第27話:境界線の共犯者 / RUNAWAY ALLIANCE
白亜の宮殿が誇る虚飾の光が、背後で嘘のように遠のいていく。
二人が足を踏み入れたのは、城の最深部、あるいは最果て。
華やかな歴史の教科書には一行も記されることのない暗部──境界線と呼ばれる場所だった。
そこは文字通り、神々の楽園と、下界を隔てる、絶望的な断絶の際である。
「はぁ、はぁ……ま、待ってよ、ヤマト」
慣れない険しい足場に、カケルは肩で息を切りながら必死に食らいついた。
剥き出しの配管と冷たい鉄錆がこびりついた金属の床。
地図に存在しないその領域は、カケルの目には楽園の裏側に隠された、どす黒い内臓のように生々しく映った。
高天原という巨大な生命体を維持するために、人知れず排熱を垂れ流し、汚濁を溜め込む消化器官。
カケルがこれまで踏んできた滑らかな床とは違い、ここは一歩歩くたびに、鉄の軋む音が神経を逆撫でするように響いた。
「おせーぞ、置いていくぞ」
ヤマトは足を止めることなく、重油と鉄錆の匂いが混じり合う奥へと進んでいく。
彼の右腕、ジャンク・ドライブがこの場所に澱む重たい大気に反応し、低く、威嚇するような唸りを上げていた。
ヤマトの歩みは、この廃墟のような場所でこそ力強さを増し、まるで野生の獣が獲物を追うような、淀みのない鋭さを帯びていた。
やがて、二人の前には巨大な強化透明隔壁が、世界の終わりを告げる壁のように立ちはだかった。
その向こう側には、カケルが今まで当たり前のように享受してきた黄金の雲海などは、どこにもなかった。
「……なに、ここ。真っ暗だ……何も、見えない」
カケルが息を呑んで立ちすくむ。
隔壁の向こうに広がっていたのは、光さえも届かない、底の見えない虚無だった。
時折、雷鳴のような青白い放電が遠くで走るが、それはこの場所の静寂をより深い絶望へと塗り替える、冷たい火花でしかなかった。
「ここが、お前らの国を支えてる、ただのフチだ」
ヤマトは隔壁に鉄の腕を預け、その暗闇を睨みつけた。
放電の光が、彼の険しい横顔を青白く切り取る。
「この先を降りていけば、俺たちの国だ。偽物の太陽も、お前の言う反射システムもねえ。煤と埃にまみれた、本物の暗闇が広がってる」
カケルは、吸い込まれそうな虚無に本能的な恐怖を感じながらも、逃げることなくヤマトの隣に並んだ。
透明な隔壁には、白い装束を纏ったカケルの姿が薄く映っていた。
その輪郭は背後の暗闇と重なり、放電が途切れるたび、闇の中へ呑み込まれるように消えていく。
ヤマトの金色の瞳が、その暗闇を──地獄のような故郷を、愛おしそうに、そして死ぬほど憎々しげに見つめていることに気づき、胸の奥が熱いナイフで抉られたように痛んだ。
「……ヤマトは、よくここに来てたの?」
「……。ここだけが、あの下らねえ黄金の光から逃げられる場所だからな」
ヤマトは自嘲気味に吐き捨てると、カケルの頭をくしゃりと乱暴に叩いた。
その荒っぽい手のひらには、高天原の住人にはない、確かな熱があった。
「どうだ、皇太子サマ。お前の『俺』っていう言葉が似合うのは、あっちの綺麗な椅子じゃなくて、この暗闇の方なんだぜ」
カケルはその言葉を噛み締めるように、静かに、そして力強く闇を見つめ返した。
琥珀に教わった偽りの歴史にも、管理された地図にも載っていない、世界の端っこ。
ここには、自分の意志で選ばなければ辿り着けない「真実」がある。
「この下に……ヤマトの国があるんだね」
「まあな。お前みたいな温室育ちの皇太子サマには、一生無縁の土地だ。……一度でも足を踏み入れたら、もう二度と清らかな人間には戻れねえぞ」
ヤマトは鉄の腕を組み、突き放すように言った。
それは彼なりの、最後の忠告だった。
だが、カケルから返ってきたのは、楽園の住人としては致命的な、そして最も美しい反逆の一言だった。
「ねえヤマト。僕……いや、俺、行ってみたい」
ふっと幼い仮面を脱ぎ捨てるように、カケルは初めて自分自身の声で言い放った。
「はあ? ……正気かお前」
ヤマトは思わず素っ頓狂な声を上げ、隣に立つ少年の横顔を覗き込んだ。
だが、その瞳に揺らぎはない。
カケルはかつてないほど真剣に、深い闇の底を見据えていた。
「前に言ったよね。僕も、この空の外側へ行ってみたいって」
「あのときヤマトは、そんなものは自由じゃない、贅沢な遊びだって言った。……それでも、俺は知りたい」
今度の「俺」は、誰かの口調を真似て零れたものではなかった。
「完璧な計算、完璧な環境、完璧な毎日。何ひとつ欠けていないはずなのに、ずっと息ができないような気がしてた。でも、ヤマトに会って、俺は初めて、自分が生きているって思えたんだ」
カケルは胸元を強く握った。
その奥では、琥珀の教えにもアマテラスの計算にもない、自分だけの鼓動が鳴っている。
「だから今度は、君が育った場所を、君が見てきた世界を、自分の目で確かめたい。汚れていても、醜くても、それが本当の世界なら……俺は、君と一緒に行きたい」
ヤマトは絶句した。
それはもはや不敬などという言葉では収まらない。
国家に対する宣戦布告であり、全システムを敵に回す自爆行為だ。
失敗すれば死。
成功したとしても、皇太子であるカケルの体が汚染されたことが知れたら、システムが容赦なく彼を囲い込み、今より酷い精神的支配や牢獄が待ち受けることになるだろう。
それは死よりも残酷な、生ける屍としての永遠だ。
「……正気じゃねえ。一度あっちの汚ねえ空気を吸えば、お前はもう『太陽』じゃなくなるんだぞ。その意味、わかってんのか?」
放電音が遠くで轟く中、カケルは誰にも聞き取れないほどの静かな声で、周囲を伺うように一歩踏み出した。
「うん。わかってる。だから──二人だけの、秘密だ」
カケルは、ヤマトが目にしたことがない微笑みで、自らの胸元を指差した。
その瞳には、琥珀の前で見せていた無垢な輝きはなく、代わりに昏い洞察が宿っていた。
「俺には、次代の器だけに付与される『皇太子コード』があるんだ。非常時に限って、宮殿内の封鎖区画を通行できる権限と、避難経路の監視記録を一時的に秘匿する機能、それから、皇族用の緊急避難設備を起動する権限がある。中枢までは触れられないけど、この境界を越えて、浴室の洗浄システムまで戻るくらいならできるはずだよ」
ヤマトの身体が、ぴくりと反応した。
(皇太子コード……。封鎖区画への通行権限だと?)
それがあれば、これまで閉ざされていた高天原の深部へ踏み込める。
アマテラスの心臓を食い破るための道が、目の前の少年によって開かれようとしていた。
打算は消えなかった。
復讐のためなら、この好機を逃す理由などない。
だが、カケルの瞳に宿る切実な渇望を、都合のいい道具として利用することへの痛みも、確かに胸の奥へ生まれていた。
ふと、雲の下で自分を待つ妹の姿が浮かんだ。
この世間知らずの皇太子を連れて帰ったら、あいつはどんな顔をするだろう。
カケルは、妹の咳を聞いたときも、今と同じようにその隣へ座ってくれるだろうか。
復讐のためか。
カケルの願いを叶えるためか。
それとも、妹にこの少年を会わせたいだけなのか。
自分を頷かせたものの正体を、ヤマトはまだ言葉にできなかった。
「……ったく。わかったよ。連れてってやるよ。どうなっても知らねえからな」
「本当!?」
「ああ。ただし、バレて俺が琥珀にぶっ殺されても文句言うんじゃねーぞ。琥珀の凍った面を想像するだけで、今から寿命が数十年は縮まりそうだ」
ヤマトが肩をすくめると、カケルは子供のように顔を輝かせた。
二人の少年の間に、かつてない絆──というよりは、共犯関係が結ばれた瞬間だった。
黄金の城の裏側。
監視の目を盗み、皇太子と下界の少年は、禁断の扉を開こうとしていた。
それは、偽りの楽園が終わりを告げる序曲。
そして、静かに牙を剥く悪意が、二人の背後まで音もなく迫っていることを、彼らはまだ知らない。




