第37話:黄金の空虚、墜落する流星 / FALLEN SHOOTING STAR
不自然な沈黙が支配する日々の中、琥珀の体調が回復し、講義が再開された。
教壇に立つ彼女の背筋は以前にも増して鋭く伸び、その眼差しは獲物を監視する鷹のように執拗に二人を射抜いていた。
「……では、カケル様。この領域の最適化における倫理的優先順位について、見解を」
カケルは手元の最新端末に指を置いたまま、顔を上げることができなかった。
清潔な白磁の床を見つめていても、網膜の裏側にはあの油にまみれた路地裏が焼き付いて離れない。
自らの光を奪った国の象徴であるカケルから漂う香りを、それでも「あたたかい」と感じた、サクラの清らかな魂。
そんな妹を命懸けで守り続け、救えないことを思い知らされ、絶望の淵で涙するヤマト。
ヤマトから突きつけられた「自分とは見ている世界が違う」という言葉。
言葉に乗せて気持ちを伝えようにも、二人の生きて来た世界の、あまりに残酷な格差が、それを許さなかった。
剣舞の時に一瞬見せた、ヤマトの諦念を含んだ眼差し。
思い出すほど胸が灼かれる感覚に陥り、カケルはそこから逃げるように、さらに深く頭を垂れた。
「……カケル様! 聞いておいでですか!?」
琥珀の鋭い叱咤が、張り詰めた空気を切り裂く。
カケルは肩を大きく揺らし、ようやく焦点の合わない視線を戻した。
「あ……ごめん。少し、考え事をしていて……」
「『ごめん』ではありません! 最近の貴方様は、まるで魂を抜き取られたようです。一体、何が貴方様をそこまで惑わせているのですか!」
琥珀の苛立ちは、すでに沸点を超えていた。
彼女の毒を孕んだ視線が、部屋の隅で壁に深く寄りかかっているヤマトへと向く。
全ての元凶は、この野良犬だ。
そう確信している彼女の瞳には、どす黒い敵意が渦巻いていた。
その時、沈黙を守り続けていたヤマトが、ひどく億劫そうに壁から背を離した。
「……やめだ」
低く、全てを突き放すような声。
ヤマトはカケルとも琥珀とも視線を合わせることなく、出口に向かって緩慢に歩き出す。
「待ちなさい! まだ講義は終わっておりません!」
ヤマトは不意に足を止め、振り返ることなく鼻で笑った。
その声には、あの日、境界線で流した「涙の熱」が、氷のような怒りへと昇華して宿っていた。
「こんなくだらねえ茶番に、これ以上付き合ってられるか。死にかけてる奴を一人も救えねえような場所で、何を学ぶってんだ。……そんなもんは、ただの『おままごと』だ」
呼び止める琥珀の叫びを完全に黙殺し、ヤマトは扉を乱暴に蹴り開けると、迷いなく光の廊下へと消えていった。
講義室には、凍りついた沈黙と、屈辱で顔を真っ赤にして震える琥珀、そしてヤマトが去った空虚な扉を、悲痛な眼差しで見つめるカケルだけが取り残された。
「……まあ、良いですわ。そもそも、あのような不浄な存在が、この神聖な場にいること自体、あってはならない間違いだったのです」
琥珀は吐き捨てるように言うと、乱れた呼気を整えながら管理者の仮面を被り直した。
だが、カケルの心はもうここにはなかった。
『死にかけてる奴を一人も救えねえような場所で、何を学ぶってんだ』
ヤマトが残した警鐘が、耳の奥で鳴り止まない。
サクラの、あの冷たく、けれど生きたいと願っていた手。
ヤマトが零した、あの行き場のない涙の熱。
自分を縛り付けているこの豪華な椅子も、琥珀が説く「完璧な正義」も、その涙一滴すら拭えないほどに空虚で、脆弱なものに感じられた。
「……」
カケルの拳が、膝の上で白くなるほど強く握られた。
もう、自分を欺き続けることはできない。
ガタッ、と椅子が激しく音を立てて倒れる。
「琥珀、ごめん! ……すぐ戻るから!」
「カケル様!? どこへ行かれるのですか!」
背後で上がる金切り声を無視し、カケルは走り出した。
白磁の扉を突き抜け、真っ白に洗練された廊下を、心臓が破けるほどの速度で駆け抜ける。
自分が守るべきものは、この美しい城の秩序ではない。
泥にまみれてもなお、自分に「命の熱」を教えてくれた、唯一無二の親友なのだ。
「ヤマト、待って!」
叫びが、無機質な『黄泉比良坂』の入り口に木霊した。
ヤマトは足を止め、ゆっくりと振り返った。
境界線から吹き上げる冷たい突風が、ヤマトの赤い髪を激しく乱し、二人の間に見えない壁を作るように吹き荒れる。
その瞳は、カケルが今まで見たこともないほど冷たく、絶望に凪いでいた。
「どこに行くんだよ。待ってよ……!」
「……帰るんだよ、自分の居場所に」
ヤマトの声は、風の咆哮に掻き消されそうなほど低かった。
「そもそも、こんな場所に来たのが間違いだったんだ。俺とお前じゃ、住む世界が違う。流れてる血も、吸ってる空気も、何もかもが違うんだ。……何もかもな」
ヤマトは自嘲気味に鼻で笑い、黄金に輝く高天原を仰ぎ見た。
「俺にとって、ここは希望も何もない、ただの憎たらしい牢獄だ。サクラを救えねえ『奇跡』なんて、クソ喰らえなんだよ」
「何言ってんだよ! 毎日一緒に過ごして、たくさん笑ったじゃないか! 僕たちは──」
「……うるせえんだよ」
そこにいたのは「親友」ではなく、世界を呪い、全てを拒絶する一匹の飢えた孤狼だった。
「仲良くおままごとでもしてた気分か? 笑わせんじゃねえよ。俺はお前を親友だなんて、一度も思ったことはねえ。……あいつの病の情報を集めるために、無知で間抜けな皇太子サマを、適当にその気にさせてただけだ。もう十分楽しんだだろ? ……二度と顔を見せるな」
最後の一言だけが、わずかに掠れた。
ヤマトの生身の左手は、爪が掌へ食い込むほど固く握りしめられていた。
その手は、病床のサクラを包んだ手だった。
泣き崩れたカケルを、自分の胸へ引き寄せた手でもあった。
優しくすれば、また希望を抱いてしまう。
カケルが隣にいることを、救いだと思ってしまう。
その救いを失った時、自分はもう二度と立ち上がれない。
ヤマトは胸の内に残る温もりを切り捨てるように、絶壁へ向き直った。
「ヤマト、ま、待って!」
引き止めようと一歩踏み出した矢先。
先日、演舞場で傷めたカケルの足首に鋭い痛みが走り、その拍子で錆びついた鉄骨の上でよろめいた。
その異変に、ヤマトが弾かれたように振り返る。
伸ばされたヤマトの指先が、空を切り、届かない。
見開かれたその瞳には、先ほどまでの冷徹さは微塵もなく、ただ、大切なものを失うことへの剥き出しの恐怖と、激しい焦燥だけが渦巻いていた。
「あっ……」
浮遊感。
カケルの身体は、黄金の光を離れ、果てしない暗闇の虚無へと投げ出された。
「ばっかやろ……!!」
絶叫したのは、ヤマトだった。
考えるより先に、ヤマトの身体が白磁の縁を蹴っていた。
それは、自分自身への罵倒だったかもしれない。ヤマトは、自ら積み上げた絶望も、サクラへの罪悪感も、そのすべてをかなぐり捨て、ただ「カケル」という一筋の光を掴むために、真っ逆さまの奈落へと身を投げ出した。
空中でカケルの身体を強く抱きしめ、自分の身体を盾にするようにして、剥き出しの鉄構造物へと落下していく。
──ガキィィィィィィィン!!
「……ッ、グ、ァ……!!」
金属が軋む耳障りな音とともに、重い衝撃がヤマトの生身を貫く。
鋭利な鋼鉄が肉を蹂躙し、骨を砕く生々しい感触が、抱きしめられたカケルの身体にまで伝わった。
視界が激しく火花を散らし、カケルの意識は一時的に深い闇へと沈んだ。
…。
……。
「……ヤマト?」
意識を呼び戻したカケルの視界は、どろりとした赤に染まっていた。
頬を伝い、首筋へと流れ落ちる液体の、高天原が「異物」として拒み続けてきた、残酷なまでに生々しい命の温度。
それがヤマトの血であることを理解した瞬間、カケルの肺は凍りついた。
ヤマトが自らの肉体を下敷きにして、衝撃の全てを肩代わりしていた。
その腹部には、衝突の瞬間に根元から折れた鋭利な配管の一部が、無残に、深く突き刺さっている。
「いやだ……こんなの、いやだ……!」
カケルは震える手を傷口へ伸ばした。
止めなければならない。
血を止めなければ、ヤマトが死んでしまう。
だが、どこへ触れればいいのか分からない。
両手で傷口を押さえても、熱い血は指の隙間から次々と溢れ出し、白い袖を容赦なく赤く染めていった。
「誰か……誰か来て! 救護システム、応答して! ヤマトを助けて!」
絶叫が、鉄の臓腑の中へ虚しく吸い込まれていく。
返ってくるのは、壊れた配管から漏れる蒸気の音と、遠くで鳴り続ける警告音だけだった。
高天原の膨大な演算機構も、皇太子という地位も、目の前で失われていく一つの命を繋ぎ止めてはくれない。
「お願いだよ……目を開けてよ。僕を嫌っててもいい。親友じゃなくてもいいから……死なないでよ、ヤマト……!」
カケルは血に濡れたヤマトの頬へ触れた。
いつもなら振り払われるはずの手を、ヤマトは拒まなかった。
そのことが、何より恐ろしかった。
「ヤマト……嘘だろ……ヤマト!」
ヤマトはぐったりとしたまま、指先一つ動かさない。
鉄の腕からは過負荷の火花が虚しく散り、溢れ出す鮮烈な赤が、カケルの震える手を刻一刻と、絶望の色に染め上げていった。




