第38話:絶望を背負い、天を仰ぐ / ASCENDING FROM HELL
「ハァ、ハァ……っ、ヤマト……! 目を開けて、ヤマト!」
カケルの震える指先が、ヤマトの頸動脈を必死に探る。
泥と脂汗、そして鉄錆の匂いが混じり合う皮膚の奥で、ドク、ドクと……壊れた時計の秒針のように弱々しく、けれど必死に生を繋ごうとする拍動が跳ねた。
ヤマトの腹部を貫いていたのは、衝突の瞬間に根元から折れた配管の一部だった。鋼鉄の牙となったその破片は、ヤマトの強靱な肉体を無残に食い破っている。
だが、奇跡的に──あるいはヤマトが空中で咄嗟に身を捩ったためか、致命的な臓器の破壊だけは、僅かに免れていた。
「ヤマト、どうしよう……うっ、あ……ああ……っ」
カケルの目から堰を切ったように涙が溢れ出し、ヤマトの身体から溢れ出す熱い鮮血と混ざり合う。
その混濁した液体が、高天原の最果てにある冷淡な鉄骨を汚していく。
自分が、追いかけたりしなければ。
自分のわがままが、親友を地獄に突き落とした。
後悔の念が鋭い刃となってカケルの胸を何度も突き刺し、思考を真っ白に塗り潰そうとする。
(──甘ったれてんじゃねーよ、皇太子サマ)
混乱する意識の底、鳴り響く不快な金属音の向こう側で、ヤマトのいつもの毒づくような声が脳裏をよぎった気がした。
「……そうだ、僕は今までずっと、ヤマトに守られ、導かれ、その強さに甘えきっていた。だが、今は僕しかいない。ここで僕が泣き崩れれば、ヤマトは本当に……この錆びついた世界で、ただの鉄屑になってしまう!」
力なく横たわるヤマト。
蒼白な唇の端からこぼれ落ちる、赤黒い雫。
「今できる最善を……。考えろ……止めるな、思考を止めちゃいけないんだ!!」
カケルは、恐怖で凍りつきそうな頭を自らの拳で何度も叩き、強引に意識を覚醒させた。
琥珀から叩き込まれた膨大な知識、中央演算の医療データベース、城の複雑な構造図。
これまで「教育」という名の檻に閉じ込められていた情報の断片が、ヤマトを救うという唯一の目的のために、目まぐるしい速度で一本の線へと収束していく。
(まずは止血だ。搬送中の振動で傷口が広がれば、それだけで命が尽きる……!)
カケルは迷いなく、白磁のように美しく、一点の汚れも許されなかった皇太子の礼装を脱ぎ捨てた。
それを指先に力を込めて引き裂き、止血に使える大きさへと幾重にも折り重ねていく。
かつて琥珀が「汚れなき気高さの象徴」と呼んだその衣は、今、友の命を繋ぎ止めるための泥まみれの包帯へと変わった。
「痛いよね……ごめん。でも、絶対に、絶対に死なせない」
布を傷口へ直接押し込んではならない。
カケルは配管の両脇へ折り畳んだ布を当て、傷口の周囲を圧迫した。さらに残った布を幾重にも巻き、突き刺さった破片が搬送中に動かないよう固定する。
震える指先に全身の力を込め、固く結び目を作った。
出血の勢いは、僅かに弱まった。
だが、ヤマトの肌は異常なほど冷たくなっている。
吹き抜ける境界線の風が、傷ついた身体から急速に体温を奪っているのだ。
(止血だけじゃ足りない。傷口を動かさず、風から守ったまま運ばなきゃ……!)
カケルは残った衣服をヤマトの肩と手足へ巻きつけ、可能な限り冷気を遮断した。
さらに帯と引き裂いた羽織を繋ぎ、ヤマトの脇の下と腰、腿を支える即席の搬送帯を作り上げる。
腹部を圧迫しないよう、ヤマトの背を自分の背へ重ねた。
二人は互いに反対を向いた、背中合わせの姿勢になる。
カケルは配管の破片がどこにも触れていないことを確かめると、肩と腰へ搬送帯をきつく結び、ヤマトの身体を自分へ固定した。
自分の激しい心音と、ヤマトの弱々しい鼓動が、背中越しに重なった。
カケルは折れそうな膝に力を込め、立ち上がった。
見上げる先には、遥か高くに不変の黄金を放つ高天原の縁が、冷酷なまでに遠く、輝いている。
「ヤマト。君が、僕を暗闇から導いてくれたように。今度は……僕が君を連れていく」
カケルは震える指を、冷え切った鉄骨の僅かな窪みにねじ込んだ。
ミリ、と嫌な音がして、爪が根元から剥がれ、熱い血が指先を伝う。
指先に、脳を貫くような鋭い激痛が走る。
かつて白磁の講義室で、琥珀が丁寧に手入れしてきた指先が、無残に壊れていく。
「っ、あ……っ!!」
カケルは血の滲む唇を千切れるほどに食いしばった。
今の自分にとって、この程度の痛みなど、背中で消えかかっているヤマトの命の重みに比べれば、あまりに軽い。
「死なないで……死ぬな、ヤマト……ッ!!」
カケルは、生まれて初めて自分の意志で、重力という名の絶望に抗い始めた。
普通なら、とっくに力尽きて墜落しているはずだった。
背負っているヤマトと彼の重厚な鉄の右腕が、容赦なくカケルの細い背中に「重力」という絶望を叩きつけてくる。
だが、止まらない。
止まれないのだ。
カケルが「登る」と決意した瞬間、彼の脊髄の奥底で、かつて謁見の間で聞いたあの「強を欲するか」という嘲笑が、低い脈動となって応えた。
カケルの意識が届かない背中の皮膚の下で、月白色の光を帯びた「硬質な鱗」の紋様が、拍動に合わせて幾重にも浮き上がっては沈む。
それは筋肉の繊維を強引に編み直し、華奢な少年の四肢に、人智を超えた剛力を与えていた。
しかし、カケルには、自分の首筋に浮かび上がった不気味な「あざ」も、瞳の奥で蒼色の火花が散っていることも、自覚する余裕などなかった。
一歩、また一歩。
指の皮が剥け、筋肉が悲鳴を上げても、背中から伝わる僅かな吐息が、カケルを狂気的な執念で突き動かす。
黄金の城を見つめるその瞳には、もはや甘えた傀儡の面影はない。
そこには、ただ一人の友を救おうとする、強靭で、獰猛なまでの「意志」が宿っていた。
◇
──その頃、主を失った静寂の講義室で、琥珀はたった一人、絶望の深淵に立たされていた。
「……これからは皇族らしく振る舞うと仰った、あの気高さはなんだったのですか。私の教育は……私の献身は、あのような下等な野良犬に塗り潰されてしまったというのですか」
あんな野良犬にこの聖域を汚され、愛する主を振り回され、あまつさえ取り乱して醜く叫び続けてしまった自分。
そのすべてが、完璧を自負する彼女にとって許しがたい汚辱だった。
(……今すぐにでも、あの獣を処分したい)
琥珀は、目の前からヤマトさえ消え去れば、カケルはまた自分の描いた理想の皇太子になって戻ってくる。
そう信じて疑わなかった。
だが、その妄執を打ち砕くように、城の回廊がかつてないほどの怒号と喧騒に包まれた。
「どいつもこいつも、私の平穏を……聖域を、汚していく……」
琥珀はゆらりと、呪いのような足取りで音の元へと歩き出した。
だが、自動扉が開いた先に飛び込んできた光景は、彼女の想定を遥かに超える凄惨なものだった。
そこには、半裸で泥と煤、そして他人の血を全身に浴びたカケルが立っていた。
爪は剥がれ、指先からは血が滴っている。
そしてその背には、配管の破片を腹部に残したまま、死体同然の姿となったヤマトが括り付けられていた。
「カケル……様……? なんという……なんというお姿に……!!」
琥珀は顔面蒼白になり、膝が目に見えて震えた。
彼女が愛し、磨き上げてきた「純白の象徴」が、見る影もなく汚濁にまみれている。
「誰か、誰か、カケル様を強引にでも医務室へお運びしなさい! 汚れを落とし、その不浄な個体を今すぐ引き離すのです!」
琥珀にとっては、除染こそがカケルを守るための最優先処置だった。
背中のヤマトへ意識を向ける余裕など、今の彼女には残されていない。
ただ一点、血に汚れたカケルの身を案じ、狂ったように叫んだ。
その言葉を遮るように、大地を割るような絶叫が回廊に響き渡った。
「─── 黙れッッッ!!!」
カケルの叫びは、回廊の壁を震わせ、琥珀の鼓動を一瞬止めた。
そこにいたのは、優しき傀儡であったはずのカケルではない。
自分の領土を侵された若き獅子のような、峻烈な気迫。
「琥珀! 今は僕のことなんてどうでもいい! 早く……早くヤマトを助けろと言っているんだ!!」
「何を……何を仰るのですか! その者は不浄な欠陥に過ぎないのですよ! ああっ、カケル様にまで汚らわしい下界の毒が移ってしまう……!」
「早くしろ!! ヤマトが、ヤマトが死んでしまう!!」
カケルの射抜くような眼差しに、明確な拒絶と憎悪を見て取り、琥珀の心臓は一瞬にして凍りついた。
自分が命をかけて尽くしてきた太陽に、明確に「拒絶」されたのだ。
その事実は、彼女にとってヤマトの死よりも深い傷を魂に刻んだ。
カケルはヤマトを冷たい白磁の床にゆっくりと下ろし、震える手でその首筋に触れ続けた。
周囲の衛兵たちは、血まみれの皇太子の威圧感に気圧され、誰一人として近づくことができない。
「早く……早く助けて……! 誰でもいい、ヤマトを……!!」
カケルの悲痛な叫びが、無機質な回廊に虚しく響き渡ったその時。
人混みを割り、地響きのような重厚な足音が近づいた。
「殿下……落ち着いてください」
背後から現れたのは、城の最高武官、黒鉄だった。
彼は一瞥して惨状を把握し、カケルの震える肩に、岩のような大きな手を置いた。
「ヤマトの命は、必ず繋ぎ止めます。この私が、保証しましょう。……ですから、どうか、落ち着いてください」
「黒鉄……お願い、ヤマトを……」
「わかっております……。医療班! 緊急処置室を全開放せよ! 我が聖騎士としての権限をもって、上層共通特権『ロイヤリティ・コード』を発動する。中央演算の自動排除プロトコルを即刻停止させろ。──万事、この私が責を負う。急げッ!」
黒鉄の鋼のような指示を受け、医療スタッフたちが一斉に動き出す。
その様子を、琥珀はただ、壊れた人形のように呆然と見つめていた。
カケルの体から滴り落ち、白磁の床に広がり続ける赤い血。
それは、二度と洗い流すことのできない巨大な「汚点」となり、彼女が信じてきた完璧な世界を、根底から侵食し始めていた。
カケルは、力なくその場に崩れ落ちた。
剥がれた爪から流れる血が、ヤマトの血と混じり合い、一筋の紅い川となって、聖域の床を焼き切るように流れていった。




