第49話:瑠璃の葬列、蒼き終焉 / ERASING WHITE
間一髪、カケルが縁から身を乗り出し、落下するヤマトの空いた左手を掴み取った。
ガクンッ、という凄まじい衝撃。
ヤマトの体重に、意識のない少女サクラの重みが加わり、カケルの限界を遥かに超える荷重がカケルの細い体に襲いかかる。
支点となっているカケルの右腕は、廃棄ダクトの冷たい金属の縁に食い込み、鋭い痛みを上げていた。
金属の角がカケルの柔らかな肌を裂き、真紅の血が白磁の壁を汚していく。
だが、カケルは絶対に手を離さなかった。
命懸けで友を救い出したあの絆が、今、二人をこの世に繋ぎ止めている唯一の糸だった。
「離すもんか……! 俺が、二人とも……絶対に助けるんだ!」
その絶叫に近い叫びを聞いた瞬間、宙吊りになったヤマトは息を呑んだ。
自分を掴むカケルの腕から、ミシミシと骨が軋む音が聞こえてくる。
肩の関節が外れ、筋肉が断裂の悲鳴を上げているのは明白だった。
皇太子として温室の中で育てられたカケルの体にとって、この負荷は本来、耐えられるはずのないものだ。
カケルの瞳からは大粒の涙が溢れ出し、重力に従ってヤマトの顔を濡らした。
その涙は、高天原の冷たい光とは違う、火傷しそうなほど熱い「生の証明」だった。
「おい、カケル! お前、腕が千切れるぞ! もういい、離せ! このままじゃお前まで引きずり込まれる!」
ヤマトの悲鳴のような制止。
だが、それをカケルの凄まじい怒号がねじ伏せた。
「……うるさい!! 絶対に、絶対に離すもんか! 離すくらいなら、千切れたほうがマシだ!!」
その声には、もはや高貴な皇太子の面影など微塵もなかった。
理性をかなぐり捨て、ただ友を失うことへの恐怖と、世界への怒りだけで喉を震わせる一人の男の気迫。
その刹那、カケルの瑠璃色の瞳の奥、底知れぬ深淵から、蒼白い光の奔流が、渦を巻いて静かに溢れ出す。
カケルの白い肌に、結晶化した青白い鱗のような紋様が浮かび上がっていた。
それは高天原のシステムが定義する「人間」の枠を完全に踏み越えた、美しくも禍々しい神域の姿だった。
ヤマトは、その圧倒的な姿に言葉を失った。
自分を繋ぎ止めるカケルの華奢な肉体に宿る、得体の知れない「異形」。
皇太子としての気迫の奥底に渦巻く『何か』を、ヤマトの金色の瞳が捉える。
だが、それに呼応するかのようにヤマトの体内を猛烈に蠢き始める存在があった。
光を求めて地中から這い出てくるような、悍ましくも強烈な生の執着。
少年たちはまだ知らない。
なぜ自分たちがこれほどまでに惹かれ合い、命を懸けてまで隣にいたいと願うのか。
その根源にある、あまりにも遠く近しい「絆」の正体を。
それまで引きずり下ろされていたカケルの腕が、空中でぴたりと静止した。
外れかけていた肩を青白い鱗が鎧のように覆い、断裂しかけた筋肉を強引に繋ぎ止めていく。
「う……おおおおおッ!!」
カケルの細い腕が、ヤマトとサクラの身体を、僅かずつ奈落から引き上げ始める。
しかし、突如、頭上から冷徹な拍手の音が響いた。
「……真に、美しい物語ですわね」
通路の端、安全な高台に立つ琥珀が、冷たい月のような瞳で彼らを見下ろしていた。
彼女の髪一本乱れぬ姿は、この地獄のような光景の中で異様なほどに際立っている。
その手には、強制排除を実行する重厚なスイッチが握られていた。
それは皇太子を「保護」し、それ以外の「ノイズ」を物理的に消去するための地獄の鍵。
「カケル様。その泥まみれの献身、まるで古い英雄譚のようですわ。ですが、私の教えを忘れたのですか? 歪んだ頁は、美しいうちに焼き払わねばならないのです。それが管理者の慈悲というもの」
琥珀は、まるで慈しむような微笑みを浮かべたまま、その指を無慈悲にスイッチへと向けた。
「さようなら、不浄個体たち。……これでようやく、カケル様にこびりついた『下界の汚れ』を、綺麗に洗浄できますわ。……さあ、美しい白に戻りましょう?」
「琥珀ッ!!……やめろぉぉおおおお!!」
カケルの絶叫も虚しく、琥珀の指が非情にスイッチを叩いた。
その瞬間、カケルの全身を凄まじい高電圧の電流が駆け抜けた。
皇太子の体内に埋め込まれた生体管理チップが、琥珀の操作によって強制的な「拒絶反応」を引き起こしたのだ。
「あ、が……っ、ああああああ!!」
肉を焦がし、神経を焼き切るような鋭い衝撃。
カケルの右腕の筋肉が不随意に収縮し、指先から力が消失する。
生体管理チップはさらにカケルの背筋と脚部を強制的に収縮させ、その身体を縁から後方へ引き剥がした。
──── 指が、滑る。
ヤマトの目が見開かれた。
カケルの指先が自分の手から離れていく感覚。
それは、永遠のように長い一瞬だった。
一瞬、ヤマトと目が合う。
ヤマトの瞳には、カケルを責める色など微塵もなかった。
ただ、すべてを察したような悲しげな諦念と、それでも自分を救おうとした友への、僅かな謝罪が宿っていた。
「── 生きろ」
短く、吐き出すように唇が動く。
それが、地獄の底へ落ちゆくヤマトが、光の中に残る相棒へ託した最後の願いだった。
「ヤマトォォォォ!!」
叫ぶようにヤマトの名を呼ぶカケル。
だが、無情にもその指先は虚空を掴み、ヤマトの体はサクラと共に、暗黒の廃棄ダクトの深淵へと真っ逆さまに吸い込まれていった。
吸い込まれる赤髪。
消えていく鈍色の義手の光。
それを見届けた琥珀は、うっとりとした表情で両頬に手を当て、悦に浸っていた。
「ああ……。なんと清々しい。ようやく、不純物はすべて塵へと消え、後に残るのは純粋な白だけ。……素晴らしいですわ。これこそが、選ばれし民の国、高天原のあるべき姿」
琥珀の言葉は、もはや狂気そのものだった。
彼女にとって、カケルの絶望も、友の死も、すべては「理想の皇太子」を完成させるための過程に過ぎない。
──しかし。
「……ハァ…ッ。ハッ……、ハッ……ハッ」
カケルの口から、引き裂かれたような、掠れた呼吸が漏れる。
喉の奥が引き攣り、必要な酸素が肺に届かない。
過呼吸に陥った華奢な肩が、無様に、そして激しく上下に揺れていた。
見開かれた瑠璃色の瞳は彩度を失い、未だヤマトが吸い込まれていった虚空を、ただ茫然と見つめ続けている。
外れた右肩が力なく垂れ下がり、破れた白い羽織が、友の手を離してしまった自身の血で、昏く染まっていた。
その姿は、管理された楽園の皇太子ではなく、ただ絶望の淵に立たされた、一人の無力な少年に過ぎなかった。
琥珀は、カケルを抱きとめようと、一歩歩み寄った。
「さあ、カケル様。手を。汚れた場所からお出ししてあげますわ……」
だが、琥珀の足が止まった。
カケルが顔を上げたその瞬間、周囲の空気が、絶対零度の氷原に放り込まれたかのように凍りついたからだ。
カケルの瑠璃色の瞳。
かつては宝石のように清らかだったその瞳に、今、見たこともない悍ましい光が宿っていた。
それは中央演算の冷徹な計算回路のような、あるいは奈落の底に眠る古代の怨念のような、不気味で、そして圧倒的な「意思」の輝き。
「……琥珀」
カケルの声は、すべての温度を失ったかの様に、琥珀の鼓膜を、そして魂を直接震わせる。
それは冷気ではない。
あまりにも濃密で禍々しい「殺意」の渦が、物理的な圧力となって大気を掻き乱しているのだ。
「カ、カケル様……? 」
琥珀の顔から余裕が消え、初めて「恐怖」の色が混じる。
ゆらりと立ち上がったカケルの瞳は、これまでの穏やかで深い瑠璃色とは一線を画していた。
それは、生命の温度を一切感じさせない、鋭く、そして強烈な輝きを放つ「蒼」へと変貌していたのだ。
──バチ……、バチチッ!!
突如として、カケルの体を起点に、青白い稲妻が走り始めた。
それは中央演算から供給される正常なエネルギーではない。
カケルの激昂した精神が、体内の生体管理チップを逆流させ、システムそのものを強引に書き換えている、拒絶の奔流だった。
「あ……あ、ああ……っ」
琥珀が後ずさりする。
カケルの周囲で空気が荒れ狂い、目に見えるほどの激しい渦となって、白磁の破片や真鍮の装飾を巻き上げていく。
それは、彼を「完璧」という名の檻に閉じ込めてきた世界そのものに対する、魂の咆哮であった。
突如として、白のシステムが悲鳴を上げ始めた。
壁面の霊子回路が過負荷で発火し、高天原を支える中央演算のアラートが、空間全体を震わせる。
「な、なんですの……!?」
琥珀の悲鳴をかき消すように、カケルの体から蒼い稲妻が四散した。
衝撃波と共に、場内のすべての照明、防衛システム、管理サーバーが一斉に機能を停止する。
あれほど眩かった黄金の都が、一瞬にして深い静寂と闇に包まれた。
琥珀は、目の前の「蒼い光」を放つカケルを、ただ震えながら見つめるしかなかった。
彼女の望んだ「完璧な白」は、今、自らが拒絶した少年の手によって、徹底的に破壊されたのだ。
その瑠璃色の瞳には、もはや慈悲深い皇太子としての柔和な光はない。
そこにあるのは、すべてを焼き尽くすほどの深い絶望と、昏い決意だけだった。
「ヤマトは……僕の、親友だ……」
「カケル様……何を仰るのです。あんな個体は、速やかに処分されるべき存在なのですわ!」
琥珀が声を震わせながら反論する。
しかし、カケルの瞳の奥に宿った猛烈な「拒絶」が、その言葉を物理的な圧力となって遮った。
システムの悲鳴が、重苦しい高空の空気を震わせた。
「カ、カケル様……そのお姿は……!」
琥珀が絶句する。
カケルの白い肌に浮かんだ青白い鱗は、先ほどよりも深く、首筋から頬へと侵食するように広がっていた。




