第01話:白磁の檻、真鍮の心音 / PORCELAIN AND BRASS
雨が、執拗に体を打ちつけている。
下層界の空は、肺の奥を汚すような煤に濁り、光すら通さない。
──たどり着いた答えがこれならば、あまりに救いがない。
泥水を啜り、肺を煤で焼きながら、男は自嘲気味に、瑠璃色の目を伏せた。かつての「太陽」は、今や泥にまみれた、ただの傭兵へと成り果てていた。
(ヤマト……)
瞼を閉じれば、脳裏を掠めるのは不器用に笑う親友の面影だ。
ぶっきらぼうな響き。
強がりの綻びから零れた、あの熱い涙。
そして──。
昏い断絶の底、奈落へと沈みゆく中で受け取った、祈りにも似た別れの言葉。かつて男を絶望の淵から救い上げたその声は、今や二人の未来を縛り上げる、鋭利な呪いへと変貌を遂げていた。
男は、雨に打たれながら、泥濘に身を委ねた。
「どこで……どこで間違えたんだ、俺たちは……」
仰向けに倒れたまま、心臓の鼓動に合わせるように、届かぬ親友の名を刻み続ける。
意識が遠のく中、雨音に混じって、あの忌まわしいノイズが耳の奥で蘇ってきた。
(ケ……シ……テ……)
意識は、白濁した記憶の急流へと遡っていく。
まだ彼が、課せられた運命に抗い、懸命に生にしがみついていた、あの頃の記憶へ──。
◇
三年前──天上界「高天原」
漆黒の髪を柔らかなシーツに散らし、少年は目を覚ました。窓の向こうには、中央演算アマテラスが調律した「完璧な朝」が横たわっている。
空は白磁の如く透き通り、影の一筋一筋までも数学的な正確さで街を切り取っていた。
耳を澄ませれば、壁の向こうで数兆の極小機械が明滅する、銀の砂をこぼしたような高周波が絶えず響いている。それはこの世界の呼吸であり、澱みを許さない絶対的な静寂の正体だった。
少年はこの国の皇太子として、高天原を照らす「太陽」として生きていくことに、一点の疑念も抱いてはいなかった。
「おはようございます。カケル様」
磨き上げられた硝子を滑るような、温度のない声。傍らに控えていたのは、専属の教育係である琥珀だった。琥珀色の瞳と髪を揺らさないまま、彼女は雪のように白い手つきで、カケルの寝間着のボタンを一つひとつ外していく。
その指先には、血の通った人間特有の柔らかさが微塵もなく、凍てついた陶器のように硬質だった。ただ、アマテラスが定義する「皇太子」という『規格』に狂いがないかを確認する、検品レンズのような光だけが宿っていた。
「今日もアマテラス様の演算は完璧そのもの。市民の心拍、幸福指数、空気の組成……そのすべてが理想値の範囲内に収まっております。カケル様の今日の歩数さえも、最も健やかな数値になるよう導かれるでしょう」
「……ありがとう、琥珀。穏やかな朝だね」
カケルと呼ばれた少年は、鏡の中の自分を見つめ、微笑みを返した。鏡の中にいるのは、自分ではなく「完璧な調和の一部」として完成された、美しい工芸品のように見えた。
その日の午前。
静謐に満ちた図書室での講義中だった。
古びた歴史書の頁をめくった際、カケルの指先に、微かな痛みが走った。紙の端が、鋭利な刃物のように指の腹を裂いたのだ。
「あ……」
白磁のような肌に映える黒髪と、白の羽織──その胸元に鮮やかに縫い取られた橘の刺繍のすぐ傍で、小さな、赤い粒が浮かび上がる。それは、この白一色の世界で唯一、熱を孕んだ色彩だった。
カケルにとっては、声も出ないほどの些細な事象だった。
しかし、その瞬間、静寂は無残に切り裂かれた。
天井のセンサーが脈打つような深紅に明滅し、鼓動に似た警告音が図書室に鳴り響く。
『──警告。皇族個体に不具合を確認。直ちに滅菌を開始します』
無機質な合成音声が天井から降り注ぐと同時に、不可視のナノマシンを含む冷たい蒸気がカケルを包囲した。
「カケル様! 動かないでください!」
琥珀が悲鳴のような声を上げた。
だが、彼女は助けようと駆け寄るのではない。まるで致死性のウイルスを目の当たりにしたかのような、戦慄と嫌悪に満ちた眼差しでカケルの指先を見つめていた。カケルの指先に、数体の自動滅菌ドローンが吸着する。
──一瞬だけ、ゾッとするような冷気が走った。
高度に洗練された滅菌システムは、皮膚を荒らすことなどない。傷口を瞬時に焼き固め、細胞を再構築し、血液の一滴さえも残さずに、まるで最初から何もなかったかのように指先を修復してしまった。
ドローンが離れた後、そこには一点の曇りもない、滑らかな皮膚が戻っていた。
「……琥珀、もういいよ。ほら、傷なんてどこにもない」
「いいえ! いけません! たとえ肉眼で見えずとも、一度流れたその血が、魂を腐らせてしまうのです。汚れは一ミクロンたりとも、この世界に存在してはならないのです!」
琥珀は祈るように胸の前で手を組み、何事もなかったかのように美しいカケルの指先を、恍惚とした、しかしどこか怯えた表情で見つめていた。
機械が発する無機質な駆動音。
傷跡すら残さない、完璧すぎる修復。
そして、それらを「救い」として信じて疑わない教育係の狂信。
カケルは、あまりにも綺麗に戻ってしまった自分の指を見つめ、言いようのない重苦しさに襲われた。
傷を負ったという事実さえ、アマテラスの秩序は許さない。痛みも、血も、生きた証のすべてが、この白く塗り潰された世界では「不都合なエラー」として消去されてしまう。
自分の中に流れているものは、そんなに汚いものなのだろうか。
一ミクロンさえも許されないこの「赤」は、この楽園にとって、そんなにも忌むべきものなのだろうか。
(……怖い)
カケルは、自分の体が、自分の中に脈打つ血の熱さが、急に怖くなった。傷一つないその滑らかな手が、自分のものではない、冷たい機械の一部であるかのように感じられた。
それは、「無垢なる太陽」が自らの影に怯え、音もなく欠け始めた瞬間だった。
ふと漏れた呟きに、背後の壁が応えるように震えた。壁面に埋め込まれた数万の真鍮製歯車が、一斉に噛み合い、複雑な旋律を奏で始める。
──クスクス、クスクス。
満足げな笑い声にも、誰かを嘲る囁きにも聞こえる不気味な駆動音。中央演算アマテラスの鼓動そのものだ。この音が響いている限り、高天原のすべては完璧に制御され、正解の中に留まり続ける。いわば世界の安寧を保証する聖なる心音だ。
だが、その音を聴くたびに、カケルの胸の奥には、言葉にできない重苦しい澱が沈殿していく。
すべては与えられている。
すべては正しい。
それなのに、胃の奥に冷たい石を詰め込まれたような、奇妙な空虚感が消えない。
「何かが……足りない気がする……」
それが何なのか、カケルにはわからない。
アマテラスが算出した幸福という名の揺籠の中で、欠落などという言葉は本来存在しないはずなのだ。
自分は満足しているはずだ。
自分は満たされているはずだ。
鏡の中の自分にそう言い聞かせることさえ、もはや習慣になりつつあった。
カケルは逃げるように視線を逸らし、自室を出て庭園へと向かった。
人工の光を浴びて、露一つ残さず美しく咲き誇る花々。その完璧な光景が、今はただ、自分を閉じ込める白磁の檻の格子のように見えていた。
庭園に咲く花も、天を突く木々も、そして静かに水を湛える蓮池も、そのすべてが血の通わぬ人工物だった。
白磁で象られた花弁は、風を受けても萎れることはなく、真鍮の枝葉はアマテラスの脈動に合わせて硬質な音を立てる。池の底まで透けて見える水には、塵ひとつ存在しない。
命という名の不確定要素を徹底的に排除した、永遠に枯れることのない『死の庭』だ。
「カケル様、姿勢が緩んでおります。皇族としてのあるべき姿を乱してはなりません」
背後から、冷たく透き通った琥珀の声が響いた。カケルが振り返ると、そこには今日も寸分の乱れもなく、紫の着物の上に白い羽織を纏い、背に一羽の鶴を刺繍された琥珀が立っていた。
琥珀色の冷たい瞳は、主君を敬うというよりは、納品された精密機械を検品するそれだった。
「ごめん。……少し、考え事をしていて」
無意識に丸めていた背筋を伸ばし、カケルは力なく微笑んだ。
だが、琥珀はその言葉を即座に、平坦な響きで否定した。
「考え事? 必要ありませんわ。この美しさは、アマテラス様が導き出した、平和の数値そのもの」
琥珀はカケルに歩み寄り、乱れてもいない彼の襟元を、指先でミリ単位で修正する。
その指先は、やはり心許ないほどに冷たい。
「カケル様はその象徴として、完璧なお姿でいてくだされば良いのです。それ以外の不確定な思索は、この完璧な景観を汚すバグでしかありません」
琥珀の言葉は、慈しみではなく、完成された秩序を守ろうとする強迫観念に満ちていた。カケルは、その正しさに窒息しそうな感覚を覚えながら、素直に頷いた。
「……そうだね。その通りだ、琥珀」
頷くたびに、心に積もった澱がさらに重さを増していく。
自分は、ただ座っていればいい。
何も考えず、何も選ばず、この白磁の風景の一部として、完璧に静止していればいい。
それが、高天原の皇子に与えられた唯一の役割なのだから。
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