第17話:黄金の処刑台、鉄の薫香 / GOLDEN GALLOWS
翌朝。
カケルの寝室を包む擬似的な夜が明け、天井の霊子回路が「完璧な朝」を告げる柔らかな光を放ち始めた頃。
重厚な白磁の扉が音もなく開き、入ってきた琥珀の貌には、昨夜の管理室で見せていたような狂気は、微塵も残っていなかった。そこに張り付いているのは、一点の曇りもない、凍てついた「正解」という名の仮面である。
「おはようございます。カケル様。清々《すがすが》しい朝ですわね」
琥珀の振る舞いには、ヤマトがこの部屋に現れる前のような、完璧な静けさが漂っていた。彼女はヤマトの存在など、最初からそこになかったかのように無視し、カケルの着替えを手伝い始め、無駄のない手つきで、最高級の霊子絹で織られた羽織の襟を整える。その動作は流麗で、まるで精密な自動人形の舞踏を見ているようだった。
琥珀は、カケルの肩に手を置き、鏡越しに彼を見つめながら、鈴の音のように透き通った声で話し始めた。
「カケル様。昨日の規定外のご判断を鑑み、私なりに一晩かけて熟考いたしました。……その不浄個体を護衛として側に置くのであれば、やはり相応の『調律』が必要です。高天原の秩序を乱さぬよう、本日より、お二方には、同等の教育プログラムを施しますわ」
琥珀の、冷たく刺すような宣言。それは実質的な支配権の奪還であり、ヤマトという「異物」を自分たちのルールという名の檻に引きずり込むための宣戦布告だった。
だがカケルは、その言葉の裏にある鋭利な殺意に気づくことなく、曇り一つない歓喜を爆発させた。
「本当!? ヤマトと一緒に学べるなんて……嬉しいよ。ありがとう、琥珀!」
「当然の義務ですわ。……文明個体としての適格性証明につきましては、この私、琥珀が。そして──」
琥珀が薄く微笑み、指先で扇子を閉じた。パチン、という微かな衝撃音が、静まり返った寝室に鋭く響く。
それが合図となった。
部屋の隅、日の当たらない濃い影が、生き物のように揺らめくと、影を裁断して現れたかのような一人の大男が、そこに立っていた。
「剣舞、および近接戦闘技術については、この黒鉄が、直々《じきじき》に指南いたします」
夜の闇をそのまま纏ったような漆黒の道着。その腰には、かつて顔を覆っていた鉄面が、役目を終えたように提げられていた。
鋼の硬度を思わせる筋肉をその身に宿した大男は、カケルに深く、かつ山のような重厚さを伴った一礼を捧げた。その動作一つに、長年戦場を渡り歩いてきた者だけが持つ、殺気と静寂が同居している。
黒鉄は一礼の後、穏やかな笑みを湛え、カケルの隣に立つヤマトへと視線を向けた。
「私は黒鉄だ。以後、よしなに。ヤマト」
ヤマトは鼻先でせせら笑い、その圧を撥ね退けるようにして通り過ぎようとし、不意にその足を止めた。
鋭い鼻腔を突いたのは、高天原特有の人工的な香料や、霊子の芳香ではない。それは、重油と煤、そして長年使い込まれた金属だけが放つ、血の通った、泥臭く、それでいて狂おしいほど懐かしい──「鉄の匂い」だった。
ヤマトのジャンク・ドライブが、その匂いに共鳴するように、微かな、けれど熱い振動を上げ始める。
「……おい、おっさん。あんた、いい匂いがするな。……俺たちと同じ、ドブ底の脂の匂いだ」
ヤマトの剥き出しの挑発。高天原の廷臣であれば、激昂するか汚物を見る目で蔑むはずの無礼な物言いを、黒鉄は微塵も揺らがず、穏やかな微笑を浮かべて頷いた。
「左様。私もまた、この地に拾われた身だ」
「…………っ」
鋭い切っ先で突き刺したつもりが、巨大な綿壁に飲み込まれたような、言いようのない居心地の悪さがヤマトを襲う。
「すごいよヤマト! 黒鉄も、元々は外の世界を知っている人なんだ。これで、朝から晩までずっと一緒だね。夢みたいだよ!」
カケルは、ヤマトが黒鉄へ向けた威嚇の火花を、あろうことか「友情の予感」として受け取り、純粋な喜びを爆発させていた。
だが、ヤマトの金色の瞳は、背後で冷たく、獲物の死を確信した捕食者のように微笑む琥珀の視線を見逃さなかった。
(……教育だぁ? 笑わせんじゃねえ。この女、狙ってやがるな)
彼女の目的は最初から「教育」などではない。その真の意図は、カケルが普段受けている英才教育をヤマトに施すことで、その失態を「公的な排除の理由」にするための、冷徹な捕食者の策略だった。
「──とは言え」
琥珀が、冷たく、刺すような言葉を重ねた。
「私共の崇高なる歴史を学ぶ上での基礎言語も知らないようでは、足手纏いとなり、カケル様の教育プログラムに支障が出ます。無知は時に、罪よりも重い停滞を招くものですわ。高天原の秩序にとって、あなたはあまりに粗野で、不完全すぎる」
琥珀が小さく指を鳴らす。すると、部屋の隅に控えていた数体の自動人形が、ガシャン、ガシャンと不機嫌な金属音を立てて進み出てきた。人形たちの腕には、厳かな装丁が施された重厚な書物や、高密度な情報が刻まれた霊子プレートが、山のように積み上げられている。
人形たちは、それらをヤマトの目の前にあるテーブルへと次々に置いていった。資料の山は、ヤマトの胸の高さを超え、視界を遮るほどの壁となっていく。
「明日までに、これらすべてを読み込んで来なさい。当然、中身の理解度を確認する試験も行いますわ。一文字の漏れも、解釈の誤りも許されません」
琥珀の無慈悲な宣告に、カケルが思わず声を上げた。
「待って、琥珀! これはいくらなんでも多すぎるよ。高天原の古語も含まれているじゃないか。たった一日でなんて、僕だって無理だ……!」
「カケル様、甘やかしてはいけません。護衛とは、主の歩調に合わせ、主と同じ知を共有するのが最低限の務め。それができないのであれば、初めからその席に座る資格がないということですわ」
琥珀はカケルの抗議を冷ややかに受け流し、ヤマトへと向き直る。その眼差しは、聖域に踏み込んだ獣を値踏みするようだった。これは、琥珀が突きつけた、洗練された黄金の「排除宣告」なのだ。
資料の山と琥珀の顔を見比べ、ヤマトは己の内に渦巻くどす黒い反骨心に火をつけた。
(……やってやろうじゃねえか。この女、俺がここで『すみませんでした、俺には無理です』って泣きつくのを、今か今かと待ってやがるんだ)
ヤマトの金色の瞳に、烈火のような怒りと、それを上回る冷徹な決意が宿った。右肩に食い込む神経釘が熱を持ち、ジャンク・ドライブが静かに、けれど激しく唸りを上げる。
「……上等だ。明日だな。一文字も残さず、食い尽くしてやるよ。その透かした面から、余裕を毟り取ってやる」
ヤマトの、不屈の宣戦布告。
琥珀はそれを鼻で笑うようにかわすと、黒鉄を促して部屋を去っていった。
静寂が戻った部屋で、ヤマトは圧倒的な情報の暴力──資料の壁の前に立ち尽くしていた。
「ヤマト、僕も一緒にやるから……」
カケルが、不安げに彼の袖を引く。
「……いや。基礎でいい。読み方だけ教えろ。あとは自分でやる。俺は、お前の『ペット』になるために、ここに居るわけじゃねえんだ」
「……わかった。じゃあ、まずはこの『創世記』から始めようか」
二人はテーブルに並んで座った。カケルが紡ぐ高天原の基礎言語の響きを、ヤマトは獲物を狙う獣のような鋭い集中力で聞き入っていた。一文字ずつ、その形と音を脳内のデータベースに叩き込み、カケルが教える歴史の裏にある「システムの矛盾」を探る。
窓の外では、アマテラスが制御する「完璧な光」が、影一つない庭園を照らし続けている。
カケルの穏やかな声と、ヤマトの右腕から時折漏れる熱い蒸気の音。明日から始まるであろう「教育」という名の合戦を前に、ヤマトの復讐の炎は、その静かな時間の中で、さらに静かに、けれど逃れようのない勢いで燃え広がっていった。
ヤマトは、手元にある情報の重みを感じながら、カケルの横顔を盗み見た。
(……お前が呑気に胡座をかいているこの世界を、俺が内側からぶち壊してやる)
手元の『創世記』に記された美しい神話。その一文字一文字を、ヤマトは祈りではなく、楽園を解体するための設計図として脳裏へ刻み込んでいった。




