第06話:冷たい微笑、黄金の鎖 / GOLDEN CHAINS
とある日。
カケルの足は、琥珀の目を盗んで、再び謁見の間に向かっていた。
中央演算アマテラスの心臓部。そこは、常に完璧な温度と光量で満たされ、外部の時間の流れさえも凍結させたかのような、無機質で神聖な静寂が支配している。
白磁の床は一塵の曇りもなく磨き抜かれ、歩くたびに自分の足音が、命の鼓動のように場違いに響くその空間は、呼吸をすることさえ不敬に思えるほど、完成され尽くした「静止した世界」だった。
大広間の中央。幾重にも重なる白金の歯車が、目に見えぬ緻密な糸を操るように「クスクス」と微かな駆動音を立て続けている。その巨大な演算装置の核となる培養槽の中で、母は今日も変わらず、微かな微笑みを浮かべ、揺蕩っていた。
液体に浮かぶ彼女は、いつものように静かな微笑みを湛えている。
慈愛に満ちたその表情は、システムの最適解として計算されたものなのか。それとも、かつて肉体を持っていた頃の純粋な慈しみの残滓なのだろうか。
直接触れ合った記憶は、生まれてこの方、一度として無い。隔壁の向こう側にあるのは、触れれば壊れてしまいそうなほどに透き通った「母」という名の記号だ。それでも、培養槽の透明なガラスを見つめるカケルの肌は、その奥にあるはずの温もりを、ありもしない熱を追い求めるように微かに震えていた。
「……カケル。小鳥が、高天原に迷い込みましたね」
全てを知り、全てを監視するアマテラス。
淀みの無い、透き通った「母の声」がカケルの耳を撫でる。それは『母の声』であって、同時に高天原そのものの意志でもあった。その声はカケルの脊髄に直接流れ込み、逆らうことのできない安寧を強制してくる。
「お母様……僕は、あの鳥に触れてみたかった。アーカイブの映像にあるような、概念としての命ではなく、本物の震えを、熱を感じてみたかった。……でも、フツヌシは、あの子を最初から存在しなかったかのように、光の粒子に変えて消し去ってしまいました」
カケルは俯きながら、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように語り始めた。
両手を強く握りしめると、そこにはまだ黒鉄の手のひらが残していった、無骨で荒々しい「熱」の感覚が微かに残っている。それを母へと、唯一の肉親へと伝えたかった。
「カケル……悲しむことはありません。不確実な肉体を持ったあの個体は、痛みや苦しみ、それから腐敗という名の死の恐怖から解き放たれ、永遠の自由を手に入れたのです。高天原という完璧なシステムの一部に還元されることこそが、最も慈悲深い救済。不確定な命が、確実なデータへと昇華されたのです」
「……僕は、そうは思いません」
カケルの声が、静寂を裂いた。
「限りある時を一生懸命に生き、心臓を波打たせ、いつか止まることを恐れながらも羽ばたくから、命は輝くと僕は思う。それを、誰かがシステムの外側から一方的に止めてしまうのは……自由なんかじゃ、ない。それは……」
カケルは言いかけて、言葉を失った。
目の前で微笑む母。彼女もまた、カケルが生まれて間も無く、その肉体をアマテラスという国の演算装置へと捧げられた存在だ。
世界を守るために、母は尊き器となった。幼い頃から、琥珀にそう教え込まれてきた。
けれど、本当にそれは母の幸せだったのだろうか。
母の意思は、その魂は、今もこの液体の中に存在しているのだろうか。
母の、あの心地よく響く透き通った美声。それがカケルを慈しんでいるようでいて、その実、一滴の感情も含まれていない「演算」の結果であることに、カケルは気づき始めていた。
母の本当の声は、この美しい声ではない。その奥で、厚い壁に遮られながら苦しそうに軋み、助けを求めているような、あの不規則なノイズではないのか。
「お母様……僕は、お母様と……システムとしてではなく、ちゃんと話したいんだ。黒鉄が教えてくれたみたいに、言葉じゃない熱を伝え合いたいんだ」
歯を食い縛る。込み上げそうになる涙を、カケルは喉の奥で必死に飲み込んだ。
その時だった。
先日、この謁見の間で聞いたのと同じ不規則なノイズが、空間全体に響き始めた。
白金の歯車が不自然に軋み、完璧に調律されたはずの照明が、一瞬だけ電圧を乱して激しく明滅する。
ザ、ザザッ……。
「カ……ケ……シ……テ……」
「お母様……?」
カケルが縋り付こうとしたその時、脳内の共鳴記憶が、鋭い火花のような電気刺激と共に強制的にシャットダウンされた。視界が真っ白に塗り潰され、身体の制御が奪われ、強制的な再起動が、カケルの意識を現実に引き戻す。
眩暈を堪えて振り返ると、そこにはいつもの冷たい眼差しを湛え、手元の端末から指を離した琥珀が立っていた。その姿は、長く鋭い影が差したかのように見えた。
「……琥珀」
「カケル様。どこにいらっしゃるかと思えば……私の同伴無くここへ入室されますのは、今後はお控えなさいませ。不必要なノイズは、貴方様の精神を汚染し、高貴な魂を損なうだけでございます」
「どうして? 僕は、お母様と話したくて……お母様の、本当の声が聞こえた気がしたんだ。あのノイズの中に、僕を呼ぶ声が……」
琥珀の目は、少しも笑っていなかった。彼女が一歩踏み出すたび、白磁の床から目に見えない冷気が這い上がり、カケルの爪先から体温を奪っていく。
「カケル様。よくお聞きなさい。アマテラス様の導きは、この国の未来を照らす唯一の光。貴方様は、次代の器となるべく、常に正しき道を歩まねばなりません。悲しみも、迷いも、それは全て処理しきれなかったデータの残滓、あるいはシステムの綻びが見せる幻影に過ぎないのです」
カケルは、黒鉄から伝わった命の熱が、琥珀の冷たい眼差しと指先によって、再び凍りついていくのを感じた。抗えない、琥珀の呪詛のような言葉たちが、カケルの心を取り囲む檻の様に支配し始める。
次代の器。その言葉が、カケルの脊髄を氷の楔のように貫いた。
今まで、何の違和感も無く名誉として受け入れていたその事実に、カケルは初めて、底知れない恐怖を感じ始めた。
皇太子として全てを与えられ、汚れなき光ある未来を約束されていても、その先にカケルを待つのは、母と同じように肉体を捨て、感覚を奪われ、システムの一部として冷たい液体の中に消えていく未来。この静寂に包まれた白い国は、美しい楽園などではない。全ての命あるものから熱を、汚れを、色彩を、そして「生きるための揺らぎ」そのものを取り去った、巨大な「死の国」なのだ。
長い年月をかけて刷り込まれてきた琥珀の教えは、いとも簡単にカケルの心を鎖で巻き付け、身動きが取れないほど強く縛り付けていく。思考が漂白され、自分の意志が指先から滑り落ちていく感覚に呑まれそうになりながら、カケルは必死に声を絞り出した。
「琥珀、僕は……僕は、この胸の痛みを、不純物だなんて思いたくない。忘れたくないんだ。忘れてしまったら、僕は僕でなくなってしまう……」
「貴方様は、この国の太陽。光に影など必要ありません。不純物となる不確定要素は、貴方様の歩みを止める枷となります。……何も必要ありません。そうですわね?」
琥珀が微笑む。
その白すぎる肌が、カケルには死装束の白のように見えた。
カケルの喉元まで、全てを諦め、システムに身を委ねるための肯定の言葉が迫り上がる。
けれど、カケルは血が出るほどに唇を噛んだ。脳裏に浮かぶのは、あの小さな茶色の鳥の羽ばたき。そして、黒鉄が膝を突いて見せてくれた、傷跡だらけの無骨な「素顔」。
「……いいえ」
消え入りそうな、けれど明確な拒絶。
琥珀の細い眉が、一瞬だけ不快そうに動いた。カケルの肩に置かれた彼女の指先は、フツヌシの鋼鉄よりもなお冷たく、骨を凍えさせるような重圧を帯びていた。
静まり返った謁見の間で、カケルの小さな吐息だけが、消えかかった灯火のように震え続けていた。
ここは死の国。
けれど、その絶望的な白さの中に、カケルは自分だけの「痛み」という名の火を、固く握りしめていた。




