第25話:境界の等式 / EQUATION OF TWO
網膜を灼くような光が、微睡から意識を強制的に引き剥がす。
ヤマトが意識を浮上させたとき、視界の端で捉えた時計の針は、すでに日付の境界線を越えて久しいことを無慈悲に告げていた。
「……っ」
跳ね起きた衝撃で、側頭部に鈍い痛みが走る。
視界が白く明滅する中、その光の渦の中心に、カケルが立っていた。
「ヤマト、おはよう。よく眠れたかな」
カケルが、穏やかな声で語りかけてくる。
ヤマトはまだ熱の引かない頭を抱え、昨日の断片を必死に手繰り寄せた。
カケルのベッドで意識を取り戻した後、再び泥の沼に沈む様に瞼を閉じてから、その後が全く思い出せない。
「……お前、どこで寝た」
「ヤマトのベッドを借りたんだ。いつもより少しだけ硬くて、なんだか新鮮だったよ。たまには、こういうのもいいね」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
もし琥珀がこの光景を目にすれば、「不敬」の一言では済まされないだろう。ヤマトの首など、一瞬で電子の塵に帰すはずだ。
だがカケルは、ヤマトの背筋を走る戦慄など知る由もなく、珍しいものを見つけた子供のように、無邪気に距離を詰めてくる。
至近距離で覗き込まれ、ヤマトは思わず呼吸を止めた。
「ねえ。ヤマトって、すごくまつ毛が長いんだね。昨日、君の寝顔をずっと見ていたんだ」
「……っ、う、うるせえ! 勝手に人の寝顔なんか見るんじゃねえよ!」
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
不意打ちを食らった動揺の裏で、ヤマトの背筋を冷たいものが這いずり回っていた。
――昨夜、自分はこの首筋に、冷たい鋼の刃を突き立てていたのだ。
カケルの純粋すぎる執着は、じわじわと真綿で首を絞めるようにヤマトの自由を奪っていく。この優しさは、そのまま琥珀の殺意となって自分に返ってくるという残酷な皮肉を、カケルだけが知らない。
「今日の分の講義は、明日に回してもらったんだ。だからヤマト、今日は一日ここで、しっかり休んでいて」
休めるはずがない。
妹を救えないという焦燥と、昨夜の自分の凶行、そしてこの温い「檻」に安住し始めていることへの恐怖がヤマトを苛む。
体はひとときの休息を得たところで、軽くなってなどいない。むしろ、精神の摩耗は限界に達していた。
「……おい。もう体は何ともない。それより……」
言いかけて、口を噤む。
心の中では、その言葉の先に何を言いたいのかは、薄々と自覚している。
しかし、復讐を誓い、今まで牙を研ぎ潜伏してきたはずの、下界の野良犬であるという自意識が、それを遠ざけていた。
ヤマトは、込み上げる罪悪感を乱暴に押し殺し、代わりにぶっきらぼうな言葉を吐き出した。
「いや……。昨日、お前が頭を抱えていた講義のアーカイブを出せ。暇つぶしだ、つき合ってやるよ」
机に横並びに座ると、青白い端末の光が二人の顔を冷たく照らし出した。
ホログラム上に躍るのは、高天原の基盤を支える『多次元霊子流動力学』の難解な論理体系だ。
「……あの女、説明がまどろっこしいんだよ」
ヤマトは鉄の指先で、空間に浮かぶ複雑な積分記号を切り裂くように指し示した。
「高天原の回路は対称に組まれてる。なら、境界面の一部を解けば、残りは反転させて使える。全領域を馬鹿正直に計算する必要はねえ」
「……え、待って、ヤマト。中身を計算せずに、外側だけでいいの? あ、あれ……?」
カケルが、見る間に眉根を寄せる。
皇太子として最高峰の英才教育を受けているはずの彼ですら、ヤマトの放つ「実戦的」かつ「超論理的」な飛躍についていけない。
「……いいか、もっと噛み砕いてやるよ」
ヤマトは端末の光をいじり、高天原の全景と、その遥か下に広がる濁った雲海──下界の立体図を投影した。
「お前たちが浴びているこの『光』、つまり霊子エネルギーは、高い場所から低い場所へ流れる水と同じだ。琥珀は、全領域の値を一つずつ拾わせてるんだろ。だが、必要なのは立体の中身じゃねえ。境界を通る流れだ」
「……水滴……全部……。うう、想像しただけで目が回りそうだよ」
「必要なのは、境界から入った量と、出ていった量だ。入口と出口を通る流れを全部足せば、中身を直接追わなくても、全体がどう変化したか分かる」
ヤマトの指先が、空間をなぞる。
光の糸で編まれたような複雑な計算式が、ヤマトの指が触れるたびに不要な贅肉を削ぎ落とされ、剥き出しの真実を映し出す極めてシンプルな等式へと収束していく。
「境界を通る量を調べれば、中にどれだけ増えたか、減ったかが分かるんだね!」
「やっと分かったか。そこさえ掴めば、あとは時間の経過を代入して微調整するだけだ。ほら、やってみろ」
カケルの瞳に、理解の光が宿り始めた。
ヤマトの導きに従い、彼は震える指先で端末を操作すると、数秒後、計算完了を告げるログが流れる。
「できた……! 琥珀の講義では三時間かかっても解けなかったのに」
「琥珀の説明は、無駄が多くて混乱させるだけだ。余計な前置きや装飾を削がねえと、本質は見えねえんだよ」
ふと、静寂が訪れた。
ヤマトが顔を上げると、ヤマトを見つめるカケルの瞳には、熱を帯びた、吸い込まれそうなほどの純粋な敬愛が宿っている。
「……おい、聞いてんのか」
「うん。やっぱり、ヤマトはすごいよ。君がここに来てくれたから……僕はやっと、自分が生きている実感を持てたんだ」
カケルは胸元へ手を添え、白い装束に留められたブローチを無意識になぞった。
「うまく説明できないんだけど……君と出会ったのは、この前が初めてのはずなのに、ずっと昔から、君が来るのを待っていた気がするんだ」
「……何だよ、それ」
ヤマトは鼻で笑おうとした。
だが、なぜか声が出なかった。
聞いた覚えなどあるはずもない言葉。
それなのに、カケルの声音は、忘れていた何かを呼び起こそうとする遠い残響のように、ヤマトの胸の奥へ入り込んでくる。
「ヤマトは、僕にとっての光で、熱で……命なんだ」
カケル自身も、零れた言葉に戸惑うように瞳を揺らした。
「君を大事にしたい。それが、僕自身を大切にすることにも繋がる気がする。……ずっと前から、そうしなきゃいけなかったみたいに」
その言葉は、願いというよりも、果たされないまま長い時を彷徨ってきた約束のように響いた。
「だから僕は、これからもヤマトと一緒にいたいんだ」
あまりに真っ直ぐな、毒のような献身。
拒絶しなければならないはずだった。いつものように罵り、甘ったれるなと突き放せばよかった。
だが、胸の奥に残る不可解な懐かしさが、ヤマトの唇から皮肉を奪っていた。
「……ったく。しょうもねえ甘ったれだな、お前は」
辛うじて吐き出した悪態とは裏腹に、ヤマトの口元は、ごく微かに綻んでいた。
「ヤマト、今、今笑ったよね!?」
「ちげーよ! おら、早く次の問題やるぞ! このバカ皇子!」
怒号で誤魔化そうとした瞬間、ヤマトの腹から、盛大に腹の虫が鳴り響く。
一瞬の静寂。
カケルが耐えきれずに吹き出す。
「ぷっ……はは、あははは!! ヤマト、ちゃんとお腹が空くんだね。あんまり食事もしないし、笑いもしないから、実は精巧なロボットなんじゃないかって思ってたんだよ」
「……っ、るせえ。人間なら、腹くらい減るだろ」
何も言い返せず、屈辱に顔を赤らめるヤマトに、カケルはさらに追い打ちをかけるような優しい眼差しを向けた。
「ご飯、食べようよ。ヤマトがいた国とは、何もかも違うかもしれないけど……でも、生きてるなら、食べなくちゃ」
「……わかったよ」
運ばれてきた食事は形状まで整いすぎており、口に運んでも、無菌室のような味気ない清潔さしか広がらない。
けれど、隣で楽しげに笑い、食事を運ぶカケルの気配が、無味乾燥なはずの食事に、かつてスラムで家族と囲った粗末ながらも温かかった、食卓の記憶を重ねていく。
高天原の冷たい光の下で、ヤマトの心に、消えない火が灯り始めていた。
「この後、黒鉄のところへ行こうかな」
「……あのおっさんか」
「ここまで運んでくれたお礼も言わなくちゃ」
「俺は、あの髭を毟らねえと気が済まねえ」
「ふふ。仲良くなれそうだね」
「どこをどう聞いたら、そうなるんだよ……」
ヤマトは深いため息をつき、肩をすくめた。
「……わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「うん!」
歩き出したヤマトの背を、カケルが嬉しそうに追う。
完璧な対称性に閉ざされた高天原へ、ヤマトという名の「致命的なバグ」が、静かに溶け込み始めていた。




