第14話:刻印を塗り潰す名 / OVERWRITE : YAMATO
空腹が完全に満たされたわけではない。
だが、胃の奥に沈んだ重たい「無機質な栄養」と、舌の根にこびりつく「果実の甘み」を残して、この世界での最初の食事が終わった。
「琥珀には僕からうまく言っておくから、大丈夫だよ。これから、毎日一緒だね!」
自分の胸の中に渦巻く殺意や郷愁など露ほども知らず、カケルは花が咲くような笑顔でそう言った。その屈託のなさに、少年は怒りを通り越して、この皇太子が哀れにすら思えてきた。
(このガキは、自分が立っている地面がどれほど多くの死体の上に築かれているのか、その残酷な真実を一つも知らないまま、一生を終えるのか……)
死を覆い隠すための白。
腐敗を隠すための清潔。
カケルの笑顔は、その「虚飾の楽園」を完璧に体現しているようだった。
この国、高天原では、すべてが「最適化」という名目のもと、生々しい質感から切り離されている。先ほど食べた味のないゲルのような食事も、そして目の前で無防備に笑う少年も、すべては中央演算アマテラスが管理する巨大な舞台装置の一部に過ぎない。
「この後は、お城の中を案内するね! えっ……と……」
不意に、カケルが言葉を詰まらせた。
「……何だよ」
「その、呼び方なんだけど。……君のこと、なんて呼べばいいかな?」
名前がないと言った少年に、どう声をかければいいのか戸惑っているようだ。少年にとっては、そんな気遣いさえも、余計な摩擦を生む雑味でしかなかった。自分を一個の人間として扱おうとするカケルの試みが、彼の剥き出しの神経を逆撫でる。
「構わねえよ。ナンバリングで呼べばいい。……『08《ゼロハチ》』だ」
吐き捨てるように言った少年を、カケルは悲しそうに見つめた。
瑠璃色の瞳に、偽りのない同情が浮かんでいる。その清廉さが、少年には何よりも毒々しく感じられた。
「うーん……そんなの嫌だよ。番号なんて、冷たいじゃないか。そうだなぁ……」
カケルは真剣に考え込み、やがて何かを閃いたように顔を上げた。その瞳が、室内を照らす霊子結晶の光を受けてキラキラと輝く。
「ヤマト! 君の名前はヤマトだ!」
「……は?」
少年は呆気にとられた。
勝手に、しかも聞いたこともない響きの言葉を押し付けられたことに、激しい不快感と、それ以上の「未知の振動」を覚える。
「ヤマトはね、古い時代に、この国で生きた誇り高い人々を指す言葉なんだ」
カケルは誇らしげに、その響きを確かめるように繰り返した。
「ヤマト。……うん、やっぱり君にぴったりだ。今日から君は、08《ゼロハチ》なんかじゃない。僕の護衛の『ヤマト』だよ」
──命ある、誇り高き人。
死に物狂いでハイヴの泥を這いずり、自分の腕さえ切り落として、他人の使い古した「部品」になり果てた自分に、これ以上ないほど不釣り合いな名前だ。
ヤマト、というその響きは、この無機質な部屋の中ではあまりにも熱を持ちすぎているように感じられた。それは、母が自分を優しく呼びかけた声や、妹が自分を求めて縋った声にも似た、血の通った、泥臭いまでの生命の響きを持っていた。
「……勝手にしろ。ただの呼び記号だ。好きに呼べばいい」
けれど、その耳たぶが微かに赤らんでいることに、少年自身は気づいていない。
「ねえ、自分で言ってみて。君の名前、なーんだ?」
「……あ?」
「君の名前だよ。僕が呼ぶだけじゃなくて、君自身がそれを認めてくれないと、本当の名前にならない気がするんだ」
少年の奥歯が、ギリ……と鳴った。
これまでの人生で、自分を自分たらしめる言葉を必要としたことなどなかった。
ただ「08《ゼロハチ》」という刻印を受け入れ、家畜のように働かされることがすべてだった。その少年が、今、自分の内側にある「魂」を肯定しようとしている。
ヤマトは、誰にも聞こえないような小さな声で、その禁忌の響きを絞り出した。
「……ヤマト」
「え? なあに?」
「……ヤマトだよ! クソッ、一回しか言わねえぞ!」
ヤマトは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
番号ではなく、自分という一個の人間を指し示す言葉。それを自ら発した瞬間、神経釘が刺さったときとは違う、痺れるような感覚が背筋を駆け抜けた。
自分の声が、自分という空虚な器の中に「名前」という重厚な液体を流し込んだような、不思議な実感が湧き上がる。
ヤマトは胸の奥で悪態をつきながら、高鳴る鼓動を無理やり押し込めた。
「うん! 最高の名前だね、ヤマト! 気に入ってくれたみたいでよかった! ヤマト、これからよろしくね」
「別に気に入ってねえよ! 勝手に決めんな!」
咄嗟に反論するヤマトの赤く染まった顔を見て、カケルは屈託なく笑った。その真っ直ぐな光を真正面から浴び、ヤマトは不意に、毒の向け先を見失うような奇妙な感覚に陥った。
心臓の奥でドロドロと煮え繰り返っていた殺意、高天原を内部から破壊し尽くそうという冷徹な計画──。それを、目の前の黒髪の少年は、何一つ知らない。
牙を隠した獣がすぐ隣にいるというのに、こうも簡単に他人を信じ、救ったつもりで喜んでいる。その底なしの善意が、ヤマトには言いようのない居心地の悪さを感じさせた。
いっそ罵倒されたり、奴隷として扱われたりする方が、よほど冷静な敵意を維持できた。カケルの純粋さは、ヤマトが必死に研ぎ澄ませてきた復讐心の中へ、正体の分からない異物として入り込んでくる。そのことが、ヤマトには何より恐ろしかった。
「……おい。案内するんだろ。さっさと行けよ」
ヤマトは照れを隠すように、乱暴に立ち上がった。しかし、カケルはその背中に向かって声を上げた。
「あっ、待って。……そういえばヤマト、何も着てないのもなんだから、着替えを用意させるね」
言われてみれば、ヤマトの身体は浴室で洗浄された後、シーツに包まれていただけで、まともな服を纏っていなかった。
カケルが傍らのボタンを押すと、真鍮製の自動人形が静かに滑り出してくる。人形が運んできたのは、重厚な黒い羽織だった。
「僕の外出用のだから、君には少し小さいかもしれないけど……。すぐに君に合うものを作らせるから、少しの間だけ、我慢してね」
カケルは、自分の着替えをヤマトの肩に合わせながら、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。
高天原の皇太子であるカケルは、ヤマトに比べれば二回りほども小柄で線が細く、華奢だ。羽織は上質な霊子絹で織られており、その縁には金糸で繊細な花の紋様が刺繍されている。ヤマトは、戸惑いながらもその黒い布を受け取った。
これまでの人生で、誰かに服を用意されたことなど一度もなかった。汚れた布を使い回し、穴が空けば煤けた糸で塞ぎ、他人の死体から剥ぎ取った服を纏うのが当たり前だったハイヴの日常。
「……着せてあげようか?」
「……っ、んなわけあるか! 自分でできる!」
ヤマトはひったくるようにして、黒い羽織に袖を通した。
カケルの言った通り、鍛え上げられたヤマトの肩幅には少し窮屈だったが、その羽織は驚くほど軽くて暖かかった。鼻先をくすぐるのは、カケルと同じ清浄な、けれどどこか安心させる香り。
自分の不遇な境遇を気遣われ、相応の「装い」を与えられるという経験。
ヤマトは、そんな気遣いを向けられる自分に困惑し、眉間に皺を寄せた。だが胸の奥には、拒絶だけでは説明できない、名もない感覚が微かに残っていた。
「似合ってるよ、ヤマト。黒は、君の赤い髪によく映えるね」
「……うっせえ。さっさと歩け。……カケル」
ヤマトは顔を背け、今度こそ勢いよく扉へと向かった。純白の絨毯を、下界の重みを持ったヤマトの足音が踏みしめていく。
「うん! 行こう、ヤマト!」
一人は無垢な喜びを抱き、もう一人はその光を内側から焼き尽くすための牙を研ぎながら──それでも、贈られた羽織の温かさを確かに感じながら、二人の少年は黄金の光が満ちる回廊へと足を踏み出した。
ヤマトのジャンク・ドライブが、歩調に合わせて小さく蒸気を吹き出す。
それはまるで、偽りの楽園を蝕み始めた黒い影が、密やかに鼓動している合図のようでもあった。




