三十三~三十六
三十三
午後11時50分 けんかに巻きこまれる
「散歩していたんですよ」
白々しいウソをキヨシが口にする。
「そちらの方は?」初老の警官が訊ねた途端、夜の鳥たちがすぐ近くでざわざわと羽音をさせて飛びたつ。「どうして倒れているんですか」
「転んだんですよ。それでぼくが手を貸して起きあがらせようとしていた。ひどく酔っているものでね」銃はすでに腰に差してシャツで隠している。背後にいる三太にはその動作が丸見えだった。密輸品か改造かわからないが、自動式拳銃だ。銃身の先端に筒状のものが装着されているように見えた。きっと消音器だろう。
救助をもとめるべきか、三太は迷う。しかしすでに強盗犯として手配されている恐れがある。
「手を貸していたようには見えなかったですよ」警官は咳ばらいをし、ついでに足もとに痰を吐く。まるで目の前の凶悪犯と対峙する前のルーティンのようだった。
そのとき崖下でボンと音がする。なにかが爆発したような音。警官はよたよたと崖に近づき、眉をひそめながら藪の下を照らす。
三太は自力で立ちあがり、崖下に目をやる。炎が見える。いまになって漏れたガソリンに火が着いたのだ。
「あれは?」
警官は三太でなく、キヨシの顔にマグライトの光をあてる。だがやつは肚がすわっている。なに食わぬ顔で崖下をのぞきこみ「わあ、たいへんだ」とさも他人事のように息をのむ。
「さっき大きな物音がしたんでこちらに来てみたんです。そうしたらあなたたち二人がいた。崖の下ではなにかが燃えている」警官は崖下に目をやり、鼻をひくつかせる。「わかりますか。ガソリンですよ。臭いがする。引火したんだ。つまりここから車が転落したんじゃないかな。それについてちょっとうかがいたいのですが」
「大きな物音ですか」けげんそうにキヨシは言う。だがその手が腰に回されるのを三太は見逃さなかった。銃把を握りしめている。「聞こえなかったな――」
「危ない!」
三太が叫ぶより先にキヨシは銃を抜いていた。だが相手がなにを隠し持っているのか予期していたらしく、年寄りにしては俊敏な動きで警官は特殊警棒を引き抜き、銃を握るやつの右手に叩きつけた。キヨシが引き金を絞ったときには、火線はあさっての方角を向き、閃光とともに消音器で抑えられたピシッという発砲音がした。
銃はすでにどこかの闇に消えている。キヨシは左手に持っていた懐中電灯を放りだし、尻ポケットから取りだしたバタフライナイフをそのまま左手に構える。右手は警棒の打撃を食らい、使い物にならないようだった。
警官はマグライトを左手に持ったまま、右手で警棒を構える。三太は泥道を後じさりしながら至近距離で対峙する二人から離れる。
キヨシがさらに距離をつめ、ナイフをまっすぐに構えて突っこんでいった。警官はぎりぎりのところで右にステップし、そのまま相手の左手の甲を警棒で殴りつける。金属音がしてナイフが虚空に吹っ飛ぶ。
取っ組み合いがはじまり、泥の上で一つになって転がるうちに、警官のマグライトが崖下に落ちた。地面に放りだされたキヨシの懐中電灯が照らしているのは、崖とは反対側の濡れた山肌。その向こうの暗幕に二人は吸いこまれていく。
数秒後、穀類を詰めた麻袋を殴りつけるような鈍い音が闇の奥から聞こえてくる。そのたびに喉の奥から漏れたとおぼしき苦悶のうめきが三太の耳にも聞こえる。
「た……すけて……」
言葉として聞き取れたのはそれだけだ。キヨシの声だ。だがその後、何度も何度も鈍い音があがる。
地面に転がるキヨシの懐中電灯は、泥まみれになった拳銃を照らしだしていた。三太はとっさにそれを拾いあげ、懐中電灯もつかんで明かりを二人のほうへ振り向ける。
倒れていたのはキヨシだった。血まみれで動かなくなっている。そのわきしゃがみこんだ男が、おもむろに三太のほうに顔を向けた。
三十四
午後11時55分 羊が逃げだす
事件だか事故だかが起きた現場に、回転灯をつけないパトカーと一人の若い警察官。だいたい、警察はコンビで行動するものではないのか。それとも相方はどこかべつのキャンパーを職務質問中か。ボンネットに両手を置きながら麻子は頭を働かせる。
免許証を渡したものの、本部とかそういうところに照会するようすもない。なにより無線特有の空電音がいっさい聞こえないのも妙だ。
≪急・求むエスコート、神奈川県西部、Lev.0≫
麻子の頭をそれがよぎった刹那、背後でシュッとなにか金属どうしが擦れる音がする。恐ろしい予感に振り向くと、警官が伸長させた特殊警棒を高々と振りあげたところだった。殺意に満ちた視線は、麻子のわきにいる咲世に向けられている。
「危ない!」
麻子は叫びながら横にいた咲世を突き飛ばす。警棒は横にずれた麻子の肩口を強打し、たまらず麻子はしゃがみこむ。
「逃げて!」
それでも精いっぱいの声を張りあげる。すぐに麻子は地面に引きずり倒される。向こうは警棒を握りしめているし、銃もある。素手の麻子に勝ち目はない。それに相手は屈強そうな若い男だ。まわりに誰かいれば、この男の蛮行を訴えかけることもできるのだが、あいにくこんな真夜中に湖畔をそぞろ歩く奇特なキャンパーは皆無だ。ただ、一つだけ味方にできそうなものがあった。
闇だ。
麻子は体格に似合わぬ俊敏さで警官の腕を振り払うと、警棒の一撃を逃れて水銀灯の光のおよばぬ世界、湖畔のほうへとダッシュした。自分のほうを追いかけてくれることを祈りながら。
三十五
告白
秋も深まったころ、わたしは志望校の推薦枠に入ることができました。中間テストでの一件は結局、不問に付され、最初の得点の通りに内申書を書いてもらっていました。おなじ学部の推薦枠を希望していた子たちに、そのときどんな説明をしたのかはわかりません。けど、中間テストで不正が疑われた子は、そのなかに一人もいません。みんな、ちゃんと試験を受けて、適切に採点されたまっとうな生徒たちだと思います。
大人になってから聞いた話ですが、そのなかの一人は子どものころから父親の仕事を継ごうと公認会計士を目指していたそうです。そのために推薦枠の商学部を狙っていたといいます。父親もおなじ学部の出身らしく、だから目指していたという話でした。高校時代、おなじクラスになったことはなく、話したこともありませんでしたが、吹奏楽部に所属していることは知っていました。
彼女は年が明けた二月、その学部の入試を受けて不合格となりました。うちの学校はそのころ、大学受験者のうち、現役合格は半分ぐらいで、あとはみんな浪人して予備校通いでした。だから一浪したからといって誰も驚きはしません。けれど彼女はつぎの年もおなじ学部を受けて失敗しました。公認会計士のための勉強なら、ほかの私大でも十分可能なはずですし、その年は彼女も滑り止めを受験して合格していました。それでもやはり諦めきれず、二浪の道を選びました。わたしが大学二年になり、それなりにキャンパスライフを満喫しているときに、彼女は足止めを食らい、おなじ予備校にもう一度通うことになったのです。
決して勉強が苦手な子じゃなかったと思います。父親が公認会計士だから、きっとわたしなんかよりずっと頭がよかったはずです。ですが、自分は経験したことがありませんけれど、まじめな子であればあるほど、浪人生活は肩身が狭いものなのかもしれません。わたしたちが成人式に出席しているとき、彼女の姿は見えなかったといいます。
つぎの年の五月、つまり大学三年の連休明けに高校のクラスメートから連絡がありました。わたしとしては、そろそろ就職先をちゃんと考えないといけない時期でしたが、これには言葉を失いました。とても悲しい出来事が起きたのです。ふたたび受験に失敗し、親とも話して今年が最後だからと三浪を決めて、新しい予備校に彼女が通いはじめたときだったといいます。わたしはクラスがいっしょになったこともありませんでしたし、話したこともなかったですが、唯一の接点としておなじ学部の推薦枠を彼女も希望していたのです。
しばらくして同窓会があり、わたしも顔を出しました。そこでは、高三の秋の中間テストで不正を働いたと疑われたメンバーのなかにわたしが入っていたなんて話は出ませんでしたし、覚えている子ももういないようでした。でも当時、彼女の担任だった先生がいらっしゃっていて、学校推薦を行う選考会で、次点が彼女だったと口にしたのです。わたしがその場を逃げるように後にしたのは言うまでもありません。
その話はいまも母にはしていません。そもそも母とは、あの三者面談以降、中間テストでの一件については話したことがないんです。もし話していたらどうなったかな。もうずいぶん時間がたってしまったので、あのころそんな想像をしたことがあったかどうか記憶がはっきりしません。けれどもしあのときもう一度、母に相談していたら、事態が変わったのかどうか。それで母が翻意して学校側に真実を伝えたなら、わたしは推薦枠から除外され、かわりに彼女が入ったのはまちがいないでしょう。そして彼女はいまも元気に暮らしていたはずです。
だけどとにかく、わたしはあの話をその後、ただの一度だって母の前で蒸し返さなかった。それは母の性格をよく知っていたからです。性格というか、どうしようもない業のようなものでしょうか。それが後々、尾を引いて娘が苦しむことになるなどとは、頭の片隅にも思うことができない。いや、思うわけにいかないのでしょうね。
結局は、自分ですから。
たいせつなのは。
三十六
午前0時 仕返し
消音器をつけた銃と懐中電灯を手にしたまま三太はキャンプサイトを駆け抜ける。
途中、ほかのキャンパーたちの焚火の炎が木々の合間から見える。都会の喧騒を離れ、大自然に身をゆだね、ひとときの解放感を満喫している。たとえ週明けからつらい仕事が待っているとしても、オンとオフの健全なサイクルがつづくのなら正気を保つことができる。
三太にとっては羨ましすぎる人々だった。でもいま自分の状況を細かく分析するのはやめたほうがいい。本能的にそれがわかっていた。妻と娘の無事をたしかめる。この場はその渇望だけに衝き動かされていた。
あの警官のことは気になった。三太を救ってくれたのはありがたいが、キヨシはぐったりと動かなくなっていた。息があるとは思えなかった。あの場で頭をよぎったのは、アメリカで黒人が白人警官に暴行されたときのニュース映像だ。そうだ。あれは犯罪者を制圧したというより、暴行をくわえただけのようだった。それも過剰な暴行を。だいいち、事故が起きたのは事実だが、来るのが早すぎる。それともパーキングエリアにいたときから、三太のことを心配してくれていて、後をつけてきたとでもいうのだろうか。
混乱に頭が熱くなり、息をきらせてようやく自分の車をとめた場所までもどってくる。白々とした明かりが居住スペースから漏れている。それを目にするなり、三太はほっとする。指示役のキヨシと実行犯の富永がいなくなれば、鎌倉事件の捜査は容易でなくなる。あの警官が崖下で燃えあがった車の残骸と銃を所持していた男について、正式ルートで報告するとも思えなかい。もしかするとおれは――おれたち一家は――山姥によって生かされたのかもしれないぞ。虫の声にふたたび包まれた闇のなかで、天啓に打たれたかのように三太ははっとする。ウソと暴力の果てに再生の道がしめされたんじゃないか?
同時にこれからどうすればいいか自然と頭に浮かぶ。もはや当初の計画は崩れた。そう考えたほうがいい。いまの状況でこの場でぐずぐずしていたらまずいことになるだろう。三太は本能的にわかっていた。家にもどるべきかどうかわからないが、とにかくこの場から一刻も早く退散したほうがよさそうだ。キャンプサイト利用の予約はキャンセルすればいい。
「牟礼さん……」
キャンカーの横っ腹にあるエントランスドアの把手に手をかけたとき、淡い希望の芽を摘み取る声がした。車の前方に堂々とそびえる桜の木のそばに人影が見えた。春には満開の花を咲かせてくれる生命力あふれる古木だ。
「牟礼加奈さんのご主人ですよね」
とっさに三太は銃をポケットに突っこんで隠し、懐中電灯を振り向ける。
女だ。
警戒するような足どりで前に出てくる。
三太は唾をのみこむ。何者だ。新たな襲撃者か。
「どちらさま……ですか」それでもそう言うのが精いっぱいだった。落ち着け。こっちには銃がある。いざとなれば――。
ガタンと音がしてドアが開く。外の声に気付いて加奈のほうで開けたのだ。
「どうしてなの……」ステップに立ったまま、加奈は女の存在に気付く。「どうして……なんであなたがいるの、ここに」
「知ってるのか」三太は困惑して妻と闇から出現した女に交互に目をやる。ドアが開いたことで降り注ぐ明かりが女を照らしだす。中年のぽっちゃりぎみの女だった。大きなトートバッグを肩から下げている。
「ディレクターよ。モーニングスプラッシュの」
「えっ……」その事実は三太の直前までの新構想を打ち砕く。このキャンプサイトにいることが顔見知りに知られてしまったなら、もはやこっそり逃げても無駄だ。闇バイトの共犯者や指示役とおなじ場所にいることについて、なにかべつの言い訳を考えないと。
「藤倉と申します」恐縮するような顔をしながらも女はさらに近づいてきて、名刺を差し出す。藤倉香織。番組名は記されていないが「情報番組部ディレクター」とある。
「なんなのよ、あなた」三太が口にしたいことを加奈が言ってくれた。
「鎌倉で起きた強盗の取材をしているんです」
「そんなので来たの? てゆうか、どうしてここだって……気持ち悪いわ」
「すみません。それが仕事なものでして。でも加奈さんもすこし前までおなじ仕事をされていたんですよね。やり方に問題があるかもしれませんけど、話を聞いていただけるとありがたいです。こんな真夜中に失礼なのは承知ですが」
「そうね。失礼よ。話がしたいなら、あした、電話でもしたらいいじゃないの」
加奈の背後には郁美の姿があった。新たな厄介事がわきあがったかと不安そうにしている。三太はあたりを見回した。サイトの一番奥に車をとめたのが不幸中の幸いだ。目を凝らしてもほかのキャンパーの影はない。
「直接お話ししたほうがいいと思いまして。先ほど、八時過ぎに鵜の木のご自宅にうかがったのですが、不審な二人の男に遭遇しました。家のなかが荒らされているようでして、その二人がやったにちがいないと思ったのです。そうしたら、そちらにいらっしゃる娘さんのご友人の小近咲世さんのおかあさまが通りかかって、キャンピングカーがないのなら出かけたのではないかと聞いたのです。状況を考えれば、楽しいキャンプに出かけたとは思えませんでした。わたしが手に入れた映像を考えれば、牟礼さんご一家は安全を考慮して避難する必要があった。それもとても急いで」
映像――。
加奈に見せられた恵比寿の公園の映像を手に入れた情報番組のスタッフって、この女なのか。ぞっとして三太はまじまじと女の顔を見る。
藤倉香織は、まるで準備してきた作文を朗読するように平板な口調でつづける。
「小近さんのおかあさまの話とか、いろんな情報を総合したら、きっとこちらにいらっしゃってるんじゃないかと考えたのです。だけど、加奈さんのフェイスブックに載っていたキャンピングカーを探し回ったのですが、なかなか見つからなくて、もしや、わたしたちのほうがすこしだけ早く到着したのではないかと思い直して、管理事務所のわきでお待ちしていたのです。そうしたら、二十分ほどしてご到着になられた。車外に出ていたので、あわてて駆け足で追いかけてここまで来ました。そのときすぐにごあいさつすればよかったのですが、ぐずぐずするうちにご夫婦で出かけられた。しばらくして加奈さんが帰ってきましたが、ご主人はなかなか帰ってこない。どうしようかと思いましたが、ここまで来たらやはり、ごいっしょにお話を聞くべきだと考えて、ずっとお待ちしていたんです」
「ちょっと待ってよ」額に手をあてながら加奈が問いただす。「家が荒らされているって……どういうことよ」
「リビングだと思いますが、ガラスが割られていました。なかのようすも――」
「まさか通報したの?」
「わたしたちはしていません。小近さんはしたかもしれませんけど」
「なんなのよ……」余計なことを、と言わんばかりに加奈は苦々しく吐き捨てる。
そんなことには動じず、香織はじっと三太のことを見つめている。まるで大人の不道徳な行いが理解できず、目で問いかける子どものようだった。だが思っていることは自然と彼女の口からこぼれてくる。
「血がついてますね」いま一度たしかめるように香織は暗がりからさらに一歩前に出る。「けがをされたのですか」
言われてみて自分でも気付いた。転落したレクサスのようすをたしかめに崖を下ったとき、小枝が顔や体に突き刺さってきたのだ。だがその後の出来事でアドレナリンが大噴出することとなり、いまに至るまですっかり痛みを忘れていた。それに気付いた途端、キヨシに蹴りあげられた腹部に鋭い痛みがぶり返す。
「やっぱりご自宅に侵入したと思われる男たちとの間でなにかあったのでしょうか」
「夜は足もとが悪くてね」ようやく三太はまともに答えることができた。落ち着け。いまは堂々としてみせろ。「すっ転んじまった。それで血が出たんだ。でもだいじょうぶ。ちょっとひりつくだけだ。だけど、あなたがいったいなんの話をしているのか理解できないな。ぼくらはふつうにキャンプに来ただけなんだけど」
「恵比寿の公園で撮られた映像はご覧になっていますか」
それには加奈が答える。「見せたわよ。だけどあれがなんだっていうのかしら。夕方も電話で伝えたけど、気を付けたほうがいいわ」
「闇バイトや強盗になにも関係がないのなら、どうしてへんな男たちが家にやって来るんですか」
「ちょっと待ってくれ。家に誰か侵入したのかもしれないけど、ぼくが妙な事件にかかわっていないのは本当だ。なにかとんでもない誤解があるんじゃないかな」
「そうですか。それならすこし安心しました。わたしはちょっと前まで系列の新聞社で記者をしていました。記者といっても文化部でおもに美術を担当していて、なんて言いますか、事件や事故とか政治経済の問題といった、いわゆるニュースを取材する人間ではありませんでした。そういう話ははなから自分には向いていないとわかっていたので、本を読んで勉強すれば、なんとかなりそうな部署に転がりこんで、なんとなく日々を過ごしてきただけなんです。だから今回みたいな取材はかなり苦手なほうでして、どうしたって想像というか妄想ばかりが先走ってしまう。ご迷惑かけてしまいましたね。すみませんでした」
ぺこりとすなおに頭をさげたが、香織の目にはまだべつの炎がちらついていた。
「ただ、もう一つ気になることがあるんです」
加奈があきれてなにか言いかけたが、口に出すのをこらえて熱意あふれるディレクターに問いかけの機会をあたえた。
「娘さん、郁美さんのことです。もしかすると危険が迫っているのではないかと思ったんです」
三太は郁美のほうを振り返る。依然として母親の背後で困惑の表情を隠せないでいる。「娘がどうしたっていうんだ」
「こないだの木曜にここからもそう遠くない熊尻山のキャンプ場で見つかった遺体に関することです。すでにニュースでもやっていますが、当初は遭難事故と思われていたものの、いろいろと調べたら事件性が浮上したんです。遺体の身元は都内の男性銀行員なのですが、その人が闇バイトに深くかかわっているというのです。闇バイトについては、番組でずっと取材をしているのですが、ピラミッド構造の分業制というのが一般的な理解です。その点で言うなら、その人はかなりの上層部、首謀者に近い人物のようです。遺体は死後だいたい三か月ぐらい経過していて、行方不明になって失踪人届が親族から出されたのが、四月二十九日。その前の二十六日の朝に熊尻山のふもとのコンビニで買い物をしています。おそらくその日にキャンプ場に入ったのだと推測されます。おなじ日、郁美さんはご友人の小近咲世さんとおなじキャンプ場に宿泊されていますよね」
「それがなんだって言うの?」がまんできなくなったらしく郁美が訊ねる。
「咲世さんのことですよ。まずは。銀行員の遺体が見つかったのが今週の木曜日。翌金曜になって咲世さんの行方がわからなくなりました。さっき、彼女のおかあさまから聞いたんです。この話はお聞きおよびでしょうか」
「娘から聞いてるわ」加奈は郁美を振り返る。
「サヨのママからけさ、ショートメールが入ったのよ。すっごく心配してた」郁美がぶっきらぼうに告げる。
香織がつづける。「誘拐とか、なんらかの事件に巻きこまれた可能性はあると思います。そういう犯罪に巻きこまれるようなきっかけが、四月のキャンプのときにあったのではないでしょうか。もしなんらかのトラブルがあったのなら、郁美さんの身だって危ない。ご自宅に侵入したと思われる男たちだって、もしかしたら本当の狙いは郁美さんだったかもしれないですよね」
そうではないとわかっていながら、三太は妻子と顔を見合わせた。だが一抹の不安は残る。闇バイトを操る連中なんてなにを考えているかしれない。
「もしご主人が鎌倉の一件に関して潔白だというのであれば、娘さんのことで警察に保護をもとめてもいいのではないでしょうか」
三太は恐るおそる郁美に訊ねてみる。
「イクちゃん、四月のキャンプのとき、なにか気になることが起きたのかな」
「なによ、パパまで」むっとした顔で郁美は父親に食ってかかる。「いったいなんの話なの? 銀行の人のことなんか知らないわよ。あの子とふつうにキャンプして帰ってきただけじゃない。だいたい、あの子が事件に巻きこまれたって本当なの?」
「本当よ」
管理事務所のほうへ至る小径の闇で声がした。




