第33話:その名に祈りを、その花に涙を / PRAYER: SAKURA
「ねえ、お兄ちゃん」
サクラが、光を失った瞳を彷徨わせながら、確かな温もりを探すように問いかける。
湿った空気と油の匂いが染み付いた隠れ家の中で、彼女の声だけが鈴を振るうような、不釣り合いなほど清らかな響きを持っていた。
「カケルお兄ちゃんは、お兄ちゃんのお友達なんだよね?」
「ちげーよ。そんなんじゃねえって。ただの腐れ縁だ」
ヤマトはぶっきらぼうに突き放すが、その声からは高天原で護衛として振る舞う時の鋭い鉄の棘が抜け落ち、どこか湿り気を帯びている。
それは彼が「識別番号」としての自分を脱ぎ捨て、ただの兄に戻る唯一の瞬間だった。
カケルはサクラに歩み寄り、彼女の、陶器のように白く冷たい手をそっと包み込んだ。
彼女の肌は、高天原の貴族のような選ばれた白さではない。
生命の灯火が消え入りそうな、病的な蒼白だ。
「サクラちゃん。ヤマトはね、僕の護衛──僕をずっと守ってくれている、一番の騎士なんだよ」
「ヤマト……? ヤマトって、だあれ?」
サクラが不思議そうな顔をして首を傾げる。
下界の錆びた空気の中では、彼はただの「ゼロハチ」であり、妹にとっては名もなき「お兄ちゃん」でしかなかった。
高天原の眩い光の下で呼ばれるその名は、彼女の耳に届く初めての福音だった。
「サクラ、もういいだろ。そんなことどうでも──」
「もしかして、お兄ちゃんの名前なの?」
サクラの表情が、暗がりに灯火がともるようにぱあっと明るくなる。
カケルは彼女の指先に力を込め、真っ直ぐに、その魂に届くよう告げた。
「そうだよ。ヤマトは、僕の……僕の大切な、友達なんだ」
「友達……」
サクラは、その不慣れな言葉の響きを愛おしそうに繰り返した。
そして、泥の中に咲く蓮の花のような、無垢な笑みを浮かべる。
「ヤマトお兄ちゃん……ヤマト、お兄ちゃん……。ふふ、すごくかっこいいお名前。お兄ちゃんに、ぴったりだね」
「……っ」
ヤマトは、弾かれたように顔を背けた。
煤だらけの頬が、耳の付け根まで赤く染まっている。
胸元の鉄の腕が「チチッ……」と不器用な空転音を立て、彼は居心地が悪そうに頭を掻きむしった。
「……勝手なこと言ってんじゃねえよ。名前なんて、識別番号と同じ……ただの記号だ」
そう吐き捨てながらも、ヤマトの口元はわずかに緩んでいた。
カケルが彼に与え、最愛の妹が肯定した「ヤマト」という名。
それは、鋼鉄の部品として生きてきた彼に、初めて許された証明という名の光だった。
「お兄ちゃん。私も、呼んでもいい? ヤマトお兄ちゃんって」
「……好きにしろ」
ヤマトは照れ隠しに声を低く沈めたが、その瞳は、高天原のどんな人工太陽よりも優しく、静かな光を宿していた。
二人はサクラに別れを告げ、再び重苦しい鉄錆の空気が漂うスラムの路地へと踏み出した。
一歩外へ出れば、そこは弱肉強食の下界だ。
ヤマトの横顔は、家の中にいた時の柔らかさを脱ぎ捨て、また飢えた「狼」のそれに戻っている。
カケルは、先ほど触れた温度を反芻していた。
ぶっきらぼうな仕草の裏にある、妹を包み込むようなヤマトの手の厚み。
自分には、あんな風に抱きしめてくれる両親はいない。
血と肉の温もりが、これほどまでに人を強く、あるいは脆くさせるものだとは知らなかった。
「ヤマト。素敵な妹さんだったね。……次は、何かプレゼントを持ってこようかな」
カケルは、サクラの微笑みの中に、消えない罪の意識を抱えながらも、努めて明るい声で話しかけた。
だが、ヤマトは足を止め、深く、重い沈黙を落とした。
「……あいつは、もう長くねえ」
「え……?」
カケルの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
ヤマトの横顔は、冷酷なほどに無表情だった。
「鉱血症が侵食し始めてる。……お袋が死んだ時と同じだ。サクラは体が小さい分、酸化のスピードが速い」
「そんな……治す方法はないの?」
「この街じゃ、肺に吸い込む空気そのものが毒なんだよ。治癒薬がパンのように売ってる場所じゃねえんだ」
「じゃあ、高天原の医療プログラムならどうかな? あそこの技術なら、きっと──」
「探したさ!」
ヤマトの怒号が、錆びた路地に響き渡った。
「お前の護衛をやるようになってから、あいつの病を治せるデータはないか、城のアーカイブを死ぬ気で漁った。……だが、高天原には、鉱血症に罹った奴が一人もいねえ。だから研究もされず、治療法も登録されてなかった」
ヤマトは奥歯を噛み締めた。
「隠されてたんじゃねえ。最初から、探されてすらいなかったんだよ。高天原の奴らにとって、俺たち下界の人間は、病気ごと存在しないことになってる」
「でも、きっと方法があるよ! そうだ、僕の家に代々伝わる皇族の──」
「……わかってねえな、皇太子サマ」
ヤマトがカケルの言葉を冷たく遮った。
その声は、絶望の深淵で冷え切った者特有の、乾いた響きを帯びていた。
「あいつの四肢は、もう『硬化』が始まってる。鉄に変わった部分は、もう肉じゃねえ。無理やり戻そうとすれば、あいつは内側から砕けちまうんだ。……ガラス細工みたいにな」
ヤマトは、逃げ場のない真実を突きつけるように、昏い瞳でカケルを見据えた。
二人の間に、腐食した鉄の匂いを孕んだ風が吹き抜けていく。
湿り気を帯びたその風は、まるでこの街の絶望が吐き出した、終わりのない溜息のようだった。
「……この国じゃ、命を救う薬より、命を奪う銃火器の方が安く手に入る。空の上で生きてきたお前には、想像もつかねえだろうがな」
吐き捨てるように言い放ち、ヤマトは深い拒絶の沈黙に沈んだ。
生きるために必要なものを、望む前から与えられてきたカケルにとって、それは、自分の願いも地位も通用しない、正真正銘の「壁」だった。
高天原の栄華。
その輝きの真下で、命を繋ぐ薬よりも、命を刈り取る鉄屑の方が価値を持つ世界。
自分の無力さが、冷たい鉄の枷となって全身を締め付けていく。
カケルは必死に声を絞り出そうとしたが、喉の奥が熱く焼けるようで、言葉にならない。
どうすることもできない。
救いたいと願う純粋な心が、この錆びついた現実の前では、これほどまでに無価値で、無力なのか。
「う……っ、く……」
カケルは必死に唇を噛み締め、溢れそうになる涙を堪えようとした。
誰よりも妹を愛し、その命が「鉄」へと崩れていくのを特等席で見守り続けてきたヤマト。
その彼を差し置いて、恵まれた環境にいる自分が泣くことなど、許されるはずがない。
「なんで……なんで、こんな……!」
しかし、いくらそう自分に言い聞かせても、胸の奥からせり上がる慟哭は、もはや制御できるものではなかった。
「あんなに優しくて……あんなに綺麗に笑う子が……なんで、こんな目に遭わなきゃいけないんだ! 間違ってる……こんな世界、絶対に間違ってる!」
高天原の華やかで優美な生活。
その足元には、太陽を知らず、管理する世界からは名すら与えられず、ただ「鉄」へと変わっていく体を引きずりながら、それでも健気に生きようとする命がある。
カケルが今まで当たり前に享受してきた平和は、彼女たちの絶望の上に塗り固められた、薄氷の上の虚構に過ぎなかった。
「……それが下界だ。お前が琥珀から習った『輝かしい建国史』の裏表紙にも載ってねえ、唯一の現実だ」
ヤマトの声は、どこまでも平坦だった。
けれど、その握りしめた鉄の腕の指先が、カケルの嗚咽に合わせて、壊れそうなほどに震えているのを、カケルはまだ知らない。
カケルに真実を突きつけることが、無垢で純粋な彼の心を抉る残酷な仕打ちであることは、痛いほど分かっていた。
それが「正解」だとは、到底思えない。
──けれど、目の前で涙を流す彼を見ていると、独りで抱え続けてきた絶望や孤独を、ほんの少しだけ分かち合いたいと願う、身勝手な自分がいた。
「泣いて済むなら、俺が一生分泣いてやるよ。……だがな、皇太子サマ。涙じゃ、この錆びた世界は一ミリも動きゃしねえんだ」
吐き捨てた言葉が、自分の想像以上に鋭い刃となって、カケルの小さな肩を切り裂いていくのをヤマトは見た。
ぐしゃぐしゃに顔を歪め、サクラのために、そして自分の無力さのために慟哭するカケル。
その涙は、高天原の連中が流すような安い同情ではない。
ヤマトがずっと一人で、この泥の中で抱え続けてきた絶望を、カケルは「自分の痛み」としてそのまま引き受けようとしていた。
絶望に打ちひしがれるカケルを前に、彼を傷つけた自分自身への苛立ちが、ヤマトの喉元までせり上がってきた。
ヤマトは、迷うように浮かせた左手を、カケルの肩へと伸ばした。
そして、少年を自分の胸へと、そっと引き寄せた。
ヤマトに抱き寄せられたカケルは、彼の胸元に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。
ヤマトの体からは、古いオイルと鉄の匂い。
そして、微かなサクラの残り香がした。
「顔を上げろ。……いつまでもここにいたら、お前のその綺麗な目まで、この街の毒にやられちまうぞ。……戻るぞ、カケル。琥珀が嗅ぎつける前に」
ヤマトの声は低く、どこか祈るような響きを帯びていた。
引き寄せた腕には、カケルをこの地獄から遠ざけておきたい、それでもこの「絆」を離したくないという、ヤマト自身の「飢え」が宿っていた。
カケルの喉の奥には、鉄錆の苦みと、消えゆく花の甘みが、重く沈殿していく。
逃げ帰るためではない。
この少女を蝕む現実を、いつか自分の手で変えるために。
ヤマトの胸でその熱を感じながら、カケルは人生で初めて、自らの意志で琥珀の待つ白磁の城へ戻ることを決意した。




