第15話:黄金の箱庭、影なき楽園 / SHADOWLESS EDEN
二人が回廊へと踏み出した瞬間、大気の密度が変わった。
燃え盛るような赤髪は調律された光を乱反射させ、土と鉄を煮詰めたような褐色の肌は、高天原の清廉な美学を真っ向から否定している。カケルが贈った黒い羽織は、ヤマトの逞しい肉体を包んでいたが、それでも彼の放つ「野性」を隠し通すことはできなかった。
すれ違う廷臣や侍女たちが、衣の擦れる音さえ止めて凝視する。
その眼差しに宿るのは、知性ある者の好奇心ではない。自らの「完璧」を汚された際に沸き起こる、生理的な嫌悪だった。
「……見なさい、あの色を。不吉ですわ」
「下界の獣がなぜここに……。不浄が伝染りますわよ」
「それに何なのあの腕……穢らわしい……」
絹を裂くような、静かで鋭い毒がさざめく。
ヤマトの鉄の腕──ジャンク・ドライブが、主の神経波に呼応してギチ……と、低く不吉な軋みを上げた。内部のギアが高速で噛み合い、噴き出しそうな蒸気の熱が、ヤマトの右肩の傷痕を苛む。
「……おい、カケル。言っとくが俺は見せもんじゃねーぞ」
ヤマトの警告は、低く、這うような重圧を伴っていた。
黄金の瞳には、いつでもその喉笛を食い破れるほどの獰猛な光が宿っている。だがカケルは、その毒々しい空気さえも春の陽光に変えてしまうような、危ういまでの無邪気さで応じる。
「みんな驚いてるだけだよ。ヤマトはかっこいいから、どうしても目立っちゃうんだね」
「……おめでてー頭だな」
ヤマトは吐き捨て、視線を逸らした。
悪意を善意へ読み替えてしまうカケルの思考は、ヤマトにとって、何より理解し難い壁だった。
やがて、カケルが「ここが、僕が一番『息ができる』場所なんだ」と、微かな溜息混じりに足を止めた。
城の最上層から天空へ向かってせり出した、白亜の展望テラス。眼下には、黄金の雲海が綿菓子のように敷き詰められ、その上には白磁の巨塔が林立する高天原の全景が広がっていた。
都市の骨組みは、無機質な白磁と、重厚な真鍮製の歯車や装飾によって構成されている。そこには、一本の生きた草も、一輪の生花も、風に呼吸する木々も存在しない。ただ、黄金の粒子が雪のように舞い、永遠に続く光の連鎖が、世界を影のない「真昼」に固定している。
カケルは手にしていた扇子を閉じ、眼下の景色を示した。
「どう? 綺麗だと思わない?」
カケルの問いに、ヤマトは眩暈を覚えるほどの光量に目を細め、冷めた心地でその黄金の虚無を見つめた。空はどこまでも高く、そこには雲一つ、鳥の影一つない。あまりにも完成されすぎた、静止画のような景色が広がっている。
「……ここに、夜はねーのか」
「夜? 暗くなる時間のことかな。本で読んだことはあるけど、高天原に完全な闇が訪れることはないんだ。太陽エネルギーの反射システムが、常にこの世界を照らしているからね」
「……年中、この眩しさかよ。頭が狂いそうだな」
「あはは、そうだね。でも、人々が眠る時間になると、光の波長が変わるんだ。……擬似的な夜、とでも言うのかな。その静寂も、僕は嫌いじゃないよ。アマテラス様の加護が、穏やかに僕たちを包んでくれている気がするんだ」
「……へっ。そいつは夜じゃねえ。『実験室の消灯時間』だ。お前らは寝る時間までシステムに決められてるってわけだ」
「え……?」
カケルは、その言葉の棘を消化しきれず、ただ小首をかしげた。
「光が弱まったから寝ろ、強くなったから起きろ。……家畜じゃあるまいし、そんな都合のいい光のなかでよく息ができるな」
ヤマトはテラスの縁に鉄の腕をつき、眼下に広がる「見えない底」を見つめた。
「ずっと朝が来ない、真っ暗な俺たちの国よりはマシか……。苦労知らずのお前にはお似合いだよ、この眩しすぎる箱庭は」
ヤマトが口にする「朝が来ない」という言葉が、比喩ではなく物理的な絶望であることを、今のカケルは想像も及ばない。
朝の来ない場所で、ヤマトは誰と暮らしていたのだろう。そう考えた瞬間、カケルの胸に新たな疑問が浮かんだ。
「そういえば……ヤマト。君の、家族のことを……聞いてもいいかな」
カケルは祈るような声音で、踏み込んではならない領域に触れる。その瞬間、ヤマトの右肩に走る神経釘の接合部が、熱い鉄を押し当てられたように疼いた。
母の、あの最期の軋むような音。
父を呑み込んだ炭鉱の暗闇。
そして、暗い部屋の隅で、兄の帰りを信じて灯火を守り続けている唯一の光──妹の、あの薄氷を踏むような儚い咳の音が、耳の奥で爆音となって蘇る。ヤマトの顔を覆っていた「護衛」という名の仮面に、一瞬だけ苦悶の亀裂が走った。
「きっと、ご両親も君を探しているよね。体が癒えたら、すぐにでも安心させてあげなきゃ」
カケルの純粋な善意。それが、ヤマトにとっては最も鋭利なナイフとなり、魂の深部を切り裂いた。高天原という「持てる者」の視座から投げかけられる、無知ゆえの残酷な正論が、ヤマトの心を抉っていく。
「……いねーよ」
カケルの問いを遮るヤマトの声は、地底から響く地鳴りのようだった。
「親父は……事故で死んだ。お袋は、そのあと……病気でな」
カケルの表情から色彩が消え、扇を握る指先が小刻みに震え始める。
「あ、ごめ……ごめんなさい。僕……」
「……別に、謝ることじゃねーよ。……住む世界が違うんだ。最初から分かり合えるなんて思ってねえよ」
ヤマトは冷徹に言い放ち、視線を黄金の雲海へ投げた。
カケルが謝ることで、自分の負った傷が消えるわけではない。寧ろ、支配層の頂点である皇太子からの謝罪という重荷を背負わされることこそが、ヤマトには耐え難かった。
ヤマトはテラスの白磁を、鉄の指先でミシリと軋ませた。自分という個が消えてしまわぬよう、憎悪を芯にして言葉を継ぐ。
「それに……俺は、天涯孤独なわけじゃない。……まだ、守らなきゃならねえもんがあるんだ」
その瞬間、ヤマトの瞳に宿っていた漆黒の憎悪が、ふっと凪いだ。
脳裏には、折れそうなほど細い身体を丸め、帰らぬ兄を待つ妹の姿があった。呟く彼の横顔には、戦士でも復讐者でもない、切ないほどに一途な「兄」の貌が浮き上がっていた。
「……それは、誰なの? 君が守らなきゃいけない人って」
カケルは、黄金の雲海の底に細い光を見つけたような、祈る心地で問いかけた。
牙を剥くこの少年の内側に、自分以上に大切に想う「守るべき命」が存在する。その事実に、絶望的な断絶を越えた先の、細い糸のような繋がりを感じたのだ。
「妹だよ。……体が弱くてな。俺がいねえと、一人じゃ何一つできねえ、手のかかるドジな奴だ」
「妹さん……」
カケルは、その未知の概念に、吸い込まれるように瞳を輝かせた。
高天原では、血縁でさえも管理・最適化の対象であり、ヤマトが口にするような「絆」は皇太子である彼にとっても、希少で眩しいものに思えた。
「ヤマトに似てる? ……やっぱり、君と同じ、綺麗な夕日の色をした髪なのかな」
「……は? 別に、似てねーよ。あいつはもっと……なんていうか、静かな奴だ」
実際には、妹も同じ燃えるような赤い髪を持っていた。けれど、ヤマトの猛々《たけだけ》しい「赤」とは違い、妹のそれは夕暮れ時の柔らかな光を溶かしたような、優しく繊細な赤だった。
「あいつは、もっと……もっと……」
言葉が途切れ、ヤマトは奥歯を噛み締めた。
この眩しすぎる楽園の光の中に、あの子を置いてやりたいと願う一方で、この冷酷な「正解」しかない檻にあの子を連れてきたら、あの柔らかな、微塵の嘘もない笑顔まで、システムの塵に還元されてしまうのではないか──そんな葛藤が、ヤマトの心臓を締め付ける。
「……いつか、会わせてもらえるかな?」
カケルの無邪気な願いが、ヤマトの胸をチクリと刺す。
「……さあな。お前みたいな、光で目が腐ってる皇太子サマに、見せてやる道理はねえよ」
突き放す言葉の裏側に、ヤマトは確かに感じていた。
いつの日か、この無防備な首筋に自分の「鋼の指」をかける。その未来を思い描いた瞬間、胸の奥に先ほどの名もない異物が微かに疼いた。
ヤマトは、その正体を考える前に押し殺した。
黄金の城の頂上で、二人の少年は並んで雲海を見つめる。
一人は、まだ見ぬ「妹」という存在に、この閉ざされた楽園の外側への憧憬を抱き始めていた。
そしてもう一人は、隣で微笑む皇太子の無防備な首筋を睨みつけながら、この美しくも空虚な「支配」の心臓部をどう食い破るか、冷徹な算段を再開させていた。
「よし、次はあっちの空中回廊を見に行こう! ヤマト、ついてきて!」
カケルは、ヤマトの手を取ろうとして一瞬指を躊躇わせ、代わりに、その袖を、壊れ物を扱うようにそっと引いた。
ヤマトは小さく、自分への苛立ちと共に舌打ちをした。
振り払おうと思えば、容易にできた。
だが今は、この皇太子の懐へ潜り込むことが目的だ。そう言い聞かせ、袖を引かれるまま、その歩調に足を合わせた。
光の中へと消えていく皇太子の背を、重い鉄の音を響かせながら、ヤマトはどこまでも、どこまでも追っていった。




