第44話:修羅の慈愛、蹂躙される聖域 / RUTHLESS MERCY
「ねえ、ヤマト。見て」
カケルは、弾むような声でヤマトの背中に呼びかけた。
二人の姿は、再び『黄泉比良坂』の急勾配の先にあった。
高天原を支える巨大な鉄の骨組み。
ヤマトが城のシステムをハッキングし、監視機能と軍事隔壁を沈黙させた、下界への抜け道。
その隙間を縫うようにして、垂直に近い絶壁を二人は慣れた足取りで下りていく。
白く、しなやかな、本来の皇族としての手。
だが、あの時刻まれた「痛み」の記憶だけは、皮膚の下に、そして魂の芯に、消えない痣のように刻まれていた。
「……あ? なんだよ、カケル。足元見てねーと、また落っこちんぞ」
ヤマトはぶっきらぼうに振り返るが、その眼差しには以前のような冷たさは微塵もなかった。
かつてカケルを「無知で間抜けな皇太子」と嘲り、単なる利用対象としてしか見ていなかった少年は、今、自らの命を救ってくれた相手を唯一無二の親友として認めていた。
この数日、二人は完璧なまでの秘密の共有者だった。
昼間、カケルは琥珀の監視下で「理想の皇太子」を演じ、深夜になれば自室でヤマトと共に、個人端末を「鍵」としてアマテラスの深淵へと潜り込んだ。
高天原の膨大な生命科学データ。
その中でも、天岩戸アーカイブの最深部に眠る旧環境記録と、特権階級の長寿を目的として蓄積された細胞酸化抑制技術。
鉱血症そのものを研究した記録は、一つも存在しなかった。
そこでカケルは、互いに無関係な情報として死蔵されていた無数の断片を、『皇太子コード』によって引き出した。
ヤマトが下界で実際に目にしてきた鉱血症の症例と、高天原の管理区画から持ち出した霊子触媒を突き合わせ、一つの治療理論へと再構築したのだ。
特権階級のために蓄えられた知恵と、泥の中で病に抗ってきた者の記憶。
それらが初めて混ざり合った時、誰にも顧みられなかった命を救うための可能性が生まれた。
「大丈夫だよ。……ようやく完成したんだ」
カケルは懐から、翡翠色の液体で満たされた小さな瓶を、宝物のように取り出した。
それは、死を待つことしか許されなかった少女へ贈る、世界でたった一つの処方箋だった。
「もう硬化してしまった部分を、元の肉体へ戻すことはできない。でも、この高山ハーブの成分と、高天原の霊子触媒を組み合わせれば、これ以上細胞が硬化していくのを抑えられる可能性が高い。呼吸も、今よりずっと楽になるはずだよ。予測演算でも、有効性が確認されたんだ」
「……ああ。理論上は、な。だが、お前がそこまで言うなら、俺は信じてるぜ。天才皇太子サマ」
その時、ヤマトはこれまで誰にも──自分自身にさえ見せなかったような、心からの笑顔をカケルに向けた。
その笑顔は、錆びた下界の風にさらされた少年の、本来の優しさを象徴していた。
共に汗を流し、禁忌を犯し、研究に明け暮れた日々。
二人で過ごした短い時間は、ヤマトにとって「絆」の尊さを取り戻す、奇跡のようなひと時だった。
カケルにとっても、それは孤独な楽園から抜け出し、初めて自らの意思で誰かのために生きるという、真の『生の実感』だった。
高天原が「対象外」と切り捨てた命。
それを救う鍵を、楽園の皇太子と地獄の少年が手を取り合って見つけ出したのだ。
それは、何百年も変わらなかった歪な世界の歯車を、二人の少年が初めて逆回転させようとする、静かな、けれど確かな反逆の第一歩だった。
「さあ、急ごう! サクラちゃん、待ってるよ!」
「おう。今度こそ……あいつを助けられる」
二人は希望という名の小さな瓶を握りしめ、澱んだ排気と錆の匂いが沈む下界へと駆け下りていった。
自分たちの歩みが、歴史という名の巨大な怪物を揺さぶり始めていることを、彼らはまだ、知る由もなかった。
◇
下層地区の最奥。
陽の光さえもが届くのを拒む、朽ち果てた路地の突き当たり。
トタンの屋根が寒風に震え、室内には湿った鉄の匂いと、サクラの喘ぐような呼吸音だけが響いているはずだった。
「……っ、げほっ、ごほ……っ……」
サクラは薄汚れた毛布を握りしめ、暗闇の中で耳を澄ませていた。
鉱血症と有毒な排気によって光を奪われた瞳には、今や炎の明滅一つ映らない。
兄と、王子様のように優しい声をしたカケル。
ヤマトがカケルを連れてこの部屋を訪れた時、部屋の中は、優しく温かさに満ちた香りに包まれた。
きっと二人はまたここに来てくれる。
彼女には、そんな予感がしていた。
「ヤマトお兄ちゃん……。早く会いたいな」
サクラは力の入らない指先を動かし、虚空をなぞった。
彼女にとって、カケルの語る「雪」や「桜」の物語は、この暗い世界で唯一の、色彩を持った夢だった。
その時、建て付けの悪いドアが、前触れもなく静かに開いた。
ヤマトだけが知るコツで、慎重に施錠されていたはずの扉が、音もなく滑るように開いたのだ。
「……ヤマトお兄ちゃん?」
サクラはゆっくりと起き上がり、おぼつかない手を空中に伸ばす。
だが、返ってくるはずの「サクラ、戻ったぞ」という温かい声はない。
代わりに聞こえてきたのは、このスラムにある使い古されたジャンク品の駆動音ではない。
もっと精密で、冷徹で、死そのものを機械化したような、不気味なほど規則正しい駆動音だった。
ウィィィィィン……という、微細な回転音。
そして、それまで部屋に充満していた錆と油の匂いを一瞬で消し去るほどに、強烈で、清潔で、どこか薬学的な「白」の香りが漂ってきた。
「だれ……なの……?」
サクラの背筋を、氷のような寒気が駆け抜ける。
その異質な沈黙は、下界の者が持ち得るものではなかった。
サクラが恐怖に喉を鳴らそうとした瞬間、背後から音もなく現れた高天原の自動人形が、彼女の口を冷たい金属の手で覆った。
声を上げる暇さえ与えられない。
人形の指先から、音もなく無色透明の鎮静ガスが散布される。
サクラの細い身体は、糸の切れた人形のように一瞬で力を失った。
抵抗することも、助けを呼ぶこともできないまま、サクラの身体は機械の腕によって無機質に持ち上げられた。
部屋に残されたのは、荒らされた形跡すらない、不自然なほどの静寂だけだった。
◇
その数分後。
路地の角を曲がったヤマトの足が、不意に止まった。
閉めたはずの扉が、僅かに開いている。
先ほどまで浮かんでいた笑みが、一瞬で消え去った。
「……サクラ?」
返事はない。
隙間から漏れ出しているのは、いつもの湿った鉄と油の匂いではなかった。
高天原の医療区画を思わせる、清潔で、薬学的な「白」の残り香。
「サクラッ!」
ヤマトは扉を乱暴に押し開け、部屋の中へ飛び込んだ。
翡翠色の瓶を掲げていたカケルも、その尋常ではない気配に息を呑み、後を追う。
だが、そこにはもう、誰もいなかった。
「サクラ……? おい、サクラ!!」
ヤマトの絶叫が、無人の部屋に空虚に響き渡る。
カケルの手から、翡翠色の瓶が滑り落ちた。
パリン、と。
あまりにも脆い音を立て、二人が夜を徹して掴み取った希望が、冷たい鉄の床で砕け散った。
翡翠色の液体は、サクラを連れ去った「清潔な死」の匂いに呑み込まれ、薄汚れた泥水の中へ吸い込まれて消えていった。
カケルは、泥に沈んでいく翡翠色の破片から目を逸らすことができなかった。
昨夜、ヤマトが隣で眠る中、独りで誇らしげに打ち込んだ『皇太子コード』。
今のカケルには、それが闇を照らす救いの光ではなく、獲物の位置を正確に指し示した、冷酷な「聖痕」だったとしか思えなかった。
自分が善意で灯した松明が、ヤマトの隠れ家を焼き出し、サクラを地獄へ引きずり出した。
その事実に打ちのめされ、カケルの喉は、謝罪の言葉さえ通さぬほどに固く凍りついていた。
(……僕だ)
カケルの心臓が、冷たい手で直接握りつぶされたような音を立てた。
昨夜の記憶が、鮮明な罪の意識となって脳裏を埋め尽くす。
ヤマトが心血を注いで塗りつぶした「足跡」の上に、カケルはあろうことか『皇太子コード』という、この世界で最も目立つ署名を残してしまったのだ。
琥珀は、それをずっと見ていたのだ。
カケルが「サクラを救いたい」と願えば願うほど、その指先がキーを叩くたびに、高天原のシステムは、その痕跡を、琥珀に送り続けていた。
希望の処方箋を作っていたはずの自分の手が、実はサクラを地獄へ送るための「標識」を掲げていた。
「サクラ……! どこだ! 隠れてんのか! サクラ!!」
カケルは、言葉を失っていた。
開いた唇は小刻みに震えるだけで、謝罪の言葉すら、罪の重さに押しつぶされて形を成さない。
ヤマトはまだ、自分たちの「共犯」を、カケルが自らの判断で破綻させてしまったと思い詰めていることを知らない。
その無知な信頼さえもが、カケルの心臓を鋭く削り取っていく。
カケルは、震える指先で、泥にまみれた破片に触れようとした。
だが、その指は空中で力なく止まる。
自分には、この液体を惜しむ資格さえない。
ヤマトの信頼を、妹への想いを、そしてサクラの未来を、他ならぬ「僕の優しさ」が踏みにじったのだ。
「……ヤマト……。僕が……」
掠れた声は、ヤマトの絶叫にかき消され、誰に届くこともなかった。




