第48話:奈落の抱擁、約束の残火 / BEYOND THE FALL
白磁の回廊は、すでに二人の背後で遠ざかっていた。
代わって彼らを包むのは、肺を焼くような熱気と、どこか金属が焦げたような重苦しい空気だ。
カケルの足取りは、一歩ごとに重さを増していた。
高天原の至宝として育てられた彼の身体は、これほど長時間、死に物狂いで走り続けるようには作られていない。
心臓が肋骨の内側を激しく叩き、視界の端がチカチカと明滅する。
「はぁ、はぁ……っ、く……」
カケルの膝が、一瞬ガクリと折れそうになる。
それを、前を走っていたヤマトが鋭く察知して足を止めた。
「おい、カケル! 大丈夫か!」
ヤマトの手がカケルの肩を掴む。
ヤマトの瞳には、焦燥と、それ以上に深い懸念が浮かんでいた。
カケルの顔は土気色で、唇は白く乾ききっている。
「……大丈夫……だ。まだ、行ける……っ!」
カケルは震える声で吠えた。
自分を支えるヤマトの手を、冷たい汗に濡れた自らの手で強く握り返す。
その瞳には、ヤマトが初めて出会った時の、あの空虚な「お人形」の面影はどこにもなかった。
「お前……本当に、あの高天原の皇太子か? 意地っ張りも大概にしろよ」
ヤマトが呆れたように呟く。
だが、その声には確かな敬意が混じっていた。
「これが、本当の俺だ。ヤマト、君の……相棒だ」
カケルは荒い呼吸の合間に、無理やり口角を上げてみせた。
それでも身体の限界は正直だった。
再び走り出そうとしたカケルの足が縺れる。
ヤマトは迷わず自分の肩をカケルの脇に差し入れた。
「ったく。バカ野郎が」
ヤマトは前を向いたまま、ぽつりと溢した。
その横顔には、少しだけ決まりの悪そうな色が混じっている。
「……殴って悪かった。俺の方が、まだまだ未熟だった。お前の覚悟も知らねえで、全部お前のせいにした……。最低なのは、俺の方だ」
カケルはヤマトの肩に体重を預けながら、驚いたように瞬きをした。
ヤマトの無骨な優しさが、痛む身体に熱を灯していく。
「いいんだ。そんなことより……サクラちゃんを迎えに行こう。俺たち、二人で」
「ああ。絶対だ」
二人の少年は、互いの熱を感じながら、奈落の入り口へと歩みを進めた。
泥だらけの身体を寄せ合い、互いの体温と痛みを分け合いながら、さらに深くへと歩みを進める。
高天原の冷たいシステムに抗うように、二人の心臓の鼓動だけが熱く共鳴していた。
「……なあ、カケル」
ヤマトがふと、独り言のように声を漏らした。
「……お前のこと、最初はバカで間抜けな皇太子サマだって、見下してたんだ。中央演算のエラーで辿り着いたものの、何もかもが心の底から憎かった。でも……ガラでもねえけどよ。今は、その『偶然』ってのも悪くねえなって……そう思ってるんだ」
カケルは、じっとヤマトを見つめた。
ヤマトの金色の瞳が、かつてないほど穏やかにカケルを射抜く。
「……高天原の中にも、お前や、黒鉄のおっさんみたいな奴がいる。それが分かっただけでも、俺は高天原に来た意味があると思ってる」
「……ヤマト」
カケルは鼻の奥がツンとするのを堪え、力を込めて頷いた。
「……全部終わったら、今度は本物の『桜』の研究だ。見せてあげよう、サクラちゃんに」
「……ああ、約束だ」
◇
──高天原の最下層。
楽園の清潔な白とは対極にある、錆と油、そして絶え間ない金属の轟音に支配された「城の胃袋」だった。
巨大な焼却炉が吐き出す熱気が肌を焼き、巨大なピストンが心臓を圧迫するような鼓動を上げる異様な空間に、二人の足音が響く。
「ここか……っ!」
激しい喘鳴と共にカケルが膝をつく横で、ヤマトはすでに駆け出していた。
喉が血の味で満たされようとも、脚の筋肉が断裂の悲鳴を上げようとも、彼の衝動は止まらない。
「サクラーーッ!!」
ヤマトの絶叫が鋼鉄の壁に跳ね返り、虚しく反響する。
広大な区画に並ぶのは、数千、数万という|廃棄処理ポッドの山。
高天原において「不要」と判断された部品や、システムの「バグ」として処理される下界の住人たちが詰め込まれる、鉄の卵。
この果てしない群れの中から、たった一人の少女を探し出さなければならない。
「ちっきしょおおお!!」
焦燥に駆られたヤマトが、手当たり次第にポッドの錠を力任せにこじ開けようとする。
だが、神の国の強固な論理障壁は、少年の腕力だけでは微動だにしない。
(落ち着け……考えるんだ。琥珀なら、どこに隠す?)
カケルは震える指先で額を押さえ、必死に論理の糸をたぐり寄せた。
琥珀の執念は、単なる悪意ではない。
それは完璧主義という名の狂気だ。
ならば、彼女は最も効率的で、最も「美しくないもの」を排除できるラインに乗せるはずだ。
カケルは視界を極限まで広げ、無機質なポッドの列の中にある、ある特定の「違和感」を射抜いた。
「ヤマト! あそこだ!」
整然と並ぶポッドの中で、数機だけが不揃いに置かれた場所。
それはまるで、誰かが「ここに置く」という意志を持って残したような、不自然な空白だった。
ヤマトは弾かれたようにその一機へと肉薄した。
「くそっ、開け……開けよッ!!」
ヤマトのジャンク・ドライブが、断末魔のような高周波を上げる。
接合部からはヤマト自身の生身の血が吹き出し、装甲を赤黒く染めていく。
出力はすでに臨界点。
命を削る火花が、彼の形相を青白く照らす。
「ヤマト! 俺も支える!」
カケルは落ちていた鉄パイプをポッドの隙間に差し込み、全身の体重をかけてヤマトの腕を支えた。
皇族の繊細な指先が剥け、血が滴る。
だが今は、その痛みを意識する余裕などなかった。
「せーの──!!」
二人の渾身の力が一点に爆発した瞬間、重い金属扉が悲鳴を上げて跳ね上がった。
中には、狭い空間に無理やり押し込められた、あまりにも小さく、儚い身体が横たわっていた。
「サクラ……!」
ヤマトが震える手で彼女を抱き起こす。
その頬に触れると、微かに、けれど確かな体温があった。
鉱血症による銀色の結晶が、彼女の腕の半分を覆っている。
だが、胸は微かに上下していた。
「生きてる……よかった……っ」
ヤマトの安堵が部屋に落ちる。
しかし、それを見計らっていたかのように、部屋中に血のような赤色灯が回り、最終警報が耳を劈いた。
床が激しく震え、搬送帯が死の速度で加速を始める。
この区画全体の廃棄プロセスが開始されたのだ。
「サクラ、起きろ! 俺だ! ヤマトだ!」
ヤマトが必死に呼びかける。
少女の長い睫毛が微かに震え、混濁した意識のまま、サクラが兄を求めて、喉元を震わせる。
「ヤマト……お兄ちゃ……」
掠れた声を聞いた瞬間、ヤマトの瞳から涙が溢れ出した。
ようやくその身体を強く抱きしめようとした──だが、その刹那。
ガゴンッ、という不気味な衝撃音が空間を揺らした。
処理システムが最終段階へ移行し、鋼鉄の顎がその門を開いたのだ。
「ヤマト、早く……っ!」
カケルの叫びが轟音に呑まれる。
足元の床が左右に割れ、そこには不気味な黒い霧が渦巻く、底の見えない『奈落』が口を開けていた。
高天原に溜まった汚物と熱を排出するための、巨大なダクト。
「くっ……おおおおおっ!!」
ヤマトは放電で腕を焼かれながらも、意識のない妹をその胸に強く抱き寄せた。
だが、崩落の速度の方が早かった。
「間に合え……間に合えッ!!」
ヤマトが跳躍しようとした瞬間、足場が完全に消滅した。
重力に引かれ、宙に浮く身体。眼下には暗黒。
「ヤマトーーッ!!」
カケルは自身の危険も顧みず、大きく身を乗り出した。




