第04話:薄羽の葬列、沈黙の熱 / SILENT HEAT
演舞場の壁に、一筋の影が落ちた。
それは、中央演算アマテラスによって計算され尽くし、隅々まで調律された「無影の光」を遮る、あってはならない暗がりだった。高天原において影は不浄の兆しであり、完全無欠な世界を乱す欠陥の象徴に他ならない。
「なんだろう、これ」
カケルは、その影の正体を追って顔を上げた。白磁の床に落ちたその黒い染みは、ゆっくりと、だが確かな意思を持って動いている。
不意に、耳慣れない音が鼓膜を震わせた。
アマテラスの整然とした重厚な駆動音でも、監視ドローンの滑らかな回転音でもない。
どこか必死で、どこか不揃いな、空気を掻き乱すような小さくも激しい羽音。
それは白磁で焼かれた置物でも、電池で動く精巧な自動人形でもなかった。
陽光を吸い込んだような柔らかな茶色の羽毛。器用に、しかし懸命に震える薄い翼。
そして、黒真珠のように濡れた小さな瞳。
「これ……知ってる。古い書物のアーカイブで見た、『鳥』だ……」
カケルは息を呑んだ。
高天原に、命ある動物は存在しない。
この世界では、寿命という名の「期限」を持ち、排泄や腐敗という「汚濁」を伴う生物は、非効率の極みとして数千年前から排除されている。
命とはシステムの中で循環するデータであり、肉体という脆い器に宿るものではない──それがこの国の常識であり、絶対の理だった。
だが、カケルにとっては、それが生まれて初めて目にする、本物の「生」だった。
アーカイブの映像では決して伝わらなかった、喉の微かな震え。
ひくひくとせわしなく肺が膨らむ呼吸。
橘の枝に止まり、必死にこの世界の冷たい空気を吸い込もうとするその個体から放たれる脈動が、カケルの心に、温かくて鋭い衝撃を与える。
(本物だ……本当に、呼吸してる)
触れてみたい。
その温もりを、指先に刻んでおきたい。
アマテラスの信号ではない、肌に直接伝わる生命の熱を。
カケルがそっと指を伸ばした、その刹那だった。
「──対象を不確定要素と断定。高天原清浄規約第108条に基づき、即時抹消を開始します」
静寂を裂き、守護神機兵『フツヌシ』が姿を現した。
白と黄金を基調とした巨大な鋼の身体。
精緻な真鍮の歯車が噛み合うたびに、空間そのものが破壊の重圧に支配される。
「待って、フツヌシ! その子は──!」
カケルの悲鳴が空気を震わせるより速く、黄金のレンズが冷たく収束した。
高出力の抹消光線が空間を穿つ。
断末魔さえ許されなかった。
小鳥は、カケルの指先が羽毛に触れるより早く、光の粒子へと分解され、システムの塵へと還元されていく。
一瞬の出来事だった。
カケルの目の前には、虚空を掴んだままの自分の手と、光の残滓を纏って力なく舞い落ちる数枚の羽だけが残されていた。
「……あ」
掠れた声が漏れる。
その瞬間、カケルの脳裏に、過去が不意に躍り出た。
──今よりもずっと小さな自分が、今日のように庭園の隅で、声を殺して泣いていた日。
目の前に立った黒鉄の大きな掌が、カケルの手に、温かみのある木彫りの鳥を乗せてくれた。
鳥の目には、深い海を閉じ込めたような瑠璃色の小さな石が埋め込まれ、カケルを優しく見つめ返していた。
「なあに、これ?」
カケルが涙を拭い、不思議そうにそれを覗き込む。
黒鉄はその小さな手を大きな掌で包み、静かに、優しく語りかけた。
「……鳥です」
「とり?」
「自由を求めて羽ばたく、かつてこの国にも存在していたという生き物です」
記憶の中の黒鉄の表情は、厚い靄がかかって見えない。
けれど、その手から伝わった木肌の質感と、静かな声だけが、今の空虚な手のひらに、痛烈な幻影となって蘇る。
「驚きましたわね、カケル様。お怪我はございませんか?」
現実に引き戻す琥珀の声が、音もなく背後から響いた。
彼女は小鳥がいた空席を忌々《いまいま》しげに見つめ、汚いものを見るような目で、カケルの指先を強く拭った。
「不浄な生物が紛れ込んだようですが、即時処分されて正解でした。いつ腐敗するかわからない非効率な存在は、高天原の純度を損なう汚れでしかありませんから」
琥珀の瞳には、慈悲も罪悪感も宿っていない。それは洗剤で染みを落とした程度の「事後処理」だった。
カケルは拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
だが、その痛みさえも、足元から這い上がってくる「完璧な世界」への恐怖にかき消されていく。
「琥珀……あの子は、ただ、必死に生きようとしていただけだよ。誰かを傷つけようとしたわけじゃない」
「ええ、それこそが、アマテラス様が最も忌み嫌う『バグ』なのですわ。さあ、汚れた空気を入れ替えましょう」
琥珀はフツヌシに、微細な塵さえ残さぬよう空間の再調律を命じる。
白と黄金の兵器はカチカチとセンサーを鳴らし、小鳥の痕跡を完全に塗り潰していった。
清掃用の青い光がタイルをなぞり、橘の枝さえも剪定プログラムによって消滅する。
もはや、そこに影が落ちた事実さえ、システムの中から削除されていく。
「でも……琥珀。あの子は、たまたまここに紛れ込んだだけだ。きっと、下界の生き物だよ。一方的に消してしまうなんて……」
カケルは、瞳を震わせながら訴えた。
眼下に広がる黄金の雲海の下に存在するであろう、下層界。
まだ見ぬ景色の中、消された小鳥が飛んでいた光景を想像する。
「カケル様。よろしいですか。我々高天原の人間は、選ばれし神の御子なのです。貴方様は、その神の御子を統べられる、高天原の太陽。貴方様の慈愛が向けられるべき先は、この常世の国であり、穢れに満ちた下界ではございません」
高天原のシステム管理者である琥珀の言葉は、この国を調和させるためにシステムが算出した「最適解」を代弁するように、無機質で、冷ややかなものだった。
足元に込み上げる冷たさに、カケルは身を震わせた。自分が今感じている痛みの正体が何なのかは、カケルにも正確にはわからない。
しかし、魂の奥底から迫り上がる嫌悪感は、どうしても拭い去れない。
「下界にだって、僕たちと同じように、命ある人々が暮らしているんだろう? 何故、同じ人間なのに、住む世界が違うだけで、当たり前の感情すら抱いたらいけないの?」
カケルの問いかけに、琥珀は眉根を寄せた。その顔には、いつもの完璧な淑女にはない、強い不快感が滲み出ている。
「カケル様、そのようなことを……。高天原は、遥か数千年前より、選ばれし神の国として輝かしい歴史を刻んでまいりました。いつも私から講義でお伝えしておりましたこと、ご理解いただけておりませんでしたか?」
「そうじゃないよ、琥珀。この国の歴史は、僕だって知っているよ。でも、そうじゃなくて……」
「カケル様」
カケルが必死に紡ぎ出そうとする言葉を、琥珀の有無を言わせない眼光が遮った。
「貴方様は、この国の太陽。この国の民の頂点に座するお方。貴方様が照らすべきは、この国の豊かなる未来です。……お分かりですね?」
「…………はい」
カケルの弱々しい返事を受け取ると、琥珀は満足げに、優雅な足取りで回廊の先へと戻っていった。彼女の白は、一欠片の汚れも許さない絶対の白だ。
残されたのは、フツヌシの駆動音を聞いてその場に駆けつけ、重厚な沈黙を守る黒鉄と、ただ一人俯くカケルだけとなった。
黒鉄は何も言わなかった。
だが、周囲の監視ドローンが別の区画へ移動した一瞬の隙を見計らい、その鉄の手甲が、カケルの肩にそっと置かれた。
そこには、稽古の時よりも重く、静かな共感の熱が宿っていた。
彼は兜の奥の視線で、消えゆく羽の最期を見守っていた。それは、掟に縛られた武人が示せる、精一杯の弔いだった。
カケルの足元には、清掃の手を逃れた一枚の羽が、光を失ったまま静かに横たわっている。
それは、光に支配されたこの「無影」の地獄に投げ込まれた、生きた証の墓標だった。




