十七~二十
十七
午後8時 キャンプに出かける
個人情報が厳しく管理される時代とはいえ、アナログの世界をのぞけば穴だらけだ。「モーニングスプラッシュ」のスタッフルームのデスク席にぶら下がる緊急連絡先一覧には、前年度までプロデューサーとして名を連ねていた牟礼加奈の住所が依然としてさらされたままだった。
多摩川線の鵜の木駅の近く。グーグルマップで調べたら、狭い路地を進んだ先の戸建て住宅だった。だんなさんはどんな仕事をしているのだろう。いや、もういまは無職かな。
都心でもないし、高級住宅地の印象もないけど、どこか安心して住めそうな雰囲気の街だ。駅も徒歩五分ほど。きっと夢の一戸建てとして夫婦で力を合わせて購入したのだろう。
竹中がまだ残っていた。相談するならこの人しかいない。香織は客観的な事実とそこから導かれるものについて、すっかり話してみた。
「自分の夫が強盗犯か。のっぴきならない状況だな。会って直接訊いたほうがいいだろう。行ってみるか。だんなにも会えるかもしれないし」
「ですね」即座に返事をしたものの、香織はさすがに疲れきっている。朝からあちこち飛び回ってくたくただ。こんなに仕事をしたのは、新聞社の一年生以来かもしれない。
それを察して竹中が持ちかける。「おれの車で行くか。どうせ帰り道だし」竹中は武蔵小杉のタワーマンションに暮らしている。たしかに帰宅ルートに近かった。
四十分後、緊張を帯びた声に目が覚める。
「ここだな」
竹中のBMWは、雨上がりの昭和レトロな街並みをカーナビに導かれてそろそろと進んでいる。香織はいつしか眠りこけていた。きょうは働きすぎだ。過労のせいで意識が強制的に切断されてしまった。時計を見る。ほんの十五分程度だ。それでも頭がすっきりしている。リセットされたみたいだ。おなかも順調に空いてきている。しまった。バッグのなかの非常食が尽きている。
狭い路地にとまるレクサスの後ろにBMWをとめる。青白い街灯が夢のマイホームをぼんやりと照らしだしている。間口は狭い。そこにコンクリートを流して駐車スペースが作ってあるが、車はない。路駐のレクサスをこれから縦列駐車するのだろうか。そこを突っ切って香織はまっすぐに玄関に向かう。ざっと見るかぎり、家の明かりは確認できない。迷わずインターホンを押してみるが、三回押しても反応がない。
「出かけてますかね」
香織が口にしたとき、家の奥でがたりと音がする。
家のわきからのびる隣家とのすき間に突如、人影が現れた。二人いる。男。暗いから顔はわからない。
「すみません、テレビ東邦ですが――」
香織を無視して二人は小走りにレクサスに近づき、そのまま乗りこむ。異変を察した竹中が声をあげる。
「おい!」
エンジンがかかるなり、車が急発進する。
「なんですかね」
「ここの住人なら玄関から出て来るだろ」竹中はスマホのディスプレイを明かりがわりにして、男たちが出現したすき間に入りこむ。
後につづいた香織は硬い異物を踏みつけ、足の裏でそれが割れる感触を覚える。目の前の窓を照らす竹中のスマホの明かりで、それがなんであるかすぐにわかる。ガラスだ。
窓は開放され、カギの部分が割られている。
「すみません! 牟礼さん!」竹中が声を張りあげるが、反応はない。
「いまの人たちって」
「まずいな。空き巣かもしれん」
香織は即座にスマホを取りだし、牟礼加奈に電話を試みるがすぐに留守電に切り替わる。手短に事情を吹きこんでいると、薄暗い通りにふたたび人影が現れる。こんどは女性だ。
加奈ではない。
「どうされました……?」
白っぽいTシャツ姿の小柄の女性だった。近所の人だろう。サンダル履きだった。
「テレビ東邦の者です。こちらの牟礼さんにお話をうかがおうと思って来たのですが、留守のようで……そうしたらいま不審な二人組が現れたんです。男の人です。ガラスも割られているし」
「え……そんな……」めがねの奥に困惑が広がる。なにか目に見えぬ恐怖に怯えているかのようだった。「でもキャンピングカーもないですね。出かけているのかも」
「キャンピングカーですか」
「はい。大きな車です。ふだんはずっと置きっぱなしですが、遠出されるときには使っているみたいです。キャンプ好きなお宅なんです。ちょっと待ってくださいね」女性はスマホを取りだし、どこかにかけるが通じない。「出ないですね、ママのほうにかけてみたんですけど」
「ご近所の方ですか」
「はい、こちらのお子さん、イクちゃんと娘が高校の同級生なんです。けど、ガラスが割られてるって……」女性は寒気を覚えたかのように自分の腕を両手で抱える。
「警察に通報したほうがいいかもな」竹中が舌先で唇をなめる。
「警察……じつはわたしも困ったことがありまして。それで牟礼さんに相談しようと思って足を運んだんです。きのうから娘が帰ってなくて……」
竹中と香織は顔を見合わせる。
「帰っていないというのは?」訊ねながら香織は名刺を差し出す。
「高校二年なんですが、きのうの夕方、出かけたきり、きょうになっても帰らなくて。こんなこと一度もなかったんです。ほかのお友だちのところに泊まることがあっても必ず連絡してくれるはずだし」母親は憔悴しきった表情ですがりつくように言う。
「高二ですか」
香織の頭になにがよぎったか、母親はすぐに理解した。
「家出なんてありえない……でもわからない。とにかく早く帰って来てほしい。もうなんだか気がへんになりそうで」
「心配ですよね。警察には通報されたんですか」
「このあと主人と行ってきす。でももしかしてイクちゃんならなにか知ってるかもしれないと思って。だけど……とても怖いです」母親は香織の名刺に目を落としてから、救いをもとめてくる。「テレビの方……ニュースでやってもらえませんでしょうか」
「きのうの夕方出かけたのですね」香織が訊ねる。「なにかいつもとようすがちがうと感じられたことはありませんか」
「いや……それが……」街灯の薄明かりのなかで母親の顔が曇る。「おとといぐらいから、なんとなくピリピリしているような……いまにして思えば、なにかに怯えるような感じがありました。だけどこんなことになるなんて」
「おとといというと木曜ですね。何時ごろの話なのでしょうか、ピリピリしていると感じられたのは」
「夜ですね。テレビを見ながら晩ご飯を食べていたんですが……急に食欲がないと言って立ちあがって、そのまま部屋にこもってしまいました」
「テレビを見ていたんですか」
「ニュースです。ふつうの。いつも見ているものです。具合が悪いんじゃないかと思って声をかけたんですが、うるさいって部屋に入れてもらえませんでした。ふだん、そんなふうなことはなかったのに――」
「学校でなにかあったんですかね」
「それをイクちゃんに訊こうと思ったのです。一番の親友でいっしょに勉強したり、山登りに行ったりしていました。それに二人とも声優を目指していて、専門学校主催の夏の声優講座にもいっしょに参加しようなんて話もしていたくらいです」
「声優講座なんてものがあるんですか」
「そうなんです。そこでコネを作っておくと、あとで声をかけてもらいやすくなると言っていました。それで春になったらいっしょに申しこもうって、すごくたのしみにしていたんです……だけど、その講座、ちょっと行けなくなってしまって」
「と言いますと?」香織はずけずけと訊ねた。
「イクちゃんのほうがどうしても行けないって言いだしたんです。四月ごろの話です。あまり大きな声では言えませんけど、家庭の事情……金銭的な理由みたいでして。だったら自分も行きたくないって、うちの娘も言いだしたんです」
「それでご破算に?」
「そうなんです」
声優講座にいくらかかるかわからないが、それに投じるおカネが牟礼家にはなかったというわけか。もしかすると加奈の夫らしき人物が恵比寿のあの公園にいたのも、家計上の理由からなのだろうか。だがその話をいま持ちだすわけにいかない。たんなる下世話な興味のふりをして香織は訊ねてみる。
「キャンピングカーなんて、お金持ちじゃないと買えないと思うんですけどね」
「そうだとは思うんですけど、ご主人だけでなくママもイクちゃんもキャンプにはまっていました。去年の夏も一週間ぐらい出かけていたんじゃなかったかしら。イクちゃんも『すっごくよかったから、今年も絶対行くんだ』って娘に話していて、それがとてもうらやましいって言ってました。仲良し一家なんですよ。うちなんかよりずっと。ほんと絵に描いたようなすてきなファミリーでした」
「でした、というと?」
母親はあたりに目をやってから小声で話しだす。「くわしくはわからないのですが、先ほども申しあげたおカネの話ですね。春先から急にたいへんになったみたいでして……娘がイクちゃんから聞いた話ですと、ママが投資でちょっと失敗したそうなんです。金額まではわかりませんが、夏の声優講座の受講料が払えなくなるぐらいだったのはまちがいありません」
春先か。加奈がモーニングスプラッシュから通販番組に移った時期だろうか。加奈は番組ごとの契約プロデューサーだ。番組が変われば、月々の手取りだって変わる――下がる――だろう。そこへきて投資の損失か。家計は火の車だったのかもしれない。それが娘の進路にも影を落としたというわけか。でも家庭の事情なら完全には納得できないにしろ、責めるわけにいかないのではないか。家族以外の誰も。氷のスティックを胸に突き立てられたような痛みが香織の胸に走る。責められるべきは、家庭の事情以外の理由が進路に影響したときだろう。
記憶をたどりながら母親がつづける。「ゴールデンウィークにほんとならキャンピングカーで出かけるはずだったそうですけど、それも断念するくらいだったと娘からは聞いています。けど、それじゃあんまりだって言うんで、娘とイクちゃんと二人で気晴らしに丹沢にキャンプに行って――」
「丹沢ですか」
「はい、一泊で行ける人気の山頂サイトです。たしか熊尻山だったかと思います」
「熊尻山ですか」思わず香織は訊き返した。「そこの山頂キャンプサイト?」
「はい、そうです。ごぞんじですか。写真ありますよ」母親がスマホを操作する。
世界はきらきらと輝いている。心の底からそう信じているようすのティーンエイジャーが二人、緑色のテントの前でカメラにピースサインを向けている。背後に広がるキャンプサイトに香織は見覚えがあった。わずか二日前の記憶だ。背筋がぞくりとする。きょうは朝からあちこち回ってくたくただ。だけどもしかすると、まだ半分も仕事は終わっていないかもしれない。まるで本物のジャーナリストになったみたいだ。新聞社時代からずっと役だたずの負い目を感じてきたが、いまはもやもやした気分が晴れている。肉体的には限界だったが、気持ちは上向きだった。成果が出るかどうかはわからない。でもなんだかわくわくする。それがだいじなのかもしれない。
崖下から山内則武の遺体が見つかった場所だった。
しかもゴールデンウィークの時期だったという。
「撮影日はいつでしょうか」
「ええと……」母親がスマホを操作する。「四月二十六日、午後二時三十四分。キャンプ初日の写真ですね。翌日には帰って来ました」
香織は竹中と顔を見合わせる。
山内が熊尻山のふもとのコンビニで買い物をした日、牟礼加奈の娘とその親友は山内が遭難したキャンプサイトにいた。
竹中とは言葉をかわさないが、考えていることはおなじだろう。
山内の死因は頸椎骨折だが、秦野北署の副署長の話では、遺体は石ころに覆われていたという。周囲には崖から崩落した石ころは落ちていなかったそうだ。そこに不自然さを感じるなら、話はよからぬ方向へ移ってくる。しかもじっさいに警察はこの件について、本部主導で捜査を進めることになっている。遭難死なら身元判明で終結。それがふつうだ。なのにさらに捜査がつづくというのは事件性が視野に入っているということだろう。ぼんくら記者の香織にだってわかる話だ。最悪の事態を想定するなら――
殺人だ。
それに女子高生がかかわっているのか。でも山内を襲った犯人を彼女たちが知っている可能性があるとも考えられる。もしや、ついさっきこの家から転がり出てきた二人の男もなんらかの関係があるのだろうか。
「すみません。もう一度うかがいますが」香織が慎重に訊ねる。「おとといの夜、ニュースを見ているときにようすがへんになったんでしたっけ?」
「そうです。でもごめんなさい。テレビ東邦じゃありません。NHKです」
「それってなんのニュースだったか覚えていらっしゃいますか」
「いやあ……わたしは洗濯物を畳みながらだったのでよく覚えていなくて……」
「ならば、だいたいの時刻はわかりますか」
「たしか……六時過ぎだったかと。音楽が流れたあとです。いつも流れている音楽です。その時間に晩ご飯を食べるんです。食べはじめてすぐでした、あの子が食欲がないと言いだしたのは」
「わかりました。わたしたちは牟礼さんの取材に来たものでして、まずは牟礼加奈さんとあらためて連絡を取ってみますが、娘さんが帰らないという話もたしかに気になります。ちょっと取材してみようと思います」
そう言って香織はメモ帳とペンを差しだし、わらをもつかむ思いの母親に名前と連絡先を書きつけてもらう。
小近啓子。行方不明の娘は咲世。同級生は牟礼郁美。
「なによりも警察に通報されるのが一番かと思います。こちらのお宅から不審者が出て来て、窓ガラスが割れていたことは、あらためて牟礼さんに連絡するようにしてみます」
「わかりました。そのことはわたしのほうから警察にも伝えておきます」そう告げて母親は背中を丸めたまま、幽霊のようにふらふらと歩き去った。
香織と竹中は車にもどった。
「おとといの夜のニュースなら、まだNHKプラスに残ってるぞ」竹中がスマホをいじりだす。「払いたくもない受信料払ってるせめてものリターンだな」
七月十日木曜、夜六時台は全国ニュースから始まる。その後は首都圏ニュースだ。淡々とした定時ニュースとは異質なにぎやかなオープニングが流れだす。
香織は竹中のスマホに食い入る。トップは羽田空港で爆発物が見つかった件について、全国ニュースを受けて詳報していた。つぎのニュースがはじまったとき、二人は息をのんだ。
「当たりだな」
香織が撮りそこねた遺体搬送の場面をドローンがしっかり撮影していた。
「そうか。ドローンを使う手がありましたね。でもわたしは使えないし」
「やめとけ、どっかに墜落させるだけだから」
「ですよね」
ほんの一分ほどのニュースだった。見つかった遺体の身元は二日後に判明することになる。
「このニュースがなんらかの引き金になった可能性は大きいと思う。だいたい、遭難かと思われていた人間が殺しの被害者だったなんて、ふつうはありえないだろ」
「しかも遭難したとみられる時期におなじキャンプ場に行っていた女子高生が、その人の遺体発見の直後に失踪している」
「さらに言うなら、いっしょにキャンプに行った同級生の父親には闇バイトの疑いがかけられている」
「たんなる偶然とは思えないですね。山内則武が殺されるのを二人の女子高生たちが目撃していた。犯人は二人を脅して口止めをした。ところが二人のうち、どちらかが三か月後に警察に通報した。犯人は逆上して通報したほうに制裁をくわえようとした――」
「それが小近咲世だった? わからんな、取材してみないことには」
「牟礼さんですが、キャンピングカーで出かけると言っても、おカネに困っていたんですよね。もしご主人が闇バイトに手を出していたのが本当なら。そんな時期にのんびりキャンプなんて行く気になりますかね」
「ならないだろう。ただ、さっきの男たち、どう考えてもあやしいよな。逃げるように去って行った。あれがもし闇バイトの関係者だったとしたら、また考え方も変わるんじゃないか」
「キャンプかどうかはわかりませんが、一家でどこかに行く必要に迫られていたということでしょうか」
「どこだろうな、行くとしたら。闇バイトに手を染めているなら、警察には行けまい」
「さっき『今年も絶対行くんだ』って郁美さんが話していたと言ってましたよね。それって加奈さんのフェイスブックにあった写真の場所じゃないでしょうか。たしか――」香織はスマホに加奈のフェイスブックを表示する。
竹中はそこに記載された場所をカーナビに打ちこみ、車をゆっくりと発進させた。
香織は早めにコンビニに寄ってほしかった。非常食を補充しないと。
たっぷりと。
十八
午後8時 家族会議
雨は完全にあがった。
キャンカーは第三京浜から横浜新道に入ったが、藤塚インターから十六号線に乗ったところで渋滞にはまった。FMヨコハマは人の気も知らずに昔のシティポップを流していた。明るくさわやかな夏の定番ドライブソングだ。三太も学生時代、すでに懐メロと化していたがよく車内で聴いた。いま助手席に座るこの女とともに。
おなじことを感じていると思うと居たたまれなくなり、ラジオを切る。加奈も郁美も文句は言わない。沈鬱だった車内がそれまで以上に重苦しく感じられる。すくなくとも三太は打ちのめされ、精神的に完璧に限界だった。だが眠気はまったくない。ドライブには好都合で、頭のなかで思考がランボルギーニのエンジン並みに高速回転していた。むしろ前の車をあおってわざと追突したい衝動に駆られる。こんな現実世界、どこかに吹き飛んでしまえ。
それでも言葉は冷静かつ慎重に選ぶ。
「カネの心配はない。足りないものがあれば途中で買い足せばいい。イクちゃん、学校のことなら気にしなくていい」
三太はバックミラーに映る娘に向かって言う。郁美は居住スペースのメインベッドに横たわりスマホをいじっていた。そっちには三人分の大きなリュックが固定されている。とりあえず持ってきたのは一週間分の着替え。加奈と郁美をせっついて用意させるのにえらい苦労した。あとは現地で必要なグッズがあれこれ。ヴィクトリノックスのアーミーナイフはジーンズのポケットに突っこんだ。万が一、キヨシたちが襲撃してきたら、それで闘うつもりだった。
食糧はさっき環八沿いのスーパーで急いで三太が一人で買いこんできた。妻も娘も夫がなにを考えているかはかりかねている。それもそうだろう。自分だって頭の奥がどろどろに融けてしまっていた。いまは運転に集中するほかない。自分がいまなにをすべきか筋道立った説明は後回しにした。走れ、走れ、進め、進め。ただその衝動のままアクセルを踏みつづける。
「イクちゃん、スマホ切ろうよ。ちょっとだけ大事な話がしたいんだ」
父親としてこんなふうにぴしゃりとものを言うのなんて何年ぶりだろう。口にしてみて三太は尻の穴がすぼまる感覚に震えた。ずっとずっと先送りにして、なあなあで過ごしてきた。家を買い、この車を買い、キャンプをはじめ楽しいことだけ満喫して、めんどくさいことはすべて後回しにしてきた。会社が経営危機に陥り、再就職が反故にされたのは自分のせいではないが、これまで目を背けてきたことにいよいよ向き合うときが訪れたのかもしれない。
「なんで?」バックミラーには映らないが膨れっ面をしているのがわかる。
加奈が声をあげる。「ママは切ったわよ。さっきね。急な話だけど、キャンプ行くのは悪くないわ。元々、計画していたんだし」
「そんなのつぶれたじゃん。ずっと前に。なによいまさら。学校だってあるのに。勝手なこと言わないでよ」
「学校には連絡しておくわ、ママが。それよりさ、キャンプ行くなら楽しい気持ちにならないとだめでしょう。だったらいま、話をしておいたほうがいいんじゃないかな」加奈は娘のほうを振り向いて言った。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。
「いいかな、ちょっと」三太は深呼吸をする。「まず最初に大前提、絶対的な真実から話をしようよ」
車の流れがとまる。
まるでこの場に並ぶドライバー全員が聞き耳を立てているかのようだった。たまらず三太はエアコンの風量を上げる。
「サイトに着くまでいろんな話があるかもしれないけど、それでもおれたち三人は家族だ。それは絶対変わらない。つまりなにがあろうと、いっしょに生きていく」
「なに言ってんのよ。重たいよ」
郁美の顔がバックミラーに映る。ベッドから起き上がっている。父親とぴたりと目が合う。父親似のはっきりとした二重のとろんとしたたれ目。でも気性は母親似で激しく、ときどき手に負えなくなる。だけど、だからこそ自分と加奈の子だとはっきりわかる。
「よしてよ。マジに」
「家族よ。それはもちろん」加奈が隣の車線に停車するワンボックスカーに目をやりながら独り言のようにつぶやく。運転席にいた若い男が助手席や後部座席の妻子らしき人々に楽しげに話しかけている。向こうはFMヨコハマがいまも流れているだろう。大瀧詠一とか。「イクちゃんはもちろんだけど、パパもママにとっては運命の人」
思わぬ言葉に三太のほうがぎくりとする。でも話はつづけないと。
「もう隠し事はなしにしよう。それまで言えなかったこともきちんと伝えてみようよ」自らに言い聞かせるつもりだったが、口火を切ったのは妻だった。
「イクちゃん、あのね、ちょっと気になることがあるんだけど」加奈は体をよじって助手席から後方の居住スペースへと移動した。「おカネのことで心配かけているのは申し訳ないと思うわ。ママも仕事が変わったし――」
「へんな投資で失敗したし」母親の神経を逆なですることを郁美は言う。
それでも加奈は指弾を受け容れる。「そうよ。銀行預金が目減りしたのは事実。それでせっかくの夏の講習も行かせてあげられなかった。ただね、ふだんの生活には問題ないの。へんに節約なんてすることはないわ。買いたいものがあれば買えばいい」
「べつにそんなにケチケチしてないよ」
「あら、そうかしら」娘の隣に腰かけて言う。「パスモのオートチャージが最近全然ないんだけど。おカネ、どうしてるの」
「そんなことまで親に言わないといけないのかな」
「そんなことって、大事なことでしょう」
郁美はむすっとしてしばらく黙りこくってから明かした。「へそくりよ。アニメグッズ、いくつか売ったの。たいせつにしてたんだけど、もういいやって思って」
「そうなの……」加奈だけでなく、三太もそれには驚いた。
「それなりに売れたから、パスモ使わないでもまだだいじょうぶなんだ。でね、これを機に断捨離しようかなとも思ってる。アニメなんて、所詮は役立たずでしょ、将来にとって。もういいのよ。吹っ切れたんだ」
それはまるで声優の道を諦めたと口にしているように聞こえた。ハンドルを握りしめる三太の手がつるつるしてくる。いやな汗が手のひらばかりか、全身から噴きだしてきていた。
「ごめんね、そんな思いさせちゃって」加奈は言葉を絞りだす。
「いいって。それにパパがたいへんなの知ってるもの」
いきなり球が飛んできた。頭がくらくらし、たとえのろのろ運転でも前の車にぶつけてしまいそうだった。
車内にふたたび沈黙が広がる。加奈は、自分が知ってしまった夫の秘密――鎌倉の強盗事件を捜査する警察が入手した映像に映った二人組の片割れが誰なのか――を、すでに娘も把握しているのではないかといぶかしんでいるようだった。
でもその話ではなかった。
「ねえ、パパ」運転席に向かって郁美が訊いてくる。「新しい会社、行ってないんでしょ」
「なにそれ」どう返事をしようか三太が迷っているうちに加奈が憤然として言い放つ。「どういうこと……てゆうか、やっぱりなんだ」
「なに、やっぱりって」母親の隣で娘がせっつく。「なんか最近へんだと思っていたのよ。新しい職場の話とかぜんぜんしないし、それにおかしいくらい日焼けしてるし」
「外回りで焼けたんじゃないの?」加奈の視線が運転席に突き刺さる。「やっぱりサンちゃん、なにか隠してるんでしょ。さっき『そうじゃない』って言ったけど、なにがそうじゃないの?」
「わかった。おれから話すよ」
新会社の採用が反故になり、六月末から正真正銘の無職になっていたことをついに家族に明かした。
「どうしようもなくて最初は図書館で時間をつぶしていた。その後、交通量調査のバイトを見つけて、今週月曜から水曜までやったんだ。日差しがきつくてさ。ずいぶん焼けちまった」
「隠すことなんかないのに」責めるように加奈が口にする。「言ってくれたらいいのに。仕事なんかいくらでも見つかるでしょうに。多少時間かかったとしてもさあ」
「いまはそう思うよ。心からそう思う。死ぬ気で探せば仕事は見つかるはずだ」目の前がぼやけてくる。悔し涙だった。でもいまは泣くときでない。白状しないと。
それを察したのか加奈が促してくれた。「交通量調査は水曜までだったの?」
「月曜と火曜は夕方までずっと。水曜は午前中であがりだった」
「じゃあ、その足であの公園に向かったのね」
「公園……なにそれ?」
郁美にはちんぷんかんぷんの話だった。でも隠し事はなしにしようと言ったのは父親のほうだ。
「六月二十八日だったかな。七月から通うはずの会社の内定が取り消された日、そのまま家に帰って来てこの車で出かけたんだ。ふるさとの横須賀だよ。そしたら中学の同級生に会ってさ。何年ぶりかな、すごいひさしぶりだった。それでいまの境遇をぜんぶ打ち明けてみたら、引っ越しの手伝いとかなら融通できるみたいなことを言われたんだ」
「引っ越しの手伝い……?」加奈がいぶかしむ。
いつまでものろのろ運転がつづく。前の車のテールランプをぼんやりと見つめながら、三太の話は核心に入っていく。こんなの独り言としてしゃべったほうがいい。そのほうがらくだし、包み隠さず伝えられそうだった。
「そのときはそう聞いた。おれにだってできそうだし、すぐに仕事がもらえるならこんなにありがたいことはない。それで交通量調査やってるときに連絡があって、水曜の午後に恵比寿に行くことになったんだ」
「あの公園ね」
「そうだよ。若い男が待っていて、服を渡された。仕事のときに着ろというんだ。それでベンチに座ってテレビ電話がはじまった。相手は仕事の発注者。隣にいた若い男がじっさいに荷物を運んでくるっていう話だった。乗せていくのはつぎの日、木曜の夜十一時過ぎ。都内のある場所に集合した。もうそのときには、もしかしたら引っ越しって夜逃げとかかもしれないなって薄々思ってはいたよ。だけどそのまま、そこにとめてあった車で鎌倉に向かった」
「鎌倉……」郁美が息をのむように声をあげた。
それを圧するように父親がつづける。「おれは運転だけって話だったんだ。そこから先は、その若い男が一人でやるはずだった。まあ、その……荷物をさ……」
「なるほどね」加奈がまるで合点したかのように声をあげる。「さっき家に来たの、その人なんでしょ」
いちいち三太は返事をしない。「だけど途中で話が変わって、おれも現場に行かざるをえなくなった」
「ちょっと待ってよ。それって何の話なの」郁美が憤然として訊ねる。
「ニュースで見たでしょ。それにママもけさ話したと思うけど。ママの番組のナビゲーターさんが所属する事務所の社長さんが襲われたって。鎌倉の自宅で。闇バイト強盗じゃないかって話になってる」
「えぇっ……それにパパが……どうして……どうして……パパが……ありえない……」
あやうく事故を起こすところだった。三太は妻子の視線を背中に受けながらハンドルに突っ伏していた。期せずして嗚咽があがる。
「すまん……闇バイト……だとは思わなかったんだ」
「みんな、そう言うんでしょ」加奈は氷のような言葉の矢を放つ。
「でもおれは……すぐに退散した。社長さんを殴りつけてけがをさせたのはやつだ。あの若いやつ、富永だ」
「ウソよ。サンちゃんもひどいことをしたわ。体を抑えつけてきた。痛かったもの」
加奈が口走った瞬間、ふたたび車内に恐ろしい沈黙が下りた。まるで巨大ワニの棲む沼でボートが転覆したかのような、生々しい恐怖だった。でもワニ狩りのハンターである三太には、恐竜のような皮に守られた相手の喉元に突き立てる分厚い刃体のサバイバルナイフが用意されている。そんなもの使いたくなかったが、家族の将来のためには、腫れあがった病巣を切開せねばならない。もし将来にわずかでも希望を託したいのなら。
三太は娘がいることなど無視して妻に告げる。
「でも驚いたよ。なんでカナちゃんがあそこにいたんだろう? おれには全く理解できなかった。ゴルフクラブで殴りつけられたけど、そんなの痛くもなんでもなかった。すくなくともそのときはね。なあ、なにが『そうじゃないの』なんだ? どう考えたって、そうだろう。そうなんだろう? そう考えるのがふつうだと思うけどな」
加奈がなんと答えるか怖かった。でも自分としてはそれを訊ねないわけにいかない。この期におよんでは。
だが加奈は押し黙ったままだった。娘がいっしょだから話しにくいのだろうか。耐えきれず三太はちらりと背後を振り返る。明かりを消した居住スペースで郁美がじっと隣の母親のことを見つめている。どうしておれたち夫婦は娘にこんな思いをさせねばならないのだ。自責の念にかっと体が熱くなる。
「サンちゃんが考えてることはわかるわ。でも、そうじゃないのよ。ほんとにそうじゃないの」
「なにが、そうじゃないの?」訊ねたのは郁美だった。すすり泣いている。三太の頭に五歳のころの娘の姿がよぎる。あのころはまだ社宅暮らしだった。母親に叱られ、いつだってべそをかいていた。
「それはね……」そこでふたたび加奈は口を閉ざす。今夜、何度この沈黙を繰り返さねばならないのか。妻の脳をかきむしり、そこにあるものを洗いざらいかき出したい衝動に駆られる。だがそれこそが痛切な一歩なのかもしれない。
家族崩壊への。
それでも三太は訊ねる。こちらも訊かないわけにいかなかった。
「訂正するよ。おれは暴行はくわえなかったが、じつは、社長の家からあの男が持ちだした通帳や印鑑が入ったファイルホルダーを預かっている。スーツケースのなかだ」
「盗まれたって松村さんから聞いてるわ。けど、サンちゃんが持ちだして保管してくれているなら、ある意味、安心した」
「保管……そうか。やっぱりそうか。もし富永が持っていて、やつが逮捕でもされてファイルホルダーが警察に押収されたら、まずいことになるわけか。通帳に振り込み通知書……おれでも気付くぐらいだから、警察が見たら一発なんだろう。松村社長の事務所に所属する間島久美香さんは女優なんだよね。でも副業で出演者のメイクもやるのかな。カナちゃんの番組に出ている岡村文乃さんとかの。すくなくともあの通知書の作成者はカナちゃん、きみだった」
口にしてみて三太の喉元に苦いものがこみあげる。
きみ――。
なんて他人行儀な言い方だろう。これからも家族三人で生きていくなんて高らかに宣言しながら、自分のほうで距離を置こうとしている。
「そうよ。わたしが起票したの。メイク費用を打ちこんだのもわたしよ」
即座に三太は訊ねた。「どうなの? 間島さんはメイクもやったの?」
加奈は答えない。でもバックミラーのなかに小さくかぶりを振る姿が確認できた。それまでとは異質な悲しみが三太のなかにわきあがる。
「たしかにおれが保管していたほうが安心なわけだ。なんなら焼却処分だってできる」
「もとの記録が会社の経理システムのなかにあるわ。見つかったらおしまいよ」
「架空請求、不正請求だもんな」気が抜けたように三太の胸からするすると言葉が漏れる。誰かとめてくれ。でもさらに新たな言葉がつづく。「メイク代は月々十万円。通知書は四月から六月ぶんまである。それに呼応するように、松村さんの個人口座から五月以降、毎月五日に十万円が振り込まれている。ムレカナの口座に」
「そんな……不倫だけじゃないの……?」郁美は泣き声になりながら母親を引き裂く。切れ味の鋭いナイフを振り回すようにして。
たまらず三太が郁美をいさめる。「イクちゃん、待って。そんなふうに言っちゃダメだ」
「だって事実じゃない。不倫なんでしょ。出張とか言いながら、男の人の家に真夜中にいたなんて、ほかに考えられないじゃない。パパ、ほんとに能天気すぎるよ。バカじゃないの……え、じゃあ、そのおカネって、もしかして愛人契約の……」
「郁美!」
怒鳴り声をあげた途端、真っ赤な羞恥心の炎に三太は包まれる。なんで娘を叱らねばならないのだ。事実を指摘しただけじゃないか。たんにおまえがそれを耳にしたくないだけなのだろう。
「そうじゃないのよ……あなたたち……そうじゃないの」
ぼろぼろと妻の目元から涙がこぼれ落ちるのがバックミラーに映る。だが泣きわめくのを必死にこらえ、震えながら言葉を選んでいるのが見てとれた。
「ちがうのよ……愛人と不倫とかじゃぜんぜんないの……そうじゃないの……」
いつだって強くて毅然としていた妻であり、母親である女性が、倒壊寸前の廃ビルのようになっている。三太も郁美もただ待つほかなかった。彼女が真実を語りだすのを。でもそれはあまりに苛烈だった。
「父なのよ」
十九
午後8時半 追跡
十六号線で渋滞にはまっているのはキヨシのレクサスもおなじだった。だが心配することはない。ほぼ一キロ先にキャンカーをとらえている。助手席の富永が手にするスマホの画面に表示した地図に青い光点がくっきりと浮かんでいる。サンタを訪ねてキャンカーで話しこんだとき、やつが放りこんできたGPSトラッカーが反応しているのだ。サンタが夜逃げする恐れがあると考えての好判断だ。それでキヨシは富永に新たな魔王のことを明かし、追跡を開始したのだ。
「この先、どこに向かうんですかね」
「わからん。おまえが脅しに行ったのが引き金になっているのはまちがいないだろう。だけど三百万の落とし前とはべつに、サンタは相当まいってるはずだ。押し入った先に自分の女房がいたんだからな」
「あんなにエッチな格好でね。あのオヤジとヤッてたのかな」
「そういうことなんだろ。でもな」
ハンドルを握りながらキヨシは考える。サンタでもあのオヤジでもない何者かが、あのゴルフクラブを握りしめたエロチックな女と特別な関係にある新たな魔王のはずだ。そいつは、遺体で見つかった山内とかいう拷問マニアの遭難――殺害か?――をきっかけに例のスマホを手に入れた。そこから魔王のノウハウを引き継ぎ、四月以降、おれたちに指示を出してきた。男であるのはまちがいない。だとすると肉体関係があるのだろうか。
あの女と。
おなじことを富永も考えていた。「あの奥さん、なかなかですよね。派手というわけじゃないけど、フェロモン系だ。あっちこっちに愛人がいるのかもしれませんね」
「テレビ東邦のプロデューサーなんだよな」
「ネット情報ではそうらしいです。情報番組とか通販番組をやってるみたいです。あの松村ってオヤジは芸能事務所の社長ですから、仕事のつながりからああいう関係になったんでしょうね」
「だから山内のスマホを奪った野郎もテレビ東邦の職場つながりじゃないか?」
「可能性はありますね。テレビ局なんて不倫が横行してるっていうじゃないですか」
「不倫か……いずれにしろあの女がおまえたちに暴行されるのをよしとしないやつだろう」
じっと考えてから富永が言う。「後輩の可能性はないですか」
「職場の後輩か」
「可能性はあるでしょうね。それも年下の男」
「おまえみたいなやつのことか。だけど同世代だって、憧れの女ってのはいるはずだぞ」
「たしかに。なんかこう、そばにいるけど手が届かないみたいな相手ですかね。高校で言うならセンパイじゃなく、クラスメートか」
「そんなピュアなものじゃないだろう。ゆがんだ片思いってやつかもしれんぞ」
ぞっとしたように富永が首をすくめる。「職場にそういう人間がいて、いつもこっそり見つめていたりするのって怖いですよね」
ふいにキヨシは気付く。
「あの女、情報番組やってたのか」
「そうっすよ。モーニングスプラッシュってやつ。今年の三月まで担当していたってネットには書いてあります。プロデューサーだったみたいです」
「モーニングスプラッシュって、事件ものとかやるよな」キヨシはテレビはほとんど見ないが、その番組なら見覚えがある。朝のワイドショーだ。「闇バイトの特集とかしてないか」
「ちょっと待ってくださいよ」富永はスマホで検索を開始する。「ああ、たしかに断続的にやってますね。おぉ、危ない危ない。うちらにかするような事件もフォローしてますよ」
「なるほどな」相変わらず数珠つなぎのテールランプの列を見つめながらキヨシは小さくうなずく。「警察関係者から情報引っ張ってきて、山内のことに目をつけていたのかもしれないな」
「闇バイトの首謀者に独占インタビューとかできたら特ダネですよね」
「憧れのプロデューサーからも一目置かれる」
「関係を深める絶好のチャンスだ」舌なめずりするように富永が言う。
「特ダネとは違う、もう一つの仕事の原動力だな。じゃあ、そいつはどうやって山内に接近する?」
「拷問マニアですからね。へたなことをすれば自分が危ない」
「それに山内に対する警察の捜査が迫っているならじゃまするわけにもいかないよな」
「かといって指をくわえて見てるわけにもいかない」
「アナログでいくんじゃないか」
「アナログですか……?」
「おれたちみたいなもんさ。人集めはシックスセンスなんて使うけど、最後は実力行使。じっさいに家まで足を運ぶだろう」
「つまりそういうことですか。山内のねぐらを襲う」
「バカ。それじゃ、すぐにバレちまう。警察だったらこういうとき、どうするかだ。コウカクだよ」
「コウカク?」
「行動確認。ありていに言えば尾行しつづける。警察的に言えば、コウカクとして適切な捜査手法として認められるんだろうが、ふつうの人間がやったらただのストーカーだよ。でもそれが一番効果的だってこともある。山内が何者で何をしているのか、情報収集するうえでな。それらを踏まえて最後の最後にアタックする。テレビ局としては、インタビューを試みる」
「なるほど。ストーカーか」
富永は火のついていないたばこをくわえながらうなずく。やつは一服したいようだったが、この車では吸わせない。ここはキヨシの心臓部、下の連中にいかに確実に仕事をさせるかを考え抜く、神聖不可侵なオペレーションルームだからだ。それにキヨシ自身、たばこをもう何年も前にやめている。あんなものに中毒になっていた自分がなさけない。集中力をそぐクスリ以外のなにものでもなかった。
「だったらいろんなところについていく。休日のキャンプとかも」
「事前に計画を知っていたわけじゃないだろう。山内はふだんは銀行勤めだから、悪事をするなら休日だろうとふんで、朝から家の前を張っていたんじゃないか。それでリュック背負って出て来たんで、尾行を開始した。いったいどこに行くのか。そりゃ、ドキドキしただろうよ」
「丹沢のキャンプ場まで行って、そこで山内にバレたんじゃないですか。尾行してることが」
「可能性はあるな。そこでトラブルになった」
「もし山内と争いになって殺しに発展したら、取材どころじゃないですよね」
「だがそれでフェーズが変わったんじゃないか。闇バイトの取材者から当事者に立場が逆転する」
「目の前にカネのなる木があれば、誰だって心が揺らぎますよね」
「それが人間ってもんだろう」押収したクスリをくすねて横流しに手を染めた自身の過去に照らし合わせ、言い訳のようにキヨシは口に出す。「カネだけじゃない。闇バイトのやつらを使えば、なんでも思うように転がせる」
「そううまくいきますかねえ」鎌倉での体たらくが頭にあるのか、富永は鼻を鳴らす。
「でも、どうだ」キヨシはちらりと助手席に目をやる。「おまえはあのオヤジを十分痛めつけたじゃねえか。カネはともかくとして。だったら、依頼人からすりゃ、ねがったりかなったりだろうよ。つまり、牟礼加奈に邪な思いを寄せる男は、彼女と愛人関係にある芸能事務所の社長を襲撃することを思いついて、いつも通りのタタキを発注した」
「制裁ですかね」
「たぶんな。だけど女のほうは自分のことをそんなふうに思っている男がいるなんて気付いていないかもしれない。だとするとこっちが困る」いつまでもつづくのろのろ運転にいらつき、キヨシはハンドルを殴りつける。
「その男の居場所を突き止めてスマホを手に入れないといけないですからね」
「ただな、あの女はやつをおびき出すエサにはなるはずだ。鎌倉の一件とおなじだよ。もしあの女がその手の人物に心あたりがないというなら、彼女の身に危険が迫っていることを職場関係者に知らせてみるってのも手かもしれない。あとはシックスセンスをウォッチしておけばいい。新たな指示が降ってくるはずだ。場合によっては、本人が助けにやって来る。いずれにしろサンタの車に早いとこ追いつく必要がある」
二十
午後8時半 山姥に出会う
麻子は四つん這いになってトランクから咲世の小柄な体を引っ張りだし、手足の結束バンドを爪切りで切ってやる。
「ありがとうございます」背もたれをもどしたバックシートに腰かけ、咲世はぺこりと頭をさげる。
もうあたりは暗い。公園の青白い明かりがぽつんぽつんと灯っているだけだ。
「あんたを殺れば五百万が転がりこんでくる。その契約はまだ生きてるんだ。でもあたしにはよくわからなくなってきた。もしこのままあんたがドアを開けて逃げたとしても、あたしが追いかけるかどうか。いまははっきりしたことが言えなくなっちまった。こんなことはじめてさ。だけど、悪くない気分だね。うん、これまでこういうのあんまり……てゆうか、ぜんぜんなかったから」
咲世は逃げるそぶりを見せない。ひざの上に置いた左右の手の甲をじっと見つめ、麻子の態度にどぎまぎしながら、怖々と語りだす。
「おとといの夜、家で朝ごはんを食べているときにテレビでやったニュースなんです。丹沢のキャンプ場の崖下から遺体が見つかったのはごぞんじですか」
丹沢で遺体……。
おととい、木曜の夜か。かすかな記憶がよぎる。たしかピー助がネットニュースを見て、山で遭難すると遺体が獣に食い荒らされるとかなんとか言ってたっけ。
「なんとなく聞いたような気がする。白骨化してたとかなんとか」
「そうです。熊尻山という山のキャンプ場です」
「山の名前までは覚えていないけどさ」
「男の人です。四月にそこにキャンプに来ているんです」
「そこまでニュースに書いてあったのかな。ピー助が教えてくれただけだから、あたしは自分では読んでないんだよ」そう言いながら麻子は、未開栓のミネラルウォーターのペットボトルを咲世に差しだす。
それを黙って咲世はごくごくとあおる。本当においしそうだった。またしても麻子の胸にズキリと痛みが走る。でも決して悪くない痛み。長距離を完走したあとに息があがるみたいな感じだ。
「たしか……四月二十六日だったと思います。友人の郁美とそこでキャンプしたんです。星空を眺めたり、男の子のことを語り合ったり、怪談話をしたりしてました」
「怪談かい、そんな場所でよくやるね」
「ぞくぞくしますよ。ものすごい臨場感があるんです。山のなかですから、山姥の話とかで盛りあがって。包丁を持って山で迷った子どもをさばくとかなんとか焚火の前で話していたら、ほんとに足音が聞こえたんです」
「あたしは弱いんだよ、その手の話は。だけど、まさか、そこにその男が来たって言うのかい」
咲世はこくりとうなずき、また水をあおる。タイミングよく、おなかもグウと鳴るのが聞こえる。お菓子のたぐいならいくらでもある。麻子は助手席に手をのばし、新しいポテトチップスの袋を開封して渡した。
いつものクセのように咲世は小さくうなずき、チップスを立てつづけに口に放りこむ。たちまち車内にコンソメの香りが広がる。
「ああ、ごめんなさい。麻子さんも」
「いいよ、あたしはさっきたくさん食べたから。それはぜんぶあんたのだよ。だけどそうすると、そのキャンプ場であんたたちとその男の間でなにかトラブルが起きたのかい?」
そこから先は咲世の声音が重苦しいものに変わった。ゆっくりと言葉を選びながら彼女は話す。
「そんなに広いサイトじゃなくて、山頂の手前にこぢんまりと平坦な場所が広がっている場所なんです。だからほかの誰かがテントを張っていればわかるはずです。その夜、キャンプ場はわたしたちとその人だけだったと思います」
「向こうは一人だったのかい」
「そうです。すこし離れたところにテントを張っていたので気付かなかったんです。買ってきたロールケーキを食べきれないから、おすそ分けをどうぞって。淹れたてのコーヒーも持ってきてくれました。それで話が盛りあがって遅くまで話しこみました。ふつうのサラリーマンなんだけど、仕事のストレス解消でよくぼっちキャンプに来ているとのことで、あちこちのキャンプサイトを教えてくれました。そこまではよかったんです。だけど疲れていたし、夜遅かったから、三十分ぐらいしたら急に眠くなってきちゃって……それでお開きになったんです」
異様な睡魔にいざなわれ、歯も磨かずに二人は眠りの底に落ちていった。どれくらい時間がたったかわからないが、最初に気付いたのは咲世のほうだった。胸元とおなかのあたりに寒気を覚えたのだ。誰かに踏まれているような感覚があり、暗がりで目を凝らすとテントに黒い影が見えた。最初は熊かと思ったがちがった。
「スマホで照らしたらその人だったんです。わたしはシャツをめくりあげられ、短パンも下ろされていました。いったいいつ忍びこんできたのか……そのとき気付いたんです。コーヒーにクスリを入れられていた。どうりで頭がすごくぼんやりとして、体もうまく動かすことができなかったんです。でも声はあげることができた。それで郁美も起きてくれたんですけど、あの子も体がうまく動かせない」
男はなおも咲世の体を抑えつけ、胸をまさぐり、脚を開かせようとした。
「そのとき、郁美が懐中電灯で頭を殴りつけたんです。それでようやくその人はテントから逃げだしたんですけど、すぐに逆襲してきました。さっき、あれがあったじゃないですか……スタンガン」
それならいま、麻子の足もとに転がっている。今夜、彼女にそれを使うことはもうないだろうし、昨晩、その一撃で彼女の動きを封殺したことが恐ろしいほどの重荷となって麻子を責め苛みはじめている。麻子は話の先をうながすことで自分をごまかした。
「バチバチって火花が散るのが見えて、すぐそばで足音がしたんです。もう怖くて怖くて。体はふらふらしたままだったんですけど、二人とも裸足のまま、闇雲にテントの外に飛びだして。だけど向こうは大きなライトをつけたので、わたしはすぐに追いつかれちゃって……」つらい記憶に咲世は苦しそうだ。「でも郁美が助けてくれました。足もとにあった薪でとにかくもうめった打ちにしてくれて。それでわたしも加勢して薪で殴ったんです。何度も何度も。だけど、あの人は倒れても倒れてもゾンビみたいに立ちあがってきて……あんなに怖い体験はしたことがありません。完全にパニックです。でも最後の瞬間は、いくらクスリを盛られていてもはっきり覚えています」
「最後の瞬間って……」
「わたしですよ。郁美じゃない。両手でこうやって薪を握りしめて――」咲世は拳を重ね、肩の上まで振りあげる。「もう頭を狙うしかないと思ってやりました」
ちょうどそこは崖の縁にあたる岩場だった。男はそのまま闇に向かって転落していったという。
「夜が明けるまで二人でテントのなかでじっとしていました。もうそのときにはクスリはすっかり抜けていて、暗闇のなか、本物の恐怖にただ怯えていました。あの人がまたもどって来るんじゃないか。もどって来ないとしたら、それはなにを意味するのかって――」
明るくなりだしてから、二人はテントを出てあらためてキャンプ場をたしかめた。幸運にもほかのキャンパーの姿は見あたらない。それで怖々と崖下を二人はのぞいてみた。
「目の前が真っ暗になりました。もう人生おしまい。そう思ったらおかあさんの顔が思いだされて……」それまでがまんしていた涙が咲世の目にどっとあふれる。
母親か。
頭のまんなかの冷たい部分で、麻子はそれだけははっきりと感じた。この子と自分のちがいはここだ。麻子にとっては、物心ついたときから無の存在。感じようにも元々実体がないのだ。それでも咲世の気持ちはわかるような気がする。この子は大好きな母親――もちろん父親も――の期待にこたえようとそれまで努力してきたのだろう。
「五十メートル以上ある崖の下で、その人が頭から血を流して仰向けに倒れているのが見えました。もう遅いとは思いましたが、二人で崖を下りました。その人の首は異様な角度に曲がり、目を開けたまま亡くなっていました。人を殺してしまった。しかも最後に頭を殴ったのはわたしのほう。もうどうしたらいいかわからなくなってしまって」
「だけど襲ってきたのは向こうなんだろ。正当防衛になるんじゃないかな」
「そのときはそんなことなんにも考えられなかった。それよりも向こうはきっとすごく悪い人なんだって、まるで自分たちに言い聞かせるように二人で話して、目撃者もいないのだからって、遺体を岩の間に引きずっていって、石ころや落ち葉をかぶせたんです。それから、テントとかリュックとかその人の持ち物をぜんぶ持ってきて、岩場の奥に隠しました。キャンプサイトにそんなものを残していたら、つぎに誰か来たときにバレてしまうし、その人は元々、崖下でキャンプをしていて、崖を登り下りしているときに足を踏み外して転落したように見せかけようとしたんです。だけど――」
「遺体に石ころとかで覆ったのは不自然に思われるよね」
「そうなんです。でももう頭が真っ白になっていて……それから二人で急いで荷物をまとめて下山しました」
「誰にも見つからなかったのかい」
「ええ、キャンプサイトに誰もいなかったし、すれちがいもしなかった……と思います」
「相手が何者か確認はしたのかい」
「はい。お財布のなかに名刺があって、大都銀行の山内則武という人だとわかりました。たしか営業課長かなにかだったと思います。免許証の住所は汐留でした。だけど、絶対に黙っていよう、なにがあっても口を割らないようにしようって、郁美と約束しました。そうじゃないと、二人ともたいへんなことになるからって」
「それが四月の話なんだね」
咲世は声をあげて泣きだした。ずっと抱えていた秘密を明かし、心の重しが取れた途端、感情のダムが決壊したようだ。正当防衛とはいえ、通報しないどころか、遺体を隠したのは大いに問題がある。すでに何人も人を殺めている麻子からしても眉をひそめざるをえなかった。
「いつ警察が家にやって来るかって、ずっとびくついていました。ネームプレートがなくなっていたんです」
「ネームプレート?」
「わたしのリュックにさげていたものです。たぶん、わたしたちが眠らされている間にその人がテントの外に置いてあったリュックを物色したのだと思います」
「名前が書いてあったのかい」
「住所と電話番号も」
「困ったね」バックシートの背もたれに体を深々とあずけ、麻子はひと声うなる。スマホで検索すると、熊尻山で白骨遺体が発見されたニュースはすぐに見つかった。
「名前までは出ていないけど、テレビ東邦のニュースだと銀行員だって書いてあるね」麻子はほかのニュースも調べてみる。「なるほどね。こりゃ、ちょっと相手が悪かったみたいだね」
「なんなんですか」
「NHKのニュース、ついさっきアップされたみたいだけど、その男が闇バイトにかかわっていた可能性があるって書いてあるよ」
「闇バイトですか」
返事をするかわりに麻子は咲世が手にするポテトチップスに自分も手をのばした。おなかになにか入れないと、それ以上頭が回ってくれなさそうだった。考えなきゃいけないことが、どんどんあふれだしている。
おとといの晩、シックスセンスに“エスコートLev.0”の依頼を流したのは、二人の女子高生が――すくなくとも小近咲世のほうが――山内を殺害したと考えた人物なのだろうか。咲世は遺体発見のニュースを木曜の晩に自宅で見たと言っているが、ネットを検索するかぎり、木曜の午前中にはすでに一報が流れていたようだ。エスコートの依頼は、それからほぼ半日後に発信された。時間的にも遺体発見が引き金になっている可能性は高い。
麻子は記憶をたどる。それまでLev.0の依頼があったのは、すべて闇バイトで不手際のあった実行犯に関してだった。つまり仕事に失敗した者への制裁、そしてほかの同類たちへの見せしめの意味があったはずだ。だとすれば、依頼人はかなり上の人間、闇バイトを使った強盗の首謀者ではないか。その人物が闇バイトに関与していた山内が殺害された事実を知り、口封じのために咲世を屠ろうとしたのではないか。
ネームプレートだ。
おそらく遺体のポケットかなにかから、それが見つかったのではないか。警察が正義の味方だなんて誰も思っちゃいない。悪人たちの巣窟だ。カネを握らせればなんでも言うことをきく連中には事欠かない。そのなかに闇バイトグループと通じている者がいて、首謀者に伝わったと考えられまいか。
口封じをするのは、山内が持っていた危険な情報を咲世が奪ったと考えているからだろう。
スマホか。
「キャンプ場から帰って来るとき、山内の持ち物を持ちだしてきたりはしていないんだよね」
「してません。ぜんぶまとめて遺体のそばに残してきました」
麻子は唇をかむ。依頼人はなにか誤解しているのではないか。二人がキャンプ場から逃げ帰った後、何者かが山内の遺体を見つけ、スマホを奪った可能性は否定できない。
「あんただけが狙われるとも思えないね」
「そうなんです。遺体が見つかったことは郁美とも話したんです。すっごく動揺していました。だけどもうどうしようもないじゃないですか。だから二人でもう一回約束して、絶対に誰にも言わないようにしようって。わたし、郁美がいるから秘密を守っていられたんです。そうじゃなきゃ――」
「けど、あたしに言っちゃったね。でもだいじょうぶよ。あたしはふつうじゃないから。警察なんて大っ嫌いだし。だからこんなこと屁でもないわ。誰にも言わない。安心して。でもね、それとはべつに心配よね」
「郁美ですよね」
「そう。あんただけが狙われるわけがない。女子高生がぼっちキャンプに来るとは思えないもの。相方がいたと考えるはずよ。常識的にはね」




