第一普請 川の向こうは、元和七年
「諫早には、海が三つあるんだ」
白瀬湊一が地図を指すと、目の前の男の子が眉を寄せた。
「海は一つじゃなかと?」
「海そのものはつながってる。でも、諫早が面している海は三つ。東に有明海、西に大村湾、南に橘湾」
「じゃあ、ここはどこね?」
小さな指が、地図の中央を押さえる。
「俺たちがいる諫早の町。長崎県の真ん中あたりだ」
――二〇二六年七月二十五日、午後二時。
諫早市の中心を流れる本明川では、夜に行われる諫早万灯川まつりの準備が進んでいた。
河原を埋める、数え切れないほどの灯明。
白い容器が規則正しく並び、夕暮れを待っている。
一九五七年七月二十五日。
諫早大水害で失われた六百三十人の命を弔い、川とともに生きる町の安全を願う祭りだ。
湊一は会場の一角に設けられた防災展示で、ボランティアの小学生たちに諫早の地図を見せていた。
本来の仕事は展示の説明ではない。
ところが担当者が別の対応に呼ばれ、近くを通りかかった湊一へ「国交省の人なら適任でしょう」と地図を押しつけていったのだ。
「その三つの海ん水が、この川で混ざると?」
今度は女の子が尋ねた。
「混ざらないよ。本明川は北の多良岳の方から流れてきて、この町を通って、東の有明海へ注ぐ」
湊一は地図の上に指で一本の線を引いた。
「山に降った雨が、小さな谷や川へ集まる。それが本明川へ入り、町を通って海へ行く。だから川だけ見ても駄目なんだ。山も、田んぼも、町も、海も、全部つながっている」
「ばってん、諫早は田んぼばっかりたい」
「その田んぼの一部は、昔は海だった」
「海だったと?」
子どもたちが一斉に地図へ顔を寄せる。
「諫早平野は、四百年以上かけて少しずつ広げられてきた。海の近くへ堤を築いて、中の水を抜き、田んぼにしたんだ。干拓っていう」
「海から土地ば取ったと?」
男の子の言葉に、湊一は少し考えた。
「取った、というより……借りている、かな」
「誰からね?」
「水から」
子どもたちが、そろって妙な顔をした。
「一度陸になったからって、水が来なくなるわけじゃない。堤を守って、水路を掃除して、雨が降ったらどこへ水を逃がすか考える。それをやめれば、水は昔の道を通って戻ってくる」
「……怖かね」
「だから、俺たちみたいな大人が見張ってる」
湊一が笑うと、子どもたちはようやく安心したようにうなずいた。
「白瀬さん」
背後から、呆れた声が飛んできた。
振り返ると、市の同僚がコンビニのおにぎりを差し出している。
「説明を頼んだ人は、とっくに戻ってきてますよ。いつまで先生をしてるんですか」
「質問が終わらなくて」
「そういうことにしておきます。あと、昼ごはん」
「もう二時か」
「また忘れてたでしょう」
図星だった。
湊一がおにぎりを受け取ると、子どもたちがくすくす笑う。
「先生、怒られよる」
「先生じゃない。土木職員だ」
「何が違うと?」
「先生は教える人。俺は、壊れないように造って、壊れかけたら直す人」
「ずっと川ば見よる人じゃなかと?」
同僚が横から口を挟む。
「それは否定できないな」
湊一は、おにぎりの袋を開けながら本明川へ目を向けた。
穏やかに見える水面の下で、流れは絶えず形を変えている。
水害後に拡げられた川幅。
積み直された護岸。
架け替えられた橋。
その向こうには、何世代もの人々が海から造り出した諫早平野が広がっている。
道路も、住宅も、鉄道も、田畑もある。
今では、それが当たり前の風景だ。
だが、当たり前は勝手に続くものではない。
二十七歳。諫早生まれの諫早育ち。
湊一が九州大学大学院で水工学と流域治水を学び、国土交通省九州地方整備局の技術系職員になったのも、そのことを知っていたからだ。
今は人事交流で、故郷の諫早市へ出向している。
「国交省の人が、排水口の枯れ草まで気にする必要があります?」
同僚が、湊一の野帳をのぞき込んだ。
そこには、午前中に見つけた排水口の詰まりや、河川敷の段差、薄くなった避難表示の位置が書き込まれている。
「大きな堤防が無事でも、排水口が詰まれば町は浸かる」
「白瀬さんのスマホ、人物より本明川の水位と排水口の写真の方が多いでしょう」
「干拓地の樋門もある」
「増えた。本明川に干拓、それから避難路。三つ揃えば、立派な防災オタクです」
「オタクじゃない。専門職だ」
「休みの日に干拓地を回って、樋門の写真を撮る専門職?」
「樋門は、海より低い土地で暮らすための知恵だ。開ける時刻と閉める時刻を誤れば――」
「はいはい。その話になると止まらないから、防災オタクって言ってるんです」
子どもたちが、また笑った。
「白瀬さんらしかね」
「褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「休みの日くらい、川から離れたらどうですか」
「今日は仕事だ」
「祭りが終わったら?」
湊一は少し考えた。
「明日の水位を確認する」
「やっぱり、ずっと川ば見よる人たい」
また、子どもたちが笑った。
◇
午後四時前。
湊一は神社側に残った最後の確認地点へ向かっていた。
紺色の作業服に救命胴衣、白いヘルメット。腰の防水ポーチには、スマートフォンと野帳が入っている。
前夜に上流で降った雨の影響で、本明川は普段より水位が高い。
危険な増水ではない。
だが、祭りの準備で大勢が河原へ下りる以上、念には念を入れる必要があった。
本明川に架かる四面橋の近くに、諫早神社はある。
かつて四面宮と呼ばれた古社だ。その昔の名は、今も橋の名に残っている。
境内には六本の大きなクスノキが立ち、もっとも太い御神木は、大人が何人も手をつながなければ囲めないほどだった。
湊一は子どもの頃から、この木を見上げてきた。
春も夏も、祭りの日も、大水害を語り継ぐ日も。
人の暮らしが変わっても、クスノキだけは同じ場所に立ち続けているように思えた。
湊一にとって、この御神木は諫早の時間を測る木だった。
古い地図は描き直され、川筋は変わり、橋も堤防も架け替えられる。それでもこの木は、洪水も復興も、町が海の方へ広がっていく歳月も、ここから見てきたのだろう。
もし現代と遠い昔を結ぶ目印が、この町に一つだけあるとすれば――湊一は子どもの頃から、なぜかこの木だと思っていた。
もっとも、木の周囲は昔のままではない。
根元近くの石垣と水路は、諫早大水害後に造られたものだ。
人を守るために設けられた水路が、年月を経て、今度はクスノキの根を圧迫する。
守るものが増えれば、造ったものも直し続けなければならない。
「治水に完成はない、か」
口にしてから、我ながら仕事人間らしい独り言だと思った。
御神木の太い根が、石垣の手前で二つに分かれている。
その間に、丸みを帯びた黒い石が抱き込まれていた。
昔からそこにあったのか。
それとも、洪水で運ばれてきたのか。
湊一にも分からない。
ただ、その石だけが雨に濡れたように光っていた。
湊一は御神木の幹へ手を当てた。
ごつごつした樹皮の奥から、遠い水音のような震えが掌へ伝わった気がした。
風が吹く。
クスノキの葉から、青く涼しい香りが落ちてきた。
ちりん。
小さな鈴が鳴った。
「……鈴?」
神社の鈴とは違う。
もっと近く、クスノキの根元から聞こえた気がした。
湊一が一歩近づく。
黒い石の表面を、細い水が流れていた。
石垣から漏れたのだろうか。
そう思って水路をのぞく。
流れがおかしい。
本明川へ向かうはずの水が、クスノキの根元へ逆流している。
「勾配に逆らってる……?」
しゃがみ込み、スマートフォンで動画を撮る。
画面越しに見た水面へ、見覚えのない風景が映った。
コンクリートの護岸がない。
四面橋もない。
代わりに、人々が川の中の飛び石を渡っている。
菅笠に、小袖。
荷を背負った男の足元を、澄んだ水が流れていた。
湊一は思わず画面から目を離した。
現実の水路には、現代の護岸と空しか映っていない。
もう一度スマートフォンを見る。
そこにも、いつもの景色が戻っていた。
「疲れてるな、俺」
立ち上がろうとした、そのとき。
ちりん。
再び鈴が鳴った。
本明川の飛び石に、少女が立っていた。
白に近い水色の小袖。
腰まで届く濡れた黒髪。
祭りの衣装にしては古めかしく、何より裸足だった。
少女は川下ではなく、クスノキを見つめている。
「君、そこで何をしてる!」
湊一の声に、少女が振り向いた。
大きく見開かれた瞳に、驚きと恐れが浮かぶ。
「そなた……わたしが見えるのか?」
「見えるに決まってる! 今日は水が多い。動かず、そこにいろ!」
「来るな!」
少女が叫んだ。
「水の道が、開きかけておる!」
「水の道?」
少女は川面へ両手を向けた。
「古き流れよ、眠れ。今はまだ、門を開く時ではない」
少女の周囲で、水が円を描いた。
川下へ流れていたはずの水が逆巻き、飛び石の間に深い渦を造る。
クスノキの葉が激しく鳴った。
空は晴れているのに、川だけが大雨の最中のように荒れ始める。
「閉じよ!」
少女が両手を打ち合わせた。
一瞬、渦が小さくなる。
しかし、少女の身体も大きく揺らいだ。
「くっ……力が……」
「危ない!」
飛び石へ濁った波が乗り上げた。
少女の足が滑る。
伸ばした手が空を切り、その身体が川へ呑み込まれた。
「人が流された! 救急へ連絡!」
湊一は対岸へ叫び、救命胴衣の留め具を締め直した。
近くの救命浮環をつかみ、河原の階段を駆け下りる。
水面に黒髪が浮かび、すぐに消えた。
流速。
川幅。
少女が沈んだ位置。
目に入った情報を、頭の中で重ねる。
真正面から流れに逆らえば、自分も体力を奪われる。
下流側へ回り込み、斜めに横切る。
「今、行く!」
水へ入った。
作業服の隙間へ、冷たい流れが一気に食い込んでくる。
足を取られないよう、川底を蹴る。
流れを利用して少女の下流側へ回り、沈みかけた身体へ手を伸ばす。
届いた。
背後から脇へ腕を差し入れ、少女の顔を水面へ出す。
「息をして! 力を抜くんだ!」
「なぜ……来た……」
「流された人を放っておけるか!」
「わたしは……水守ぞ」
「水守でも溺れるときは溺れる!」
「溺れては……おらぬ!」
「だったら自分で浮いてくれ!」
少女の腕を救命浮環へかけさせる。
こんなときに言い返せるなら、意識はある。
湊一は少しだけ安堵した。
「岸へ戻る。浮環を離すな」
「待て。まだ門が――」
ぐいっ、と。
湊一の右足首を、何かがつかんだ。
「な――」
流木ではない。
指だった。
子どものように小さな、青緑色の手。
指と指の間には、薄い水かきがある。
あり得ない。
そう思うより早く、凄まじい力で水中へ引かれた。
湊一と少女の身体が、救命浮環ごと沈む。
上も下も分からなくなった。
濁流が視界を覆い、岸からの声も、祭りの準備の音も遠ざかる。
湊一は少女だけは離すまいと、左腕へ力を込めた。
少女も目を開いている。
その唇が、水中で動いた。
――水の道へ入ってしまった。
声ではない言葉が、頭の中へ届いた。
周囲の濁りが、幕を引くように消える。
水の中なのに、いくつもの風景が見えた。
コンクリートの護岸が崩れ、石積みに変わる。
四面橋が消え、無数の人々が飛び石を渡る。
川幅が狭まり、また拡がる。
泥水に沈む夜の町。
流木に塞がれた橋。
暗闇の中で、誰かを呼ぶ声。
河原を埋めた万灯の明かりが水中へ落ち、時をさかのぼるように上流へ流れていく。
田畑が消える。
道路が消える。
住宅が消える。
諫早平野が、光る干潟と海へ戻っていく。
最後まで残ったのは、一本のクスノキだった。
巨木の枝葉が巻き戻るように縮み、それでも根だけは黒い石を抱いたまま、いくつもの時代を貫いている。
その根元から、白い湯気が立ちのぼった。
冷たい川の中なのに、そこだけが温かい。
ちりん。
鈴が鳴る。
『白瀬……湊一』
女とも、幼い子ともつかない声だった。
なぜ、自分の名を知っている。
問い返すこともできない湊一へ、その声は懐かしそうに告げた。
『……また、その名か』
白い湯気が二人を包む。
クスノキの根が、水の底へ門を開いた。
次の瞬間、湊一の身体は、川よりも深い闇へ引き込まれた。
◇
「――っ、げほっ!」
湊一は四つん這いになり、飲み込んだ水を吐き出した。
手の下にあるのは、濡れた砂と丸い小石だ。
川の音がする。
蝉も鳴いている。
息を整えるより先に、少女を探した。
「君!」
すぐ隣に倒れている。
湊一は少女の呼吸を確かめ、身体を横向きにした。
「しっかりしろ!」
「……う」
少女が水を吐き、激しく咳き込む。
呼吸が戻った。
湊一は、その場へ座り込んだ。
「よかった……」
「それは……こちらの言葉じゃ」
少女が濡れた髪を払い、ゆっくり身体を起こした。
「来るなと申したであろう。そなたまで水の道へ呑まれれば、助けた意味がなかろう」
「助けた?」
「最後にわたしが水を分けねば、そなたは途中で息が尽きておった」
確かに、あれほど長く水中にいたはずなのに、湊一は意識を失っていない。
「じゃあ、お互いに助けた。それでいいだろ」
「勝手な男よ」
「目の前で流された人間を放っておけるほど、器用じゃないんだ」
少女は何か言い返そうとして、やめた。
「わたしは澪。水守の澪じゃ」
「俺は白瀬湊一。国土交通省から、諫早市へ――」
そこまで言って、湊一は周囲の異変に気づいた。
音が違う。
車の走行音がない。
祭りの準備をする人々の声も、放送も、電車の音もない。
聞こえるのは、蝉と鳥、川の流れ。
遠くで木を打つ音と、牛らしき鳴き声。
匂いも違った。
排気ガスや熱を帯びたアスファルトの匂いが消え、湿った土、薪の煙、草、そして潮の香りが濃くなっている。
「……ここは?」
立ち上がり、辺りを見回す。
高城橋がない。
四面橋もない。
コンクリート護岸も、道路も、ビルも、電柱もない。
本明川は土の岸を大きく削りながら、現代とは違う川筋を流れていた。
周囲にあるのは草地と田畑、土の道。
少し離れた場所に、板葺きや茅葺きの家が点々と見える。
そして川の傍らには、小さな社殿と堂が建っていた。
その背後に、クスノキが立っている。
「あの木……」
現代で見た巨木より、幹は細い。
枝の数も少なく、境内を覆うほど大きくはない。
だが、太い根が二つに分かれ、その間に丸い黒石を抱いている。
間違いない。
同じクスノキだ。
湊一は吸い寄せられるように近づき、濡れた手で幹へ触れた。
現代の巨木より細い樹皮から、あの青く涼しい香りがした。
木が自分と一緒に流されてきたのではない。
自分が、この木の若い時代まで流されてきたのだ。
現代にあった石垣と水路はない。
代わりに、クスノキの根元から細い清水が湧き、土の溝を通って川へ流れていた。
湊一の背筋を、冷たいものが走る。
「諫早神社……」
「いさはやじんじゃ?」
澪が首をかしげる。
「何を申しておる。あれは四面宮じゃ」
「四面宮……」
諫早神社が、明治以前にそう呼ばれていたことを湊一は知っている。
現在の建物が流された諫早大水害より、さらに昔。
眼鏡橋が架けられるよりも前。
川に橋がなく、人々が飛び石を渡っていた時代。
腰の防水ポーチから、スマートフォンを取り出す。
画面は点いた。
七月二十五日、午後四時十二分。
圏外。
地図も現在地を読み込まない。
「その光る板は何じゃ」
「電話……いや、今はただの板だな」
湊一はスマートフォンをしまい、川下へ目を向けた。
現代なら、住宅と道路、その先に広大な田畑が続いている方向だ。
だが、目の前の田畑はずっと手前で途切れていた。
その先には葦原と、陽光を反す干潟が広がっている。
さらに向こうでは、海がきらめいていた。
近い。
有明海が、あまりにも近い。
「ここは、本明川じゃないのか?」
「ほんみょうがわ?」
「この川の名前だ」
「知らぬ。そのような名では呼ばれておらぬ」
澪は流れへ目を向けた。
「ここは大川じゃ」
本明川は、かつて大川と呼ばれていた。
偶然ではない。
ここは、過去の諫早だ。
そう理解しかけた湊一の足元へ、泥の塊が飛んできた。
「水守から離れろ、人間!」
川面から、何かが飛び上がった。
子どもほどの背丈。
青緑色の肌。
指の間には水かきがあり、背には甲羅。
頭の上には、浅い皿が載っている。
そいつは岸へ着地すると、先が二股に分かれた短い棒を湊一へ向けた。
「澪になんばした!」
「何って、川から助けただけだ!」
「水守が川で溺れるわけなか!」
「本人も同じことを言ってたよ!」
「わたしは溺れておらぬ!」
「今は澪も黙っててくれ!」
「なぜわたしまで叱られるのじゃ!」
青緑色の子ども――いや、どう見ても河童が、目を丸くした。
「人間、水守に向かって何ちゅう口の利き方ばしよる!」
「そっちこそ、俺の足をつかんだだろ!」
「おぬしが澪ば離さんけんたい!」
「水の中で先に言え!」
「水ん中で、どうやって言うとや!」
一瞬、互いに言葉を失う。
澪が額へ手を当てた。
「二人とも、少し黙れ」
河童は不満そうに棒を下ろし、澪の袖や腕を確かめた。
「怪我はなかか」
「ない。この者が助けてくれた」
「こいつが?」
「そして、わたしもこの者を助けた。ゆえに、今すぐ敵と決めつけるでない、ガタ吉」
ガタ吉と呼ばれた河童が、湊一を上から下まで眺める。
作業服。
救命胴衣。
ヘルメット。
川岸へ打ち上げられた救命浮環。
どれも、この時代には存在しないものだ。
ガタ吉は救命浮環を持ち上げ、指で押した。
「白か浮き輪……皮でも木でもなか。なんで出来とる」
「合成樹脂」
「ごうせい、なん?」
「説明すると長い」
「やっぱり怪しか」
「俺から見れば、河童がしゃべってる方がよほど怪しい」
「河童がしゃべって何が悪か!」
ガタ吉が皿を押さえて怒鳴る。
少なくとも、幻ではなさそうだ。
「白瀬湊一と申したな」
澪が尋ねた。
「そなたは、どこから来た」
「諫早市。二〇二六年の諫早からだ」
「いさはや、し?」
ガタ吉が首をひねる。
「市とは市場のことか?」
「そうじゃない。年号で言えば……令和八年」
「れいわ?」
二人とも知らない。
当然だ。
湊一は、答えを聞くのが怖くなった。
それでも確かめなければならない。
「今の年号は?」
「元和じゃ」
澪が答えた。
「何年だ」
「七年」
元和七年。
西暦一六二一年。
二〇二六年から、四百五年前。
しかもこの年、佐賀藩による二度目の三部上地によって、諫早領は当初の二万二千石から一万石余りにまで削られた。
「そういや陸の人間どもが、また領地ば召し上げられたと騒いどったな」
ガタ吉が、どうでもよさそうに言った。
湊一には、どうでもよくなかった。
貧しい領地。
足りない田。
たびたび氾濫する川。
そして、眼前に広がる有明海。
現代と同じ広さの諫早平野は、まだない。
県下最大の穀倉地帯となる土地も、道路や町が築かれる場所も、その多くが海と干潟の向こうに眠っている。
「ここから先が……全部、海なのか」
湊一の呟きに、ガタ吉が眉をひそめた。
「何ば当たり前のこと言いよる。あそこは海たい」
潮風が吹いた。
背後で、若いクスノキの葉が鳴る。
根元の黒い石を、水が静かに洗っていた。
湊一は、ようやく理解した。
自分が来たのは、見知らぬ土地ではない。
故郷・諫早が、まだ今の形になる前。
人々が、これから水と泥と海を相手に、土地を造り始める時代だった。
川の向こうは、元和七年。
そして、その向こうには――まだ、国になっていない海が広がっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回、第二普請「未来から来た土木屋」。
元和七年の諫早へ流れ着いた湊一は、未来人なのか、間者なのか。
それとも、ただの大法螺吹きなのか――諫早直孝の前で、その正体を試されます。




