第03話:鉄面の師、武士の約束 / IRON MASK, BUSHIDO VOW
本日の講義は、演舞場での武術稽古であった。
もっとも、超高度なセキュリティ網とアマテラスの絶対的な加護に守られた高天原において、皇族が実戦的な武力を必要とする機会など、万に一つもありはしない。
ここでの武術は、敵を穿つための技ではなく、平和を寿ぐための「儀式」だった。アマテラスの栄光を象徴し、完璧な統治を美しく誇示するための、血の通わない伝統芸能に過ぎない。
白磁の回廊を抜け、演舞場へと続く静かな路。
そこには、琥珀の纏う非の打ち所のない「白」とは対照的な、漆黒の重厚な甲冑に身を包んだ巨躯が佇んでいた。
もう一人の教育係、黒鉄である。
彼の甲冑の隙間からは、古い鋼が放つ独特の匂いが漂っていた。その無骨な姿は、清潔で無機質なこの天上界において、唯一「汚れ」や「熱」を許容された異物のように見えた。
「殿下。……少々、お疲れのご様子。最近は顔色が優れませんな」
地鳴りのような低い、だが深い慈しみに満ちた声がカケルを呼び止めた。黒鉄はカケルの前に佇むと、金属の手甲に覆われた大きな掌を、そっと少年の肩に置いた。それは、琥珀の冷徹な指先とは正反対の、確かな質量を伴った「熱」だった。
教育係という厳格な立場を超え、道を見失いかけた息子を案じる父親のような、不器用で真っ直ぐな温かさが、カケルの強張った心に染み込んでいく。
「……黒鉄。僕は、大丈夫だよ。……ただ、時々わからなくなるんだ。僕がこうして宝剣を振るうことに、意味はあるのかなって、考えてしまう時があるんだ。……これが僕の務めなのに、こんなの、おかしいよね」
「意味、ですかな」
黒鉄は少しだけ沈黙した。
漆黒の鉄面で覆われた顔の奥にあるはずの双眸が、カケルの手にある儀礼用太刀『草薙』を見つめる。
白磁の装飾が施されたその刀身は、人を斬る道具としての機能を嘲笑うかのように美しく磨き上げられていた。鏡のような刃面には、迷いを隠しきれないカケルの顔が、歪んで映り込んでいる。
「……意味は、ご自身で見つけるものです。今はただ、この私の手に合わせて、舞いなされ。いつか、殿下ご自身で答えを掴み取られる日が来ましょう。その時まで、この黒鉄の熱に身を任せておればよろしい」
黒鉄の指導のもと、稽古が始まる。
カケルは演舞場の中央で、代々の皇族に伝わる『天の舞』を舞った。
壁面では無数の白金製の歯車が、カケルの動きを一ミクロン単位で監視するように「クスクス」と高音の歯擦音を立てて回り続けている。カケルが刀を振るうたび、袖が空気を孕み、白金と風が混ざり合ったような、高く澄んだ風切り音が演舞場に響く。
一歩踏み出すたび、床からは刺すような冷気の反動が伝わり、それがかえって彼の感覚を研ぎ澄ませていく。
舞い終えて残身を解くと、黒鉄が鎧の音を重厚に鳴らして力強く頷いた。
「実にお見事。天晴でございます。その剣先、迷いを抱えつつも、一筋の光を求めておられる」
「ありがとう……黒鉄」
カケルは微笑み、礼を言った。
しかし、その表情はすぐに薄曇る。
「……殿下。私に何か隠し事をしておられるのではございませぬか? 私には、今の笑顔がひどく無理をしているように見えるのですが」
カケルは、黒鉄の顔を覆う漆黒の面に視線を移した。冷たい鉄面であっても、その奥には確かに、鋼ではない血の通った「男の気配」が宿っているように感じられた。
だが、思い出そうとすればするほど、高天原の強烈な白光がその温もりを焼き潰し、記憶をただの無機質な黒い仮面へと上書きしてしまう。
「……黒鉄。僕、さっきの謁見の間で……ノイズを聞いたんだ」
肩に置かれた手甲の熱に誘われるように、カケルは口を開いた。
「琥珀は、バグだって言ってた。でも……僕は、あれはもしかしたら、お母様の本当の声かもしれないって思ったんだ。お母様は、システムの一部としてじゃなく……僕に、何かを伝えたいんじゃないかなって」
吐き出した言葉は、真っ白な演舞場の中でひどく異質に響いた。
黒鉄はしばらくの間、沈黙していた。
「殿下。……よろしいですか、よくお聞きなさい」
耳が痛くなるほどの静寂が、再び演舞場を支配する。黒鉄はゆっくりと深く息を吸い、まるで自身の魂を言葉の破片に刻み込むかのように、再び唇を開いた。
「この世界において、アマテラス様が『不要』と断じたものは、すべてバグと呼ばれます。ですが、たとえシステムがそう呼ぼうとも、殿下の耳に届いたその音を、殿下ご自身がどう感じるか……それだけは、誰にも奪えない自由でございます」
黒鉄はカケルの肩から手を離し、その代わりに彼の小さな拳を、包み込むように握った。手甲の冷たい感触の奥から、彼自身の重厚な体温が伝わってくる。
「……ただし、決して琥珀殿や他の者たちの前では口になさらぬよう。その想いは、この黒鉄の胸の中にだけ、預けておきなされ。……殿下と私だけの、武士の約束でございます」
「……黒鉄」
「さあ、稽古を続けましょう。剣は、語れぬ想いを形にするためのものでもございます。たとえ言葉にできぬ想いでも、刃の軌跡に乗せれば、いつか誰かに届くやもしれませぬ」
カケルは、握られた拳の中に残る黒鉄の熱を、噛み締めるように確かめた。
幸せでなければならない。
幸せなはずだ。
そう自分を偽り続けてきたカケルの心に、初めて「誰にも汚されない、自分だけの秘密」という名の灯火が宿った。
稽古の終わりを告げる鐘が、電子音の冷たさで響き渡り、黒鉄は、重厚な地響きを伴って去っていく。巨大な蒸気機関が去ったあとのように、そこには微かな鉄の焼けた匂いと、行き場のない熱気だけが取り残された。
カケルは自分の拳を強く握りしめる。その中に残る微かな「熱」だけが、今の彼にとって唯一信じられる真実だった。
カケルは、儀礼用太刀『草薙』を、壁の専用の掛け台に納めた。
少しの傷や汚れも無い、美しく磨き上げられた刀身。争い事など起こらないこの国において、この刃が血に染まることなど永久にない。刀はあくまで、神事を執り行うための完璧な装飾品でしかなかった。
本来の『斬る』という役目を忘れ、ただ美しく飾られるためだけに存在するその姿は、自らの意思を剥奪され、ただ「皇太子」という記号を演じさせられている自分自身と、酷く重なって見えた。
――触れれば切れてしまいそうなほど鋭利でありながら、誰も傷つけることができない刀。
――求められるがままに微笑み、愛を歌いながら、内側から摩耗していく少年。
皇太子として、この国の最高位に座していても、その実、自分はただこの白磁の世界を美しく彩るための「置物」でしかない。国民にとっての無垢なる「太陽」とは、カケルという人間に与えられた、逃げることのできない最も残酷な檻のようにも感じられた。
どれほど物質的に恵まれていても、常に心の中に冷たい影が落ちる。その空虚感は、長い年月をかけ、カケルの心を、ゆっくり、だが確実にすり減らし続けていた。
「僕の存在意義って……いったい何なんだろう。この国が求めているのは、『皇太子』という役割であって、僕自身の意思や感情じゃないんだ……」
静まり返った演舞場で零した呟きは、誰に聞かれることもなく、冷たい室内の空気へと吸い込まれていく。胸の奥底で渦巻く黒い澱を恐れるように、カケルは慌てて首を振った。
「いけない。こんな弱音は、だめだ。僕は、この国の次代を担う皇太子だ。民の幸福のために祈りを捧げ、完璧な調和のなかで美しく微笑むのが、僕の……僕に許された唯一の務めなんだ」
自らを縛りつけるように、必死で言葉を絞り出す。しかし、どんなに完璧な笑顔を張り付け、理屈で自分を納得させようとしようとも、心の底で生じた亀裂はもう塞がらない。
黒鉄の手甲に残っていた確かな熱が、冷めかけたカケルの胸の奥で、小さく、けれど消えない痛みを伴って脈打っていた。




