第18話:偽りの命、一振りの凶器 / THE LETHAL WEAPON
琥珀が置いていった膨大な資料の山──その予習が一段落した頃、宮殿に擬似的な正午を告げる鐘が鳴った。
高天原の静謐を切り裂くその音は、規則正しく、慈悲深く、そしてどこまでも機械的だった。
「カケル様、食堂へ。そこの不浄個体には別室で配給を与えます」
扉の脇に立つ琥珀が、氷のような声で命じる。だが、カケルはかつてないほど強い意志を瞳に宿して、その指示を真っ向から撥ね退けた。
「……僕は、ヤマトと一緒にここで食事を摂るよ。それに、今日はヤマトの勉強を助けたいから、今日の分の講義は明日にして欲しいんだ」
琥珀の顔が、不快げに歪んだ。彼女にとって、皇太子が下界の塵芥と同じ卓を囲むなど、生理的な嫌悪を催す事態に他ならない。しかし、カケルの意志は岩のように固かった。
結局、彼女は一礼して下がり、数分後には二人の前に豪奢な白磁の器に盛られた「食事」が運ばれてきた。並べられたのは、高天原の高度なテクノロジーが生んだ結晶──バイオ・フューエルだ。乳白色のゲル状の塊は、宝石のように美しく調えられているが、その実体は生命活動に必要な栄養素を完璧な比率で凝縮した、味気ない効率の塊に過ぎない。
天上界の「正解」を極めた無機質なエネルギー体を、カケルはいつもの習慣として違和感なく口へと運ぶ。高天原という無菌室で育った彼にとって、食事とは空腹を満たすものではなく、システムを維持するための「燃料補給」に過ぎなかった。喉を滑り落ちる乳白色のゲルは、味覚という概念すら存在しないかのように淡白だった。
対してヤマトは、その美しくも「死んでいる」料理を一瞥し、奥歯を噛み締めた。
下界の泥臭い飯には、血と獣の脂、焦げた煙の匂いがあった。だが、目の前にあるのは生命の気配を完全に脱臭された「概念としての栄養」に過ぎない。それはヤマトにとって、肺を焼く高天原の人工的な清浄空気と同種の、内臓が拒絶を叫ぶ毒だった。
「ヤマト、食べないの?」
不思議そうに小首をかしげるカケル。
その瞳の透明さが、今のヤマトには毒のように感じられた。
ヤマトは、胃の奥に広がる空虚な不快感を押し殺し、視線を資料の山へと戻す。
「……この山をどうにかしねえと、あの女の思うツボだ。食ってる暇はねえ」
それは、明らかな嘘だった。
実際には、空腹で、内臓が悲鳴を上げている。
昨日は生き延びるために無理やり流し込んだ。
だが、一度その死んだ味を知った身体は、二度目の摂取を頑なに拒んでいた。
「……そっか。ヤマトは勉強熱心だね。じゃあ、僕は急いで食べて、手伝うよ」
カケルは申し訳なさそうにバイオ・フューエルを飲み込み、食後の霊子茶を淹れるために席を立った。
「すぐ戻るよ。ヤマトも、お茶くらいは飲んでね」
カケルが部屋を出て、静寂が戻ったのも束の間──カケルの背中が遠ざかった瞬間、ヤマトの双眸が鋭くテーブルの端を捉えた。
白磁の柄、一点の曇りもない鋼の刃。高天原の洗練された美学が宿るその凶器に、ヤマトのジャンク・ドライブがギチリと乾いた悲鳴を上げる。
天井の監視レンズが角度を変える。
次に戻るまで三秒。
ヤマトの指が動き、白磁の柄を資料の陰へ滑り込ませる。
そのままナイフを羽織の内側へ抜き取った。
羽織の布地を裂けんばかりの冷たさが、布越しに腕の骨を伝う。空腹を満たす代償に、彼は一振りの牙を手に入れた。
カケルの足音を聞きつけると同時に、ヤマトは再び無表情な護衛の仮面を被り、何食わぬ顔をして資料を流し見る。
カケルが淹れてくれた霊子茶の熱を喉に流し込んだ後、ヤマトは本腰を入れて資料の読み込みを開始した。
琥珀の「処刑宣告」を覆すには、この情報の壁を力ずくで食い破り、彼女の想定を遥かに超えるバグとなる必要があった。カケルは約束通り「僕も付き合うよ」と言って、ヤマトの隣に座った。ヤマトが猛烈な勢いでページをめくり、脳内の演算回路をフル稼働させる横で、カケルはポツポツと、ヤマトの表情を伺いながら自分の身の上話を始めた。
「僕はね、生まれてからずっとこの宮殿の中にいるんだ。琥珀や廷臣たちに囲まれて、アマテラス様の教えを学んで……。外の世界のことは、本の中でしか知らなかった。だから、ヤマトが来てくれたことが、最初は怖かったけど、今はすごく嬉しいんだ」
ヤマトは聞き流していた。
資料に記された神機兵配備の変遷、回廊の増築記録、霊子回路の保守周期。それら一見無関係な情報を繋ぎ合わせ、ヤマトは監視経路と遮断箇所を脳内の侵略地図へ書き込んでいく。
カケルの声は、背景で鳴る風の音と大差なかった。
「僕はね、生まれた時から、お父様もお母様もいないんだ。……いや、お母様は、近くにいる。すぐ側にいるんだけど、触れ合ったことは一度もなくて。ヤマトにも、いつか会って欲しいな」
ヤマトの手が、一瞬だけ止まった。
だが、一言も返さずに次の一束の資料を手に取る。
カケルの孤独な独白は続いた。
誰もいない巨大な教室で一人、鏡に向かって礼法を学んでいた日々のこと。琥珀に厳しく叱られ、逃げ込んだ暗い書庫の隅で一人で泣いた夜のこと。カケルは、ヤマトが聞いていようといまいと構わないというふうに、ただ自分の中に溜まっていた「言葉」を吐き出していた。
「……お前は、そろそろ寝ろ」
ヤマトが不意に遮った。
システムが就寝時間を告げる微かな鐘を鳴らしていた。隣で眠そうに瞼を揺らしていたカケルは、ハッとしたように顔を上げた。
「……え? もう、そんな時間かな。ヤマト、すごいね。全然集中力が途切れないんだね」
鋭い眼差しで頁をめくり続けるヤマトを、カケルは驚嘆と憧れが混ざったような表情で見つめていた。
その純粋な眼差しが、ヤマトの苛立ちを煽る。
「お前が寝不足になると、俺が琥珀の野郎に責められるんだよ。早く寝ろ」
「……ごめんね、そうだね。邪魔しちゃって、ごめん」
カケルは申し訳なさそうに微笑み、大きな寝台へと潜り込んだ。部屋の明かりが落とされ、擬似的な夜の蒼い光が満ちる。
ヤマトは一人、資料の文字を獣のような集中力で追い続けた。暗闇の中で、彼の金色の瞳だけが、獲物を狙うように爛々《らんらん》と輝いている。
数時間が経過した頃だろうか。
ふと、ヤマトは顔を上げた。
寝台では、カケルが穏やかな眠りに就いていた。ヤマトは強張った身体を伸ばしながら立ち上がり、音もなくカケルの寝顔を覗き込んだ。
蒼い霊子の光が、少年の無防備な横顔を白々と浮かび上がらせる。規則正しい寝息の隙間から、掠れた声が零れた。
「……お母様……」
滴った涙が、誰に拭われることもなく真珠の粒となってシーツに吸い込まれていく。それは、永遠に届かぬ光を求め、暗闇の鳥籠で彷徨う子供の、声なき絶叫だった。
「……チッ、甘ったれが」
吐き捨てるように、ヤマトは毒を吐いた。
カケルの、常に誰かに縋り付くような眼差しの理由。生まれた時から家族と触れ合うことなく、鳥籠の中で過ごしてきた孤独。それが、あの穏やかな微笑みの下に隠れながらも、時折見せる物憂げな表情の正体だった。
ヤマトはそれをただ、冷めた心地で見つめていた。
一睡もせず、朝の時間が訪れた。
擬似的な太陽が再び宮殿を照らし始めた頃、カケルが目を擦りながら起き上がった。
「おはよう、ヤマト……。ずっと本を読んでいたの?」
「……まあな」
ヤマトはそっけなく答え、視線を逸らした。
昨晩の光景。
思い出したその瞬間に、自分の「鉄の腕」がどうしようもなく震えたこと。それらが理由もなく気まずく、ヤマトは不機嫌な蒸気を吐き出す。
「ヤマト……?」
カケルがそんなヤマトの顔を覗き込んでくる。
その無防備な顔、濡れた睫毛。
ヤマトは昨夜の「お母様」という寝言を思い出し、喉の奥がチリつくのを感じた。
「……ぼさっとすんな。おら、早く行くぞ」
ヤマトは、自分を見つめるカケルの視線を振り切るように、ぶっきらぼうに講義室の方向を指差した。声は掠れていたが、そこには徹夜明けの疲労を押し殺した、鋭い意志が宿っている。
「うん。行こうか、ヤマト」
カケルは弾んだ声で答え、花が綻ぶような笑顔を見せると、一歩先を歩き出したヤマトの後ろを小走りでついていった。
背後に感じる、カケルの全面的な信頼。
それは、懐に隠した盗品のナイフよりも重く、冷たく、ヤマトの胸の奥をチリつかせた。
(……笑ってんじゃねえよ、クソが)
ヤマトはその痛みの正体を確かめることなく、足音を強めた。




