第02話:謁見の間、亡霊の共鳴 / GHOST RESONANCE
高天原の最上層に位置する『謁見の間』。
そこは、この国における「神域」の終着点であり、同時に巨大な演算機の心臓部でもあった。
天井は遥か果てへと突き抜け、幾千、幾万もの水晶の多面体が、中央演算アマテラスの放つ燐光を乱反射させている。その光は物理的な重みを伴って空間を支配し、隅々に至るまで影を抹殺していた。
高天原において、影の不在は「不浄の不在」と同義とされる。
だが、影さえも許されないその真っ白な光景は、どこか死後硬直を起こした死体のような、動かぬ美しさを湛えていた。
広大な間の中心に鎮座するのは、高さ十メートルを超える巨大な円筒形の培養槽──通称『アマテラスの心臓』だ。
幾百本もの白金製のパイプが血管のように壁面を這い、硬質な輝きを放つ歯車が、音もなく正確なリズムで時を刻んでいる。
半透明の液体が満たされた槽の内部には、数えきれないほどの銀色のケーブルに繋がれ、静かにたゆたう一人の女性の姿があった。
──カケルの母、先代の「太陽」だ。
彼女が自らの意志で指一本動かすことはない。
その脳細胞、神経系、そして魂の揺らぎに至るまで、すべては高天原を維持する『アマテラス』の並列処理ユニットとして組み込まれている。
彼女の生命活動から発生する熱量は、この国の排熱機構を通って上層を暖め、彼女の演算結果は下層界を管理する識別番号へと変換される。
母は世界を守るための「器」になったのだと、カケルは幼い頃から教えられてきた。
「……カケル。本日も、健やかに過ごしているようで、何よりです」
虚空に配置されたスピーカーから、あまりにも平坦で、鼓膜を優しく撫でるような美しい声が響いた。
母の本物の声など、カケルは知らない。
彼が生まれて間もなく、彼女はこの巨大な機構へと捧げられたからだ。
今、スピーカーから流れる「母の声」は、不思議といつだってカケルの欲しかった言葉をくれた。寂しい時には優しく労り、道に迷えば正しい答えをそっと囁いてくれる。
──だが、それこそが気味悪かった。
この優しい声は、母の愛などではない。
アマテラスがカケルの脳波や深層心理を勝手に読み取り、「母親ならこう言うはずだ」という彼の願望を鏡のように映し出し、最適解として出力しているだけの偽りの残響。
自分の内側を暴かれ、そこから都合のいい愛を捏造されている。そう気付いて以来、この「母の声」を聴くたびに、カケルの心臓の裏側を冷たい指でなぞられるような寒気が走るのを感じていた。
「……ありがとうございます。お母様」
感情の起伏を押し殺した、形ばかりの返礼をする。その滑らかな言葉を口にした瞬間、カケルの意識は、白磁の回廊を数年分遡り、まだ彼が「皇太子」という工芸品になりきれていなかった幼き日へと引き戻された。
──かつて、カケルはこの眩いほどに美しい「死の庭」で、よく一人で泣いていた。ベンチに座り、小さな肩を震わせて「お母様……」とこぼれる声を押し殺す。
けれど、通り過ぎる侍女も、警備の者たちも、泣いているカケルを見ても足を止めることはなかった。
彼らにとって、衣食住のすべてが満たされた皇太子が涙を流す理由は、この世界の演算式には存在しないからだ。
彼らはただ、不具合のない景観の一部としてカケルを視界に入れ、そのままノイズのように通り過ぎていく。
ある時、耐えかねたカケルは、傍らに控える琥珀の裾を掴んで、瞳いっぱいに涙を溜め、言葉にならない熱をぶつけるようにして、訴えた。
「……琥珀。お母様に、会いたい」
その時、琥珀が見せたのは、聖母のような慈愛に満ちた、けれどどこまでも空虚な微笑みだった。彼女はカケルの頭を優しく撫でることも、その小さな震えを止めるために抱きしめることもなく、ただ遠くそびえ立つ中心塔を指差して言った。
「何をおっしゃるのです、カケル様。お母様なら、あそこにおいでになりますよ。今この瞬間も、貴方様を、そして世界を、アマテラスの一部として見守っておいでです。これ以上の幸福がどこにありましょうか」
そうじゃない。
あんな高い場所にある機械の塊じゃなくて。
隣に座って、他愛もない話をして、体温の宿る温かい腕で抱きしめてほしい。
けれど、カケルがその言葉を口にすることはない。
琥珀の曇りなき瞳を見れば、分かってしまうからだ。
高天原に住む彼女たちには、「肌の温もりを求める」という感情そのものが、この世界の設計図には存在しないのだと。
──ここでは、僕が求めているものは『存在しないこと』になっている。
成長とともに、カケルはそれを学んでいった。
望んでも手に入らないのではない。
最初から、この世界のどこを探しても「それ」はないのだ。
理解されない願いは、吐き出される場所を失い、ゆっくりと心の一番深い場所に澱のように溜まっていく。
いつしかカケルは、自分でも気づかないうちに心の鎧戸を下ろし、この完璧な白磁の風景に同化することを選んでいった。
そんなかつての孤独を塗りつぶすように、スピーカーから流れる「母の声」は、今日も完璧な周波数で愛を囁き続けている。
「貴方は高天原の太陽となる次代の種。常に、正しくありなさい。完璧なこの国に、恒久の繁栄を……」
カケルは、自らに与えられた幸福を肯定しようと、奥歯を噛み締めた。
記憶にすらない「母」を、自分の脳波を餌にしたアルゴリズムが捏造し、それを「救い」として与えられる歪さ。
その言葉が、完全に調律された空間に溶け込もうとした、その時だった。
──ザッ、ザザッ。
清浄な空気が爆ぜ、平穏がひび割れた。水晶に反射する光が激しく明滅し、培養槽の液面に不自然な波紋が走る。
(……ケ……シ……テ……)
錆びた針で脳を直接掻き回されるような、醜悪な不協和音。
一瞬の空白。
カケルの隣で、琥珀が短く息を呑む音が聞こえた。
「……琥珀? 今のは……?」
「……ノイズですわね。最近、時折こうして下俗なバグが発生しております。……忌々《いまいま》しい」
琥珀の表情から、一瞬だけ完璧な「淑女」の面が剥がれ落ちた。
彼女は吐き捨てるように言い放つと、空中投影されたホログラムを、裂帛の気合を込めた手つきで操作し始める。
「申し訳ございません、カケル様。この聖なるお時間に、このような汚れを……。すぐにシステムの修正を行い、エラー個体を『再調律』いたしますわ」
琥珀の指先が、微かに震えている。
完璧な世界を管理し、それを信仰の域にまで昇華させている彼女にとって、このわずかなノイズは自分の存在意義そのものを否定する致命的な「不具合」でしかないのだ。
カケルは、培養槽の中で静かに浮かぶ「母」を見つめた。白金のパイプの中を流れる冷却水の音が、先ほどよりも大きく、重苦しく聞こえる。
あれは、システムの中に溶け込んだ母の「残滓」から漏れ出した、最期の抵抗だったのだろうか。それとも、カケルの心の奥底に眠る「絶望」をシステムが勝手に拾い上げ、出力エラーを起こした結果なのか。
(……消して? それとも……)
母の叫びではない。
あれはもはや人間のものではなく、システムが吐き出した、無意味なノイズだ。
そう、自分に言い聞かせる。
けれど、完璧であるはずのアマテラスが、なぜあんなにも痛々しく、何かに縋るような不協和音を漏らしたのか。その疑問が、カケルの胸をじりじりと焦がしていく。
「……琥珀。あの音、何か言おうとしていたのかな」
「何も。バグに意味などありませんわ。……いいですね、カケル様」
琥珀はカケルの肩に手を置いた。細い指先が、服の布地を突き抜け、皮膚に食い込むほど強く握られる。
「貴方様は、何もお聞きにならなかった。不必要なノイズは、幸福の敵です。私たちは、ただ美しく、正しく、この光景の一部であれば良いのです」
琥珀の指から伝わる体温は、培養槽の白金パイプと同じほどに冷たかった。
カケルは、自分の体の奥底──アマテラスの精緻なシステムでさえも読み取ることのできない、魂の暗がりに、小さな、けれど消えない「疑問」が芽生えるのを感じていた。
完璧な世界。
影のない光。
その中心で、母は今も、無数のケーブルに魂を吸い取られながら、音もなく微笑んでいる。その微笑みさえも、システムの出力した計算結果に過ぎないのだとしたら。
謁見の間を去るカケルの背後で、再び歯車が回り始めた。
キィィン……という、白金同士が擦れ合う高音の軋みは、まるで誰かが名前を呼んで泣き叫んでいるようにも聞こえた。




