第28話:聖者の仮面、悪魔の脚本 / THE HOLY SHAM
琥珀の体調不良は、高天原の精密な教育カリキュラムに、あってはならない「空白」を生んだ。
しかし、その綻びを誰よりも冷酷に、そして鮮やかに利用したのは、管理される側の少年たちだった。
代わりの高官が教壇に立ったものの、その表情は驚愕に染まっていた。
本来なら数時間を要するはずの高度な理論課題──高天原の統治基盤を支える『霊子数理学』の難問を、カケルは開始からわずか数分で、完璧な正解とともに提出したからだ。
「も、もう終わりですか!? カケル様、これは数日かけて、歴史と数理を紐解かねば解けぬはずの……中央演算の深淵に触れるような問いですぞ」
「もう全部理解しました。今日の分も、明日の分も、一週間先の内容まで。……ね、ヤマト?」
カケルは、背後で不敵に腕を組んでいるヤマトと視線を合わせると、ヤマトは「……まあな」と短く応じ、小馬鹿にするように鼻先で笑った。
教育官は、その下界の野良犬のような少年がカケルの「覚醒」に寄与したのだと勘違いし、震える手で記録端末に最高評価を打ち込んだ。
種明かしは単純だ。
昨夜のうちにヤマトは講義室の端末へ細工を施し、カケルの視覚デバイスにだけ見える「淡い光の跡」を、複雑な演算式の要所へ浮かび上がらせていた。
それは解答そのものではない。
膨大な式の中から、カケルがすでに理解している論理を最短距離で繋ぐための道標だった。
高官たちの目には照明の反射としか映らない光を辿り、カケルは本来なら数時間を要する思考過程を、わずか数分で駆け抜けていった。
カケルの「劇的な成長」の報告は、当然、病床で焦燥に駆られていた琥珀のもとへも即座に届く。
「ああ……カケル様……! ついに、ついに目覚められたのですね……! あの不浄個体の毒を撥ね退け、真の皇太子としての才能を……!」
琥珀は感激のあまり、シーツを握りしめて感涙に咽んだ。
高官からの報告に書かれた内容を何度も読み返す。
そこには、高天原の太陽として完璧な回答を描き出した姿が「神懸かっていた」と記されていた。彼女にとって、それは自らの歪んだ教育が正しかったことを証明する、唯一の福音だった。
その頃。
講義室を後にした二人は、琥珀の待つ療養棟へと続く長い回廊を歩いていた。
そこは、影すらも許さないほど均一な白に支配された空間だった。
空調の微かな振動音だけが、世界の「正常」を維持するために鳴り響いている。
カケルは、自分の足音がこの静寂を汚していくような錯覚を覚えながら、静かに口を開いた。
「……琥珀は、僕の『目覚め』をずっと待っていたんだ。彼女が望むのは、僕の真実じゃない。彼女が作り上げた『完璧な皇太子』という理想の完成なんだよ」
ヤマトは横目で隣の少年を盗み見た。
黒髪の隙間から覗くカケルの瑠璃色の瞳には、深い、澱んだ知性が宿っているように見えた。
「……お前、たまに怖えこと言うよな。あの女を騙すことに、罪悪感はねえのかよ」
「罪悪感、か。……ないと言ったら、嘘になる。琥珀は、僕のために人生のすべてを捧げてきた人だ。でも、彼女が愛しているのは僕じゃない。彼女が選んだ『設定』通りの僕なんだ。それに応えることは、僕自身を殺し続けることと同じなんだよ」
カケルは自分の掌を見つめた。
琥珀に何度も消毒され、磨き上げられた、不浄なものを何一つ知らない綺麗な手。
だが今、その手のひらには、ヤマトと共に触れた「境界線」の、冷たくてザラついた感触が残っているような気がした。
「僕はもう、その箱の中では息ができない。嘘をついてでも、君が見せてくれたあの暗闇の向こうへ行きたいんだ。そのためなら、僕は最高の皇太子を演じてみせる」
カケルの言葉に宿る冷たい情熱に、ヤマトはフンと鼻を鳴らした。
「勝手にしろよ。だがな、お前のその『演技力』……ありゃあハイヴの詐欺師でも通用するぜ。人を信じ込ませる天性の才能だ」
琥珀の寝室の前まで来ると、カケルは深く呼吸を整える。
それは、自分を縛り続けてきた「僕」という仮面を、もう一度被り直すための残酷な儀式だった。
その背後で、ヤマトは音もなく壁のメンテナンスハッチに右腕のジャンク・ドライブを突き立てた。
(……よし、これで室内の端末に直接『眠りのパルス』を流し込める。あとは頼んだぜ、皇太子サマ)
ヤマトが目配せで無言の合図を送ると、カケルは微かに頷き返した。
「行くよ、ヤマト」
「ああ。……お手並み拝見だ」
重厚な扉をカケルが静かに開く。
室内には、微かな薬の匂いと、琥珀が好む清廉な香水の香りが漂っていた。
「琥珀、具合はどう?」
扉を開けた瞬間、カケルの声のトーンが一段高く、優しく変化した。
語尾の響き、歩幅、そして表情──すべてが、琥珀が狂信的に愛する「理想の皇太子」そのものへと完璧に切り替わる。
その余りにも淀みのない、狂気的なまでの適応力を目の当たりにし、部屋の隅に控えたヤマトは思わず背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
(……なんだこいつ。一瞬で、完璧な怪物に化けやがった……)
ヤマトが内心で舌を巻く中、病床の琥珀が震える声でその名を呼んだ。
「あ……カケル様……!」
カケルは慈愛に満ちた瞳で彼女を見つめ、残酷なほど完璧な「正解」を演じ始めた。
「カケル様! お聞きしましたわ、素晴らしい進歩です! 私は……私は信じておりました、貴方様が正しい『選択』をされることを……! あの穢らわしい野良犬に惑わされず、高天原の皇太子として目覚めてくださることを!」
琥珀は震える手でカケルを讃え、自らの教育がようやく報われたのだと、恍惚とした表情で酔い痴れた。
カケルは困ったように微笑み、琥珀の枕元へ静かに歩み寄る。
「いつも琥珀が一生懸命教えてくれるからだよ。本当にありがとう。僕のために、無理をさせてしまったね。君がいない間、君の教えを何度も反芻していたんだ」
「あ……ああ、カケル様……!」
その慈愛に満ちた言葉に、琥珀の涙腺は決壊した。
自らの忠誠が、人生が、ようやく聖域に届いたと信じて疑わなかった。
その盲目的な喜びが、彼女の判断力を奪っていく。
その様子を、ヤマトは部屋の隅で冷めきった目で見つめていた。
鉄の腕を静かに鳴らし、滑稽な茶番を眺める観客のように、冷ややかに壁へ背を預けている。
「ねえ、琥珀。課題がだいぶ早く終わっちゃったから、今日はこれから『《《瞑想の時間》》』にしたいんだ。集中して少し疲れてしまったから、一人で静かに過ごしたい。城の最上層で、中央演算の光を浴びながら自分と向き合いたいんだ」
「瞑想……! 素晴らしい心がけですわ。ですが、お疲れならば私が……」
カケルは起き上がろうとする琥珀を、絹のように柔らかな手で優しく押し止めた。
「大丈夫だよ、琥珀。君は寝ていて。君が早く元気になってくれないと、僕も不安なんだ」
「カケル様……」
カケルの慈愛に満ちた表情と、深い慈しみを含めた言葉に、琥珀は溢れる涙を拭おうともせず、崇める様に見つめ続けた。
「これからは、僕も皇太子としての自覚を持って、より一層勉強に励むつもりだから。元気になったら、また僕に教えてほしい。……君以上に、この国や僕を大切に思ってくれる人はいないからね」
カケルの完璧な笑顔。
その清廉な瞳に、琥珀は心底からの安堵と幸福を覚えた。
これこそが、彼女が人生を賭して守りたかった「高天原の太陽」そのものだった。
彼女はその言葉を遺言のように胸に刻み、安心しきって目を閉じた。
「左様でございますか……。お見それいたしました。……では、どうぞ、ゆっくりとお休みくださいませ。私も、少しだけ……」
琥珀は幸せな余韻に包まれ、深い、深い眠りへと落ちていった。
ヤマトが仕込んだ「眠りの信号」が、彼女の寝室の端末を通じて微かなパルスを送り、その眠りをより確かなものにする。
部屋を出て、重厚な扉が「カチリ」と音を立てて閉まった瞬間、カケルとヤマトは同時に顔を見合わせた。
カケルの顔から聖人のような「皇太子」の仮面が剥がれ落ち、そこには冒険を前にした少年の、悪戯っぽい瞳が戻っていた。
「……完璧な演技だったぜ、皇太子サマ。悪魔にだってなれそうだ」
「ヤマトの教え方がいいんだよ。……さあ、急ごう。彼女が夢から醒める前に行かなきゃ。城の警備を中央演算の死角に誘導してくれたんだろ?」
ヤマトは周囲をチラと一瞥し、険しい顔で前を指差した。
「ああ。だが、警備経路をずらしておけるのは十五分が限界だ。それを過ぎれば巡回が戻る。急ぐぞ」
ヤマトの言葉に、カケルは瞳をわずかに輝かせて頷いた。
「……上等だね。行こう、ヤマト!」
二人は音もなく回廊を駆け出した。
目指すは城の裏に眠る、あの暗闇の境界線。
黄金の城を背に、二人の少年の影は「境界線」に向かって、真っ逆さまに加速していった。




