第35話:彫像の沈黙、少年の悔恨 / SILENT BOY
禁じられた下界への外出から数日が過ぎた。
表向き、高天原は何事もなかったかのように「完璧な秩序」を維持している。
煤まみれになったはずの衣服は分子レベルで分解・抹消され、爪の隙間に食い込んでいたスラムの泥も、自動洗浄システムによって徹底的に洗い流された。
鏡に映るカケルの姿は、再び一点の曇りもない「楽園の象徴」へと修復されている。
ただし、二人の間に漂う空気は、あの日を境に決定的な変質を孕んでいた。
「……」
カケルは隙を見ては気まずそうにヤマトの様子を窺うが、ヤマトは一切の視線を遮断し、ただ冷徹な彫像のように一点を見つめ続けている。
(……なんて、声をかければいいんだろう)
スラムで目撃した惨状を経て、カケルの心には「ヤマトとサクラを救いたい」という烈火のような使命感が宿っていた。
しかし、いざ目の前の親友が心を閉ざしたとき、カケルは自分が「彼について何一つ知らない」事実に愕然とする。
どんな言葉が彼を癒やし、どうすればその頑なな肩の力を解くことができるのか。
これまで、導き手は常にヤマトだった。
だからこそ、カケルの手元には誰かを救うための言葉も、強引に隣へ踏み込むための勇気も備わっていなかったのだ。
黄泉比良坂を登る最中、カケルが口にした「もしも」という名の希望を、ヤマトは即座に、冷徹に切り捨てた。
大切にしたいはずなのに、自分の無知さがヤマトの心を傷付けてしまう。
自身の不甲斐なさを噛み締めながら、初めての友を傷付けず、隣に居られるような自分になりたいと願う。
何もかもが、カケルにとっては初めての経験で、心を突き動かすものの、彼は未だ「正解」を探し当てられずにいた。
差し伸べようとした指先が、空中で迷子のように彷徨う。
その情けないほどの困惑が、二人の「住む世界の断絶」を、残酷に物語っていた。
結局、一言も交わせないまま、カケルは剣舞の稽古へと向かうことになった。
演舞場へと向かう廊下、カケルは何度も隣を歩くヤマトに声をかけようとして、そのたびに喉元までせり上がる言葉を飲み込んだ。
ヤマトから突きつけられた残酷な真実──最愛の妹・サクラが光を失った原因は、高天原が排出した有毒なガスだという事実が、出かかった言葉を半ば強制的に押し込める。
(僕が……何を言えるっていうんだ)
高天原という虚飾の楽園。
その頂点に立つ自分が、今さらどんな言葉を並べたところで、ヤマトの何を癒せるというのか。
カケルが当たり前に享受してきた清浄な空気、その「排泄物」が友の唯一つの宝物を壊したのだ。
ふと、ヤマトと出会って間もなく、彼が放った言葉が脳裏をよぎる。
『……そうか。お前が、その「頂点」か──』
ヤマトの真意を、今になってやっと理解できた。
あれは単なる不遜ではない。
自分たちを切り捨て、搾取の頂点に立つ、「皇太子」としてのカケルに向けられた、長年に渡って煮詰められた「怒り」の表れだったのだ。
重い沈黙を引きずったまま辿り着いた演舞場には、いつものように黒鉄が佇んでいた。
重厚な漆黒の鎧を纏い、静かに待ち構えるその威容。
二人の間に漂う変質を、黒鉄は一瞬だけ目を瞠ったが、敢えて触れずにその空気を受け止めた。
カケルは震える手で『草薙』を抜き、天の舞を開始する。
だが、迷い切った心は剣線を千々に乱していた。
優雅であるべき旋回は軸がぶれ、鋭いはずの突きは力無く空を切る。
右へ踏み込めば光を失ったサクラの瞳が浮かび、左へ剣を振ればヤマトの涙の熱が思い出される。
(間違ってる……こんな世界、絶対に……!)
黒鉄は、黙ってその無様な舞を見つめている。
漆黒の鎧から発せられる無言の圧力が、カケルの焦燥をさらに煽った。
ヤマトは相変わらず無表情だった。
だが、その金色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何かを諦めたような昏い色が混ざり合うのを、カケルは見てしまった。
「あ……」
心臓が不規則に跳ねた。
次の瞬間、完璧に構築されていたはずの演舞の歩法が、嘘のように狂う。
足首がぐらりと崩れ、草薙の切っ先が激しい金属音を立てて白磁の床を叩く。カケルの身体も、その場へ無様に崩れ落ちた。
「……っ、はぁ、はぁ……っ!」
床に突き立てた剣が、カケルの震えを伝えるように小さく鳴っている。
静まり返る演舞場。
背後に立つヤマトの視線が、突き刺さるように痛かった。
「殿下。お怪我はございませぬか」
静かに駆け寄った黒鉄が、カケルの足首を気にかけながら、低く落ち着いた声で問いかけた。
漆黒の甲冑が、膝をつく際に微かな金属音を立てる。
「……大丈夫。……ごめん、黒鉄」
カケルは震える手で床を押し、立ち上がろうとした。
だが、挫いた足首に走る鋭い痛みが、彼の「迷い」を具現化したかのように行く手を阻む。
その様子を、数歩離れた壁際でヤマトがじっと見つめていた。
腕を組み、周囲のすべてを拒絶するような硬い姿勢を崩さない。
いつもなら、カケルが転べば真っ先に駆け寄り、憎まれ口を叩きながらもその手を引いてくれるはずのヤマトが、今はただの動かぬ石像のように、冷ややかな視線を投げかけているだけだった。
ヤマトは今、目に見えない強固な壁の中に閉じこもっている。
それは、高天原という「加害の楽園」に対する彼なりの抵抗であり、妹を置いて戻ってきた自分への苛立ちでもあった。
そして何より、涙まで見られたカケルにこれ以上心を許せば、復讐者としての自分を保てなくなる──その恐怖の裏返しだった。
「本日の稽古はここまでにいたしましょう。足の怪我は大したことがございませんが……」
黒鉄はカケルの腕を支え、ゆっくりと立たせると、鉄面の奥にある鋭い眼光をカケルの瞳に真っ直ぐにぶつけた。
「今はこの場に立っていても、殿下の御心はここにございません。迷いを孕んだ剣は、ただ己を傷つけるだけの刃となります」
すべてを見抜くような黒鉄の言葉が、カケルの肩に重くのしかかった。
黄泉比良坂の警備システムを一時的に沈黙させ、二人が下界に降りる手助けをしたのは、他でもないこの黒鉄だ。
下界を知る彼ならば、カケルが下界で何を目撃し、ヤマトがどんな絶望を抱えてこの「白磁の檻」に戻ってきたのかを、言葉を交わさずともすべて理解しているのだろう。
「殿下。立てますかな」
「う、うん……」
黒鉄の分厚い手甲に支えられながら、カケルは震える膝に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
挫いた足首の鈍い痛みが、迷い続けている心に楔を打ち込む。
「殿下。心苦しい願いとは重々承知しておりますが……しばし、ヤマトをお借りできませぬか」
その言葉に、壁際にいたヤマトの眉がぴくりと動いた。
一瞬だけ、鋭い視線が漆黒の兜に向けられたが、彼はそれを悟られないよう、すぐに沈黙の仮面を被り直した。
「黒鉄……」
「なに、護衛としての心構えを説くだけです。心配なさいますな」
黒鉄の静寂を湛えた声には、カケルを安心させるための穏やかさと、それとは相反する、逃げ場を塞ぐような絶対的な重みが同居していた。
カケルは不安げに二人の表情を見比べ、何かを言いたげに口を噤んだが、やがて力なく頷くと、足を引きずりながら演舞場を後にした。
残された二人の間には、肺が痛くなるほどの深い沈黙が訪れた。
それを裂いたのは、絞り出すようなヤマトの声だった。
「……何の用だよ」
「お前が、今何を考え、感じているかは、想像するに容易い。……しかしな、ヤマト」
「……分かったような口を利くな」
ヤマトは噛みつくように吐き捨てた。
「ドブ底から這い上がって、今じゃこの世界の剣として旨味を喰らってる奴が、偉そうに説教すんじゃねえ」
ヤマトの口調はいつもに増して荒く、尖っていた。
最愛の妹を壊した元凶の真っ只中に身を置く彼の内には、自分自身をも焼き尽くすような、憎しみの業火が宿りつつあった。
「おっさん。あんたは下界の生まれの癖に、結局はこの世界の肩を持つんだろ? あんたが説く『正解』なんて、俺にとっちゃ高天原の奴らが吐き出す毒よりも反吐が出るぜ」
叩きつけるような罵倒。
だが、黒鉄はその一切を、微動だにせず受け止めた。
漆黒の甲冑は、ヤマトが放つ刺々しい殺意をすべて吸い込む深淵のように静かだった。
「……お前に今必要なのは、復讐の牙ではない。心の休息だ」
どんなに汚い言葉を並べ立てても、黒鉄の声はどこまでも凪いでいた。
突き放すのではなく、包み込むのでもない。
ただ、ヤマトの枯渇しきった心の底へ、一滴の冷徹な真実を落とすような響き。
ヤマトは、唇を噛み締めた。
怒鳴り返されれば、まだ楽だった。
だが、この男の静寂は、ヤマトの胸の奥で煮え繰り返る悔しさと、もっと泥臭く、もっと子供じみた「叫び出したいほどの悲しみ」を、無理やり引きずり出そうとしてくる。
ヤマトは、溢れそうになる何かを必死に押し留めるように、顔を歪めた。
「……話はそれだけかよ。……くだらねえ」
吐き捨てるように言い捨て、ヤマトは背を向けた。
一度も振り返ることなく、逃げるような足取りでその場を去っていく。
その背中は、どんなに鉄の義手で武装していても、今にも崩れ落ちそうなほどに孤独で、脆かった。
黒鉄は、その消えゆく背中をじっと見送っていた。
牙を剥くことでしか己の芯を保てない、その痛々しいほどの意地。
それは、かつて『完璧』という名の巨大な歯車に組み込まれ、音もなく心を摩耗させていた幼いカケルの姿と、地続きの孤独に見えた。
生まれも、境遇も、流れる血も違う二人の少年。
だが、高天原という巨大なシステムの前に立たされたとき、彼らが地表に落とす影の色は、驚くほど似通っていた。
天上の光が強ければ強いほど、その影は深く、鋭く、彼らの魂を蝕んでいく。
黒鉄はただ、沈黙する漆黒の甲冑にその光景を刻みつけていた。
穢れなき光が彼らを照らそうとも、その足元に広がる深い闇を消す術は、今の彼らにはまだ、備わっていない。




