第19話:教義の剥落、生存の牙 / BROKEN DOGMA
琥珀が考案した、教育の名目を被った『強制排除』が始まって二日目。
管理官室を兼ねた講義室のデスクを、琥珀は指先が白く変色するほど強く握りしめ、襲い来る眩暈を必死に堪えていた。
彼女の脳裏では、高天原の絶対的な秩序を象徴する数式が、冷徹な論理によって無残に書き換えられていく光景が、まるで呪詛のように反芻されていた。
(……あり得ない。こんな、計算外の事態……。アマテラス様の導き出した予定調和の中に、これほどの不純物が存在するはずがありません……!)
琥珀がヤマトに課したのは、高天原の貴族層でさえ習得に数年を費やす「超弦論理数理」と、迷宮のように複雑怪奇な「高天原公定法」の全文暗唱だった。
これらは単なる知識ではない。
高天原という楽園を維持するための「美しき思想」そのものだ。
一日の猶予を与えたとはいえ、高天原の古語すら知らぬ下界の獣が、一文字も読めずに立ち往生し、己の無知をカケルの前で晒して、自ら這いずり回るように辞退を申し出る──琥珀が描いたシナリオは、完璧なはずだった。
だが、目の前の現実は、あまりに無慈悲に琥珀を嘲笑っていた。
講義一日目。
琥珀が聖母のような、しかし底冷えする微笑みでデバイスのキーを叩くと、ヤマトの眼前に、膨大な数式が滝の様に羅列されていく。
「この霊子機関を制御する演算式を最適化し、規定出力へ到達させなさい。昨日の猶予を差し上げたのですから、この程度の難易度であれば、造作もないことでしょう」
琥珀が、射掛けるような眼差しをヤマトへ送る。
しかし、そんな琥珀の悪意を根底から踏みにじるように、ヤマトは用意された「最高難度の罠」を一瞥し、鼻先でせせら笑った。
「……おい。この式の三行目、演算負荷がでかすぎて反吐が出るぜ。変数をこう書き換えりゃ、無駄な処理が一瞬で削れるだろうが」
ヤマトが鉄の指を走らせ、数式の一点を修正する。その流れるような手際を見るなり、琥珀の顔が見る見るうちに歪み始めた。
「……っ、それは……その解法は……っ!」
琥珀が絶句する。ヤマトが指摘した変数の書き換えは、高天原の最先端演算機が行う「極限短縮」と全く同じ論理だった。しかし、それは何千人もの学者が何世代もかけて積み上げてきた叡智の結晶であり、下界の生身の人間が直感で辿り着けるような領域ではない。
ヤマトは冷めた目で、端末に並ぶ数式そのものを蔑むように言い放った。
「それだけじゃねえ。琥珀、あんたらの理論は『美しさ』にこだわりすぎて、無駄な贅肉が多すぎるんだよ。エネルギーの逆流を恐れて安全限界を取りすぎだ。予備回路まで眠らせたまま、総出力の四割を遊ばせてやがる。……ハイヴでこんな設計を使ったら、負荷に出力が追いつかず、十秒もせずに主回路が過熱する。最後には心臓部まで焼き切れるぜ」
「……な、何を……」
ヤマトはキーボードからパッと手を離すと、心底退屈そうに首の骨を鳴らした。
「主回路と予備回路を並列駆動させて、通常時の負荷を分散しろ。異常を検知した系統だけ障害分離すれば、冗長性を残したまま同期速度を二倍近くまで上げられる。……壊れるのが怖いからって、回路を眠らせて性能まで殺すな。壊れねえ仕組みを組んだ上で、限界稼働させろ。あんたらの正解は、死なないための臆病な妥協の積み重ねに過ぎねえんだよ」
吐き捨てられた正論は、琥珀の矜持を容赦なく打ち砕いた。
ヤマトにとって、計算とは「生存」そのものだった。限られた電力、錆びた部品、明日をも知れぬ命。それらを繋ぎ合わせるために、彼は幼い頃から最適解を自らの頭脳で導き出し、生き延びてきた。
高天原の学問が「鑑賞するための芸術」なら、ヤマトの知性は「過酷な環境を生き抜くための牙」だった。
さらに、ヤマトの猛攻は止まらない。
高天原公定法の全文暗唱を命じれば、ヤマトは一字一句違えることなく終えた。
そのうえで、関連資料として与えられた統治記録へ目を移し、行間に隠された構造的矛盾を暴き立ててみせた。
「この時代の統治記録と、こっちの食料分配の帳尻が合ってねえ。……おい琥珀。この時、ハイヴの特区を一つ『間引き』して、数字を埋め合わせたな? 都合のいい神話に仕立ててんじゃねえよ。ただの大量虐殺だ」
「黙りなさい……! 不敬ですわよ!」
琥珀が思わず激昂する。
ヤマトが指摘した構造的矛盾とは、これまで高天原が『洗浄』と称し、支配層が行ってきた下界に生きる民への『選別行為』そのものだった。
「事実を言ったまでだ。あんたの教える『歴史』ってのは、ただの綺麗なゴミだな。死臭を、香料で隠してやがる」
琥珀は言葉を失い、喉の奥からせり上がる屈辱を、血を吐く思いで飲み込んだ。彼女の誇り、彼女の信仰、そして彼女がカケルに教え込んできた世界の「美しさ」が、この煤汚れた少年の一言一言によって根底から汚染されていく。
「……っ、そんな、野蛮な……」
「野蛮? 笑わせるな。あんたの言う『高潔な知性』ってのは、結局のところ、誰かに守られた温室の中でしか機能しねえんだよ。……おい、琥珀。あんたがさっきから大事そうに抱えてるその扇子、骨組みの三番目を見ろ。接合部がもう歪んでる。次の湿度調整で、そのご自慢の細工ごと弾け飛ぶぜ」
ヤマトの鉄の指先が、琥珀の胸元で淡い輝きを放つ白磁の扇子を捉える。金色の瞳が真っ直ぐ向けられると、その少年とはおよそかけ離れた威圧感に、琥珀は気圧された。
「……これは、代々の管理官に受け継がれた、至高の──」
「『至高のガラクタ』だろ。……高天原の奴らは形式を磨くことに必死で、本質を何一つ見てねえんだよ。この数式も、歴史も、そしてあんた自身もだ。表面の金箔が剥がれるのを恐れすぎて、中身が腐ってることにすら気づかねえ。……あんたの正義は、ハイヴのゴミ捨て場に転がってる錆びたネジ一本分の価値もねえよ」
琥珀は、自身の生きるよすがそのものを「ゴミ以下の無価値」と断じられ、酸素を求める魚のように口を微かに開閉させた。
彼女が守りたかったのは「調和」であり、ヤマトが突きつけたのは「現実」という名の暴力だった。
カケルは二人の応酬を、青ざめた顔で見つめていた。
ヤマトが暴いた記録の意味を、まだ完全には飲み込めない。
それでも、この国が教えてきた歴史と、目の前の数字が食い違っていることだけは分かった。
「……僕には、まだ全部は分からない。でもヤマト、君は一日で、この数字の裏に隠れていたものまで見つけたんだね」
尊敬と羨望が混ざった潤んだ瞳でヤマトを見つめるカケルを、彼は横目で見ながら、僅かに眉根を寄せる。
その理解は未熟ではあったが、教えられた正解を疑おうとする姿に、ヤマトの胸には微かな憐れみが生まれた。
しかし、その純粋無垢さを手塩にかけて作り上げてきた琥珀にとっては、カケルが送るヤマトへの称賛こそが、彼女のプライドを、心臓ごと粉々に打ち砕いていく、何よりの刃だった。
カケルがヤマトを認めれば認めるほど、琥珀が築き上げてきた「完璧な皇太子」の世界に、取り返しのつかない黒い亀裂が走っていく。
「ヤマト。君、本当に頭がいいんだね。僕、もっと君から色んなことを教わりたいな」
「……別に、生きてくりゃこれくらい当たり前だ。計算を間違えりゃ、その場で腕か命が飛ぶ世界だからな」
ヤマトはそっぽを向いたが、その瞳の奥には、琥珀の焦燥を楽しむような、冷徹な捕食者の光が宿っていた。
彼は復讐のためにここにいる。
琥珀を論理で圧倒し、その顔を歪ませることは、彼にとって最高の娯楽であり、高天原崩壊への確実な足がかりに過ぎなかった。
「カケル様……それは……。この不浄個体は、ただ、野蛮な屁理屈を……」
「屁理屈じゃねえ、論理だ、琥珀。……あんたの教える正義は、ただの『綺麗なゴミ』だ」
ヤマトは勝ち誇ったように鼻で笑い、金色の瞳で琥珀を射抜いた。
高天原の学問など、体裁を整えるだけの「お遊び」に過ぎない。ヤマトの知性は、血と油に裏打ちされた「生」のための武器だった。
琥珀は、屈辱のあまり、視界が真っ赤に染まるのを感じた。
計算が狂った。
ヤマトを無能として排除するはずが、皮肉にもカケルの彼に対する信頼と興味を、より強固な、憧れに近いものへと変えてしまったのだ。
「……本日は、私の講義は、ここまでにいたしましょう」
琥珀は震える声でそう告げるのが精一杯だった。
背後で、カケルが「ねえヤマト、さっきの式の続きを教えて!」と親しげに声をかけ、ヤマトが「うぜえな、一回しか言わねえぞ」と毒づきながらも言葉を交わす音を聞きながら、琥珀は心の中で黒い決意を、深い怨念と共に固めていた。
(これ以上、カケル様の純白を汚させるわけにはいかない……。言葉による排除が叶わぬのなら、次は物理的な『消去』を。……どんな手を使ってでも、この害獣を処理しなければなりませんわ……)
琥珀の手の中で、代々の管理官へ受け継がれてきた白磁の扇が、音を立てて折れた。その破片が彼女の指を傷つけ、一筋の血が流れたが、彼女はそれすら気づかないほどに、狂気に満ちた眼差しで二人の背中を凝視する。
高天原の完璧な静寂が、音を立てて崩れ始めていた。




