第40話:天の皇子、地の友 / HEAVEN AND EARTH
その頃──。
医療ポッドの中で「再生」の完了を待つヤマトは、夢と現実の境界線を彷徨っていた。
意識の海に浮かぶのは、高天原に来てからの断片的な記憶。
底抜けに純粋で、世間知らずなカケルの、眩いほどの笑顔。
最初はただの「弱点」だと切り捨てたその無垢さが、いつしか凍りついていたヤマトの心を、静かに、けれど確実に解いていったのだ。
だが、その温かな記憶は、直後に冷酷な断絶の記憶へと塗り潰される。
落下する直前。
絶壁の縁で、自分を呼び止めようと必死に手を伸ばしていたカケルの、今にも泣き出しそうな顔。
差し伸べられたその手を、あえて言葉の刃で切り裂いた。
『俺はお前を親友だなんて、一度も思ったことはねえ』
カケルの顔が、絶望と悲しみに歪んだ。
本当に言いたい言葉は、そんなものではなかった。
それなのに、憎むべき高天原の象徴であるカケルに心を許し始めている自分が赦せず、わざと一番残酷な言葉を選んで投げつけた。
それでも──。
あんなに酷い言葉を浴びせてもなお、カケルは自分を繋ぎ止めようと必死に手を伸ばし続けた。
その拍子に、カケルの細い身体がバランスを崩し、奈落の底へ落ちようとした、まさにその時。
ヤマトの中に目覚めたのは、自分を律していた憎しみなどではなく、友を、自分の居場所を失うことへの、狂おしいほどの恐怖だった。
(……ひどいこと、言っちまったな……)
重い瞼を押し上げると、視界には無機質な白と、淡いブルーの透過光が広がっていた。
「……っ!」
腹部に走った激痛の記憶が蘇り、ヤマトは反射的に自身の腹を撫でた。
配管が肉を裂いた、あの「死」の予感。
だが、そこには驚くべきことに、薄い傷跡一つ残っていなかった。
高天原の超高度な再生医療プロトコルが、わずか数時間のうちに、彼の肉体を「完璧な体」へと修復していたのだ。
(……生きてるのか、俺。あんな傷を負っておきながら……)
信じがたい思いで自分の手足を見つめていたヤマトの視線が、ふと、傍らで止まった。
そこには、座ったまま力尽きたように寝入っているカケルの姿があった。
そして、ヤマトの目に飛び込んできたのは、カケルの両手に巻かれた、生々しく血の滲む白い包帯だった。
「……あ」
その瞬間、途切れていた記憶が激流となって脳内を埋め尽くした。
自分を必死に呼び続け、その細い身体で地獄の淵から担ぎ上げようとしていた、あの命の熱量。
「……お前、マジかよ」
肉体の損傷を数時間で修復するこの国の技術をもってすれば、カケルの傷も綺麗に消せたはずだ。
それでも、カケルは完全な再生処置を後回しにし、応急処置だけでヤマトの傍らへ残ることを選んだ。
自分が目を覚ます、その瞬間まで。
ヤマトは無意識に、自らの腹部へ触れた。
肉を引き裂いたはずの傷は、跡形もなく消えている。
腹を貫かれた人間を数時間で蘇らせるほどの技術がありながら、サクラを蝕む鉱血症を治す術は、この国のどこにも存在しない。
その皮肉が、胸の奥へ冷たい棘となって突き刺さった。
だが今、その棘よりも強くヤマトを締めつけたのは、隣で眠る少年の傷だった。
自分よりもずっと小さく、弱いと思っていた皇太子。
その少年が爪を剥がし、身体を焼きながら、自分を背負って絶壁を登り切った。
ただ、自分を生かすために。
「……馬鹿野郎。そこまでして……俺なんか、助ける価値なんてねえだろ……」
ヤマトの声が震える。
腹部の傷は消え去っても、胸の奥を抉られるような熱い痛みが止まらなかった。
それは、カケルの無償の愛に触れた、ヤマトの魂が上げる産声だった。
「気が付いたようだな」
サイドテーブルに静かにお茶を置いた黒鉄が、ヤマトの視線に気づいて声をかけた。
「流石に丈夫な身体だ。あの一撃を喰らって、この短時間で上体を起こすとはな。大した生命力だ」
「……ケッ、皮肉かよ、あんた」
ヤマトは不貞腐れたように返したが、その視線は隣で眠り続けるカケルの包帯から離れない。
黒鉄はふと表情を和らげ、真っ直ぐにヤマトの瞳を見据えた。
「礼を言うぞ、ヤマト」
「……なんだよいきなり」
「殿下は、お前と出会えたことで、真の意味で『王の器』に目覚められた。自らの意志で、自らの身体を傷つけてまで守るべきものを手に入れた。……それがこれほどまでに、人の心を強く、美しく変えるものだとは」
ヤマトは言葉を失い、カケルの包帯に滲んだ淡い赤色を、ただ見つめ返した。
「……成長したのは、こいつの勝手だろ。俺は何もしてねえよ」
ヤマトはそう呟き、カケルの肩から滑り落ちかけていた、黒鉄がそっと掛けてやったであろう黒い羽織を、指先でそっと、大切にかけ直してやった。
「いいや。お前がその魂の熱さをぶつけたからこそ、この方の心に火が灯ったのだ。ヤマト、私からも改めて頼む。これからも、この方の『友』として、共に歩んでやってくれ」
「……ったく。お前ら高天原の連中は、揃いも揃って暑苦しいんだよ」
口では毒づきながらも、ヤマトの心には、カケルが身を呈して守り抜いた「命」の重みが、静かに、そして温かく染み渡っていた。
それからしばらくして、再生処置を終えたヤマトは医療ポッドを出た。
黒鉄は二人だけの時間を残すように、何も言わず医療室を後にした。
ポッドの傍らには、ヤマトの黒い稽古着が、丁寧に畳んで置かれていた。
高天原へ来たヤマトのために用意された、自分だけの一着。
初めて袖を通した時は、この場所へ自分を縛りつける、新たな首輪のようにしか思えなかった。
だが今は、それが当たり前のように自分の帰りを待っている。
眠るカケルと、その傍らに置かれた稽古着。
この憎むべき白磁の城にも、自分が戻ってくることを疑わず、待っている者がいる。その事実が、ヤマトの胸に、言葉では名付けようのない熱を灯した。
「……ったく」
ヤマトは照れ隠しのように吐き捨てると、無造作に稽古着へ袖を通した。
そして眠るカケルを一度だけ振り返り、静かに医療室を後にした。
一方、カケルの意識は、まだあの暗い絶壁の中にいた。
(ヤマト、どうか、戻ってきて……)
必死に手を伸ばし、親友の名前を呼び続ける。
その暗闇の向こう側に、カケルが今まで大切に集めてきた、ヤマトの欠片たちが浮かび上がった。
初めて「ヤマト」という名前を授けた時の、照れたような、少しだけ嬉しそうな顔。
サクラを優しく包み込み、守り抜こうとする兄の顔。
そして、誰にも救いようのない絶望を背負い、たった一人で背中を震わせて涙していた後ろ姿。
高天原の、冷たく無機質な世界に突然現れた存在。
ヤマトの隣で感じられる、「命」の輝き。
それがカケルにとっては、もう何物にも替え難い宝物になっていた。
ヤマトの隣にいる時、自分は「お人形」ではなく、本当に「生きている」と感じられる。
そこが、カケルの見つけた唯一の「居場所」だった。
(戻ってきて、ヤマト……)
その頃、医療室へ戻ってきたヤマトが、眠るカケルの傍らで静かに足を止めていた。
耳元で、少しぶっきらぼうで、懐かしい声が響いた。
「──おい」
ゆっくりと瞼を開く。
視界がクリアになるにつれ、そこにはいつもの黒い稽古着に身を包み、腕を組んで自分の顔を覗き込んでいるヤマトの姿があった。
「いつまで寝てやがる。こちとら義手の調整どころか、おっさんとの稽古まで済ませてきたんだぞ」
「嘘をつけ。三歩目でよろめいておったではないか」
すかさず、扉の向こうから黒鉄の声が飛んできた。
「う、うるせえな!」
夢と現実が混濁する中、カケルは呆然と親友を見上げた。
腹部の傷跡は綺麗に消え、そこには以前と変わらない、不遜で、けれど確かな熱を持ったヤマトが立っている。
「ヤ、ヤマト……ごめんっ、あの、僕……っ!」
溢れ出しそうになる言葉を、喉の奥に詰まらせるカケル。
そんな彼を、ヤマトは真っ直ぐに、射貫くような眼差しで見つめた。
「謝るな」
ヤマトは静かに言い切った。
「お前が俺をここに連れ帰ったのは、お前が自分で決めたことなんだろ。だったら、お前がしたことへの答えは、俺が決める」
ヤマトの金色の瞳が、包帯に覆われたカケルの両手へ落ちた。
その視線が、痛みに耐えるように僅かに揺れる。
「……カケル」
「……?」
「ありがとな」
その一言が、カケルの心の堤防を完全に決壊させた。
親友を救えたという安堵。
彼が自分を「対等な友」として認めてくれたという、何物にも代えがたい喜び。
大粒の涙が、カケルの頬を次々と伝っていく。
「ったく。泣きすぎなんだよ、お前は。……甘ったれが」
ヤマトはそう毒づきながらも、カケルの頭を大きな左手で乱暴に、けれど愛おしそうに撫でた。
「ヤマト」
「……なんだよ」
「おかえりなさい」
カケルが涙を拭い、太陽のような笑顔で迎える。
ヤマトは一瞬、眩しそうに目を細めたが、やがて柔らかく、静かに微笑んだ。
「……ああ。ただいま」
静寂に包まれた医務室で、二人の間にはもう、天と地を隔てる壁など存在しなかった。




