第12話:鉄の貌、火種の心 / VISAGE OF STEEL
──しかし。
これは絶好の機会だ。
怒りで煮え繰り返っていたはずの少年の金色の瞳の奥で、氷のような論理が火花を散らした。
システムのバグとは言え、自分は『黄泉比良坂』という生存確率ゼロの地獄を潜り抜けた。今、高天原の心臓部において、最も警備が手薄で、かつ最も価値のある『鍵』――カケルという皇太子の懐に潜り込むことに成功しているのだ。
この幸運を、ただ感情任せの暴力で無駄にするわけにはいかない。
高天原の内部破壊。中央演算アマテラスを乗っ取り、天上界を丸ごと、その美しい偽りの静寂ごと奈落へと叩き落とし、この傲慢な国を崩壊させること。それが彼自身が魂に刻んだ、目的のひとつだった。
そして、その先にある最大の目的。それを達成するには、目の前で呑気に笑う皇太子を最大限に利用する必要があった。
少年は、腹の底で渦巻く憎悪を抑え込んだ。冷やかな視線をカケルへ向けると、当のカケルは、少年と視線が合っただけで「友情が芽生えた」とでも言いたげに顔を綻ばせている。その温度差に、少年の心はどこまでも昏く澱んでいった。
死線を越え、世界の腸を這い上がってきた自分からすれば、警戒心の欠如したこの皇太子は、反吐が出るほど滑稽な温室育ちの未熟者に過ぎない。しかし、だからこそ、利用し甲斐がある。
少年は、自らが最も忌み嫌ってきた「運命の神」とやらに、生まれて初めて、感謝すら覚えていた。
(まずはこいつの懐に入り込み、処分の執行を先延ばしにするのが先決だ……)
少年が描く算段は、皇太子の喉を食い破ることよりも、より深くこの国のシステムへ浸食するための「静かな毒」へと切り替わった。
「……いいぜ。言う通りにしてやる」
少年は剥き出しにしていた敵意をあえて霧散させ、掠れた声で紡ぐ。カケルは目をパチパチとさせて、少年の言葉を咀嚼していた。
「ただし、条件だ。……俺を、お前の護衛にしろ。何もせず、ただで居座るのは性に合わねえ。腕には自信がある。どうだ?」
「護衛に? 君が? でも、この高天原には生憎と争い事は起こらないんだ。だから、せっかくだけど……」
「俺がここに辿り着いたように、今後もこんなことがあるかもしれねえだろ。せっかく助けてもらったんだ。少しは恩返しさせろ」
少年の思わぬ申し出に、カケルは驚きに目を瞠ったが、瞬時にその表情を一点の曇りもない歓喜に染め上げた。
「それもそうだね! ぜひお願いしたいな。君のような人がそばにいてくれたら、僕も嬉しいよ」
カケルは砕けた白磁の破片を回収し終えた手を膝につき、無邪気なまでの純真さを露わにして微笑む。その笑顔は、少年にとっては網膜を焼くほどに眩しく、耐え難いほどに愚かだった。カケルが動くたびに、部屋を満たす人工的な清浄な香りが鼻を突く。それは下界の「生きるための体臭」や「死にゆく鉄の匂い」を徹底的に排除した、拒絶の香りだった。
(笑ってろ。今のうちだけだ……)
少年は、背に負わされた最上級シーツの不愉快なほどの柔らかさを噛み締めながら、心の内で黒い毒を吐き捨てた。
この無知な皇太子を利用し、楽園の内側からシステムのすべてを暴いてやる。そして、この国を支える理そのものを根底から腐らせ、内部崩壊を招く。自分たちから光も、名前も、尊厳さえも奪い取り、その屍の上で穏やかに暮らすこの黒髪の皇太子を、必ずや自分と同じ泥濘の底まで引き摺り下ろしてやる。
少年の瞳に宿ったのは、偽りの従順だった。その胸に秘めた殺意の熾火を、カケルはまだ知らない。
「……そうだな。とりあえず腹が減った」
少年の投げやりな言葉に、カケルの顔がパッと華やぐ。
「そうだね、気づかなくてごめん。すぐに用意させるよ! ちょうど今日、下界から届いた新鮮な果実があるんだ。きっと気に入ると思うよ」
下界から届いた果実。その一言に、少年の奥歯がギリと鳴る。それが何を意味するか、カケルは知る由もない。
ハイヴの農民たちが、自分たちの食いぶちを削りながら、アマテラスへの「献上品」として血の滲む思いで育てた成果物。それをカケルは「慈悲」として、微笑みと共に少年に与えようとしている。それは、少年にとっては自分たちの血の味を啜れと言われているに等しい侮辱だった。
「待ってて。すぐ持ってくるからね」
カケルは弾んだ声で答えると、喜びを隠しきれない足取りで部屋を飛び出していった。
静寂が戻った部屋で、少年はふかふかの枕に沈み込みながら、天井に吊るされた豪華なシャンデリアを憎々《にくにく》しげに睨みつける。
(……こんな能天気な笑顔を浮かべるガキのために、俺たちは……)
激しい怒りで、身体の芯が震えた。少年の脳裏に、湿り気を帯びた暗い地の底の記憶が、黒い霧のように蘇る。
蒸気炭鉱夫に従事し、救助の手も差し伸べられないまま、冷たい石炭の山に埋もれた、誰よりも逞しく強かった父。
少年の眼に未だ焼き付いているのは、炭鉱の入り口へ墓標のように突き刺さっていた冷たい鉄骨の景色だ。助けようと身を乗り出した際、周囲の大人が吐き出した「下界の絶望を煮詰めたような言葉」は、今も呪いのような残響となって鼓膜の奥で熱く脈打っている。
そして、子供たちを養うため重労働に身を賭した母を襲ったのは、下界の労働者の死神──「鉱血症」だった。空気中に浮遊する微細な霊子廃棄物が肺を侵し、血液を金属へと変えていく奇病だ。皮膚は硬化して灰色の光沢を帯び、最後には内臓までが鉄に侵食される。
母が亡くなる間際、必死に動かした喉から漏れたのは、愛する子供たちの名前ではなかった。
──『ギ、ギギ……』
耳元で聞いた、耳障りで悲痛な金属の軋む音。愛する人の声さえも「鉄」に奪われ、機械の死骸のように変わり果てていく残酷な結末。息を引き取る瞬間、母の瞳がガラスのように無機質な鉄球へと変わっていった光景は、一生忘れることができない呪いだ。
そして自分もまた、炭鉱の落盤事故で右腕を失った。
瓦礫に押し潰された腕は、救助を待っていては全身が腐り果てる運命にあった。だが、少年は迷わなかった。傍らにあった鋭利な錆びた鉄板を掴み、自らの手で右腕を切り落としたのだ。
妹を一人にするわけにはいかない。生きて、稼いで、食わせる。その一念だけで彼は地獄の門を叩いた。
闇市から盗み出した中古の鉄腕──『ジャンク・ドライブ』。その装着は、治療ではなく魂を削る拷問だった。下界に麻酔の様な高級品など存在しない。剥き出しの肩の断面に、神経と機械を繋ぐ「神経釘」を大鎚で直接打ち込まれる。
脳を焼かれる衝撃、脊髄を貫く振動。ショック死する者が後を絶たない処置の中、少年は血を吐きながらも意識を繋ぎ止めた。
接合後も、地獄は続いた。異物を排除しようとする肉体の苛烈な拒絶反応。焼火箸を突き立てられたような高熱にうなされ、膿と血の混じった不浄な排熱蒸気が接合部から噴き出す時間が、少年を苛み続けた。
「死んでたまるか……。こんなところで、俺が死んでたまるかよ……」
激痛を乗り越え、不格好なジャンク・ドライブを肉体の一部として馴染ませたのは、ただ一つの憎悪と、一つの愛だった。
「……全部、食い尽くしてやる」
少年の金色の瞳に、どす黒く濁った殺意が燃え上がる。カケルが運んでくるであろう「恵み」など、彼にとっては復讐の焔を絶やさないための燃料に過ぎない。
やがて、廊下からカケルの軽やかな足音が近づいてきた。扉の向こう、その無垢な音が静謐な楽園を乱していく。
少年は瞬時に感情を殺し、再び「護衛」という名の獣の皮を被る。獲物を狙う少年の喉の奥で、運命の歯車が狂っていく音が、静かに鳴り響いていた。




