第31話:ゼロハチという名の鎖 / SERIAL NUMBER: 08
垂直降下の果て、ようやく辿り着いたそこは、ヤマトが生まれ育った場所──下界でも最も危険とされる、掃き溜めのスラムエリアだった。
足を下ろした地面は、高天原の滑らかな大理石とは程遠い。
ぬかるんだ泥と黒ずんだ油、そして正体不明の金属片が混じり合い、一歩踏み出すごとに重たく粘りつく感触が、強い不快感を伴って、カケルの足裏に伝わってくる。
それは、大地そのものが異物を拒絶しているかのような、生々しい感触だった。
「ここが……ヤマトの、国……」
カケルは言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
そこには「色」という概念が存在しなかった。
ひび割れたコンクリートが互いを支え合うように不格好に積み重なり、無数の配線が血管のように空を覆い尽くしている。
街灯の代わりに闇を穿つのは、はぜる剥き出しの電線や、ドラム缶の中で燃やされるゴミの、毒々しい赤い火だけだ。
何よりカケルを圧倒したのは、その「匂い」だった。
湿った錆、焦げたゴム、そして人々の生活が放つ、むせ返るような生臭い熱気。
カケルが肺に吸い込んだ空気は、喉の粘膜をチリつかせるような鋭い酸味を帯びていた。
城の空調循環系によって徹底的に洗浄された、無味無臭の空気とは、匂いも重さも根本から異なっている。
ここにあるのは、重機が吐き出す鉛混じりの排気、腐敗した生ゴミ、そして、この世界に生きる人々の肌から立ち上る、発酵したような濃密な生存の残滓だ。
一息吸うごとに、自分の清廉な肺胞が薄汚れ、未知の病に侵食されていくような錯覚に陥る。
見上げても、そこにはもう黄金の雲海も、輝く白亜の城も見えない。
ただ、排気ガスが淀んだ重苦しい鉛色の空が、自分たちを外界から隔絶していた。
「おい、離れるなよ」
ヤマトがカケルの腕を強く引き、自分の背後に隠すようにした。
彼の金色の瞳は、闇に紛れてこちらを窺う無数の視線を、剃刀のような鋭さで射抜いている。
「お前みたいな世間知らずが一人でフラフラしてりゃ、一分で見ぐるみ剥がされて、次の日にはジャンク屋の棚に『中古パーツ』として並ぶことになるぞ。この街じゃな、磨かれた肌も上質な布も、ただの換金アイテムでしかねえんだ」
路地裏の影からは、飢えた獣のような目をした男たちが、カケルの着ている上質な──煤で汚れてはいるが、明らかに高級な──服を、じりじりと値踏みするように見つめていた。
カケルは、自分の存在そのものがこの街の調和を乱していることを肌で感じ、「ごめん。しっかりついていくよ」と、ヤマトの背中にそっと手を添えた。
「行くぞ。……あいつが、待ってる」
目的地まで、あと数路地。
不意に、背後の闇から粘りつくような、嫌に聞き覚えのある不快な声が響いた。
「おい……! 『ゼロハチ』じゃねえか!」
その忌まわしい識別番号が空気を震わせた瞬間、ヤマトの全身から「人間」としての体温が急速に剥ぎ取られていった。
驚きも、怒りも、悲しみも。
あらゆる感情が深い澱の底へと沈み込み、代わりに瞳の奥で、一切の慈悲を削ぎ落とした冷徹な殺意が、鋭利な刃物となって研ぎ澄まされていく。
路地の陰から、安酒と劣化した重油の臭いを漂わせた二人の男が這い出してきた。
「しばらく見ねえと思ったら、戻ったか。どこで野垂れ死んだかと思ってたぜ、ゼロハチ。……おいおい、ずいぶん似つかわしくない坊ちゃんを連れてるじゃねえか」
男たちの濁った視線がカケルを捉えた。
欲望と卑屈さが混ざり合ったその目は、カケルが今まで向けられたことのない、汚濁に満ちたものだった。
「触るな」
カケルを庇うヤマトの声は、地獄の底から響くほどに低く、冷たかった。
ジャンク・ドライブが、主の怒りに呼応するようにガチリ、と重厚な唸りを上げる。
「いいじゃねえか。そんな高そうな獲物、ドブ底を這い回る野良犬のてめえの手には余るだろ。その腕で握りつぶしちまう前に、俺たちに預けな。その上等な肌、剥いて売る前にたっぷり『味見』させてくれる場所はいくらでもあるんだぜ。山分けだ、なあ?」
男たちの言葉は、汚泥よりも醜くカケルの耳を汚した。
自分への侮辱以上に、カケルを激昂させたのは、彼らがヤマトを蔑み、その尊厳を泥靴で踏みにじるような言いぐさだった。
カケルにとってヤマトは、誰よりも誇り高く、自分に真実の温度を教えてくれた唯一の存在なのだ。
「……取り消して。ヤマトは、そんな──」
カケルが震える拳を握りしめ、言い返そうとしたその時、男の一人が下卑た笑いを上げた。
「ヤマトォ? なんだそりゃ。もしや、こいつの名前か? こりゃ傑作だ! こんな野良犬に名前なんざあるか。こいつは俺たちと同じ、ドブ底を這い回るゼロハチだろ!」
「ヤマトを侮辱するな!」
カケルの叫びが、湿った路地裏に鋭く響き渡った。
瑠璃色の瞳に、自分のためではない、純粋な「怒り」の炎が初めて灯る。
だが、ヤマトの生身の左手が、カケルの胸元を強引に制した。
「お前は下がってろ」
ヤマトの声には、感情の一片も混じっていなかった。
振り返りもしない。
ただ、巨大な壁のようにカケルの視界を遮り、男たちの汚濁を引き受ける。
「こいつらの言葉を、まともに耳に入れる価値はねえ。お前がその口で、ここの連中と同じ言語を喋るんじゃねえよ」
「偉そうに抜かすじゃねえか。つべこべ言わずに、俺達にそのガキを渡しな!」
男が下劣な欲望を剥き出しにして叫び、カケルの襟元に、垢にまみれた指を伸ばそうとした、その刹那──。
言葉よりも先に、ヤマトの鉄拳が空を裂いた。
──ドゴオォォォッ!!
鈍い衝撃音が反響し、男の体が紙屑のように吹き飛ぶ。
そのまま瓦礫の山に激突し、男は呻き声一つ上げずに沈黙した。
「ひ、ひぃっ……! ゼロハチ、てめえ、何しやがる……っ!」
生き残った男が、顔面を蒼白にして叫ぶ。
だが、ヤマトは返答の代わりに、獲物を捉える獣の速度で距離を詰めた。
ヤマトの鉄の五指が、逃げようとした男の後頭部を掴み、壁へと乱暴に叩きつける。
「……いいか。これ以上こいつに近付いたら、今度はその首、根元からへし折ってやるぞ」
ヤマトの瞳には、高天原で見せていたような手加減は微塵もない。
本物の殺意を突きつけられた男は、喉の奥から短い悲鳴を上げると、ヤマトが手を離した瞬間に転がるように闇へと逃げ去っていった。
静まり返った路地裏。
ヤマトは呼吸を整え、ようやく、背中のカケルを振り返った。
「……怖かったか」
ヤマトの拳からは、過負荷で焼けたオイルの匂いが漂っていた。
神経釘を通じて脳を釘打つような痛みが右腕から伝わっているはずなのに、彼は自分の痛みよりもカケルの震えを気にしていた。
カケルは震える手でヤマトの袖を強く掴み、真っ白な顔を上げながらも、静かに首を振った。
「……ううん。守ってくれて、ありがとう、ヤマト」
ヤマトは気まずそうに目を逸らすと、「行くぞ」とだけ言って再び歩き出した。
カケルは、自分の胸の鼓動を感じながら確信していた。
この暗闇の世界で生きるということは、これほどまでに残酷で、そして目の前を歩く少年を、これほどまでに鋭く、悲しい刃に変えてしまったのだということを。
高天原で琥珀が教えてくれた歴史の中に、この「痛み」を伴う現実は一行も記されていなかった。
自分たちが「平和」と呼んでいたものの裏側で、ヤマトは識別番号を押し付けられ、泥の中で牙を研ぎ続けてきたのだ。
二人はさらに深く、街の臓物のような路地の奥へと消えていく。
その先で待つ「妹」との対面が、この残酷な世界の更なる真実を、カケルに突きつけようとしていた。




