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【第一幕】無垢なる太陽の欠け落ち / FALLEN SUN   作者: 星乃ふみ


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30/50

第30話:奈落の体温、地獄への着地 / LANDING IN HELL

 咆哮(ほうこう)のような突風が、垂直に絡み合う鉄の臓腑(ぞうふ)を噛み砕くように吹き抜けた。


 高天原(たかまがはら)の「檻(おり)」の中では決して吹くことのない、湿(しめ)り気を帯びた暴力的な風。それは、人工太陽(じんこうたいよう)が照らす暖かさのない無機質な光とは対照的に、重油の匂いと鉄の錆びた粉を孕(はら)んだ、生々しい下界(ハイヴ)の吐息だった。

 塵一つ舞わない潔癖な空間で育ったカケルの細い体は、ちぎれた木の葉のように翻弄される。


「……っ、うわぁっ!?」


 冷たい金属の手すりから、指が滑(すべ)る。

 掴んでいた配管は、高天原(たかまがはら)の冷淡な大理石とは異なり、内側を通る排熱のせいで不気味な熱を帯びていた。


 指先の感覚が熱に焼かれ、胃の腑(ふ)が浮き上がるような浮遊感とともに、重力という名の絶望がカケルの背中を掴(つか)む。

 虚無の底へと引きずり込まれようとしたその瞬間、カケルの脳裏をよぎったのは、琥珀(こはく)の完璧な微笑みと、主のいない白磁(はくじ)の講義室に漂う静寂だった。


 ──もしここで死ねば、自分はあの綺麗な檻の中で、綺麗な人形のまま死んだことになるのだろうか。


 その瞬間、圧搾空気を吐き出すような排気音と共に、鋼鉄の爪が配管を深々と抉(えぐ)り取った。


「バカ、気をつけろ! 死にてえのかッ!」


 怒号とともに、力強い腕がカケルの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。


 軋みを上げる駆動音。

 過負荷(オーバー・ロード)の振動が、繋いだ腕を通してカケルの芯まで伝わってくる。

 高天原の静寂には存在しない、痛々しいほどの「生の脈動」が、カケルを世界へと繋ぎ止める。


「あ、ありがとう、ヤマト……」


 カケルは喉の奥までせり上がった心臓を必死に抑え、震える手でヤマトの腕にしがみついた。


 一方のヤマトは、腕の中で震えるカケルの「軽さ」と、掴んだ腕の細さに息を詰めた。


(こんなにも脆《もろ》い存在を、自分は下界へと引き連れようとしているのか)


 皇太子という『記号』を剥げば、残るのは壊れかけの少年一人だ。

 そんな中、ヤマトの脳裏に、呪いのようにシステムが突きつけたメッセージが明滅する。


【医療研究指定:対象外】

【治療法:未登録】


 救えない妹の体温と、今掴んでいるカケルの体温が、ヤマトの中で残酷に混ざり合った。


 ヤマトは、この「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を、かつては血反吐を吐きながら登ってきた。

 高天原(たかまがはら)を憎み、その傲慢な輝きを破壊し、奪われたすべてを取り戻すために。

 妹を蝕(むしば)む「鉱血症《こうけつしょう》」を止める術を掴むために。


 だというのに、今、自分は何をしているのか。

 自ら命懸けで這い上がった地獄へ、再び戻ろうとしている。

 それも、あろうことか憎しみの象徴であるはずの皇太子(こうたいし)を、その腕に抱きかかえながら。


 ヤマトは自嘲する。

 これまで、カケルを手にかける機会などいくらでもあった。

 だが、どうしてもその一線を越えることができなかった。


 復讐という渇きの中に、カケルという異物が混じり込む。

 その不甲斐なさを自覚しながらも、ヤマトは握った細い腕を離せなかった。

 この無知な皇太子に、見せてやりたかったのかもしれない。

 自分たちが生きる、この泥まみれの世界を。


「安心しろ。ここから先は城の排熱を逃がすための蒸気孔(じょうきこう)が密集してる。ねじれたダクトの陰を縫って降りるぞ。熱気で気流が荒れるが、まともに浴びなきゃ火傷はしねえ。……死んでも、その手は離すんじゃねえぞ」


 ヤマトはそう言い捨て、再び慣れた足取りで垂直のジャングルを降り始めた。


 時折、古びた排気口から爆音とともに、真っ黒な煤と重油の飛沫が噴き出す。

 カケルはその度に悲鳴を飲み込み、視界を覆う黒い霧の中、前を行く背中だけを追いかけた。


 やがて、わずかに気流が落ち着いた踊り場で、二人は足を止めた。


 カケルは生唾を飲み込み、目の前のヤマトを見つめる。

 配管から漏れ出した煤(すす)と、焼けたオイルで、ヤマトの顔や首筋は真っ黒に汚れていた。

 トレードマークの赤い髪さえも、今は湿った重油を吸って黒ずんでいる。


 いつもの獰猛(どうもう)な美しさは影を潜め、どこかちぐはぐで、泥臭いその姿に、カケルの頬が不意に緩んだ。


「……ふふっ、あははは!」

「あ? なんだよ、急に笑いやがって。頭まで風に煽(あお)られたか」


 ヤマトが不機嫌そうに眉を寄せると、カケルはこみ上げる笑いを堪(こら)えきれず、小さな肩を震わせた。


「だって、ヤマト。顔が……顔が、真っ黒だよ。まるでお化けみたいだ。あんなに威張ってたのに、今はただの煤だらけの男の子じゃないか」

「……へっ。これが俺(おれ)の本来の色だ。高天原(たかまがはら)の真っ白でスカした連中とは違うんだよ。綺麗に磨かれた人形じゃ、この坂は降りられねえんだ」


 ヤマトは忌々(いまいま)しそうに鼻を鳴らすと、煤だらけの右腕を伸ばした。


 煤まみれの指が、カケルの白い頬を乱暴に汚す。

 それは拒絶というより、呪いを分かち合うような手つきだった。


「……お前、自分の顔が今どんな状態か分かってんのか?」

「え……?」

「俺より酷いぜ。琥珀の野郎が見たら、卒倒するような汚れっぷりだ。皇太子サマの綺麗な顔が台無しだな。……ほら、これで完全な『不浄個体』の仲間入りだ」


 カケルは自分の頬を触り、ヤマトと同じ色に染まった手のひらを見つめた。


 琥珀に「不浄(ふじょう)」と忌み嫌われ、決して触れてはならないと教えられた煤。

 触れれば穢れると教えられてきた汚泥。


 しかし、掌に残るそれは、高天原の白磁よりも、宝石よりも美しく、何より温かいものに感じられた。


「なんだか……やっと、ヤマトと同じ目線になれた気がするよ」

「……は?」

「汚れも、痛みも……全部、君と同じ。それが、俺にはどんな宝石よりも嬉しく感じるんだ。高天原の光はあんなに眩しいのに、ちっとも温かくなかった。……汚れって、こんなに温かいんだね、ヤマト。」


 カケルは煤だらけの顔で、かつてないほど無邪気に微笑んだ。

 その瞳には、管理された楽園では決して灯ることのなかった、力強い生命の輝きが宿っていた。


 あまりの眩(まぶ)しさに射抜かれたように、ヤマトはわずかに瞳を揺らす。

 自分の心に、確かに「絆」という名の危うい火が灯るのを感じながらも、彼は照れ隠しのように鼻先で笑い、顔を背ける。


「……おい、そのキラキラした目で俺を見るんじゃねえ。……気持ち悪(わり)ぃだろ。そんな熱い視線を送る暇があったら、足元見てろ。ここを踏み外せば、温かい汚れどころか、冷たい地面と仲良くなることになるぜ」


 ヤマトが忌々(いまいま)しそうに顔を背け、ぶっきらぼうに突き放した。

 だが、カケルはその言葉に怯むどころか、煤だらけの顔をさらに綻ばせ、こみ上げる喜びを隠そうともしなかった。


「……はは! ごめん。でも、止められないよ。だって、こうしてヤマトに『気持ち悪い』なんて言ってもらえるの、初めてだから。今の俺たち、同じ色で、同じくらい汚れてて……。なんだか、本当の友達になれた気がして、すごく嬉しいんだ」


 ヤマトは一瞬、言葉を失ったように口を 噤(つぐ)んだ。


 あまりにも真っ直ぐな、一点の曇りもない「友達」という言葉。

 それは、復讐者として生きるヤマトが、最も自分に禁じてきた響きだった。


「……けっ。お前みたいな弱っちい奴、俺は友達なんて思ってねーからな。さっさと降りるぞ、ドジ皇子!」


 吐き捨てるように言い放ち、ヤマトは強引に前を向いた。

 その横顔は煤で汚れていてよく見えないが、耳の先まで赤くなっているのを、カケルは見逃さなかった。


「あ、待ってよ、ヤマト!」


 暗闇の絶壁で、二人の少年は煤とオイルにまみれながらも、確かに同じ景色を、同じ体温を共有していた。


 カケルの無防備な信頼を背中に受けながら、ヤマトは先を急ぎつつも、自嘲を噛み締める。


 ――こんな温もりに縋りたくなっている自分もまた、とうに毒に侵されている証拠か。


 復讐のために利用するはずだったこの少年の純粋さは、いつしか凍りついた復讐の炎を狂わせる、甘く危険な猛毒になりつつあった。


 妹を救えないという絶望の淵で、この温もりさえ失えば、自分は本当の怪物になってしまうかもしれない。その恐怖と焦燥が、ヤマトの胸の奥をチリつかせる。


 だが、それでも足は止まらなかった。


 二人の眼下には、ついに「下界(ハイヴ)」の街明かりが、腐敗した海に浮かぶ怪火のように揺らめき始めていた。


 巨大な排気ダクトが地鳴りのような重低音を響かせ、重油混じりの雨が鉄の床を叩く。

 カケルはその圧倒的な情報の奔流に立ちすくんだ。


「……着くぜ。ここが、俺たちの地獄だ」


 ヤマトの言葉とともに、二人の足はついに、重油の雨に濡れた鉄の床へと着地した。

 背後でそびえ立つ白亜の宮殿は、もはや雲の彼方の幻影でしかない。


 復讐と絆。

 嘘と真実。

 それらすべてを飲み込む「本物の夜」が、二人を包み込んだ。


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