第34話:雨の降らない国 / RAINLESS DROPS
重苦しい沈黙を切り裂くように、二人は再び『黄泉比良坂』──空へと突き刺さる鉄の絶壁に取り付いた。
一分一秒が惜しい。
だが、降りる時とは違い、帰路では自分たちの全体重を腕一本で持ち上げ続けなければならない。
重油を吸った衣服は鉛のように重く、濡れた履物は足場へ掛けるたびに滑った。すでに疲労の溜まったカケルの指先からは感覚が失われ、爪の隙間には錆と血が滲んでいる。
先を行くヤマトの右腕も、決して無傷ではなかった。
カケルを支え、路地裏で男たちを殴り倒し、再びこの絶壁へ取り付いたことで、接合部は赤熱し、一定の間隔で警告音を漏らしている。
それでもヤマトは、一度も痛みを口にしなかった。
時折足を止めるのも、自分を休ませるためではない。必ず下を振り返り、カケルが遅れずについて来ていることを確かめるためだった。
琥珀が目を覚まして『瞑想の間』が無人であることに気づく前に、自分たちの役割へ戻らなければならない。
ヤマトの背中を追い、カケルは必死に錆びたケーブルを登っていく。
高度を上げるごとに空気は薄くなり、代わりに清浄に研ぎ澄まされていく。
足元の澱んだ闇が遠ざかるにつれ、つい数十分前まで触れていた「命の体温」が幻だったかのような錯覚に陥る。
(本当は、ずっとそばにいたいんだろうな……)
カケルは、ヤマトの背中に滲む疲労と執念を感じ取っていた。
ヤマトにとって、あの冷たく湿った隠れ家と、そこで待つサクラこそが、世界で唯一守るべき聖域だ。
そこを離れ、忌むべき支配者層が待つ『黄金の檻』へと戻らなければならない。その矛盾を湛えた一歩一歩が、ヤマトの魂を鋭いナイフで削り取っている。
そして、その黄金の檻の中心で育ち、彼らの犠牲の上に成り立つ雲の上の世界で、何ひとつ穢れを知らずに生きて来た、あまりに無知で、無力な自分。
カケルは、改めてその事実を噛み締める。
胸の奥が焼けるように痛んだ。
やり場のない感情を抱えきれず、カケルは喘ぎながら、先行するヤマトの背中に声をかけた。
「ねえ、ヤマト。サクラちゃんがもし……もし、本当に良くなったらさ……。いつか三人で、本物の桜を──」
「やめろ」
ヤマトの声は、高空を吹き付ける風よりも冷たく、鋭利だった。
「そんな『もしも』の話なんて、これっぽっちも聞きたくねえ」
「……っ」
「期待なんて、毒でしかない。吐き出すな。この国に、俺たちみたいな家畜に都合のいい奇跡なんて、一ミリも残っちゃいねえんだよ。……そんなもん、飲み込め」
カケルは開きかけた口を、静かに閉ざした。
桜を見せたい。
サクラを助けたい。
ヤマトを、あの暗い部屋から救い出したい。
どれも今の自分には、口にする資格すらないほど軽い願いなのだと痛感する。
だから、言葉にはしなかった。
けれど、捨てもしなかった。
ヤマトに吐き出すなと言われた希望を、カケルは胸の最も深い場所へ、誰にも奪われない小さな火種として飲み込んだ。
ヤマトはそれきり、一度も振り返らなかった。
その拒絶は、カケルを疎んでいるからではない。
己の心にこれ以上、脆い『希望』という名の不純物を侵入させないための、痛ましいほどの、防衛本能だった。
期待すれば、裏切られた時の絶望で心が壊れてしまう。
そうやって、ヤマトは過酷な下界を、たったひとりで己の心を守り、生き抜いてきたのだ。
カケルは己の不甲斐なさを噛み締め、ただ黙って、岩を穿つように正確に動くヤマトの鉄の腕と、無力な自分を守るための盾となってくれた背中を見つめ続けた。
黄泉比良坂を登り切った先にあるのは、不変の栄華を誇る高天原。
けれど今のカケルの目には、そこがサクラの住む暗い部屋よりも、ずっと冷酷で、不気味な虚飾の場所に思えてならなかった。
高天原を支える巨大な浮遊基盤の縁が、すぐそこまで迫っている。
境界線の向こう側から、黄金の光が牙を剥くように溢れ出していた。
あと数メートルも登れば、そこは再び、高度なシステムに管理され、塵ひとつ許されない「完璧な世界」だ。
二人の間に会話はない。
ただ、金属が軋む悲鳴と、荒い呼吸音だけが交互に響く。
「……もうすぐだ」
カケルが自分を鼓舞するように呟いた、その時だった。
冷たい風に混じって、上から零れた「何か」が、カケルの頬にぽつりと落ちた。
「え……?」
カケルは思わず動きを止め、上を見上げた。
この国に雨は降らない。
雲の上にある高天原は、中央演算アマテラスによって不変の晴天が約束されているはずだ。
だが、それは雨ではなかった。
逆光の中で、ヤマトの横顔が微かに揺れているのが見えた。
煤に汚れた頬を一筋の輝きが伝い、重力に逆らうように風に舞って、下界の闇へと消えていく。
「もしも」なんて話は聞きたくないと、あんなに強く拒絶した男が。
「涙」なんて一ミリも世界を動かさないと、冷たく言い放った男が。
声も立てず、表情も変えず、ただその目から溢れるものだけを止められずにいた。
それは、ヤマトがひた隠しにしてきた絶望の結晶だった。
己の無力さを、世界の理不尽さを、そして何より──最愛の妹を死の淵に置いたまま、偽りの楽園へと戻らなければならないジレンマを、言葉の代わりにその滴が物語っていた。
カケルは、言葉を失った。
「大丈夫」なんて言えるはずがない。
「悲しまないで」なんて残酷すぎて言えない。
カケルはただ、ヤマトの力強くも、今にも崩れそうなほど震える背中を、痛いほどに見つめることしかできなかった。
ヤマトの涙を浴びながら、二人は最後の数メートルを登りきった。
眩い光が視界を埋め尽くした瞬間、ヤマトは乱暴に肘で顔を拭い去った。
そこにはもう、涙の跡も、兄としての弱さも見当たらない。
再び『高天原の番犬』としての、無機質で獰猛な仮面が光の中に浮かび上がっていた。
城の深奥へと続く秘密の回廊。
カケルの放つ皇太子コードは、冷徹な電子音とともに自動排除プロトコルを無効化し、招かれざる「下界の汚れ」を沈黙のうちに受け入れた。
下界では、ヤマトの腕がカケルを守った。
だが、この白い世界では、カケルの身に刻まれた権限だけが、ヤマトを異物排除の刃から守る盾となる。
認証光が二人の汚れた身体を走査するたび、ヤマトの肩がわずかに強張った。カケルはそれに気づくと、彼を隠すように半歩前へ出た。
今度は自分が守る番だ。
そう告げる代わりに、カケルは震える指先で次の認証画面へ触れた。
二人は誰とも交わることなく、逃げ込むようにカケルの自室へと辿り着く。
「……落としてくるよ」
カケルが短く告げると、ヤマトもまた押し黙ったまま、予備の浴室へと足を向けた。
激しい水音が、静寂を切り裂く。
カケルは浴室の鏡に映る自分を見つめた。
頬にはまだ、ヤマトがこぼしたあの滴の熱が残っているような気がした。
ふと、扉の向こう側にある気配を感じる。
汚れを削ぎ落とした先に現れる、剥き出しの命の姿。
燃えるように鮮やかな赤い髪と、すべてを射抜くような黄金の瞳。
かつてカケルが純粋に「綺麗だ」と称賛したその姿の裏側を、今の彼は知っている。
その美しさは、暗く重たい過去という炎に焼かれ、研ぎ澄まされた刃そのものだ。
優しさだけでは決して辿り着けない場所を這いずり回り、妹のために己を殺し続けてきた、危ういほどの鋭利さ。
カケルは、ヤマトの「真実」を初めて目撃したのだ。
カケルはシャワーを浴びながら、誓うように深く、深く目を閉じた。
アマテラスの、思わぬエラーが引き寄せた運命。
皮肉にも、完璧を求めたシステムが生み出したその「綻び」こそが、白磁の揺籠の中で置物のように生かされてきたカケルの心を、初めて激しく突き動かしていた。
これ以上、自分の心が壊れてしまわないよう、己の魂を削りながら守り続けている親友。
そんな彼を……ヤマトを、いつか必ず、この地獄から救い出したい。
立ち込める湯気の中で、カケルの心には、鉄のように固い覚悟が宿っていた。
排水口へ流れていく泥水は、かつての何も知らなかった自分との決別の儀式のようだった。
浴室を出れば、再び琥珀の待つ冷酷な日常が始まる。
だが、今のカケルはもう、ただ守られるだけの脆弱な偶像ではない。
頬を伝った滴は、もはやヤマトの涙でも、ただの水でもなかった。
それは、錆びついた世界をいつか根底から塗り替えてみせるという、カケル自身の静かなる「反逆」の火種だった。




