第39話:温室の終焉、王の器の目覚め / TRUE KING
「医療班、ヤマトを緊急医療ポッドへ! 生命維持装置を最大出力で稼働させろ。外科ユニットは腹部の異物除去と止血を最優先だ。いいな、絶対に死なせるな!」
黒鉄の剛毅な声が、白磁の回廊を震わせた。
その一喝に、それまで金縛りに遭っていた高官や侍女たちが、弾かれたように動き出す。
医療ドロイドたちが、ヤマトの血まみれの身体を迅速かつ慎重にストレッチャーへと移し替えていく。
その傍らで、琥珀は幽鬼のような顔で立ち尽くしていた。
カケルに明確に「拒絶」された──その一点が、彼女が人生を懸けて築き上げてきた「完璧な世界」を内側から粉砕していた。
「……カケル様……どうして……私は、ただ、貴方様を……」
うわ言のように繰り返していた琥珀の膝が、力なく折れる。
彼女はそのまま、糸の切れた人形のように、無機質な床へ崩れ落ちた。
「……琥珀殿も搬送しろ。精神的打撃が深すぎる。鎮静剤を投与し、安静にさせろ」
黒鉄は冷徹に、けれどどこか哀れみの混じった嘆息をついて指示を出した。今の彼女をカケルの側に置くことは、不安定な爆薬を置くも同義だと判断したのだ。
琥珀が運ばれていくのを見届け、黒鉄はゆっくりと視線を落とした。
そこには、床にへたり込んだまま、遠ざかるヤマトの背を魂が抜けたような目で見つめるカケルの姿があった。
至近距離で見るカケルの姿は、もはや「高天原の皇族」のそれとは程遠いものだった。
ヤマトを背負い、垂直の絶壁を這い上がってきた指先は、爪が根元から剥がれ、生爪の間から真っ赤な血が絶え間なく滲み出している。
腕には、下界の熱い蒸気に焼かれた火傷の跡がいくつも無残に刻まれ、水膨れが潰れた跡には煤が混じり込んでどす黒い紋様を描いていた。
丁寧に整えられていた髪は、指を通せば炭のように崩れそうなほど傷み、風が吹くたびに高貴な香りの代わりに、鼻を突くような焦げた蛋白と硫黄の匂いを漂わせていた。
肩に張り付いたヤマトの鮮血には、焼け落ちたカケルの髪の破片が炭粉のように混じり合っている。
「……あいつ、生きてるよね。助かるんだよね、黒鉄」
カケルは自らの傷など一顧だにせず、虚ろな瞳で黒鉄を見上げた。
その声は震えていたが、瞳の奥には、友を奈落から引きずり上げた者特有の、凄まじい執念の残り火が宿っている。
黒鉄は無言でカケルの前に膝をつくと、そのボロボロになった小さな手を、自らの厚い掌でそっと包み込んだ。
(……迂回路など、一歩も通っていないのか)
安全な道を探す数秒すら惜しみ、自らの髪が焼け、爪が剥がれることを厭わず、ただ最短の垂直線を這い上がってきた様子が、カケルの傷ついた身体から見て取れた。
「これほどの深手を負いながら……貴方様お一人の力で、あの絶壁を登りきったのですか」
それは問いかけではなく、一人の武人としての最大限の敬意であった。
カケルの焦げた髪、爛れた肌。
その全てが、ヤマトの命を繋ぎ止めるためにカケルが支払った「代償」の記録だった。
高天原という名の温室で育てられた苗は、この短時間の地獄の中で、どんな大人よりも強く「王の根」を張り始めていた。
「……これより先は、私にお任せください。ヤマトも、そして貴方様も、私が必ず救いましょう」
◇
──薄暗い医療室の中、淡いブルーの光に包まれた医療ポッドが、一定の律動で駆動音を響かせている。
ヤマトは無数の管に繋がれ、深い眠りの中にいた。
カケルは椅子に深く腰掛け、ただぼんやりとその横顔を見つめていた。
両手の白い包帯の下にあるズキズキとした拍動だけが、あの絶壁を這い上がった記憶を現実に繋ぎ止めていた。
背後から、重厚な鎧が擦れる静かな音が近づく。
「大丈夫です。峠は越えました」
黒鉄の声は低く、そして冬の陽だまりのように穏やかだった。
「何、ヤマトは丈夫な男です。下界の過酷な環境を生き抜き、さらにこの黒鉄の訓練に耐えてきた……。安心してください。必ず、奴は戻ってきます」
カケルは、その言葉に直接は答えなかった。
ただ静かに、ヤマトの微かな呼吸に合わせて視線を揺らしている。
「黒鉄。……僕にとって、ヤマトは初めての友達なんだ。こんなふうに、誰かのために何かをしたいと思えたのも、初めてで」
カケルの瞳に溜まった涙には、悲しみと同じほど、友の命を繋ぎ止めた安堵が混じっていた。
それでも、大切な友の身体を傷つけたという事実が、カケルの心へ重い鎖となって絡みついていた。
「でも、ヤマトにとっては、僕のしたことも、ただの我儘かもしれない。僕が追いかけたせいで、あんな大怪我をして……。かえってヤマトを傷つけただけなのかもしれない。だから僕は──」
「殿下」
黒鉄が、思い詰めたように肩を震わせるカケルの言葉を、静かに堰き止めた。
「その答えは、ヤマト自身に委ねましょう。殿下の中で、この男の気持ちまで決めつけてしまっては、それこそ本当の独りよがりとなりましょう」
「……そう、だよね」
カケルはもう一度、眠るヤマトを見つめた。
返事はない。
だが今は、その沈黙に自分の望む答えを勝手に当てはめることもしなかった。
「僕は今までずっと、何も知らずに生きてきたんだ。光も、水も、清潔な空気も、すべてが当たり前すぎて」
カケルは、包帯が巻かれた自分の両手を見つめた。
「でも、ヤマトに会えてわかったんだ。世界には、僕が想像もできないくらい苦しいことも、悲しいこともたくさんある……。でも、それに負けずに、誰かを守るために生きている人たちがいるんだ」
脳裏に浮かぶのは、サクラの無垢な微笑み。
そして、彼女を救えぬ無念に、声も出さず背中で涙を流したヤマトの、あの熱い雫。
黒鉄は、カケルのその横顔を見て、かつてないほど優しく目を細めた。
「……貴方様は、成長されました」
黒鉄はカケルの隣に立ち、ヤマトのポッドを見据えた。
「自らの足で歩き、自らの目で真実を見、自らの手で大切なものを守り抜いた。……ヤマトがそのきっかけを与えたというのであれば、貴方様の教官として、そしてこの国の武人として、私からも奴に礼を言わねばなりますまい」
「黒鉄……」
「殿下。貴方様が手に入れたその痛みと真実は、これからの高天原にとって、何よりも尊い『光』となるでしょう」
静寂に包まれた医療室で、二人は眠れる戦士の目覚めを待っていた。
カケルの瞳には、もはや「人形」の空虚な光はない。
そこには、一人の王としての強い意志と、友と共にこの錆びついた世界を生き抜こうとする、強靭な「命」が宿り始めていた。
「殿下。ヤマトの容体は安定しました。……ですが、貴方様の怪我も、応急処置だけで済ませるわけにはまいりません」
医療室を満たすオゾン臭の中、黒鉄が沈痛な面持ちで、カケルの無惨に裂けた指先を見つめて促した。
だが、カケルは静かに、けれど鋼のような意志を込めて首を横に振った。
包帯の下では、剥がれた爪と火傷が今も脈打っている。
それでも、ヤマトが峠を越えたと聞いた瞬間、その痛みは意識の遥か遠くへ退いていた。
「……いいんだ。不思議と、全然痛くないんだ。それよりも、僕はここにいたい。ヤマトが目を開けた時、一番に『おかえり』って言いたいんだ」
「……左様ですか。……承知いたしました。では、ここを離れずに処置を受けていただきます」
黒鉄が医療班へ目配せすると、待機していた医療ドロイドがカケルの傍らへ寄り、両手の包帯を慎重に解き始めた。
黒鉄は深く頷くと、カケルの隣にどっしりと腰を下ろした。
「私もここで、共に待つとしましょう。奴が目を覚ましたら、すぐにでも手合わせの申し出をせねばなりませんからな。……無論、この自慢の髭をくれてやるつもりはありませんぞ」
「ふふ……。そうだね。ヤマトなら、傷が開くのも構わずに黒鉄に突っかかっていきそう」
カケルの強張っていた頬が、数日ぶりに微かな笑みで綻んだ。
その安堵が引き金となったのか、やがてカケルは椅子に座ったまま、深い、深い微睡へと落ちていった。




