二十一~二十四
二十一
午後8時40分 家族が問題を起こす
十六号線を走るBMWの車内に流れるラジオのボリュームを竹中があげる。
NHKのニュースだった。
「完全に抜かれたな。けど、これは一義的には社会部がやる話だから心配しなくていい」
「でもわたしはいま、かなりどんよりとしています」香織は泣きだしそうな顔になっている。
遺体で見つかった山内則武に関する続報だった。NHKだ。香織は山内が銀行員であることを書いて、他社よりほんのすこしだけ先んじられたという小さな優越感に浸っていた。ところがたったいまNHKはさらに一歩踏みこみ、遭難者が事件に巻きこまれた可能性があると指摘していた。そこまでは香織も薄々気付いていたが、ラジオは悪魔の呪文のようにさらにつづけた。
警視庁関係者によりますと、遭難した男性は、関東一円で起きている強盗事件への関与も疑われており、慎重に調べています――。
「おいおい、だな」
「もうちょっと副署長にちゃんと取材すればよかったです。すみません」
「ちょっと報道局に訊いてみるよ」竹中は車をコンビニの駐車場に入れ、スピーカーをオンにして電話をかける。
報道局の当番デスクは竹中の知り合いだった。「白骨遺体の件ですよね。ついさっき警視庁担当がNHKが伝えた内容で合ってるかどうか確認していました。おおむねだいじょうぶみたいなんで、このあとうちも流しますよ」当番デスクは十歳以上年下だが、竹中が新聞社の社会部で警視庁キャップをしていたころ、記者クラブでいっしょだったそうだ。「山内則武は、銀行の営業課長として得た顧客情報をもとに強盗を計画し、闇バイトとして集めた者たちを動かしていた疑いがあるみたいです」
「つまりトップの部類か」
「その見方で捜査が進んでいるようです」
「殺されたとして、容疑者の目星はどうなんだろう」
「ぜんぜんです。まだこれからみたいですね」
そこで竹中は、山内が登山したと思われる日におなじキャンプ場に行った二人の女子高生のうち小近咲世が行方不明になっていること、もう一人の牟礼郁美の行方をいま追っていることを伝える。鎌倉の強盗事件に郁美の父親がかかわっている可能性があることも。
「山内が闇バイトのトップグループに位置していたとすると」電話を切り、ふたたび追跡を再開してから竹中が言う。「いよいよもって小近咲世が事件に巻きこまれた可能性が高くなった。それに牟礼郁美も心配だな」
香織はあらためて加奈に電話してみるが、電源が入っていないようだ。娘の身に危険が迫っていることを一刻も早く伝えたくて香織は焦燥感を覚える。でも夫のこととなるとべつだ。恵比寿の公園を映した防犯カメラの映像について、香織にきついことを言ってきたのは、夫への疑念が払しょくできないからだろう。
「家族が闇バイト犯だなんて、イヤですよね」
「闇バイトなんてものでなくても、そういうのはイヤだよな。たとえ交通事故とかでも、自分の親や子どもが当事者っていうのは気が重い。うちは昔、息子が高校のときにコンビニで万引きして会社に電話がかかってきたことがあった。ぶち殺してやりたかったよ。息子の将来を危ぶんだっていうより、おれ自身が世間から非難されてるみたいで不愉快だったんだ。万引きならまだしも、重大犯罪に家族が手を染めたなら、世間の非難はまちがいなく家族にもおよぶ。子どもが逮捕されたのなら親の教育が悪いと言われるだろうし、親が捕まったのなら犯罪者の血が流れてるとも言われる」
「結局、罪を犯した相手を思うというより、自分が周囲から白い目で見られたり、現実問題として出世に影響したりするのを恐れる。世界中を敵に回してでも家族を守るなんていうのは、自分を守っているだけのことなんでしょうね」
「重圧に耐えられる人間なんていないんだよ。だからな――」じっと前を見つめてハンドルを握りながら竹中が言う。「もし家族の犯罪や不祥事が発覚しないですむなら、あらゆる手を尽くすだろうな。刑法でも犯人隠避罪が例外規定を設けているのもそのためだ」
「親族が犯人を匿った場合に刑を免除することができるってやつですね。人間のどうしようもない性なんでしょう」
そう口走ったとき、記憶の奥底に押しこめてあった腐敗物質がにょろにょろと煙のように立ちのぼってくる。香織はそれまでとはまるで別人になったかのような、自分自身がどこかに消えてなくなってしまったかのような名状しがたい気分になる。だがそれをいま言葉に変換することはできない。
「心あたりがないわけじゃないですから」そう言うのが精いっぱいだった。
それでも竹中は反応する。小さなアレルギー反応のように。
「そうなのか」
「ええ」
懺悔のつもりで香織は小声で認める。でもそこから先は黙して己の記憶をたどるのみだ。
高校のころ。
苦い記憶だ。
竹中もいまのモーニングスプラッシュの仲間たちも、それに新聞社時代の世話になった先輩も後輩も、誰もこのことは知らない。話したことがないからだ。だけどいつだって香織は忘れたりしなかった。わたしはただ運が良かっただけ。それが真実だ。わたしは手厚く守られたのだ。
その後何年かして、そう、たしか大学三年のときだ、あの子のことで同級生から連絡があった。入試に失敗し、三浪して予備校に通っているとは聞いていた。でも具体的にどんなようすだったか知らなかった。もちろんあえて目を背けていたわけじゃない。本当に知らなかったのだ。だからあんなことになるなんて。
「なんだか怖いような気がします」
「怖いって?」
「もし最悪の事態を迎えたとき、わたしはその場にいないほうがいい。もういまから帰ったほうがいいのかもしれません」
「どうした、クラちゃんらしくないな。いつもならまっすぐにぶつかっていくのに」
それはわかっている。いつもなら猪突猛進だ。でもそれは仮面があったからだ。石膏でできた分厚いマスクだ。でもいまは記憶の深みに鋭い返しのついた釣り針が引っかかり、ちょっと引っ張っただけでマスクごと剥がれてしまいそうだ。
「一番わたしらしいかもしれません。防犯カメラの映像を放送しないよう加奈さんが暗に迫ってきたとき、気付くべきだったんです。わたしにはそんな資格はないんです。あの人のことをあげつらうなんてできっこないんです」
二十二
午後8時40分 秘密の暴露
渋滞が解消しはじめ、すこしずつ車が流れだす。まもなく東名町田ジャンクションだった。だがキャンカーの車内は依然として沈鬱だし、さっきよりも危険度が増している。いまにも発火し爆発してしまいそうだった。
「父なのよ」
夫と娘にあらためて言い聞かせるように加奈は語気を強めて口にする。
三太はからからになった口のなかで無理やり唾を飲みこもうとするが、ギリリとイヤな音が喉で鳴っただけだった。それから呆然とする頭のなかに浮かんだ言葉をまずは発してみる。
「父って……うそだろ……」
「うそじゃないわ。本当よ」
「子どものころに離婚して……父親は自分から出て行ってその後、ずっと行方知れずだって」
「自分から出て行ったのは本当。女癖がひどくてね」加奈はベッドに腰かけたまま、郁美の隣で独り言のように話しだす。「だけど、別れたのは父の浮気だけが原因じゃないの。もっとちがう話のほうが大きかった。とっても恥ずかしいわ。こんなことを他人に言う日が来るなんて」
「他人なのか、おれたちは」
加奈はかぶりを振る。まるで夢であってくれとねがうかのように。でもその気持ちは三太も、それに郁美もおなじだ。
「それくらい分厚い塀のなかにずっと隠していたって話よ」
「ちょっと……なんなのよ……聞きたくないよ」郁美が泣きそうな声で言う。
「だめだ。隠し事はなしだ」三太は妻を促す。
「母よ」
「えっ……?」
「サンちゃん、うちの母親にはあんまり会っていないと思うけど、どんな印象があるかしら」
「印象か……小柄でわりとひょうきんな感じで、目がきょろきょろしていて――」
「そうよね、外見はそんな感じ。人あたりも悪くないわ。だけどね、病気なのよ」
「病気……?」
「病的とかじゃなくて、完全に病気。わたしも父もそう思っていたわ。でなければ、もう一人の悪魔があの人のなかに棲みついていた。そのせいでわたしたちがどれだけつらい思いをしてきたことか。離婚は父の浮気だけが原因じゃないの。父は愛想を尽かしたのよ。あの人に。それで自分から三行半を突きつけた……常習犯なのよ、万引きの」
三太も郁美も言葉を失う。
あとは加奈が懺悔するように言葉を吐いていく。
「最初の記憶は四つか五つのころかしら。お店で買い物をしたとき、母がわたしの目の前の棚にあった板チョコを束にしてつかんで、自分の手提げ袋のなかに入れたの。買い物かごとはべつによ。どうして買い物かごに入れないのか、そのときすごくふしぎに思ったのを覚えてる。たぶん、そのとき買い物かごのぶんだけレジを通したんだと思う。
それが万引きだとわかったのは小学生の高学年のころだったんじゃないかな。母は犯罪をしているんだってね。だけど面と向かって問いただすなんてできなかった。まだ子どもだったし。ただ『これ、どうしたの』とは聞いたことがあるの。そしたら『いいの、いいの、これは』って。すっごくイヤな気持ちになったわ。週に一度はそういうこと――要するに万引き――があってね。そのうち、我が家で食べてるものはみんな盗んできたものなんじゃないかって考えるようにもなっていた。もちろん父も気付いていたわ。お店から電話がかかってきて、呼びだされることが何度かあったみたい。
そのころ母は会社勤めだった。それなりの大きな会社の支店よ。父はテレビ局でディレクターをしていた。だからうちはおカネにはぜんぜん困っていなかったのよ。だけど母の手はとまらなかった。わたしも父も訊ねたことはないけど、きっと抑えがたい衝動が体のなかから噴きだしてくるか、それともまったくの無の境地というか、なんのためらいもないのかもしれない。母の手を動かしつづけたのは、それなんだと思う。
わたしが中二のとき、ついに警察ざたになってね。それで会社にバレたの。クビよ。即刻ね。もうそのころから、父は家に寄りつかなくなっていた。表向きは仕事が忙しいって言ってたけど、ほかに女ができたのよ。すくなくとも万引きしない女がね。それで離婚するって話になったんだけど、母は親権だけは手放そうとしなかった。そういうところだけは母親なのよ。てゆうかね、こんなこと言っちゃすごくへんだと思われるけど、悪いことはしていても、やっぱり親は親だったのよ、わたしにとってね。ちゃんとはしてないけど、いつもいっしょにいて育ててくれる人。だから嫌悪感もひどかったけど、離れ離れになるのはイヤだった。それにもし万引きが病気なら、いつかきっと治ると信じていたのね。まだそのころは。
そのあと、母は工場の深夜作業の仕事をどこからか見つけてきたの。悪いのは母だから、浮気の慰謝料なんて父から取れるわけがないから、生活は苦しかった。それでもギリギリのところでなんとかやりくりして、わたしも高校にあがることができた。まっさきにわたしがしたのは勉強なんかじゃなく、アルバイト探しよ。コンビニのバイトに潜りこむことができて、それをなんとか家計の足しにしたわ。けどね、母の病気は一向に治らなかった。何度かわたしが勤めているときにお店に来るときがあって、血の気がひいたわ。そのたびに、あわてて外に連れだしてポケットとか買い物袋とかを調べるの。来ないでちょうだいって、何度泣きながらおねがいしたことか。そうするとね、とっても悲しそうな顔をして帰って行くのよ。イヤだった。本当にイヤだった。
友だちはそこそこいたけど、わたしがこんなふうな苦労をしてるなんて誰も知らなかったはずよ。中学のころにくらべると、母が店に見つかることも減っていたしね。母が自分の衝動をコントロールできるようになったというより、前よりも巧妙になったと考えたほうがよさそうだった。保安員が巡回しているようなときは、なるべく手を出さなかったのかもね。その意味じゃ、自分を抑えられたのかな。なさけなくて笑っちゃうけど。
大学へは奨学金を借りて進学したの。近くの町にある公立大学よ。母は相変わらずだったけど、なんとか卒業にこぎつけて就職したの。番組制作会社よ。父の影響があったのはまちがいないわ。けど、そのころには父とは音信不通になっていた。父のほうがわたしたちのことを嫌っていたのね。それになんとなく新しい家庭を作っているみたいだったから。
最初はADだったから休みなんてなかった。馬車馬のように働かされたから、二年目からはスタジオの近くで一人暮らししないといけなかった。もう母の面倒も見られないし、見る気力もなかった。そうしたら母のほうが郷里の佐賀に帰るって言いだしてね。地元にいる親類を頼ることにしたの。冷たいようだけど、ほっとしたわ。だって始終、母の手の動きを心配する暮らしからついに解放されることになったんですもの」
車は順調に流れていた。横浜町田ジャンクション東名に入ったところだった。三太は妻の話に耳を傾けながらアクセルを踏みこみ、速度をぐんぐんあげていく。ワイルドサイト小猿沢には十時過ぎには到着しそうだ。そこで火を起こし、食事をする。自然の夜気に身をゆだね、言葉は交わさずとも慈しみあう。そうすれば必ず答えが見えてくる……はずだ。
「わたしは子どものころに二、三回しか会ったことないけど」郁美が言う。「ふつうのおばあちゃんに思えたけど」
「そうよ。ふつうなのよ。ふだんはね。そこが怖いところなの」
「結婚式の前に一度あいさつに行って、結婚式やって、その後は三年、いや五年に一回ぐらいしか会った記憶がないな」三太がつぶやく。
「会わせたくなかったのよ。だって親戚から連絡は受けていたから、その後のこともね」
「つまり……」
「一生治らないのよ。てゆうか、治らなかった。死ぬまでね。しかも最悪なことにね――」
運転席の背後で加奈が大きく息を吸いこむ。新たな大波をこれから送りだす準備をしているかのようで、三太のほうが身構えねばならなかった。
「病は受け継がれたのよ」
「え……」アクセルを踏む右足から力が抜け、たちまち後続車が接近し、そのまま追い越される。
妻の告白はつづく。
「ゆがんだ万能感っていうか、すこしぐらいルールから逸脱してもへいきだって思っちゃうのよ」
「なに言ってるんだ、おまえ」
「でしょ、おかしいでしょ。そうなのよ、頭おかしいのよ。だってへいきでレジの売上金に手をつけちゃうんだもの」
高校時代のコンビニでのバイトのことだった。時折やって来る母親の万引きに目を光らせる一方で、妻の手はレジを巧妙に操作し、売上金を着服していたのだ。
「ロンブローゾって犯罪学者がいたでしょ。その人が唱えた生来的犯罪者っていうのはまちがいなく存在するのよ。わたしは母を受け継いだ。だけどね、やったあとですぐにものすごい罪悪感に駆られるの。なんでこんなバカなことしたんだろうって。だけど気が付くとまたやってる。母とおなじよ。母の手と。だからわかるの。母も苦しんできたんじゃないかって。心のシーソーと。大学に入ってからは、おカネを扱うようなアルバイトはやらなかった。わたしの場合、それが一番だったから。心の平衡状態が保たれるから。就職してからは、仕事に必死に打ちこむだけだった。それで家庭をもって、イクちゃんも生まれて。もう大丈夫だって思いはじめていた。よく言われるでしょ、精神疾患って三十代以降に発現することが多いって。だったらその逆があったっていいじゃない。三十代以降に落ち着くってことだって。けどね――」
ほの暗い車内で加奈は天井を見あげる。
「最近は二言目には投資、投資じゃない。銀行におカネ置いとくだけじゃ、ぜんぜん増えないから」
もうそれ以上、言われなくてもわかった。
「おれが余計なこと言わなきゃよかったのかもな」三太の口から苦々しく漏れる。
「そうかもしれないわ」加奈は鼻をすすり、はっきりと言った。「でもきっかけはどうあれ、わたしのなかでは例の万能感が顔をのぞかせてきていた。それを抑えきることができなかったのよ」
「投資は犯罪じゃない」三太がきっぱりと言った。
「そうよ。でもギャンブルとおなじじゃない。高揚感のあとに残るのは、後悔だけでしょ。おカネは残らない。それを取り返すためにおなじことを繰り返す。パチンコ屋に朝から並んでる人たちと変わらないわ。だけどね、言い訳になるけど、ぜんぶうちのためにやったのよ。どうしたら幸せに暮らせるかって」
三太は大きくため息をつく。加奈が投資にのめりこんでいるのはわかっていた。そこそこでやめといたほうがいい。どうしてもっと強く言えなかったのか。だが加奈の闇はさらに深かったのだ。三太の言うことなど聞く耳を持たなかっただろう。
虚空に話しかけるように加奈は心の内を吐きつづける。「でもね、人のものでも奪ってしまおうなんていう強欲さの裏にあるのは、自分が一円でも損をすることへのアレルギーなのよ。つねに見返り、リターンをもとめる。だからマイナスは絶対的な悪。すくなくともイーブンに持ち直さないと自分が許せなくなる」
「誰にだってそういう一面はあるさ」
「そうよ」それまでじっと耐えて聞いていた郁美が、声を震わせながら口を開く。「わたしだって自分だけ損するのは絶対イヤだもの」
「でもね、やっていいことと悪いことがあるのよ。ちょうどモーニングスプラッシュの担当コーナーが終わって、通販番組のプロデューサーとして食いつながないといけないときだった。恥ずかしい気持ちをうっちゃって、のこのこと父のところに足を運んでしまった。それでね『うちのタレントを使ってくれたらキックバックできる』って言われたの。ギャラの一部をピンはねして、わたしに回すってことよ」
三太はやりきれない思いだった。自分が時速百キロ近いスピードで鋼の塊を操作していることを失念してしまいそうだった。加奈のなかに巣食うねじくれた万能感がふたたび鎌首をもたげたというのだ。
「それならいっそのことって、べつの所属タレントの名前を使うことにしたの。架空請求よ。メイク代の。父はあんまりいい顔しなかったけど、わたしが押し切る形になった」
「それがそっくりカナちゃんのところに入ってきたんだね」
返事をするかわりにバックミラーのなかで加奈は深々とうなずいた。三太はそれ以上口にしたくない気持ちもあったが、胸いっぱいに広がったもやもや感は耐えがたかった。
「四月以降、三か月ぶん、合わせて三十万か。だけど強盗の一件がなかったら、この先もつづけたのかな」
こんどははっきりと声に出して加奈が言う。
「たぶんね」
押し黙るのは三太と郁美の番だった。
闇バイトに手を染めた自分が言えた義理ではない。それは理解しているつもりだったが、家族の禁断の領域――オフ・リミット――を無理やり見させられている気分だった。
「警察が来たとき、わたしがそこにいたらいっしょにあれこれ訊かれるでしょ。記録に残されてしまうし、あなたたちにバレちゃう。出張に行っていたはずなのに……だからなんとか結束バンドから抜けだしたあと、血まみれの父を残して逃げてきたのよ」
「やっぱりそうだったか」こんなことで予想がぴたりと当たってもうれしくない。悲しいだけだった。
「ごめんね、イクちゃん」母親が涙声で謝罪する。「どうしようもないおかあさんで……」
沈黙。
郁美はもちろん、三太も返す言葉が思いつかない。だったら前を見つめてひたすら車を走らせるしかない。でもどこへ行く? 本当に小猿沢に行くのか。そこに行けば、どんな苦悩からも解放されるというのか。キャンプファイア? 背筋が冷たくなる。ギャンブルにもならないじゃないか。いくらルーレットを回したところで、用意されているのは負けしかない。牟礼家の人生ゲームはまだ中盤のような気もしたが、いつの間にか終盤、清算のときに差し掛かっていた。見えているのは貧乏農場だ。それでもまずは現実的課題に立ち向かう、いや、たとえみっともなくてもいいから何らかの形で対処しないことにははじまらない。
「まだ三十万だろ」
「だけどクビよ。それだけでも。ごめんね……」
「そうじゃない。おとうさんの会社への振り込みなんだし、経理ミスってことにもできるんじゃないか。返せばいいんだよ。不正がバレないような方法がなにかあるはずだ。だけどね、ぼくのほうはそうはいかない。たとえおとうさんが被害届を撤回したとしても、警察の捜査はとめられない。それになによりあいつをなんとかしないと」
「家に来た若い人のこと?」
「その上だよ。キヨシって呼んでた。指示通りにカネを奪えなかったり、途中で逃げたやつとかを徹底的に追いこむって話だ。じっさいうちの住所はバレてるわけだし――」
「ねえ、パパ……」
郁美がそれまでとはちがう緊張感を帯びた声をあげる。リアウィンドーをのぞきこんでいる。
「あおられてるよ。さっきから……ずっと」
とっさに三太はモニター画面に目をやる。後部カメラの映像だ。白いSUVが大映しになっている。車間距離は二メートルほどしかない。
高速の照明がフロントグラスを断続的に明るく照らす。運転席はよく見えない。しかし助手席の男ははっきりとわかった。ドジャースの帽子をかぶっていた。
二十三
午後9時10分 安全地帯を見つける
反射的に三太はアクセルを踏みこむ。それまでこの車で経験したことのない回転数でエンジンが噴きあがり、ぐんと体がシートに押しつけられる。だが猛然と前に飛びだせたのも束の間だった。所詮は百五十馬力に満たないエンジンだ。あっという間に獲物を狙うサメのようにレクサスに追いつかれる。向こうはアクセルなんてたいして踏みこんでいないだろう。
「なんでだよ、なんでわかったんだ……」
「なんなのよ……」リアウィンドーを振り返ったまま郁美が怖がる。
三太が伝える。「あいつらだ。尾けてきたのかもしれない。家はバレてたんだから」
レクサスはずっと二メートルの車間距離を維持している。自分たちの存在を誇示し、恐怖をあたえようとしているのだ。でもここで三太が急ブレーキを踏んだらどうなる。やつらの車は衝突を回避しようと急ハンドルを切った瞬間、制御を失って中央分離帯にでも激突してくれるんじゃないか――。
無理だ。
十中八九、こっちのリアバンパーに突っこんでくる。最悪のケースでは、こっちの車が横転して一家三人が死亡。そうでなくとも車は大破して走行不能。車線を塞いで渋滞が起きているところに、警察がやって来る。やつらは三太との関係は黙っているだろうが、もし鎌倉の一件の捜査線上に三太と富永がすでに参考人として特定されて浮上しているのなら、免許証を提示して照会された時点で高速警察でなく、機動捜査隊あたりが乗りこんでくることになる。それがわかっているから、やつらだってバンパーをぶつけてきたりもせず、あおるだけにとどめているのだ。
それでも三太は時速百五十キロで追越車線を飛ばしつづけ、前方車両がなにごとかとつぎつぎに車線を譲っていく。無骨なキャンカーはSUVを従えたまま一体となって死のチェイスをつづける。向こうは屁でもないだろうが、こっちは車内にそれまで感じたことのない不気味な振動が起きていた。こんなふうに走るために設計されてはいない。追突されずとも、やがてタイヤが外れるか、エンジンから出火するか、バランスを崩して横転するかして自滅するのがおちだ。
「サンちゃん、やめて……」加奈が体をこわばらせたまま、切羽詰まった声で言う。「危ないから」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」吐き捨てるほかなかった。
「話してみたらどうなの。もしおカネで解決できることなら――」
「骨の髄までしゃぶられるぞ。何度も闇バイトさせられて。それか殺されるかだ」オイルが焦げるようなイヤな臭いがしてきた。このままだと本当に発火して巨大な火の玉となって、おれたち一家はこの世から消えるんじゃないか。ああ、上等だぜ。
「だったらやっぱり警察に――」
「ダメだって」
「証拠写真は撮ったよ。ナンバーもばっちり」バックミラーのなかで郁美がスマホをかざす。
「イクちゃん、それだけはダメなんだって」
「なんで」
「なんでもだ」だけどなんとかしないと。三太のなかで矛盾する思いがせめぎ合う。
そのとき巨大な緑の看板が目に飛びこんでくる。
サービスエリアだ。
そこに入れば、二台の車の速度は落ちるし、停車も余儀なくされる。それでどうする? 以前も使ったことがある場所だ。車を捨てて野原に逃走できただろうか。非現実的なプランしか思いつかない。
それ以上考えている余裕はなかった。あっという間に誘導路が接近してくる。エンジンも限界だった。三太はアクセルから足を離し、ミラーで確認してから車線を変更する。親切にウィンカーを左に出して――。
はたから見たら、二台は連れ合いどうしで、トイレに行きたくて急いでいたように思えただろう。そろって誘導路に進入し、トラックや一般の車がひしめく広々とした駐車場へと円を描くようにして近づいていく。だがどうすればいい。三太の頭は真っ白だった。加奈の言うとおり、面と向かって話してみるか。とりあえずは三百万だ。それならなんとかならない金額じゃない。ほかのドライバーたちでごった返す食堂で、名物のエビフライ定食でも食べながらそんな話をしてはどうだろう。なごやかに。まるでこれからキャンプ場に向かう仲間と談笑するかのように。
白と黒のシャチのようなボディが目に入ったのはそのときだった。
パトカーだ。
ひっきりなしに利用客が出入りするトイレの前の駐車場にフロントグリルを前に向けてとまっている。隣の駐車スペースが空いていた。是非を熟慮するゆとりもないまま、三太はエンジンが悲鳴をあげだしたキャンカーを頭からそこに滑りこませる。
レクサスはこっちの車を塞ぐようにして背後に停車する。それがバックモニターに映る。だが五秒後にはのろのろと移動する。まるで空きスペースを奪われ、舌打ちしてべつの場所を探すかのように。だがパトカーの運転席に制服警官がいることに三太も気付いていた。
やつらは駐車場をぐるりと回り、三太たちの車から三十メートルほど離れた空きスペースに駐車する。キャンカーの運転席からは右斜め前方、間に五台、目隠しにもならない乗用車を挟んでいる。向こうの運転席からもこっちはまる見えだ。
雨上がりの蒸し暑いサービスエリアを涼やかに照らす銀色の照明が、レクサスのハンドルに両手をかける男の姿を浮かびあがらせる。黒っぽいTシャツに太い腕。胸元のネックレスらしきものがきらりと光る。顔はわからない。
そのときルームランプが灯り、助手席から富永が外に降りてきて、せかせかとたばこに火をつける。湿った紫煙がやつの顔のまわりにまとわりつくのが、こっちからも見えた。
やつは近付いてこない。
運転席にも動きはない。
「どうするの」郁美が聞いてくる。声に緊張感と恐怖が満ちている。
「安全地帯だ」本当にそうなのかわかりもしないのに三太は口にする。父親としての最後の威厳を見せるかのようだった。「ここならやつらも無茶はできまい」
「ちょっとこれ見て、サンちゃん」
加奈が手にしたものを夫の顔の前に突きつける。
「わたし、見たことあるわ、こういうの」
キーホルダーだった。
丸い金属板がぶら下がっている。
「GPSじゃないかしら」
「どこにあったんだ」三太はつい怒鳴ってしまう。
「冷蔵庫の下よ。さっきの荒っぽい運転で転がり出てきたんだわ。奥のほうに隠したつもりだったんでしょうけど」
加奈の頭にあることは三太にだってわかった。夕方、富永をこの車に連れこんで絶望的な話をしたとき、やつはこうなること――一家が夜逃げすること――を察知し、あらかじめ用意した発信機を三太の目を盗んで車内に残していったのだ。
三太は妻の手からキーホルダーを奪い取り、助手席の窓から外に放り投げる。
「マジ、おしっこしたいんだけど」郁美が訴える。
言われた途端、三太も尿意をもよおす。緊張がわずかに解けたのかもしれない。
「車のトイレ使えばいいだろ」
「イヤよ。ブラックタンク汚したくないもん。どうせわたしが洗わされるんだから」
平時ならたしかにこうした場所のトイレを使うべきだ。キャンカーのトイレははっきり言って非常時使用にかぎられる。汚物を捨てられる場所がかぎられるし、洗うのもめんどくさい。目の前に公衆トイレがあるのに、あえて車内で用を足す必要はない。でもいまは非常時だ。真の意味で。
「まわりにこれだけたくさん人がいるのよ。あの人たちだってやたらなことはできないでしょう。わたしも行きたいわ」加奈が夫を促す。
トイレは本当に目の前、十メートル先に入り口があった。キャンカーのドアはレクサスから見えない左側面にある。そこからそっと抜けだせばいい。隣に警察が待機しているんだし、なによりやつらだって女子トイレに乱入するようなまねはすまい。
「わかった。じゃあ、いっしょに行くんだ。気を付けるんだぞ」レクサスのほうに目を光らせながら三太は妻子を送りだす。
そのとき隣でドアが閉まる音がする。
運転席にいた警官が三太のわきに立っている。腰の拳銃に手をかけているわけではない。にこやかに微笑み、三太とアイコンタクトを取ると、もの珍しそうにキャンカーのまわりをながら眺めだした。人のよさそうな白髪の男だった。まるでレクサスの連中をよせつけないよう警備しているかのようでもあり、逆に闇バイトの強盗犯が逃げないように見張る看守のようでもあった。
ぐるりと一周すると、警官はふたたび運転席のわきにあらわれ、三太に視線を注いできた。多くの日本人同様、三太は本能的に迎合した。絶対的な権力にコントロールされた男に。サイドウィンドウを下げたわけではない。それでは失礼だ。たしかに息が詰まりそうだった。外の空気を吸うのも悪くない。ドアを開け、濡れたアスファルトの上に足をつけた。
「ベースはふつうのトラックなんですね」まもなく定年だろうか。人懐っこい笑みと穏やかな口調は、最後のお勤めに励む駐在さんのようだった。「それを改造するとこうなるんですね。へえぇ……高いんでしょう」
誰もが聞く質問が繰りだされる。ふいにぞっとする。鎌倉事件関連ですでに三太は手配されているのかもしれない。所有する車のナンバーや車種なんて陸運局に照会したらすぐにわかる。このオヤジ、最後のお勤めで大金星にあたり、年に似合わぬ興奮を味わっているのかもしれない。
慎重に三太は返事をする。「中古ですから。さほどでもないです」
「すばらしいですね。これならどこでへも行ける」逃げられるとは言わなかった。「これからキャンプですか」
「ですね。夏休みなんで」
「最近はほんとに流行ってますよね。オートキャンプ場も増えてきたし。五人ぐらい乗れるんですか」
「そうですね。五人は乗れます」
「でも三人ぐらいがちょうどいいんでしょうね」目を細めながら言う。こっちの人数がすでに把握されている。そのあたりは警官としての習い性なのだろうが、喉が絞めつけられる思いだった。「雨があがってほんとによかった」
平静を装い、三太は自分からも訊ねてみる。「高速のパトロールですか」
警官は額に手をあてる。「さっき通報があったんですよ。ここの事務所からです。ドライバーどうしがけんかしてるって。だけど着いたときには、当事者はどっちも消えていた。だから事務所で一応事情聴いて、はい、おしまい。いま相方があっちで――」あごで食堂のほうをしめす。「メシ食ってます」
「たいへんですね。そういうことがあると。だけどここの食堂はわりとイケますよね。エビフライが好きなんです。結構大ぶりなんで」
「そうそう。でも自分にはちょっと高いかな。それにわたしはもう長いこと弁当生活でしてね。といっても妻は作っちゃくれないから、自作ですよ。この車ですと、煮炊きはぜんぶ電気ですかね?」
「ガスコンロもありますよ」
「そうですか。やっぱりガスの炎のほうがおいしくできますよね、なんでも。いや、そうでもないか。せっかくのキャンプだ。焚火が一番かな」
話しながらも三太はレクサスへの警戒は怠らない。富永は相変わらずたばこを吹かし、運転席のキヨシは薄闇の奥からじっとこちらを見つめている。
「ですね。雨が降ってないなら、たいていは近くで焚火をします。車はもっぱら寝るときに使うだけです」
「そうですよね。大自然の空気を味合わないと。遠出されるんですか」
いきなり核心をついた質問が飛びだしてきた。三太は相手の顔も見ずに、とっさに思いついたことを口走る。「愛知のほうまで」
「ほお、じゃあ、あと二、三時間。いや、もっとかな。着くのは真夜中ですね」
「ですね」返事をしながら、いまこの場で降参してしまったら、どれだけラクになるだろうかと考える。でもそれができない。どういうわけか、この老警官にお手柄をあたえる気になれなかった。だって、あまりに幸運すぎるじゃないか。たまたまとまっていた駐車場の隣に手配犯がやって来るなんて、まるでカモネギだ。
「だけど雨上がりは気を付けたほうがいい。山のなかは悪路だ。とくにキャンプ場なんてガードレールが整備されていないところも多いですからね」
「はい、運転には注意します。ありがとうございます」
「ちゃんと替えのタイヤは装備されてますよね。山のなかでパンクした日にゃ、JAFが来るにも時間がかかる。まあ、野宿の心配はないでしょうが。この車なら」
「予備のタイヤならご心配なく」そう告げたとき、三太はひらめく。
ちょうど加奈と郁美がもどってきたところだった。
「じゃあ、ちょっとトイレ行ってきますね」こんどは三太が建物のほうに向かう。
途中で振り返ると、老警官はパトカーのドアを開け、運転席にもどるところだった。その向こう、レクサスのほうからは二人の男が近づいて来る。キヨシの姿がはっきりとわかる。長身でやせ型。だが腕力はありそうだし、肩の怒らせ方は富永以上に危険な雰囲気を醸している。
同僚警官が間もなくもどって来てパトカーは発進してしまうかもしれない。それでも三太は賭けに出た。目の前にルーレットがあるなら回さないと。車中で妻に関するとんでもない事実が明らかになって以来、弱気の極みにあった三太だが、ようやく腹をくくることができた。おれだってやるときはやるんだ。中途半端は禁物だ。貧乏農場に行くのがイヤなら、全財産を賭けて一発勝負に出るしかない。
トイレには入らず、そのまま食堂のほうへと足早に向かい、なかに入る。やつらはおれを追いかけてくる。そう信じてごった返す食堂を突っ切る。たしかに若い制服警官が一人、こちらに背を向けてラーメンをすすっていた。その後ろをすり抜け、売店も過ぎて三太はべつの出口から外に出る。そのとき物陰に隠れ、食堂を見やる。
ちょうどキヨシと富永が入って来たところだった。
三太は建物の反対側をダッシュで回りこみ、ふたたび駐車場にもどる。そこからパトカーの運転席に注意しながら、腰をかがめてレクサスに近づく。
いっさいためらわなかった。
ポケットのヴィクトリノックスを開き、運転席側の前輪にずぶりと刃を差し入れる。シュッと音がして車体が右側に沈む。それをたしかめて三太はキャンカーにもどる。
助手席のわきで腰をかがめたとき、ちょうどやつらが食堂のほうからもどって来た。三太は運転席にもどり、ギアをバックに入れる。隣のパトカーに注意しながら駐車スペースからゆっくりと抜け出る。ドライブシフトにもどしたとき、目の前にキヨシが立ちはだかった。ヘッドライトに照らしだされた顔には、その場から一家を逃がすまいとの黒々とした決意が満ちている。
だがやつは残酷な薄ら笑いを浮かべながら、わきにどいた。三太には、あの老警官がパトカーの運転席でじっと目を凝らしているのがありありとわかった。決して急発進することなく、三太は短くクラクションを鳴らして謝意まで伝えて走りだす。
キャンカーは走行車線に入り、加速していく。
「パパに考えがある」
家族は元にもどることができる。そのためにはまだゲームを下りるわけにいかなかった。回収したキーホルダーはズボンのポケットに入れてあった。
二十四
午後9時30分 メッセージが届く
今年四月、熊尻山で咲世たちと争いになったクソのような男は闇バイトにかかわっていた。その男が遺体で見つかったことで、関係者がリュックサックのネームプレートを頼りに咲世の口封じを依頼してきた。そのことについて、バックシートに深々と背中をあずけながら麻子が考えをめぐらせているとき、スマホが鳴った。シックスセンスからの連絡用に設定している着信音だ。
≪急・求むエスコート、神奈川県西部、Lev.0≫
咲世の殺害を発注したのとおなじ依頼人からだった。しかもこんどは「急」がついている。
「いやな感じになってきたよ」麻子はディスプレイを咲世に見せる。「神奈川県の西部で仕事をこなせる人間を捜してる。おなじく殺しだね。あんたを殺る件とおなじ依頼人だよ」
「イクちゃんが狙われてるんですかね」
「可能性はあると思う」
「くわしく訊けませんか」
「どうだろう」麻子は苦しげに首をかしげる。「あたしはまだあんたを殺ってないからね。向こうからしたら、最初の発注をこなしたかどうかたしかめたいだろう。それにはあたしは答えられないでしょ。そんな相手とは取引をしないだろうし、具体的な殺害相手や場所は、もっとプライベートな通話で指示されるんだ。いまわかっているのは『神奈川県の西部に来い』ってことだけだよ」
「西部といっても広いですよね」
「困ったね、こりゃ。だけど、あたしにとっても依頼人が何者なのかは探りださないといけないのさ。あんたを殺していないことがバレたら、つぎはあたしが殺られる。報酬がいくらになるかはわからないけど、十中八九それはまちがいない。その前にあたしのほうが依頼人を始末しないといけないんだよ」
「なんの恨みもないのに何百万円かで誰かを殺せるなんて」
咲世は恐れることなく麻子にずばりと言った。それはちょっと前まで自分の命を奪おうとしていた女にいまでは興味を抱いている証なのか。麻子は自分の半生がこの若い娘にのぞき見されているようで気恥ずかしさを覚える。同時に自分がこれからどうなるのか恐ろしくもあった。たまらず口にする。
「あたしだけじゃない。そうすることでしか生きられないやつなんていくらもいるんだよ。殺し屋なんてかっこのいいものじゃない。まじめそうなサラリーマンに目立たない主婦……身近にいるごくふつうの人間、なんでこの人がって驚くような仕事に就いている人間もいる。総じて言うなら、カネの魔力に憑りつかれた、心にぽかんと大きな穴が開いた連中さ」
「そんな世界があるなんて……麻子さんもずっと穴が開いているんですか」
まっすぐに訊ねられ、喉元が圧迫されたような感覚に陥る。誰かに訊かれたことなんてなかったからだ。「ときどき思うんだよ、人は親を選べない。なんて不公平なんだってね」
自分の生い立ちをぽつりぽつりと麻子は話しだす。憎むべきあの女のこと。誰よりもたいせつにしていた妹のこと。
死――。
「あたしは空っぽなのさ。こんなに大きな体を埋めるものがないんだ」
「いまもそうなんですか」
「えっ……」
「チョコもプリンもおいしかったです。でも最初にもらったサンドイッチとおにぎりが一番かな」
「よしてよ」でも悪くない。「あんたみたいな相手には会ったことがないよ」
「だけど、依頼人を見つけださないと、たしかに落ち着きませんよね」
「いまのあたしにとっちゃ、どうやらそうみたいだね」
「闇バイトの関係者なんですよね、その依頼人も」
「そうだね。おそらくかなりの上層部だと思う」
「イクちゃんに注意するように言わないと」
「お友だちが行きそうな場所に心あたりはあるかい」
「神奈川県西部ですよね……」
麻子は目をすがめ、外の暗がりを見つめる。
「そこに新たな殺し屋が来るはずなんだ。先回りしてそいつを見つけられたら、すこし痛めつけてやって依頼人に関する情報を吐かせるんだけどね。それをもとに調べたら、依頼人が何者かわかるかもしれない。あたしが生き残るにはもうそれしか方法がないと思う」
そう言って麻子はスマホを咲世に渡す。彼女のスマホだ。
「雨もやんだね。ここでお別れだよ。家まで送って行ってあげたいけど、もう届けが出ているかもしれないから、あまり近くには行けない。そうだ。最寄りの駅まで送るよ。電車賃ぐらいなら出してあげられるし。その前に家に電話するといい。おかあさん、心配してるだろうから」
麻子は鼻をすする。空っぽのはずの大きな体にはなにかが満ちてきている。それまで人をへいきで殺めつづけてきた女にも、それがたしかに感じられた。
「ほんとにごめんよ。悪いことをした。あんたはあたしが仕事を請け負うような相手じゃない。今回はなにかがへんだ。あたしはそれに自分からはまっちまった。だから尻拭いは自分でするつもりさ」
「ありがとうございます」咲世はペコリを頭をさげてから、スマホで母親に電話をかける。
連絡しないでゴメン。ちょっとスマホの調子が悪くて……でもだいじょうぶだから。知り合いのところに泊まったの。ほんとよ。もうすぐ帰るから――。
母親の泣き声が漏れてきた。だが無上の安堵のせいか、それ以上の詮索はしなかった。だから咲世も麻子のことは告げなかった。なにが起きたのかも。
起きているのかも。
「イクちゃんには伝えておきますね」
母親との通話を終えてから咲世は親友に連絡を試みる。すぐに留守電に切り替わったので状況を説明し、おそらく熊尻山で見つかった遺体の件で自分も殺されかかったので、郁美も注意するように伝えた。ただ、その殺し屋といっしょにいることは告げなかった。
麻子は運転席にもどり、静かに車を発進させる。ずっと考えていたのは妹のことだった。もし生きていたら、どんな子になっていただろう。ときどき姉妹で買い物に行ったり、旅行に行ったりもしたのかしら。もう一つの人生に思いをはせる。
もはや決して手の届かない……光。
そのとき着信音が鳴る。
咲世のスマホだ。
「LINEです……ちょっと遅かったかもしれない」悔しそうに咲世はつぶやき、郁美から届いたメッセージを読みあげる。
≪こっちもマズいことになっちゃった。警察にはゼッタイ言えないんだけど、とりあえずワイルドサイトに向かってる。パパが急に行くって言いだして。だけど、ヤバい、マジヤバい。へんなヤツらが追いかけてきてる≫
「ワイルドサイトってなんだい?」
「丹沢にあるキャンプ場です。去年の夏、一家で行ってきたって言ってました。また行きたいって」
「丹沢は神奈川県の西部だね」
「依頼人はイクちゃん一家を追跡してるんでしょうか」
「依頼人本人というより、その人物から発注を受けたあたしみたいなやつだと思うよ」
「でもどうして警察に言えないんだろう。助けをもとめればいいのに」
「たとえ正当防衛だったとしても、あの山に遺体をほったらかしにしてきたのは事実なんだよね。あんたが抱える罪悪感はお友だちもいっしょなんだよ。へたに警察に通報すれば、そっちの話もバレちまう。にっちもさっちもいかなくなったんじゃないかい。警察はすでに熊尻山の登山者を調べだしているはずだしね」
咲世はつらそうに顔をゆがめる。「ネットで登山届を出したんです。そういうのって――」
「警察ならすぐに把握できるでしょ。そこから情報が漏れたんじゃないかな。依頼人と通じている人間がいるんだと思う。警察なんてマジにクソみたいな組織だから」
「住所も家族構成も、携帯の番号までぜんぶ警察から漏れてるんですかね」
「可能性はあると思う。けど、闇バイトの連中に発注すれば、そんなものいくらでも調べられるさ。リサーチャーっていうのがいるんだ。言っとくけど、あんたのことだって、あたしが調べたわけじゃない。うちらは最後のところを受け持つだけだからね。たぶんリサーチャーが動いて、情報を依頼人にあげたんだろう。ほら、これもさ――」
麻子はスマホに一枚の画像を表示する。
コンビニの前でブランドショップの買い物袋をさげてたたずむ咲世の姿を、通りの反対側から撮影したものだ。咲世は麻子のスマホをつかみ、ピンチアウトする。
息がとまったみたいだった。




