第45話:反逆の皇太子、孤狼の咆哮 / REBEL PRINCE
つい数時間前まで、そこには確かに幼い少女の、微かな、けれど確かな温もりがあったはずの部屋。
鉱血症に冒され、身体の自由を奪われながらも、兄の帰りを信じて待っていた、あの健気な息遣い。
だが、今そこにあるのは、肺を刺すような冷たい静寂だけだった。
「サクラ……。サクラ!!」
ヤマトは狂ったように部屋の中をかき回した。
ボロボロの毛布を剥ぎ、ガラクタの山を崩し、最後には床に膝をつく。
ヤマトの視線が、一点で止まった。
そこには、かつて自分がサクラに贈った、色褪せた桃色のリボンが、無機質な軍靴のような足跡によって、泥の中に無惨に踏みつけられていた。
「そんな……嘘だろ……」
下界の絶壁を這い上がり、高天原の禁忌を冒し、カケルと二人、共犯者となり、やっとの思いで掴み取った奇跡の処方箋。
それを受け取るべき少女は、どこにもいなかった。
「何でだ!? 痕跡は全て消していたはずだ……!!」
ヤマトは獣のような咆哮を上げて壁を叩いた。
生身の左拳からは血が滲み、過負荷で悲鳴を上げるジャンク・ドライブがシリンダーを軋ませる。
その時、部屋の中央に青白い粒子が収束し、巨大な立体映像が映し出された。
浮かび上がったのは、聖母のような慈しみを湛えて微笑む琥珀の姿だった。
『……遅かったわね。待ちくたびれましたわ』
「琥珀……」
カケルの掠れた声に、琥珀は庭園のバラを愛でるような冷たい笑顔を向けた。
『カケル様。私の目は、いつだって貴方様を見ておりますの。貴方様がどこを歩き、誰の声を聞き……そして、どのような「生の痕跡」を残すのか……。その全てを把握することが、私にとっての、何よりの幸福なのです』
──『生の痕跡』。
その言葉に、ヤマトの指先が、止めることのできない震えに襲われる。
ヤマトはゆっくりと、隣で立ち尽くすカケルへと視線を向けた。
その黄金の瞳は、これまでにないほど激しく揺れ、絶望と疑念が混ざり合った、獣のような鋭さを帯びている。
カケルの顔から、急速に血の気が引いていく。
その沈黙こそが、ヤマトにとっては何よりも残酷な回答だった。
「琥珀……あいつを……サクラを、どこにやった」
ヤマトが震えを抑えながら問いただすが、琥珀は冷酷に宣告を続ける。
『お黙りなさい、不浄個体。高天原は、選ばれし民の楽園。その太陽であらせられるカケル様が、そのような不潔な家の中に身を置くなど、本来あってはならないこと。その「不浄」の根源は、私が責任を持って取り除かせていただきました』
ヤマトの脳裏に、恐怖に震えながら自分の名を呼び、冷たい機械の手で連れ去られていくサクラの姿が鮮明に浮かび上がる。
「ふざけんなッ!! お前が殺したいのは俺だろうが! サクラを巻き込むんじゃねえ!!」
ヤマトが身を差し出すように叫んだ。
だが、琥珀は心の底から蔑むように、ヤマトを睨みつけた。
『貴方を殺す? ……その粗野で野蛮な物言いこそ、カケル様から貴方を遠ざける最大の理由。ただし、貴方のような、ドブの中でも生き延びるゴキブリ並みの生命力を持った獣は、本体を叩くだけでは不十分。……その執着の根源、魂の拠り所ごと徹底的に「洗浄」しませんと、私も不安で仕方がありませんの』
琥珀の言葉は、まるで外科手術のメスのように、ヤマトの最も柔らかい部分を正確に切り裂いていった。
「黙れ……クソ女が!!」
『番犬が聞いて呆れますわね。カケル様のお側にいながら、私が貴方がたの出発を待っていたことにすら気づかないとは』
ヤマトの視線が、カケルの正装の胸元に輝く、黄金の家紋ブローチに止まった。
カケルが狼狽えてそれを取り外し、裏を返すと、そこには微かに、しかし規則的に点滅する、極小の発信機が埋め込まれていた。
『……あらいけない。貴方は番犬どころか、下界を這いずり回る「野良犬」でしたものね。……貴方はカケル様の護衛ではなく、カケル様の輝かしい未来を侵食する「不純物」でしかありませんわ』
「──うるっせぇぇえええ!!」
ヤマトの鉄拳が、琥珀のホログラムを突き抜け、背後の壁を粉砕した。
ジャンク・ドライブが火花を散らし、コンクリートの破片が飛び散る。
ホログラムはノイズを発して掻き消え、後には冷たい闇だけが残された。
ヤマトはその場に力なく崩れ落ちた。
生身の左手から流れる血と、義手から漏れ出た黒いオイルが、サクラのリボンを汚していった。
「サクラ……サクラ……。俺が、俺がそばにいてやれば……」
「ヤマト。……僕だ。僕が、琥珀にここへ来る時機を教えてしまった。僕が余計な痕跡を残したから、薬が完成したことも……僕たちがここへ向かっていることも……!」
カケルが懸命に手を伸ばし、ヤマトの肩を掴もうとした、その瞬間だった。
不意に顔を上げたヤマトの瞳は、これまでのどんな時よりも冷たく、そして激しい憎悪の色に染まっていた。
──ドッ、という重い衝撃音。
ヤマトが振り上げた拳が、容赦なくカケルの頬にめり込んだ。
華奢なカケルの体は軽々と吹き飛び、薄汚れた壁に激突して床に転がった。
「お前のせいだ……ッ!! お前がいたから! お前のせいでサクラは!!」
ヤマトの絶叫が、狭い部屋をビリビリと震わせる。
だが、その叫びは、カケルを責める言葉を吐き出しながらも、同時に鋭い刃となってヤマト自身の胸を抉っていた。
「……何が『奇跡』だ。何が『共犯者』だ……! 笑わせんじゃねえよ……ッ!!」
ヤマトは自分の髪をむしり取るようにして、狂ったように叫び続けた。
瞳からは、とめどなく涙が溢れ出している。
「お前は、煌びやかな空の上で育った『高天原の皇子サマ』だ! 遊びに飽きたら、上の世界に帰って、呑気に笑ってりゃ済むだろうよ! けどな、俺たちにはここしかねえんだ! お前が持ち込んだ『毒』のせいで、俺のたった一人の家族は……!!」
ヤマトは膝から崩れ落ち、生身の左手で泥にまみれた地面を何度も叩いた。
拳が割れ、血が滲んでも、自分の中に渦巻く醜い自責の念は消えてくれない。
カケルの「救おう」という言葉に、一番に縋り付いたのは誰だ。
琥珀の恐ろしさを誰よりも知っていながら、一瞬の安らぎに甘え、サクラの命を「博打」にかけたのは、他ならぬ自分ではないか。
「……バカは俺だ。お前みたいな甘ったれの皇子サマを信じて……サクラを救えるなんて甘い夢を見た、俺が……ッ!!」
悲鳴のような糾弾は、最後には掠れた嗚咽へと変わった。
突っ伏した顔からは絶え間なく涙がこぼれ落ち、薄汚れたリボンを、そして自分自身の血を、冷たく冷やしていく。
カケルは、何も言い返せなかった。
口の中に広がる鉄の味。
床に転がった黄金のブローチが、今も無機質に点滅を続けている。
それは、カケルの背負う決して消えない罪を嘲笑っているかのようだった。
「……ヤマト」
カケルは床に倒れたまま、震える手で血の滲む唇を拭った。
鈍い痛みが走るが、そんなものはどうでもよかった。
「……そうだ。僕が、無知で、甘ったれで、君たちの世界に土足で踏み込んだから、サクラちゃんはこんな目にあった。僕の愚かな好奇心が、君たちの聖域を壊した。……それは、紛れもない事実だよ」
カケルはよろめきながら立ち上がった。
その瞳には、かつての「お人形」のような光はない。
暗闇の中で一点を見つめるような、蒼く、静かで激しい焔が宿っている。
「でも、ヤマト──」
カケルは迷うことなく一歩踏み出し、自分より一回り大きいヤマトの襟元を、両手で力任せに掴み上げた。
「でも、ヤマト。僕は今、サクラちゃんを助けたい! サクラちゃんの側で笑う君の笑顔が見たい! そのためなら、僕は『皇太子』の権限さえも、この手を汚す道具として使ってみせる!!」
ヤマトは、カケルの真っ直ぐな、射抜くような眼差しに息を呑んだ。
そこにあるのは、管理された人形の顔ではない。
罪を背負い、泥を浴び、それでもなお友のために運命を捻じ曲げようとする、一人の「男」の意志だった。
「罪を数えるのは、後だ。僕を殴るのも、罵倒するのも、すべてが終わってから、気が済むまでやればいい。……今は! 『俺たちの希望』を、奪い返しに行くんだ!!」
カケルは腫れた頬の痛みを無視し、ヤマトを真っ向から射抜くような視線を向ける。
その瞳には、管理された楽園では決して宿ることのなかった、野性的で剥き出しの意志が燃えていた。
ヤマトの目から、堰を切ったように再び涙が溢れ出した。
絶望に塗り潰され、冷たく凍りついていた彼の心に、カケルの言葉が、消えかけていた命の火を再燃させる。
「……ハッ……本当、お前は……俺以上にバカで、どうしようもねえな……」
ヤマトは血の滲む生身の左手で、カケルの腕を力強く握りしめた。
二人の少年は、血を流し、涙を拭い、天と地を繋ぐ道──『天浮橋』へと向かって走り出した。
その胸には、砕けたはずの一縷の希望が、なおも消えずに燃えていた。




