第36話:死の庭の沈黙、期待という名の毒 / DEADLY HOPE
カケルは、ヤマトと黒鉄の元から離れた後、痛みの残る足を引きずりながら、謁見の間へと向かった。
琥珀の監視を逃れるため、カケルは震える指で『皇太子コード』を起動させた。
眼前に浮かび上がる青白いホログラム。
システムを欺き、人影のない謁見の間へと滑り込む。
巨大な円筒を満たす淡い燐光の中、母は今日も慈悲深い微笑を浮かべたまま、静かに漂っていた。
個を奪われ、感情を去勢され、国の繁栄という大義のために捧げられた、生ける祭壇としての肉体。
「お母様……僕はもう、高天原では息をすることができないんだ」
声を震わせながら、カケルは返事の返らぬ母へと独白を続ける。
「ヤマトは、僕の……初めての友達だった。でも、僕の存在そのものが、ずっと彼を……彼の妹までも、苦しめ続けてきたんだ。誰かの命を吸い上げ、その排泄物で大切なものを奪い続けておきながら、この国で笑って暮らすなんて……僕には、もうできない」
カケルは震える指先を操作盤へと伸ばした。
皇太子コードの最深部。
そこに封じられていたのは、アマテラスへ『緊急停止要求』を送るための、次代の器だけに許された禁忌の領域だった。
【皇太子コード:認証】
【中央演算緊急停止:発議可能】
【最終承認権限:現行演算器】
カケル自身に、アマテラスを停止させる権限はない。
だが、次代の器であるカケルが停止を発議し、現行の器──目の前の母がそれを承認すれば、アマテラスは全機能を停止する。
瑠璃色の実行キーが、母へ問いを届けるための承認を待っていた。
「誰かの犠牲でしか成り立たないシステムなんて、いっそ壊れてしまえばいい。……僕には、その終わりをお母様へ願い出る権限がある。でも、お母様……」
喉の奥が、焼けるように熱い。
中央演算アマテラスの機能停止。
それは、高天原から下界へ流れ落ちる汚染を止め、これ以上サクラのような犠牲を生み出さないための一歩になるかもしれない。
だが同時に、母の肉体が「死」を受け入れる瞬間でもある。
友の妹を蝕む毒を止めるために国を殺すことは、即ち、目の前の母へ、自ら死を選ばせることと同義だった。
「っ……、ぁ……」
カケルの指が、実行キーの寸前で止まった。
どうしても、押せない。
システムに繋がれたままの母を救いたいのか、それとも、たとえ機械越しであっても「母の形」を失うのが怖いのか。
「お母様……ごめんなさい……っ、僕は、僕は……!」
カケルはその場に崩れ落ち、嗚咽した。
絶対的な権限を持ちながら、あまりにも無力な少年。
冷たい白磁の床に涙がこぼれ、その雫の音さえ、今のカケルには罪を糾弾する音に聞こえる。
その時。
──ザ、ザザッ。
不意に、無機質な静寂を切り裂いて電子ノイズが走った。
直後、柔らかく、包み込むような慈愛に満ちた歌声が、謁見の間に響き渡った。
「……ラン……ララ……ン、ラララ……」
それは、途切れ途切れではあるが、深い深い眠りへ誘うような、赤子をあやす子守唄だった。
カケルは顔を上げ、魂の深淵まで染み渡るような、その甘い響きに聞き入った。
カケルが嗚咽を噛み殺すと、歌声もまた、その呼吸を待つように一度途切れた。
そして、彼が震える息を吸った瞬間、あやすように再び旋律が紡がれる。
水槽の中で、母の指先がほんのわずかに動いた。
透明な隔壁越しに、泣き崩れる我が子へ触れようとするように。
(……温かい。これは、記録されたデータなんかじゃない)
今までに聞いてきた擬似音声にはなかった、確かな「生」の熱。
母は、ただの部品としてそこに漂っているのではない。
この巨大なシステムの檻に閉じ込められながらも、今、確かに「生きている」のだ。
その事実が、カケルの震える指を操作盤から引き剥がした。
(……僕が今、この要求を送れば、サクラちゃんを蝕む毒を止められるかもしれない。少なくとも、これ以上同じ犠牲が生まれるのを防げるかもしれない。でも、それはお母様に、死を選ばせることだ)
誰かの犠牲の上に、誰かの幸せを築く。
それは、高天原が下界の民の命を吸い上げ、この「楽園」を維持している醜悪な仕組みそのものではないか。
ヤマトを救いたい。
だが、そのために母を殺せば、自分はヤマトが最も憎んでいる「高天原の論理」そのものになってしまう。
それは、ヤマトが望む救いではない。
「……違う。こんなの、僕が求めていた『正解』じゃない……っ!」
カケルは、起動しかけた皇太子コードを、激しい自己嫌悪と共に強制終了させた。
犠牲を前提とした救済を、彼は自身の魂で拒絶したのだ。
溢れる涙を拭い、逃げ出すように身を翻して重い扉へと向かった、その時だった。
『──滑稽よな。其の矮小なる無力、正しく人の子の分際よ。……我が強を所望するか。此の世を蹂躙する牙を。──』
地響きの様に呻く声に、カケルは足を止めた。
振り返っても、そこには巨大な水槽に収まった母が漂っているだけだ。
だが、次の瞬間。
カケルの魂の最奥で、何かが爆ぜた。
神聖な導きなどではない。
むしろ破壊的な衝動を孕んだ、身の毛もよだつほどに鋭利な光。
姿形は見えない。
だが、肺を内側から握りつぶされるような圧倒的な質量を持った「何か」が、カケルという器から溢れ出そうと暴れている。
首筋に走る、焼き付くような熱。
視界の端がわずかに蒼色の火花に焼け、心臓の鼓動が、自分のものではない「巨大な脈動」と重なった気がした。
抗いようのない力への恐怖と、同時に、自分の内側に眠っていた「異形」への困惑がカケルを貫く。
母の子守唄は消え、辺りには耳鳴りがするほどの静寂が戻っている。
カケルは自分の掌を見つめた。
震えは止まらない。
だが、その掌の中には、今までの自分には決して無かった──この錆びついた世界を容易く捻り潰せてしまうほどの、恐るべき拒絶の萌芽が、確かに根付いていた。
魂を震わせる「母の声」の余韻と、内に芽生えた異形なる力の鼓動。
カケルは、それらを押し殺すように胸を押さえ、逃げるように謁見の間を後にした。
私室に戻る手前の庭園に、独り佇むヤマトの後ろ姿をカケルは捉えた。
高天原の管理された「死の庭」に立つ、圧倒的な生命力を湛えた友の後ろ姿。
しかし、その炎は今、拭い去れぬ迷いに揺れ、かつての獰猛な輝きは鈍っていた。
カケルが庭園へ向かうと、ヤマトは相変わらず一点を見つめ続け、表情を変えずにただ立ち尽くしていた。
「……ヤ、ヤマト」
声が上ずる。
ヤマトは、振り返らなかった。
二人の間を流れる空気から、以前のような温かさは消え失せていた。
『期待は毒だ』
自分自身へ刻み続けてきたその呪いが、ヤマトをより深い孤独へと追い込もうとする。
「ヤマト。僕──」
「謝罪の言葉なら、いらねえぞ」
カケルの心を見透かすように、ヤマトの声が言葉を塞いだ。
「お前ひとりの『ごめんなさい』で、サクラの目は治るのか? 鉱血症の痣が、消えて無くなるのかよ?」
振り返らないまま放たれたヤマトの言葉が、鋭い矢となってカケルの心に突き刺さる。
「いらねえんだよ。辻褄合わせの、都合の良い謝罪なんか。皇太子サマ、お前は、やっぱり高天原の人間だ。……俺とは、何もかも違う」
一切目を合わせることなく、ヤマトは突き放すように背を向け、城の奥へと戻っていった。
彼の隣に並ぶ資格が今の自分にあるのかと自問自答するうち、ヤマトの後ろ姿は小さくなり、やがてカケルの視界から完全に消え去った。
カケルは一人、完璧に管理された庭園に取り残された。
先ほど魂の奥底で爆ぜた「悍ましい光」が、再び低く、不気味に脈動する。
(ヤマト……僕は……)
ヤマトが拒絶するほどに、カケルの中の「何か」が、その断絶を力づくで繋ぎ止めようと疼いていた。




