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【第一幕】無垢なる太陽の欠け落ち / FALLEN SUN   作者: 星乃ふみ


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第32話:鉄の街に降る、記憶の雪 / SNOW OF MEMORIES

 男たちのギラついた視線を背に、ヤマトは迷いのない足取りで路地のさらに奥へと突き進む。


 進めば進むほど道は細く、空気は澱《よど》み、周囲の有様は凄惨さを増していった。


 もはや道とは呼べない。

 積み上げられた瓦礫(がれき)の隙間を縫い、錆びた配管から噴き出す異臭(いしゅう)のする蒸気を潜り抜ける、綱渡りのような歩行だ。

 その果て、巨大な排気ダクトの陰に隠れるようにして立つ構造物の前で、ヤマトが静かに足を止めた。


「……そこだ」


 ヤマトが指を差した先には、家と呼ぶにはあまりに危うい、崩れかけのコンクリートの塊があった。


 傾いた鉄骨が辛(かろ)うじて屋根を支え、窓には割れたガラスの代わりに、油汚れの染み付いた布が打ち付けられている。


 高天原(たかまがはら)の白磁(はくじ)の宮殿が、何かの悪い冗談かと思えるほどに、そこは「死」に近い場所だった。


 ヤマトは周囲を一度、剃刀(かみそり)のような鋭さで警戒すると、ペンキの剥(は)げ落ちた古い鉄のドアを、壊れ物を扱うようにそっと押し開けた。


「……サクラ」


 低く、けれど高天原《たかまがはら》で過ごす間、カケルが一度も聞いたことのないような、深い慈愛《じあい》に満ちた声が狭い部屋に響く。


「サクラ……?」


 カケルはその名を心の中で反芻(はんすう)した。


 名を持たず、ただ「ゼロハチ」という識別番号だけで呼ばれてきたヤマトが、その少女には、かつて地上に咲いていたという伝説の花の名を与えていた。

 それは、この泥沼のような絶望の中で、ヤマトが守り抜こうとした、ささやかな美しさの名だった。


 部屋の奥、幾層にも重ねられた継(つ)ぎ接(は)ぎの毛布の中に、一人の少女が横たわっていた。ヤマトの声に反応し、細い体が微かに震える。


「……お兄ちゃ……ん?」


 ゆっくりと顔を上げた少女は、ヤマトと同じ、夕暮れの陽光を溶かしたような赤い髪をしていた。

 けれど、その頬はこけ、肌は透き通るほどに白く、その瞳はどこか遠い場所を見つめているように虚ろだった。


「ああ、俺だ。戻ったぞ」


 ヤマトはカケルの存在も忘れたかのように、吸い寄せられるようにベッドの脇へ膝をついた。

 鉄の右腕(ジャンク・ドライブ)、過負荷(オーバー・ロード)で熱を帯びた接合部(ジョイント)を隠すように後ろへ引き、唯一の生身である左手でそっと少女の細い手を包み込む。


 カケルは入り口に立ち尽くしたまま、その光景を動かずに見つめていた。


 高天原(たかまがはら)の輝かしい宮殿、琥珀(こはく)の教える完璧な理論。

 黒鉄(くろがね)の振るう強大な武力。

 そのどれもが、この小さな、今にも消え入りそうな命の前ではあまりに無力に思えた。


 ヤマトが命をかけて守ろうとしていたもの。

 彼が「孤独ではない」と言い切った理由が、この薄暗い部屋の中に、確かな質量を持って存在していた。


「お兄ちゃん、お仕事、大変だったんだね……。ずっと帰ってこないから、すごく心配してたよ……」

「ああ、悪かったな。……具合はどうだ?」


 ヤマトは膝をついたまま、少女の顔を覗き込んだ。


 その瞳からは、先ほどまで路地裏で放っていた野獣のような鋭さは消え、ただ一人の兄としての、痛いほどの優しさだけが溢れていた。


「うん……。今日は少し、調子がいいの」


 サクラは弱々しく、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 その細く、血管が浮き出た指先が、ヤマトの汚れた服の袖をそっと握る。


「寂しくなかったか?」

「……平気。隣のおばさんが、時々見に来てくれたから」

「そっか……後で、礼を言わなきゃな」


 二人の間に流れる時間は、外の荒(すさ)んだ空気とは切り離された、穏やかで静かなものだった。


 カケルは扉の側で、その光景を邪魔しないよう息を潜めていた。

 だが、ふとサクラが鼻先をぴくつかせ、不思議そうに首を傾げた。


「……お兄ちゃん」

「なんだ?」

「お部屋が……なんだか、いい匂いがする」


 ヤマトはぎくりとして肩を揺らした。


 自分たちの体は、長い道中ではねた泥とオイル、そして「境界線(エッジ)」の煤(すす)にまみれている。

 下界《ハイヴ》の鼻を突くような悪臭をまとっているはずだった。


 けれど、少女が感じ取ったのは、その汚濁(おだく)の奥に潜む香りだった。


 高天原(たかまがはら)の宮殿を満たす、白檀の、清潔で透き通った気高い香り。

 どんなに煤を被っても、カケルの肌の奥に染み付いた「楽園の残り香」までは消せていなかったのだ。


「いい匂い……。あったかくて、優しい匂い……」


 サクラの虚ろな視線が、ヤマトの背後へと向けられる。


「お兄ちゃん……。そこに、誰かいるの?」


 暗がりに立ち尽くしていたカケルは、戸惑いながらも、吸い寄せられるように一歩前へ踏み出した。


 ヤマトは気まずそうに顔をしかめ、カケルの方を振り返った。


「……ああ。……こいつは、その」

「……はじめまして。僕は、カケル」


 カケルがさらに歩み寄ると、サクラの顔がぱあっと輝いた。

 それは、この暗いスラムには決して存在しないはずの「希望(きぼう)」を、カケルが纏う香りの中に直感したようだった。


「カケル……お兄ちゃん? 綺麗なお名前……。お兄ちゃん、この人、とっても温かい匂いがするよ」


 その純粋な言葉が、ヤマトとカケルの胸を同時に突き刺した。


 一人は、自分が憎んだはずの世界の香りが、妹にとっての救いになっているという皮肉に。

 もう一人は、自分の「当たり前」が、この少女にとっては奇跡のような「温かな香り」であるという残酷な格差に。


「はじめまして、カケルお兄ちゃん」


 少女が、壊れた硝子細工(ガラスざいく)のように繊細な、けれど春の陽だまりのような柔らかい笑みを浮かべた。


「サクラって名前はね、お兄ちゃんがつけてくれたの。……お花の名前なんだって。私、この名前が大好き。一度も本物を見たことはないけれど、どんなお花なのかな。お兄ちゃんはね、世界で一番綺麗で、みんなを幸せにするお花だって教えてくれたの」


 その言葉に、カケルは息をすることさえ忘れた。


 高天原《たかまがはら》の庭園には、白磁と真鍮で精巧に再現され、季節にも風にも左右されず咲き続ける、非の打ち所がない花々が溢れている。

 けれど、目の前の少女は、その一輪さえも見たことがない。

 この厚い鉛色(なまりいろ)の雲に覆われたスラムには、太陽の光も、花を育む土さえも存在しないのだ。


 ヤマトは、妹が自分の嘘 ── 絶望的な世界で唯一教えた「美しい嘘」を、宝物のように信じている姿を、耐えがたいような苦悶の表情で見つめていた。


「……ああ、そうだ。体が良くなったら、お前にも本物を見せてやるからな」


 ヤマトの声は、静かに、低く響いた。


 カケルは胸の奥が熱くなるのを感じ、震える声で語りかけた。


「……サクラちゃん。桜はね、薄い桃色をしていて、風に舞うと雪みたいに降ってくるんだ。とっても優しくて……今のサクラちゃんの笑顔みたいに、周りを幸せにしてくれる、そんなお花だよ」


 カケルは、城の図書室にある古い本の中で得た知識を、一生懸命に言葉にして紡いだ。


「雪みたいに? 雪って、どんな感じなのかな」


 サクラが不思議そうに首を傾げる。


「えっと、雪はね、白くて、ふわふわしてて……空からゆっくり降ってくるんだ。とっても冷たいけど、触るとすぐに消えちゃうくらい、儚くて綺麗なものなんだよ」


 本物の雪を見たことがないのはカケルも同じだった。

 けれど今の彼には、それがどんなに尊いものか、サクラの表情を見ているだけで、肌で感じるように理解できた。


「すごいね……。見てみたいなあ。白くてふわふわな、お花みたいな雪……」


 サクラは夢見るように声を弾ませる。

 その純粋な好奇心は、この過酷な環境に置かれているとは思えないほど輝いていた。


 カケルも思わず笑顔になり、身を乗り出す。

 しかし、サクラが次に発した言葉に、カケルの動きは凍りついた。


「ねえ、カケルお兄ちゃんは、どんなお顔をしているの?」


 サクラは、カケルがいるはずの方向を見つめて、穏やかに尋ねた。


 一瞬、カケルは何を言われたのかわからなかった。

 自分の顔は、今まさに彼女の目の前にある。

 汚れにまみれてはいるが、確かにそこにあるのだ。

 しかし、至近距離で自分を見つめているはずのサクラの瞳を見て、カケルは息を呑んだ。


 その大きな瞳は、確かにカケルの方向を向いている。

 けれど、どこにも焦点が合っていない。

 美しく透き通った瞳の奥には、光を反射する「色彩」が決定的に欠落していた。


「サクラちゃん、君……」

「……ああ、そうだ」


 ヤマトが押し殺した、濁った声で横から口を挟んだ。


「サクラは、ずっと前から目が見えねえ。……下界(ハイヴ)の有毒な排気にやられて、光を失っちまったんだ。天上界(うえ)の奴らが吐き出す、あの煤けた毒ガスのせいでな」


 ヤマトの鉄の拳が、みしりと音を立てて握りしめる。


 カケルは、目の前の少女がなぜ「香り」で自分を感じ取っていたのか、その残酷な理由を理解した。

 高天原(たかまがはら)の輝きも、ヤマトが必死に守ったこの隠れ家さえも、彼女にとってはただ深い闇の中で響く「音」と「匂い」でしかなかったのだ。


「ごめんね、カケルお兄ちゃん。私、お顔が見えないから……。でもね、声がとっても優しいから、きっと話してくれた、桜のお花みたいに、綺麗な人なんだろうなって思ってるよ」


 サクラの無邪気な、混じりけのない信頼。

 それが、高天原(たかまがはら)の恩恵を一身に受けて育ったカケルの胸を、鋭い刃物のように切り裂いた。


 自分が当たり前のように享受してきた「光」の代償として、この少女の視界が奪われていた。

 その事実に、カケルは言葉を失い、ただ彼女の冷たい手を握り返すことしかできなかった。


 窓の外、厚い鉛色(なまりいろ)の雲からは、本物の雪の代わりに、鉄錆混じりの冷たい雨が、記憶の中の桜の花を塗りつぶすように降り続いていた。


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