第30話:奈落の体温、地獄への着地 / LANDING IN HELL
咆哮のような突風が、垂直に絡み合う鉄の臓腑を噛み砕くように吹き抜けた。
高天原の「檻」の中では決して吹くことのない、湿り気を帯びた暴力的な風。それは、人工太陽が照らす暖かさのない無機質な光とは対照的に、重油の匂いと鉄の錆びた粉を孕んだ、生々しい下界の吐息だった。
塵一つ舞わない潔癖な空間で育ったカケルの細い体は、ちぎれた木の葉のように翻弄される。
「……っ、うわぁっ!?」
冷たい金属の手すりから、指が滑る。
掴んでいた配管は、高天原の冷淡な大理石とは異なり、内側を通る排熱のせいで不気味な熱を帯びていた。
指先の感覚が熱に焼かれ、胃の腑が浮き上がるような浮遊感とともに、重力という名の絶望がカケルの背中を掴む。
虚無の底へと引きずり込まれようとしたその瞬間、カケルの脳裏をよぎったのは、琥珀の完璧な微笑みと、主のいない白磁の講義室に漂う静寂だった。
──もしここで死ねば、自分はあの綺麗な檻の中で、綺麗な人形のまま死んだことになるのだろうか。
その瞬間、圧搾空気を吐き出すような排気音と共に、鋼鉄の爪が配管を深々と抉り取った。
「バカ、気をつけろ! 死にてえのかッ!」
怒号とともに、力強い腕がカケルの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。
軋みを上げる駆動音。
過負荷の振動が、繋いだ腕を通してカケルの芯まで伝わってくる。
高天原の静寂には存在しない、痛々しいほどの「生の脈動」が、カケルを世界へと繋ぎ止める。
「あ、ありがとう、ヤマト……」
カケルは喉の奥までせり上がった心臓を必死に抑え、震える手でヤマトの腕にしがみついた。
一方のヤマトは、腕の中で震えるカケルの「軽さ」と、掴んだ腕の細さに息を詰めた。
(こんなにも脆い存在を、自分は下界へと引き連れようとしているのか)
皇太子という『記号』を剥げば、残るのは壊れかけの少年一人だ。
そんな中、ヤマトの脳裏に、呪いのようにシステムが突きつけたメッセージが明滅する。
【医療研究指定:対象外】
【治療法:未登録】
救えない妹の体温と、今掴んでいるカケルの体温が、ヤマトの中で残酷に混ざり合った。
ヤマトは、この「黄泉比良坂」を、かつては血反吐を吐きながら登ってきた。
高天原を憎み、その傲慢な輝きを破壊し、奪われたすべてを取り戻すために。
妹を蝕む「鉱血症」を止める術を掴むために。
だというのに、今、自分は何をしているのか。
自ら命懸けで這い上がった地獄へ、再び戻ろうとしている。
それも、あろうことか憎しみの象徴であるはずの皇太子を、その腕に抱きかかえながら。
ヤマトは自嘲する。
これまで、カケルを手にかける機会などいくらでもあった。
だが、どうしてもその一線を越えることができなかった。
復讐という渇きの中に、カケルという異物が混じり込む。
その不甲斐なさを自覚しながらも、ヤマトは握った細い腕を離せなかった。
この無知な皇太子に、見せてやりたかったのかもしれない。
自分たちが生きる、この泥まみれの世界を。
「安心しろ。ここから先は城の排熱を逃がすための蒸気孔が密集してる。ねじれたダクトの陰を縫って降りるぞ。熱気で気流が荒れるが、まともに浴びなきゃ火傷はしねえ。……死んでも、その手は離すんじゃねえぞ」
ヤマトはそう言い捨て、再び慣れた足取りで垂直のジャングルを降り始めた。
時折、古びた排気口から爆音とともに、真っ黒な煤と重油の飛沫が噴き出す。
カケルはその度に悲鳴を飲み込み、視界を覆う黒い霧の中、前を行く背中だけを追いかけた。
やがて、わずかに気流が落ち着いた踊り場で、二人は足を止めた。
カケルは生唾を飲み込み、目の前のヤマトを見つめる。
配管から漏れ出した煤と、焼けたオイルで、ヤマトの顔や首筋は真っ黒に汚れていた。
トレードマークの赤い髪さえも、今は湿った重油を吸って黒ずんでいる。
いつもの獰猛な美しさは影を潜め、どこかちぐはぐで、泥臭いその姿に、カケルの頬が不意に緩んだ。
「……ふふっ、あははは!」
「あ? なんだよ、急に笑いやがって。頭まで風に煽られたか」
ヤマトが不機嫌そうに眉を寄せると、カケルはこみ上げる笑いを堪えきれず、小さな肩を震わせた。
「だって、ヤマト。顔が……顔が、真っ黒だよ。まるでお化けみたいだ。あんなに威張ってたのに、今はただの煤だらけの男の子じゃないか」
「……へっ。これが俺の本来の色だ。高天原の真っ白でスカした連中とは違うんだよ。綺麗に磨かれた人形じゃ、この坂は降りられねえんだ」
ヤマトは忌々しそうに鼻を鳴らすと、煤だらけの右腕を伸ばした。
煤まみれの指が、カケルの白い頬を乱暴に汚す。
それは拒絶というより、呪いを分かち合うような手つきだった。
「……お前、自分の顔が今どんな状態か分かってんのか?」
「え……?」
「俺より酷いぜ。琥珀の野郎が見たら、卒倒するような汚れっぷりだ。皇太子サマの綺麗な顔が台無しだな。……ほら、これで完全な『不浄個体』の仲間入りだ」
カケルは自分の頬を触り、ヤマトと同じ色に染まった手のひらを見つめた。
琥珀に「不浄」と忌み嫌われ、決して触れてはならないと教えられた煤。
触れれば穢れると教えられてきた汚泥。
しかし、掌に残るそれは、高天原の白磁よりも、宝石よりも美しく、何より温かいものに感じられた。
「なんだか……やっと、ヤマトと同じ目線になれた気がするよ」
「……は?」
「汚れも、痛みも……全部、君と同じ。それが、俺にはどんな宝石よりも嬉しく感じるんだ。高天原の光はあんなに眩しいのに、ちっとも温かくなかった。……汚れって、こんなに温かいんだね、ヤマト。」
カケルは煤だらけの顔で、かつてないほど無邪気に微笑んだ。
その瞳には、管理された楽園では決して灯ることのなかった、力強い生命の輝きが宿っていた。
あまりの眩しさに射抜かれたように、ヤマトはわずかに瞳を揺らす。
自分の心に、確かに「絆」という名の危うい火が灯るのを感じながらも、彼は照れ隠しのように鼻先で笑い、顔を背ける。
「……おい、そのキラキラした目で俺を見るんじゃねえ。……気持ち悪ぃだろ。そんな熱い視線を送る暇があったら、足元見てろ。ここを踏み外せば、温かい汚れどころか、冷たい地面と仲良くなることになるぜ」
ヤマトが忌々しそうに顔を背け、ぶっきらぼうに突き放した。
だが、カケルはその言葉に怯むどころか、煤だらけの顔をさらに綻ばせ、こみ上げる喜びを隠そうともしなかった。
「……はは! ごめん。でも、止められないよ。だって、こうしてヤマトに『気持ち悪い』なんて言ってもらえるの、初めてだから。今の俺たち、同じ色で、同じくらい汚れてて……。なんだか、本当の友達になれた気がして、すごく嬉しいんだ」
ヤマトは一瞬、言葉を失ったように口を 噤んだ。
あまりにも真っ直ぐな、一点の曇りもない「友達」という言葉。
それは、復讐者として生きるヤマトが、最も自分に禁じてきた響きだった。
「……けっ。お前みたいな弱っちい奴、俺は友達なんて思ってねーからな。さっさと降りるぞ、ドジ皇子!」
吐き捨てるように言い放ち、ヤマトは強引に前を向いた。
その横顔は煤で汚れていてよく見えないが、耳の先まで赤くなっているのを、カケルは見逃さなかった。
「あ、待ってよ、ヤマト!」
暗闇の絶壁で、二人の少年は煤とオイルにまみれながらも、確かに同じ景色を、同じ体温を共有していた。
カケルの無防備な信頼を背中に受けながら、ヤマトは先を急ぎつつも、自嘲を噛み締める。
――こんな温もりに縋りたくなっている自分もまた、とうに毒に侵されている証拠か。
復讐のために利用するはずだったこの少年の純粋さは、いつしか凍りついた復讐の炎を狂わせる、甘く危険な猛毒になりつつあった。
妹を救えないという絶望の淵で、この温もりさえ失えば、自分は本当の怪物になってしまうかもしれない。その恐怖と焦燥が、ヤマトの胸の奥をチリつかせる。
だが、それでも足は止まらなかった。
二人の眼下には、ついに「下界」の街明かりが、腐敗した海に浮かぶ怪火のように揺らめき始めていた。
巨大な排気ダクトが地鳴りのような重低音を響かせ、重油混じりの雨が鉄の床を叩く。
カケルはその圧倒的な情報の奔流に立ちすくんだ。
「……着くぜ。ここが、俺たちの地獄だ」
ヤマトの言葉とともに、二人の足はついに、重油の雨に濡れた鉄の床へと着地した。
背後でそびえ立つ白亜の宮殿は、もはや雲の彼方の幻影でしかない。
復讐と絆。
嘘と真実。
それらすべてを飲み込む「本物の夜」が、二人を包み込んだ。




