第24話:折れた牙の安息 / GENTLE CAPTIVITY
その朝、カケルが覚醒の淵から意識を引き揚げたとき、室内にはすでに「他者」の気配が満ちていた。
寝台のすぐ傍ら。
窓から差し込む、塵ひとつ許さない高天原の完璧な陽光を受けながら、ヤマトは古びた書物に目を落としていた。
身支度はすでに完璧に整えられている。
だが、その背中からは、昨夜までの彼が持っていた「獲物を狙う獣」のような鋭い緊張感は失せ、代わりに、どこか輪郭のぼやけた虚無が漂っていた。
「ヤマト、おはよう」
カケルは身体を起こし、柔らかな声で呼びかけた。
「……ああ」
返る声は、ひどく擦れていた。
ヤマトは視線を動かさない。
視線は古書の活字を追っているようだが、その瞳には何の色彩も宿っておらず、ただ文字の羅列を通り過ぎて、冷たい真鍮の机を見つめているようでもあった。
「……ヤマト? 」
カケルのわずかな不安を含んだ呼びかけに、ヤマトはようやく顔を上げた。
だが、その瞳はカケルの姿を捉える直前で逸らされる。
「……何でもねえよ。さっさと行くぞ。いつまで寝てんだ」
突き放すような口調で立ち上がる。
それは、かつてのような敵意ではなく、自分自身の内側に溢れそうな「何か」を無理やり堰き止めるための、必死の防壁のように聞こえた。
カケルはそれ以上追及しなかった。
ただ、回廊へ出てからも、ヤマトの歩調に遅れないよう、その隣を歩き続けた。
白磁の回廊を歩く足音が、高く天井に反響する。
カケルは、時折隣を歩くヤマトを盗み見た。
彫刻のように整ったその横顔。
鋼の右腕を覗かせる衣装の下で、時折微かに駆動音が鳴る。
その音が、ヤマトが確かにここに存在していることを証明しているようで、カケルは安堵を覚える。
だが、ヤマトの脳内は、目の前の眩い景色とは真逆の色彩に塗り潰されていた。
足元の大理石が滑らかであればあるほど、鼻をつくような下層界の「泥の匂い」が蘇る。
妹と分け合った、カビの生えた硬いパンの感触。
冬の夜、暖房も出ないあばら家で、互いの体温だけを頼りに震えていた記憶。
あの時、自分たちの命を繋いでいたのは、高天原のシステムが「部品」として切り捨てた、泥臭い執着だけだった。
(……反吐が出る)
「ねえヤマト。今日は、珍しく講義が無いんだ。だから、今日は庭園で一緒に過ごしたいと思って」
「……ああ」
短い生返事。
それでもカケルは構わなかった。
ヤマトが隣にいて、自分の言葉を拒まずに聞き届けてくれる。
それだけで、高天原の完璧すぎる空気が少しだけ柔らかくなる気がした。
たどり着いた庭園は、今日も不自然なほどに美しかった。
真鍮を叩いて作られた橘の木。
黄金の葉は風に揺れることもなく、ただ人工の光を反射して輝いている。
カケルはその冷たい花びらを指先で愛でながら、不意に遠い空を見つめた。
「……本物の、命が宿る花。見てみたいな。ヤマトのいた世界には、あったんでしょ?」
その言葉が、ヤマトの脳内で鋭いノイズを立てて弾けた。
昨夜、網膜に焼き付いたメッセージ。
【疾患照会:鉱血症】
【上層市民罹患記録:0件】
【医療研究指定:対象外】
【治療法:未登録】
本物の命。
泥にまみれ、病に震え、システムに文字通り「摩耗」として処理される、あの下層の命。
それを、この清潔な楽園の主が、罪の意識ひとつなく「見てみたい」と宣う。
その純粋さが、ヤマトにとってはどんな嘲笑よりも残酷な刃となって突き刺さった。
連日の極限状態、寝不足。
そして、昨夜突きつけられた、妹を救う道が閉ざされたという絶望。
高天原の眩いすぎる陽光が、ヤマトの神経を一本ずつ焼き切っていく。
視界が急速に色を失い、黄金の空が歪んで見えた。
(……こいつは、何も知らない。俺の妹が、今この瞬間も鉄に変わっていく恐怖を。俺が、昨夜こいつを殺そうとしたことも)
カケルが屈託のない笑顔でこちらを振り返る。
その光り輝くような純粋さが、今のヤマトには劇薬のような毒だった。
激しい憎悪と、それと同じだけの昏い罪悪感が胸の内で混ざり合い、黒い泥となって喉元までせり上がってくる。
「……ッ」
ヤマトは耐えきれず、温もりのない大理石の床に腰を下ろした。
雑音を一切排除した「死の庭」。
そこから見上げる黄金の空は、ヤマトの絶望をあざ笑うように、どこまでも美しく、どこまでも無慈悲だった。
カケルもまた、ヤマトの沈黙に寄り添うように、その隣へ静かに腰を下ろした。
「……ヤマト、少し顔色が悪いよ?」
その気遣いこそが、今のヤマトには最悪の劇薬だった。
「……何でもねえって、言ってんだろ……」
ヤマトの声は、地を這うように低い。
カケルは、黄金色の空を見上げたまま、独白するように言葉を紡いだ。
「……ヤマト、ここに来てくれて、本当にありがとう。君がいてくれると、この景色が、少しだけ本物に見える気がするんだ」
「……いつまでもここにいる訳じゃねえ。俺は、いつか──」
「僕は、ずっといてくれても構わないよ」
受け入れてしまえば、自分が自分でなくなる。
その恐怖が、昨夜から一睡もしていない身体をさらに強張らせた。
復讐も、怒りも、すべてがこの黄金の光に溶けて消えてしまう。
だが、拒絶しようとすればするほど、カケルの持つ「熱」が、ヤマトの凍てついた心を侵食していく。
目眩が、強烈な吐き気を伴って襲いかかった。
「……ヤマト?」
「うるせえな……。黙ってろ……ッ」
ヤマトは頭を押さえ、俯く。
だが、平衡感覚はすでに失われていた。
身体がゆっくりと傾き、抵抗する気力もなく、隣に座るカケルの肩にもたれかかる。
「ヤマト……!? 顔が、真っ青だよ……。部屋に戻ろう」
「……黙れ……」
視界が暗転する。
カケルの声が、深い水底へ沈んでいくように遠のいていった。
次に意識が戻ったとき、視界に入ってきたのは、カケルの私室の柔らかな天蓋だった。
ヤマトは自分がカケルのベッドに横たえられていることに気づき、戦慄した。
「気が付いたね」
傍らから、カケルの安堵したような声が聞こえる。
ヤマトは反射的に起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重い。
(……醜態を晒した)
守るべき対象に守られ、あろうことか敵地で意識を失うなど。
この柔らかな羽毛の感触さえ、下層で踏み躙られてきた家族や過去の自分への裏切りに思えて、猛烈な自己嫌悪が込み上げる。
「きっと、疲れが溜まってたんだよ。今日はゆっくりしてて」
カケルの手が伸び、ヤマトの額に、冷えた布が置かれた。
ヤマトは焼けた鉄を当てられたかのように、微かに身を震わせた。
だが、その慈悲に身を委ねるほど、自分の「牙」が脆く崩れていく恐怖に、ヤマトは奥歯を噛み締めた。
それは驚くほど心地よく、ヤマトの昂ぶった神経を鎮めていく。
だが、その心地よさを享受すること自体が、ヤマトにとっては敗北に等しかった。
「黒鉄が、ここまで運んでくれたんだ。こうしてあげるといいって聞いたけど……どうかな。少しは、楽になった?」
カケルは冷えた布を置き終えると、寝台脇の椅子に腰を下ろし、再び本を開いた。
昨夜、突き立てられなかった切っ先が脳裏を掠める。
今なら、背後からその細い首を締め上げられる。
そう考えながら、ヤマトの指が掴んだのは、カケルの首ではなく、柔らかなシーツだけだった。
視界の端に映るカケルは、ただ静かにページを捲っている。
自分が殺されるかもしれないなどという疑念を、微塵も抱いていない背中。その無防備さが、ヤマトの殺意を削ぎ、代わりに言葉にできない「恐怖」を植え付ける。
(……クソが)
復讐のために研ぎ澄ませた牙が、カケルの純粋な善意によって、一本ずつ抜かれていくような感覚。
その恐怖が、殺意よりも強くヤマトを縛り付けていた。
「……カケル」
「なんだい?」
カケルが本を閉じ、穏やかな眼差しでこちらを見る。
その透き通った瞳に、自分の醜い葛藤が映っているのではないかと錯覚し、ヤマトは息が止まりそうになった。
「……いや。なんでもねえ」
言いかけた言葉が感謝だったのか、懺悔だったのか。
ヤマト自身にも分からなかった。
彼は、額の布のひんやりとした感覚を噛み締めながら、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、高天原の「永遠」が不気味に輝き続けている。
この安息が、いつか自分を焼き尽くす偽りだと知りながらも、今はただ、重い眠りの底へと堕ちていくしかなかった。




