ミクロンの狂いもなく水平を保っていた。
「よろしいですか、カケル様。高天原において、愛や慈しみといった不確定な感情は、時にシステムを狂わせる『雑音』となり得ます」
琥珀の熱のこもった講義が、静かな室内に響き渡る。彼女は教鞭を執るように指先を動かし、ホログラム上の「感情」という文字を冷酷に消去してみせた。
「かつての世界は、非効率な情動に振り回され、争いと汚れに塗れていました。しかし、中央演算アマテラス様はそれを最適化されたのです。不純物を濾し取り、純粋な理だけを抽出したこの楽園こそが、人類の到達点。貴方様は、その理を体現する『次代の器』なのです」
琥珀は指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、カケルを真っ直ぐに見据えた。
乱れひとつない背筋、一切の感情を排した声。その隙のない姿は、高天原という厳格なシステムそのものを擬人化したかのように冷徹だ。彼女の背後にある窓からは、完璧に剪定された白い庭園が見えるが、それさえも計算された配置の一部に過ぎない。
「従って、この国の皇太子であらせられるカケル様が、将来アマテラスの『器』として、母君の後を継ぎこの国の民を守る光となる。これこそが、この常世の国が未来永劫、幸福であり続けるために必要な儀式。カケル様もその自覚を持って、日々の講義に向き合ってくださいませ」
琥珀の熱弁が耳朶を打つ。しかし、その言葉ひとつひとつに込められているのは、カケルという人間への敬愛などではなく、この国の栄華を保つための、管理者としての責務だった。その現実が、カケルの心をこの場から遠ざけ、視界を朧にさせる。
「……カケル様、聞いておいでですか?」
「……うん、聞いてるよ、琥珀。犠牲ではなく、最適化。……だよね」
カケルは、黒鉄から伝えられた「手の熱」を反芻しながら、教わったばかりの言葉をなぞるように返した。黒鉄の武骨な手から伝わった拍動が、琥珀の透き通るような論理に抵抗するように、カケルの手のひらで小さく、けれど確かに脈打っている。
琥珀は満足げに、氷のような微笑を浮かべて頷く。
「左様でございます。我々の世界は、不確定要素を排除した純粋な理によって成立しております。一分の無駄も、不快なノイズも──」
琥珀が、その完成された世界の美辞麗句を重ねようとした、その瞬間だった。
──ゴォォォォォォンッ!!
天地を揺るがすような地響きが、宮殿の基部を容赦なく打ち据えた。講堂が激しく身悶えし、美しい天秤のホログラムが、耳障りな電子音と共に掻き消える。白磁の壁には、今まで見たこともないような不格好な亀裂が走り、そこから純白の粉塵が雪のように舞い落ちた。
「……っ!?」
カケルは思わず耳を強く押さえた。
数千年の間、一度として鳴り響いたことのない、耳を劈くような全域非常警報『カタストロフィ』が城内に反響する。それは、アマテラスがその絶対的な支配の綻びを認めた時にしか発せられない、楽園の断末魔だった。
鳴り止まない警報。
その激しい音の渦の中で、カケルの脳内にあの「ノイズ」が割り込んできた。
ザッ、ザザザッ……。
『……カケ……ル……。……イッテ……』
「……お母様……!?」
それは、先ほど謁見の間で聞いた母の、あるいはシステムに囚われた「何か」の悲鳴だった。非常警報は特定の方向──庭園付近、廃棄ダクトに近い場所から発せられている。
行け。
そこへ行け。
カケルの魂が、そのノイズを自分を呼ぶ明確な「導き」として受け止めた。高天原のシステムが「異常」と呼ぶその場所にこそ、自分の求める「真実」がある。カケルの足は、思考より先に動き出そうとしていた。
「な、何事ですの……!? アマテラス様! 報告を! この不浄な音を直ちに止めなさい!」
琥珀が今までに見たこともないほど不快げに、そして狼狽えながら顔を歪めた。
彼女は手元の端末を乱暴な手つきで操作するが、浮かび上がる画面には鮮血のような赤色で『UNKNOWN ERROR』の文字が点滅するのみだった。
彼女の誇る「最適化」が、目の前で音を立てて崩れ去っていく。
──ドォォォォォンッ!!
二度目の、より物理的な衝撃音が講堂を震わせた。
重厚な爆発音。
それは庭園の方向から響いてきた。カケルは琥珀の制止を聞かずに、弾かれたように椅子を蹴って駆け出した。
「カケル様! どこへ行かれます! 危険ですわ!」
背後で響く琥珀の叱咤。
だが、カケルの足は止まらなかった。
喉の奥が熱い。
心臓の鼓動が、今までにないほど速く、激しく胸の檻を叩いている。
それは恐怖によるものではなかった。何かが、この窒息しそうなほど完璧な世界を、内側から食い破ろうとしている。そんな強烈な予感が、カケルの体を突き動かしていた。回廊を走るカケルの白い羽織に、ひび割れた天井から落ちる煤が混じり、純白の景色が少しずつ汚されていく。
回廊を抜け、庭園に辿り着いたカケルが目にしたのは、無惨な光景だった。
先ほどまで塵一つなかった白磁の床は砕け散り、清浄を誇った中央の蓮池には、隕石でも落ちたかのように底の抜けた巨大な穴が空いている。
そして、その中心に「それ」は落ちていた。
「……なんだろう、あれ」
カケルは呆然と立ち尽くした。
そこにあるのは、泥と煤に塗れた、大きな異物の塊のようなものだった。高天原のシステムが感知したことのない、耐え難い匂いが空間に充満していく。
鼻を突く焦げた油の刺激臭。
古い鉄が錆びつき、削れた時に放つザラついた匂い。そして──今まで本の中の知識や、自分の小さな指先を染めた赤い粒くらいしか知らなかった、生々しく、粘り気のある「血」の匂いが鼻にまとわりついた。完璧に調律された人工の風が、その異物の放つ強烈な熱をカケルの頬へと運んでくる。
煤に汚れ、赤黒い液体を滴らせるその塊が、微かに、けれど必死に蠢いた。
「……っ、生きているの?」
「カケル様! お下がりください! 穢れますわ! 近づいてはなりません!」
追いついた琥珀が、白磁の扇子で口元を覆い、露骨な嫌悪感を隠そうともせずに叫ぶ。彼女にとって、この光景は世界の終わりそのものだ。
しかし、カケルにはその声が、遠い別の世界の雑音のようにしか聞こえなかった。磁石に引き寄せられる砂鉄のように、カケルは無意識に、その黒い塊へと歩みを寄せる。
「……っ」
近づくにつれ、臭いはより濃度を増した。
鼻を突く刺激臭、むせるような油の重み。高天原の無菌室のような清浄さに慣れた肺には、その臭気はあまりにも暴力的だった。
カケルは吐き気を堪え、それでも目を逸らさずに手を伸ばした。
すると、キィィ、と金属が悲鳴を上げるような、低い軋み音が聞こえた。高天原の精密な『フツヌシ』のような、滑らかで静かな音ではない。それは、剥き出しのボルトと錆びたパイプが無理やり噛み合うような、あまりにも不器用で、重厚な「生命」の音に聞こえた。
──シュウウゥゥッ!!
継ぎ目から熱い蒸気が激しく噴き出し、カケルの白い装束を泥で汚した。
熱い。肌を焦がすようなその熱量は、間違いなく「生」の証だ。煤を振り払うように泥が剥がれ落ち、中から現れたのは、人の骨格を歪に模し、不格好に膨れ上がった「鉄の腕」だった。
カケルは、息をすることさえ忘れてそれを見つめていた。
汚れている。
醜い。
けれど、そこからは確かに、黒鉄の手から感じたのと同じ、いや、それ以上に強烈な「生きようとする熱気」が放たれていた。
その鉄の指先が、カケルの足元の白磁をガリ、と削り取った。




