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【第一幕】無垢なる太陽の欠け落ち / FALLEN SUN   作者: 星乃ふみ


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第13話:鉄の味、蜜の毒 / SWEET VENOM

 カケルが軽やかな足音を立て、銀色のワゴンを引きながら戻ってきた。車輪が白磁《はくじ》の床を滑る微かな音が、静寂に満ちた私室にリズミカルに響く。


 そのワゴンには、ハイヴから徴収《ちょうしゅう》されたであろう鮮烈《せんれつ》な色彩を放つ果物と、もう一つ ── 少年がこれまでの凄惨《せいさん》な人生で一度も目にしたことがない、奇妙な「物体」が載っていた。


 純白の皿に鎮座《ちんざ》しているのは、完璧な正六面体に切り出された、淡い乳白色のゲル状の塊。湯気も立たず、香りもなく、ただそこに無機質な静謐《せいひつ》を保って存在している。それは食べ物というよりは、高度に精製された工業製品か、あるいは未知の生命体の体組織のようにも見えた。


「……おい。これはなんだ。食い物か?」


 少年は本能的な不信感を露《あらわ》にし、金色の瞳を険しく細めて尋ねた。


「バイオ・フューエルっていうんだ。栄養食だよ。下界の素材を分子レベルで再構成して、今の君の体に最適な配合に調整してあるんだ」


 カケルは誇らしげに、そしてあまりに無邪気に笑って答える。少年の目に映るその笑顔は、汚れ一つないシーツと同様、あまりにも白すぎて眩暈《めまい》がした。


 少年は怪訝《けげん》な表情のまま、添えられていた銀の箸を手に取った。炭鉱の飯場《はんば》で使っていた煤けた木の枝のような箸とは違い、指先に吸い付くように滑らかで、氷のように冷たい。


 箸先で恐る恐る、その塊を突いてみる。

 跳ね返すような弾力はなく、泥濘《ぬかるみ》に足を取られるように、虚しく箸が沈み込んだ。


 意を決して、少年はその塊を口に運び、咀嚼《そしゃく》する。


「…………」


 喉を通る嚥下《えんげ》の感覚はある。

 だが、驚くほどに「何」の味もしなかった。


 甘みも、塩気も、脂のしつこさも──あるいはハイヴの食事に必ず混じっている砂利の不快感や、焦げの苦味さえも、一切が「雑味」として排除されている。ただ、必要な栄養素が粘膜から機械的に吸収されていく感覚だけが脳を撫《な》でる。それは食事という名の、ただの無機質な燃料補給だった。


「……味気ねえな」


 少年は、小さく、呪いのように吐き捨てた。


 土臭くありながらも、母が作ってくれたスープの味が喉の奥で蘇《よみがえ》る。

 貧しい暮らしの中でも、そこには家族の絆と、温かな食事があった。そして、そんな命の温もりこそが、少年が守りたい宝物だった。

 自分たちは、泥の混じった不衛生なシチューや、石のように硬いパンの「味」を求めて必死に這《は》いずって生きている。

 時には食中毒の死に怯《おび》えながら、それでも「美味《うま》い」と感じる刹那《せつな》の快楽のために命を削っているのだ。


「えっ、そうかな? 雑味を削ぎ落とした、一番純粋な形なんだよ」


 不思議そうに小首をかしげるカケル。

 その姿に、少年は改めてこの世界の異常さを噛み締めていた。


 この天上の支配者たちは、食事から「喜び」や「苦しみ」といった情緒さえも削ぎ落とし、効率という名の虚無を喰らっている。

 高天原《たかまがはら》という場所は、身体だけでなく、心までをも無菌室に閉じ込め、不純物としての「感動」を殺していく場所なのだと、少年は理解した。


 味気ないバイオ・フューエルを無理やり胃の腑《いのふ》に流し込んだ後、少年は忌々《いまいま》しそうに隣の皿へ視線を移した。


 そこに盛り付けられていたのは、ハイヴの特産だという黄金色の果実だ。隣に添えられた、磨き抜かれた銀色のフォークをそっと刺す。

 見る見る溢《あふ》れ出す黄金の果汁を目にした少年は、吸い寄せられるように、それを口に運んだ。


「……っ」


 一切れ口に含んだ瞬間、少年の思考は白濁《はくだく》した。


 瑞々《みずみず》しい果汁が爆発するように口内に溢れ出し、暴力的なまでの甘みと鮮烈な酸味が鼻腔《びこう》を突き抜け、脳を直接震わせる。


 下界の道端でたまに口にする、泥にまみれた酸っぱいだけの野苺《のいちご》とは、次元が違った。

 この世にこれほど生命を感じさせるものが存在するのかと、全身の細胞が歓喜《かんき》の悲鳴を上げるような衝撃が、少年の研ぎ澄まされた復讐の牙を、僅《わず》かに鈍らせる。


(……ああ。……クソ、美味《うま》すぎる……)


 あまりの美味しさに、少年は一瞬だけ復讐の炎を忘れ、陶酔《とうすい》に目を閉じた。

 すると、まぶたの裏に、暗く狭い家で自分を待つ妹の笑顔が浮かんだ。


 灰色の煤に汚れた顔、常に咳《せ》き込みながらも、自分が帰ると「お兄ちゃん、お帰りなさい」と折れそうなほど細い声で笑う、たった一人の家族。弱々しく微笑む妹の笑顔が、今は何よりも懐かしい。


 もし、これを妹に食べさせてあげられたら。

「鉱血症」の影に怯え、黴《かび》の生えたパンの欠片を分け合っているあの子に、この輝くような果実を一粒でも運んであげられたなら。


 妹はきっと驚いて、宝石を見つけた子供のように目を丸くして笑うだろう。

 一度思い出すと、募るのは狂おしいほどの郷愁《きょうしゅう》と、張り裂けそうな切なさだった。


 自分を呼ぶ妹の声が、耳の奥にこびりついて離れない。今すぐにでもこの天上の檻をぶち破り、あの子の元へ帰って、この果実をその小さな手に握らせてやりたい。

 そんな叶わぬ願いが、熱い塊となって胸を突き上げてくる。


 だが、カケルが発した言葉が、その郷愁を氷のように冷やした。


「気に入ってくれたみたいでよかった! その果実、育てるのがすごく大変なんだって。下界の人たちが、アマテラス様のために一生懸命捧げてくれたものなんだよ」


 カケルの言葉に、少年の鉄の腕がギチ……と不気味な音を立てた。


 捧げた? 違う。

 それは奪い取られたものだ。


 自分たちの血と汗を肥料にし、命を削って育てた最高級の「生」を、自分たちは一口も味わうことなく、こうして贅沢にふかふかのベッドに座る皇太子に差し出している。


 この果実の一粒は、ハイヴの家族が一ヶ月生きるためのパンの代わりだ。

 それを、カケルは「善意の贈り物」のように信じ込んでいる。その無垢な残酷さが、少年の胸に深く、鋭く突き刺さった。


「……どうしたの? 涙が出てるよ」


 カケルの戸惑ったような声に、少年はハッと我に返った。


 自分の頬を伝った一筋の熱い雫《しずく》。

 それを、カケルは見たこともない希少《レア》な標本でも見るような、純粋で無垢な好奇心の瞳で見つめていた。

 その無知な優しさが、今は何よりも忌々《いまいま》しい。


「……何でもねえよ。果汁が目に入っただけだ」


 少年は乱暴に顔を拭《ぬぐ》い、残りの果実を無理やり口の中に詰め込んだ。


 噛みしめるたびに、果実の甘さは、カケルに対する──そしてこの不条理を「平和」と呼び、許容する高天原という世界に対する、殺意に似た悲痛な決意へと変わっていった。


 この果実の甘さは、俺たちの絶望の味だ。

 俺が味わっているこの衝撃も、妹を想うこの痛みも、お前には一生理解できない。

 理解させるつもりもない。


 少年の内部で、復讐の算譜《さんぷ》が音を立てて更新されていく。


 カケルの純粋さは、少年には何より残酷な凶器だった。そして少年はその凶器を、いつかこの皇太子自身の喉元に突きつけることを、果実の残り香とともに心に誓った。


「……おい」

「なんだい?」


 カケルが不思議そうな顔をして首をかしげる。


「これから、俺はお前の番犬だ。お前に何かあれば、俺が盾になってやる」


 少年の誓いに、カケルはなんの疑いもなく、花が咲くような笑顔で返事をした。


「うん! これから、よろしくね」


 その笑顔に、少年の昏《くら》い殺意が余計に燃え上がった。


 自分が盾になるのは、お前を守るためじゃない。お前の喉元に食らいつく、その「時」を逃さないためだ。

 カケルが気付かないほど、少年は、ほんの僅かに口角を上げ、この国を滅ぼすその瞬間まで、この皇太子の側にいることを腹に決めた。


(笑ってろ……。その顔が絶望に染まるまで、俺は一番近くで、お前の盾になってやるよ)


 白磁の部屋に、少年の鉄の腕から漏れる「プシュリ……」という熱い蒸気の音だけが、不気味な秒読みのように響き続けていた。

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