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オフ・リミット  作者: 根本起男&黒岩研


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十三~十六

7月12日(土)夕 クレームを受ける

「土曜も営業中なのか?」

 白シャツにノーネクタイ姿の副署長はデスクから立ちあがりもせずに、香織が差しだした名刺を手ににらみつけてきた。いかにも警察官という鋭い目つきだ。

「やることないんで来ちゃいました」

「やることない日に来るところなのかな。警察は」

 大きなトートバッグをおなかの前で抱えながら、香織は身をこわばらせる。所轄の秦野北署は古びた灰色の三階建てで、ふだんより数がすくないと思われる制服姿の署員たちが静かに土曜勤務をつづけていた。一階の署長室の手前のデスクが副署長の陣地だった。

「いえ、丹沢で見つかった遺体の身元がわかったかと思いまして」

「わかったら発表するさ。わかってないから発表もしない。それにあんたは県警記者クラブの記者さんなのかな」

「いえ、わたしは……ディレクターなものでして」

「ディレクターさんと記者さんのちがいがよくわからないんだが、原則として、取材を受けるのはクラブのメンバーにかぎってるんじゃなかったかな。おれが広報にいたときは、そんな感じだったと記憶している。それにディレクターというのは職種がちがうとも聞いたことがある」

 強面で、つっけんどん。なにより前例踏襲の杓子定規。それが新聞社の地方支局でサツ回りをしていたころに覚えた警察幹部の印象だ。金太郎飴のようなこの男に付け入るのはなかなか難儀そうだった。こういうのが得意な先輩がいたけど、わたしには無理。でも引いちゃダメ。

「副署長も土曜出勤ですよね」

 怖々と香織が訊ねると、相手の顔からさらに表情が消える。まるで能面だ。

「副署長の休日出勤の理由は発表事項ではない。うちの署にかぎった話じゃないと思うけどね。すくなくともふらりとやって来たテレビ局のディレクターさんの相手をするためではないだろうな」

 めんどくさそうに返事をする間にも、制服姿の部下たちがクリップボードに挟んだ書類を副署長に見せに次々とやって来る。それらにちらちらと目をやりながらも無表情を崩さない。

「中高年登山が人気なんで注意点とかまとめようかと思いまして」

「それなら本部の広報に取材依頼書を出せば、それなりに対応してくれるはずだ。遭難者情報はぜんぶ報告してるんだし。それにそっちのほうがあんたもラクだろう。こんな田舎まで来る必要ないよな。なにもしゃべってもらえないんだし。無駄だよ。徒労だな」

「遺体の解剖とかは終わってるんですよね」

「何度も言うけど、それもふくめ、まだ発表していないから」回れ右して帰ったほうがいいと言わんばかりだった。香織は急速に空腹を感じてきた。

「わたしもこないだ現場まで登ってみたんです。ちゃんと登山靴も買ったんですよ。遺体が見つかった崖も下りてみました。五十メートルはあったかな」

 副署長が読んでいたクリップボードから目をあげ、しげしげと香織のことを眺める。

「下りたのか、あんたが」

「はい、汗だくでした。それに上がってくるのが下り以上にたいへんでした。何度も転んで泥まみれになってしまいました」

「二重遭難は勘弁してくれ。捻挫一つでも動けなくなったら救助に向かわねばならんだろう。あんたたちみたいな連中まで面倒見るんじゃ、いくら手があっても足りないからな。あの崖下は登山道なんかじゃないんだ。キャンプ場にも大きな注意書きが出てるし。いくら取材でも危険なことはやめてほしいな」

「すみません……だけど夜とかは危ないかもですね。柵もないですし」

「それは県の仕事だな。県庁を取材するといい。だけど自己責任という一面もあるからな。山はそんなに甘くない。見た目以上に厳しい。どこの山だってそうなんだよ。でも神奈川県の山は東京から近いから、お手軽登山のイメージがついちまった。テレビで何度も放送してるけど、伝わってるとは思えないな」

「ええ、それはわたしたちの力不足かと思います。なのでちゃんとした番組を作りたいと思いまして」

「野暮用さ」ふいに副署長の口角があがる。「残務がたっぷりたまってるんだよ。土曜じゃないと片付けられないんだ。だけど、こっちが出勤すると、ここぞとばかりにすかさず決済もとめに集まってくる。どうでもいい手続きなんだけどさ。みんなしておれが出て来るのを待ちかまえているのさ。現場の連中は自分がこの世で一番忙しいと思ってるんだよ。しかしこっちは一人だからな。やつらの持ってくるものがどんどんたまっていく。かといって、それに見合う給料をもらってるわけでもない。若い連中は働き方改革だなんて錦の御旗を掲げるけど、こっちにはそれがない。やつらがほったらかしにする仕事を黙って引き受けるほかないんだな。だからさ、あんた、こういうのっておかしいと思わないか? そういうのをニュースでやってくれるとうれしいんだがな。あんたの会社にだって、そういう思いをしている管理職がたくさんいると思うよ」

「いやあ……たしかにそうですよね」

「ほんとはおれも山登りしたかったんだよ。でもこの雨だしな」副署長はクリップボードを持ったままデスクから立ちあがり、大きな窓の外を見やる。

 雨は降りつづいている。

「なかなかやまないですね」

「夜にはあがるみたいだけどな」

「そうなんですか」

「空を見るといい。雲が切れてきてるし、鳥も飛びはじめた。雨がやみそうかどうかは、鳥のようすを見るのが一番だ。テレビの気象予報士なんかより、ずっと正確だ」

「鳥ですか」

「鳴き声が高まって、群れで飛ぶようになったらもうだいじょうぶだ」

「すごいですね。じゃあ、そろそろかな」

「だと思う。でもあしたは無理だな。山登りするには足もとが悪すぎる」

 副署長は壁の時計に目をやる。五時ちょうどだった。もう帰るのかな。こっちもそろそろ退散だろうか。すこしは話ができたような気もするが、実りはなに一つない。でもまた週明けにでもくればいい。現場百遍だ。

 手にしたクリップボードを目の前の応接セットのテーブルにそっと置く。

 報道簿だった。香織は目を疑った。

 熊尻山における遭難者の身元判明について

「五時発表だから」そっけなく副署長がつぶやく。「本部と同時だよ。いまごろ記者クラブ加盟社に連絡がいってる」

「最初から五時発表って決まっていたんですか」苦笑しながら香織は訊ね、ソファに腰を下ろす。なんだか疲れがどっと出てきた感じがした。

「そうだよ。昼前には決まっていた」

「じゃあ、わたしが来たときには――」

「時間前に教えるわけにいかないだろう。そりゃ、ルール違反になる。クラブの人たちは厳しいからな」

「だけど……うーん……」御しがたい思いがわきあがるのを必死に抑えつつ、香織は報道簿を読み進める。

 ≪《遭難者 東京都内在住の会社員男性

 死因 頸椎骨折とみられる

 経緯 本年7月10日午前に東丹沢山系熊尻山山頂のキャンプ場崖下で発見された身元不明遺体について、遺体を解剖するとともに所持品から身元を調べたところ、本年4月29日に親族より捜索願の出ていた東京都内在住の会社員男性(1987年8月10日生)と判明した。》≫

「これだけ書いてあればニュースは書けるだろう」副署長は香織の向かいのソファにどっかりと腰を下ろす。

「捜索願を出した親族というのは同居だったんですか」報道簿を必死にメモ帳に書き移しながら香織は訊ねる。

「遭難者は一人暮らしだった」

 香織はスケジュール帳を開き、四月下旬の曜日を確認する。二十九日は火曜だ。「つまり、前の週まで職場に出勤していたけれど、週明けになって出勤しないので、会社が親族の方に連絡して、親族が二十九日火曜になって届け出を行ったと?」

「常識的にはそうだろうな。だけど誰も週末に熊尻山に来ていたなんて思いもしなかった。だいたいそんなものだよ、最近の遭難なんて。登山届をきちんと出す人なんてまずいないから。山はそこらの公園とおなじだと思われちまってる」

「所持品から身元がわかったというのは?」

 副署長はいつの間にか手にしていた大学ノートをテーブルの上で開く。

「それは話していいことになっている。本部でも聞かれたら教えてると思うけど、遺体のズボンのポケットにコンビニのレシートが入っていたんだ。それによると、四月二十六日午前八時過ぎにふもとのコンビニでサンドウィッチを購入している。そのときに使った交通系ICカードの記録をカード会社とかの協力を得てたどったんだな。それで人定に至った。さあ、もうこれでいいだろう。早いとこ書いちまったほうがいいんじゃないか。せっかくの土曜なんだし」

「そうですね」でもわざわざ署まで足を運んだのに、これじゃ土曜の午後を自宅でくつろいでいた他社の記者が書く記事とおなじになってしまう。「会社員っていうのは、どんな職業なんでしょうか」

「え?」ノートを開いたまま副署長は形ばかり驚いたように見せる。「それって遭難者の身元がわかったというニュースに必要なのかな」

「必要じゃないですか?」

「どうだろう。東京都内の在住の会社員男性。一人暮らしで失踪当時三十七歳。これじゃ、ダメかな」どこまでも冷静、というより杓子定規で決まりきったことしか伝えてくれない。

「うーん、でもなあ……すこしでも人となりがわかればいいかと……」

「人となりねえ……」

 あきれたように言われ、香織はひるむ。自分では最大限肉薄しているつもりだが、所詮は素人サツ回りでしかない。「やっぱり事件性とかがないと、そういうところまでは教えてもらえないでしょうかねえ……」

「事件性うんぬんなんて、どこにも書いてないよね。報道簿には。だからおれはそんなことはなんにも言ってないじゃない」

「まあそうですね。ただ、一応確認ですけど、事件性とかって」

「書いてないよね。なんにも。あるともないとも」

「でもやっぱり職業ぐらいは」

 ふたたびめんどくさそうな顔になって副署長はテーブルに広げたノートを指先で探る。

「金融機関勤務。銀行マンだな」

 そのとき香織は自分が目にしているものが信じられなかった。副署長のノートがすぐ目の前にあった。びっしりと詳細が書きこまれている。すべて今回の遭難事案関連のようだった。

 山内則武――。

 その四文字を目に焼き付け、副署長に気付かれぬうちにすばやく書き取る。こういうのは昔から得意だ。自虐的な思いを抑えつけ、そのわきに書きこまれた勤務先名もチェックする。大都銀行の東麻布支店だった。

「あと、それからもう一つだけ」遠い記憶に後ろ指をさされながらも香織は食らいつく。

「なんだよ」

 香織が放つ不穏なオーラに副署長も気付いたらしい。大学ノートをさっと閉じて胸の前に抱えてしまった。

「遺体発見のいきさつなんですけど、キャンパーが発見したんですよね。あの崖の上からよくわかったものだと思うんですが」

「ああ、それは話していいことになっている。ざっと教えると、遺体は土砂や石ころに覆われていたんだけど、雨で顔のあたりが流されて露出していたんだ。それでわかったんだよ。もしそのままだったらわからなかったかもしれない。不幸中の幸いってやつかもしれんな」

「土砂は転落したときにいっしょに落ちてきたのでしょうか」

「そりゃ、わからないよ。だけどそういう考え方もあるだろうし、それが常識的なものの見方なんだと思うよ。ほかの場所にはそういう土砂とか石ころとかは散乱していなかったのも事実だし。だけどさ、うちでわかるのはそれくらいのことじゃないかな。あとは本部にまかせてるから。東京の人なんだし」

 ようやく香織は立ちあがり、副署長に丁寧にあいさつしてから署をあとにする。状況を竹中に伝えてみると、急いでニュース原稿を書いて送信するよう指示される。六時前のニュース枠で短く流すという。

 署の向かいのファミレスで原稿を送信し終え、外に出たとき、竹中から電話が入る。

「新聞社もふくめ他社の速報見たけど、銀行員って書いてるのはうちだけだな。それだけでも所轄に足を運んだかいがあったってものだ」

「でもどうでしょう。やっぱりただの遭難ですからね。会社員男性で十分なような気もします」いまさらながら懺悔するように香織は言う。

「どうかな。石ころの話は気になるけどな。転落した人間の上にだけ、バラバラと落ちてくるものかな。意外とその副署長、おまえのこと気に入ったのかもしれないぞ」

「よしてくださいよ」あまりいい気分でもなかったが、まんざらでもないのも事実だった。あのノートの置き方は最大限のサービスだったのかもしれない。

「ただの遭難を本部にまかせるなんていうのも奇妙な話だな。なんらかの事件性があるんじゃないか。もうすこし掘ってみてもいいかもしれないな」

「え? もうわたし、限界ですよ。鎌倉行って恵比寿行って、それで秦野ですよ。もう二十代じゃないですからね」

「まあ、あわてる話でもないだろう」

 そのときスマホにキャッチホンが入る。香織は竹中に礼を告げて新たな電話に応じる。

 鎌倉の強盗事件の現場でけさ会った元モーニングスプラッシュのプロデューサー、牟礼さんだった。

「藤倉さん、ちょっとだけいいかしら。松村さんから見せてもらったんだけど。犯人だっていう男たちの映像のことよ」

 それは恵比寿の喫茶店で香織が入手した防犯カメラの映像のことだった。鎌倉東署の男たちがUSBメモリーに落としていったとされるものだ。香織もマスターから映像の提供を受け、それが強盗事件となんらかの関係があるのかどうか署で確認しようと思っていた。だったらと恵比寿から秦野に来る途中、小田急線の車内から被害者の松村氏にも見てもらおうと送信してあったのだ。牟礼さんはきっとそれを見たにちがいない。

「あれって、オンエアで使うのかしら」

「いや、まだ警察で確認する必要がありますから。それに週明けの番組での話です」

「警察から入手したんじゃないの」

 鎌倉のごみ集積場にまつわる細かい事情はさておき、香織はかいつまんで説明した。「警察が興味を持っているのはまちがいないようなんです」

「松村さんの一件で?」

「だと思うんです」自分で口にしてみて香織ははっとする。現場からやや離れたごみ集積場に捨てられていた黒いパーカーとズボン。松村氏を襲撃した犯人たちはそれに似た着衣だったというが、そうだと断定されたわけではない。衣類は鉄臭いへんな臭いを放っていたという。もしそれが血液ならDNA鑑定すれば一発だ。でもそれを行うのは警察であり、結果が出るまでまだ時間もかかるだろう。

「さっき松村さんが送ってくれたの。ちょっと前におなじものを警察からも見せられたそうよ。だけどあのとき、犯人たちはマスクで顔を隠していたそうなの。だから映像に映る二人の男の人が犯人かどうかなんて、わかりようがないのよね」

「たしかにそうですね」

「それなのにオンエアに使ってしまったら、この人たちの人権はどうなるのかしら。映像は一度出たらおしまいよ」

「もちろんです。だからちゃんと確認しますし、最終的に使うとしても顔にはモザイクを入れないといけないと思います」

「当然よ。それにもしなにかあったら」牟礼さんは最後の部分を強調した。「どういういきさつで映像を入手したかも問われることになるわ。コンプライアンスに適合した取材手法で相手から任意で提供を受けたものなのかどうか」なんだか新聞社時代の報道適正化委員会の人に訊問されているかのようだった。「そのあたりって、どうなのかしら」

 牟礼さんは強盗の被害者である松村氏の関係者だ。といっても松村氏の芸能事務所に所属するタレントを自分が担当する通販番組のナビゲーターに起用しているにすぎない。それとも以前の担当番組のスタッフの取材ぶりを本当に心配してくれているのだろうか。

 香織はあらためて映像を入手するまでのいきさつを振り返る。「取材に特段の問題はなかったと思います。提供先にも自分が強盗事件の取材をしていることを伝えてあります」公園で神奈川県警の人たちから声をかけられたという話はウソだけど、でもあの二人が県警の人間で、しかもスマホにも撮影されているというのは、あのおばさんに取材している。うん、これって取材手法としてなにかまずいところがあるかな。

「警察は幅広く捜査するものよ。気になる人物を何人もピックアップして、時間をかけてふるいにかけていく。初動捜査のうちは無関係の人だって疑ってかからないといけない。そのなかの一人をとらえて、犯人あつかいしたら、警察の正しい捜査に悪影響をあたえることにもなる」

「はい、もちろんそのへんは承知しているつもりですし、まだ取材中ですから」そのへんのことは、こんなダメ記者でも新聞社時代に叩きこまれています。そう告げたい衝動を必死に抑える。

「だけど藤倉さんはこの人たちが犯人だと思っているわけでしょう」

「可能性があるんじゃないかと」

「どうして犯人だと思うのかしら。よかったら聞かせてほしいんだけど。この映像にいたった経緯っていうのかしら。そんな感じのことを」

 牟礼さんっていつもこんなふうなのかな。なんていうか、圧迫されている感じがした。だけど“部外者”と言ったら失礼だけど、取材源に関することでもあるから安易に情報を漏らすわけにもいかないだろう。

「まだ取材中の案件でして、事件に関係しそうな映像が手に入ったんで松村さんに見てもらおうと思っただけなんです。番組で使うかどうかは、まだこれから先の話でして、デスクやほかの人たちも交えて詰めていかないといけない状況ですから」

 これ以上話していたら、ごみ集積場のおばさんから聞いた話を明かしてしまいそうだったから、なかば無理やり話を打ち切り、何度もすみませんと告げて電話を切ってもらった。

 小田急線の急行に乗りこみ、一つだけ空いていたシートに腰を落ち着かせて、ぼんやりと向かいの窓の外を見やる。副署長の言うとおりだ。二羽のカラスが悠然と田んぼの上を飛んでいる。雨はほとんどあがっていた。

 牟礼さんはなにか知ってるのかな。

 ふと胸にわきあがった。香織はバッグの名刺入れから牟礼加奈の名刺をつまみだす。その名前をグーグルに打ちこみ、検索を開始する。ウェブ検索では「モーニングスプラッシュ」時代のスタッフクレジットとして何件かヒットした。それと最近の通販番組関連でも。あとはインタビュー記事はもちろん、シンポジウムや講演会に呼ばれたような形跡もない。

 画像検索をしてみると、何枚か写真がヒットした。どれもフェイスブック掲載のものだった。フェイスブックを開いてみる。友だちはかなり多い。公開写真も何枚かあった。それを一枚ずつのぞいていく。

 娘と思われる女の子といっしょに写る一枚があった。広々とした野原だ。記述によると「ワイルドサイト小猿沢にて」とある。去年の七月の撮影だ。

 背後の車のわきに男性が立っている。水色のTシャツ姿でこちらに背を向けている。それでも香織のような鈍感な人間でも気付くことができた。右の肩にさげたリュックだ。

 緑色だ。

 おなじ色のリュックなんていくらもある。香織はあらためて恵比寿の公園のベンチが映りこんだ防犯カメラの映像をたしかめた。もっともはっきり映る箇所で静止させる。

 メーカーまでおなじかどうかわからないが、すくなくとも形はそっくりだった。それにこちらに背を向けているぶん、頭の形や肩の雰囲気など後ろ姿をじっくり比較することができた。

 牟礼加奈が執拗に訊ねてきたわけがわかったような気がした。

 それまで感じていた空腹感が急速にひいていく。

 だめだ。こういうときこそ

 食べないと。


 十四

 午後6時 ボーナスを受け取る

 キヨシのスマホが鳴った。

 韓国料理の店を出てパーキングビルにとめたレクサスに乗りこんだときだった。警視庁時代の仲間からだった。キヨシがクビになってからも付き合ってくれる数少ない友人の一人だ。といっても向こうはこっちを利用しているだけだ。キヨシは歌舞伎町の風俗関係で仕事を見つけたと伝えてあった。それでなんでもいいから界隈の情報を寄こせと言われているのだ。だからといって闇バイトの情報なんて流せるわけがないが、警察が食いつきそうな歌舞伎町絡みの話なら、そこそこキヨシの耳にも入ってきた。それを小出しにして関係をつづけている。

「キヨシ、ごめん」開口一番、謝られた。「でかそうなヤマが勃発して身動きが取れなくなっちまった」

 週明けにひさしぶりに一杯やろうとの話をしていたのだ。

「かまわないよ。こっちはいつだっていいんだから」

「いっつもこれだ。運がないんだよ、おれって。ひさしぶりにサボろうと思うと、いつだって事件だ」

「頼られてるんだろ、うらやましいよ」

「木曜の朝に山で見つかった遺体がかなりの大物みたいなんだ」

「なんだ、そりゃ。山で見つかったって?」

「登山の遭難者、東丹沢だ。きょうになってようやく人定が出たんだ。四月に捜索願の出ていた現職の銀行員だった。大都銀行東麻布支店の営業課長だ。汐留のタワーマンションに暮らす三十七歳の独身貴族さ。たしかに死後三か月ぐらい経過していた。捜索願を出す前に親族が部屋に入ったときは、とくに変わったようすはなかったそうだ。ところが今回、遺体が見つかって身元が判明したんで、あらためて所轄署員が親族といっしょに部屋に入ったんだが、そこで奇妙なものが見つかった。四月の時点では親族は気付かなかったそうだ。マンションの外の防犯カメラに出かける姿も映っていたから、外出したと思ってよく調べなかったんだな。リュックを担いでいたそうだ。だから山登りかもしれないと薄々思っていたらしい」

「奇妙なものってなにが見つかったんだ?」

「本棚にあったファイルに名前と住所、それに金額を書いた長大なリストがあったんだ。署員は以前にも似たようなものを見たことがあるからピンときて、そこに記された人物たちについて照会した。大当たりさ。全員、関東一円で起きた強盗の被害者たちだったんだ」

「マジかよ、すげえや、そりゃ。だとすると指示役とか上の連中だろうな」

「その可能性が高いとみて捜査がはじまった。それにおれも巻きこまれちまったってわけさ。現場はキャンプサイトの崖下だ。テントとか装備品もそこで見つかっているが、スマホや財布とかが見あたらない。まさか熊やイノシシがねぐらに持ち帰ったわけでもなかろう。だからいまじゃほんとに遭難なのかどうかもふくめ、フラットに考えることになってる」

「お気の毒さま」

「スマホは見つかっていないんだが、ノートパソコンが自宅に残っていて、だいたいの解析は終わった。闇バイトの元締めなのはほぼまちがいない。被害者の個人情報が大量に残っていて、どれもその課長さんがかかわった案件か、収集可能な情報だった」

「銀行マンが闇バイトの元締めか。ひでえ話だな」

「そんなもんだよ。カネのありかは知ってるけど、自分じゃ手を汚さない。最近のやり口だろ。見た目はほんとに温厚そうな男で、職場でも人気の上司だったそうだ」

「そういう野郎が一番危ないんだよ」

「たしかに。スタンガンとかメスとかも見つかってる」

「メスって?」

「大小さまざま。小型ハンマーとかペンチとか。手術ができそうなセットだな。ピカピカに磨きあげてあった。なにに使うかは想像しだいだな。外科医を兼業してるわけじゃないだろう。あと、パソコンからAIソフトが見つかった。そういうのが得意みたいだ」

「得意って?」

「簡単に言えば、動画の加工ソフトだな。おれたちだっていくらでもハリウッドスターに変身して、女を口説ける。パターンがいくつかあるみたいだ。なかにはホラー映画みたいなやつもある」

 キヨシの胸が急にざわざわとしてくる。

「自分の映像が好きに変えられるっていうのか」

「そうだ。自分の身元を隠すにはもってこいだろ」

「それを強盗の実行犯、いや、自分の下にいるリクルーターとか指示役との連絡のさいに使っていたというのか」

「それはわからん。なにしろスマホが見つかってないから。そういうのはだいたいスマホでやるだろ。パソコンは使わない。だからじっさいに誰と通話していたか、いまのところわからないんだよ。例によってシックスセンス使ってるみたいだから」

「ホラー映画みたいなやつって、どういうのだ。狼男とか?」

「イメージとしては魔術師かな。肌の色は死体みたいだ。映像送ってやりたいけど、さすがにそれをやっちまうと、おれもおまえとおなじになっちまうからな」

「うるせえよ」

「だけどフードで顔が影になってるからよくわからないんだ」

「フード? それって頭巾みたいなやつか」

「そうそう。黒頭巾」

 相手に話を合わせて適当なことを言ってから「じゃあまたな」と電話を切る。

 もうそのときにはカワイの姿が頭のなかに大きくよみがえっていた。たしかめる必要もなかったが、キヨシはスマホに残したやつの画像を浮かびあがらせる。

 魔術師か。

 言いえて妙だ。カネの魔力でこちらの心を操り、踏みこんではならない修羅の一線を越えさせる。

 だがそれが別人、拷問マニアの銀行マンのネット空間上の容姿なのか。おれがへたを打ったとき、音もなくマンションにやって来たあのスーツの男。やつこそが当の本人――

 カワイなのか。

 キヨシはグーグル検索を開始する。大都銀行東麻布支店の営業課長。

 画像は何枚も出てくる。そのなかの一枚に忘れがたい顔が浮かびあがる。

 山内則武――。

 やつがカワイを演じていたのか。

 だが待て。

 その山内という男は四月に捜索願が出て、こないだ丹沢で遺体となって見つかっている。遭難したのが四月だとしたら、その後は強盗の人集めすらできないはずだ。しかしキヨシはその後もカワイから指示を受け、人を集め、実行させてカネを手に入れ、やつに入金したのち、自分の口座に振り込みがあったことを確認している。それを何度か繰り返し、直近では、鎌倉の一件を持ちかけられた。七月に入ってからの話だ。

 魔術師はほかにいるのか。それとも山内のスマホを使ってなりすましているやつがいるのか。

 フラットに考えることになってる。

 山内の関連捜査に巻きこまれた元同僚の言葉がよみがえる。

 事件性があるのか。

 仲間割れか。

 いずれにしろ遭難現場からも山内のスマホは見つかっていないのだろう。見つかっていれば、遺体が見つかった日のうちに人定が出たはずだからだ。つまり何者かがやつのスマホを奪い、AIソフトで作った魔術師カワイの姿を駆使して、キヨシらに指示を送っているのでないか。

 それのなにが悪い?

 なにが気になる?

 キヨシとしては、カワイが何者だろうとかまわない。カネさえちゃんと入るのならば。だがこの気色の悪さはなんだ。

 まず第一に警視庁が動きだしたということは、山内のスマホが見つかる可能性が高まっている。やつのスマホには、自宅にあったパソコン以上のハイレベルな情報が残されているはずだ。だとすると、それが解析されれば芋づる式にキヨシのもとに捜査員がやって来る恐れがある。

 そしてもう一つ。これこそがいま、キヨシのなかにあらがいがたい衝動を生みだしている最大の理由なのだが、やつのスマホに残る記録のなかには、億万長者とは言わないまでも、一生食うに困らないぐらいのカネを手に入れられるラッキーチケットも残されている可能性が高いというわけだ。やつは闇バイトの総元締めとして、これまでに数々の犯罪を実行させ、アガリをかすめ取ってきた。それらは巧妙に洗浄して銀行口座――さすがに大都銀行のわけはないが――に積みあげられているはずだ。当然、オンラインバンキングだってやっているだろうし、そのパスワードはスマホに保存されているはずだ。

 駐車場にとめたレクサスの運転席で、昂る気持ちがうめき声になってあふれる。

 警察より先に山内なる男のスマホを見つけないと。

 考えろ。

 山内の失踪以降、指示を受けた案件を分析するんだ。そのなかにきっと魔術師を陰で操る新たな“魔王”につながるヒントがあるはずだ。キヨシは刑事時代の思考回路を取りもどそうと必死になる。犯罪現場に足を運び、状況をすべて頭に叩きこんでゼロの状態から思考を巡らせる。敵は意外と身近にいるのかもしれないぞ。すっとぼけたふりをしながら。

 パターンだ。

 どんな犯罪にも、長大な人類史上で記録されてきた特徴というものがある。それが分類され、パターンとして刑事警察の脈流にすりこまれてきた。四月以降に請け負った案件のパターンはなんだ? 金持ち、老人、郊外、大きな家、低い防犯意識――。

 いや、そうじゃない。

 金庫だ。

 すべてのターゲットの家に現金の詰まった金庫があり、すぐに見つかった。一件をのぞいて。

 鎌倉か。

 預金通帳とキャッシュカード、それに印鑑は見つかったが、金庫はいくら探しても見あたらなかったと富永は言っている。カワイからのそれまでの発注では、そんなことは一度もなかった。ではなぜ新たな魔王は現金が本当にあるかどうかわからない家を狙わせたのだ。

 怨恨か。

 ただ痛めつけるためだけに発注し、おれが請け負ってやつらにやらせた。でも待て。だったらもっとわかりやすく拷問を指示したのではないか。それにもっと言うならストレートに殺しを依頼してきたはずだ。

 逆だ。

 暴力に対しては抑制的だった記憶がある。

 シックスセンスでのやり取りは手書きのメモに残してある。自分が闇バイトにかかわっている証拠にもなるが、身を守るためにはある程度の記録は手元に残しておきたかった。そういうときはアナログが一番だ。自分にしか読めない字体で、自分にしか理解できない暗号を織り交ぜながら。

 キヨシはレクサスのダッシュボードを開き、車検証を取りだす。キヨシにとってこの車は動くオフィスであり、ダッシュボードは秘密金庫だ。もちろんカギなんてかけない。そんなことをするのは調べてくれと言ってるようなものだ。

 車検証に挟んだいくつものメモパッドがはらはらとひざの上に落ちる。そのなかの一枚をキヨシはつまみあげる。相変わらずのミミズがのたくったような字体に顔をしかめる。それでも当人には読める。ターゲットの氏名、住所、家族構成のあとに捕捉事項がつづってある。

 三日月のマーク。ナイフすなわち暴力の意味だ。

 斜め上向きに反りあがった矢印は、相手が男であることをしめす。

 つづいてWとバツ印。いつもならこちらにも三日月マークがつくはずなのに。

 そこに制約が課されていたのははじめてだ。

 ボコるのはオヤジ。女房はやるな――。

 シックスセンスに履歴は残っていないが、メモを読むかぎり、そういう指示だった。だから富永たちにもそれを伝えた。腹の奥にもやもやしたものを感じながら。

 あの夜、富永のスマホカメラがとらえた映像を思いだす。ゴルフクラブをつかんで短パン姿の女が現れた。松村庸一よりもずっと若い、といっても中年の女だった。ただ、もしちがう現場なら、キヨシ自身が乗りこんで愉しませてもらいたいタイプだったような気もする。ずいぶんと若い女房をもらいやがって。後妻かもしれんな。

 オヤジをやれ、というより、女はやるなというほうに意味があるんじゃないか。カワイを名乗る新たな魔王は、なぜそんな指示を出した?

 特別な関係か。

 だぶだぶしたTシャツに包まれた豊満そうな胸、それになによりあのすべすべした感じの太ももが頭をよぎる。何者かの愛人か、それとも――。

 煮詰まったキヨシの思考をけたたましい呼び出し音が破る。

 電話だ。

 富永からだった。


 十五

 午後6時半 第三の選択

 カネなんて借りるつもりはない。

 あの男を追い返すにはそう言うしか三太には方法がなかったからだ。三百万なら、ローンの返済さえ繰り延べれば退職金でなんとかなる。やつも本気にしたにちがいない。だが加奈のことを気付かれてしまった。妻が抱える秘密とどう折り合いをつけるべきか、それとも問いただして一家崩壊への道のり歩みだすか、まだ決めかねているときに、どうにも余計な輩――いまもっとも漏らしたくない相手――が事情を知るところとなった。これが気心の知れた会社の同僚とかなら、まだ胸襟の開きようもあろうが、やつはすくなくとも三太なんかより犯罪性向が進んでいる。傷口で言うなら、三太はまだ爪で引っかいた程度――だと勝手に思っている――が、富永の傷は深く、すでに黴菌に蝕まれて久しい感じがした。

「だいじょうなの、あの人」

 家にもどると、落ち着かないようすで加奈が訊ねてくる。

「だいじょうぶ。もう帰ったから」

「そうなの、お茶も出さないで」

「いいんだ。会社の仲間だから。近くまで来るからキャンカー見せてほしいって言ってたんだ。あいつもキャンプするんだよ」

「そうなんだ」

「雨やみそうだよ。雲が切れてきた」

「そうなんだ」

 心ここにあらずといった感じで加奈は、自分で自分を抱きしめるように腕を組んでいる。エアコンはまだつけて間もないから、そんなに冷えちゃいないはずなのだが。

「あしたは晴れるんじゃないかな」

「あのね……」加奈は階段のほうを見やる。郁美が下りてこないかたしかめているようだった。「松村さんのところにまた警察が来たんだって」

「なにか」急に喉が張りついて声が出にくくなった。「わかった……のかな」

「どういうつながりがあるのかわからないけど、この男たちに見覚えはないかって防犯カメラの映像を見せられたんだって」

 防犯カメラ? そんなものなかったはずだ。犯行当日の朝、富永と鎌倉駅前で待ち合わせて現場周辺を下見したときに確認している。

「水曜の午後、恵比寿だって」

「恵比寿……?」血の気がひいた。どうして警察にそれがわかったんだ。

 夫の動揺をよそに加奈が平板な声でつづける。「その映像なんだけど、うちの情報番組のスタッフも入手していてね。おなじものを松村さんに送りつけてきたのよ。確認してほしいって」

「なるほど」やっとのことで声が出た。「顔とか見てるかもしれないからね。現場で」

「顔は見ていないのよ。アイスホッケーのマスクをしていたから。犯人二人とも」

「そうなんだ。じゃあ、だめか」

「だけどね、松村さん、それをいましがたわたしに送ってきたの。驚いたわ、本当に」声に温度があるなら、いまや妻の声音は南極の氷だった。そうか。つらそうにしていたのは、自分の体内に痛いほどの冷気を抱えてしまったからなのか。

 おなじものが三太の胸の奥に生まれていた。夫婦二人して同質の冷えに襲われているんだな。それ以上なにも考えることなく、三太はソファに転がったリモコンを引っつかみ、エアコンを切った。そのままどすんと腰かける。死を呼ぶカラスが羽を広げて舞い降りるように、音もなく加奈が隣に座る。学生時代、やつのアパートでこんなふうにして別れ話をしたことがある。

「これなんだけど」

 スマホの動画がはじまる。

 それを二人で一分ほどじっと見る。公園のベンチにこちらに背を向けて座る野球帽――ドジャースだ――の男と白シャツの男。白シャツが横を向いたとき、加奈が動画をとめ、顔の部分を拡大する。

 三太はもはや全身が氷の塊と化してしまっている。それも当然だ。どこから撮影されたのかわからないが、あの公園だった。水曜の昼下がり、指示役のキヨシとの打ち合わせだった。拡大された顔の部分は解像度があまりよくなく、それだけではその人物が三太であるとは判別しがたい。しかし白シャツはいつも加奈がクリーニングに出すものに似ているし、なにより、その男は肩から緑色のリュックサックをさげていた。どこにでもありそうで、誰もが使っていそうな代物だ。言うなれば、私立中学の指定カバンのようなものだ。それでも加奈には判別ができた。鑑識による科学捜査なんて、家族には不要なのだ。みるみる三太の体から力が抜けていく。

「これなんだけど」加奈はもう一度繰り返す。まるで自分の言葉が、夫とされるこの男の耳に届いていないのではないかと疑念を抱くかのように。

「…………」三太は冷え切った胸の奥からつぶやく。でも声にならない。なんだよ、なんなんだよ、なにが言いたいんだよ――。

「どうしてだろう」加奈が声を潜める。「なんでかなあ」

 警察がどういう経緯でその映像を入手したかわからない。そこに映る者たちが鎌倉で起きた強盗事件の重要参考人だと本当ににらんでいるのかも判然としない。むしろまったく無関係の人々である可能性のほうが高いのではないか。まだ捜査ははじまったばかりなのだし。だが妻にはそんなこともはや通用しなかった。そこに映るのが自分の夫で、芸能事務所社長宅に押し入った強盗犯の片割れだと断定している。

 スマホが震えている。着信によるバイブレーションではない。迫りくる絶望の予感に堪えきれずにそれを持つ妻の手が震えているのだ。

 絶望は加奈自身も破壊する。どこかの政府が開発したにちがいないたちの悪い伝染性のウイルスのようなものだった。

 だってそうだろう。

 自分の顔がひどく引きつっているのをようやく三太は気付く。右の頬の奥にツンとする痛みが走っているし、左のまぶたがぎゅっと硬直して腫れぼったい感じがする。

 三太が鎌倉のあの現場にいたということは、そこにいた被害者の顔を三太は見ていることになる。

 被害者全員の顔をだ。

 あとでいくら被害者側が言いつくろおうが、事実は変わらない。そのときそこに誰がいたか三太は見ていることになる。逆に言うなら、そこにいた人物は三太に見られてしまったというわけだ。

 いま、加奈は夫があそこにいたことを明らかに指摘している。ということは、もはやあの場に自分がいたのを夫に見られたことを承知のうえで、この動画をしめし、夫が強盗に加担したことを追及しているのだ。番組スタッフが松村氏に送りつけてきた映像を三太に見せないという選択肢もあったはずだが、あえてそれを却下してやいばを突きつけてきた。両刃の剣だというのに。

 妻の視線を受け取めることができなかった。それでいて激しい衝動が三太の内にわき起こる。就職したあと、何度目のデートだったか忘れたが、思いきってプロポーズした。青山のレストランだったかな。二つ返事というわけにはいかなかった。その瞬間、加奈はどこか遠くに行ってしまったかのようだった。だから決死の思いが反射的に生まれ、自分の気持ちを正直すぎるほどの言葉にしてさらけだすことができた。それが糸の切れた風船のようになっていた彼女をつなぎとめ、いまに至っている。あのときとおなじだった。氷と化した三太の体が一瞬のうちに炎と化し、明確な言葉になってリビングに響く。

「そうじゃない」

「そうじゃないの」

 おなじ言葉が同時に加奈の口をついて出ていた。

 視線がようやく絡み合う。愛なんてない。ただの混乱、困惑、疑念。ほかになにがある?この場から助けてくれるなら、三太はどんなことでもしただろう。まず考えたのは、夢であってほしいということ。すべてが。再就職が反故になったこともふくめて全部が。

 加奈は三太のひざに泣き崩れた。

 両親のこんな修羅場は絶対に郁美には見せたくない。でも遅かった。リビングから見通せる階段の途中に腰を下ろし、郁美はこっちのようすをうかがっている。それまで見せたことのないほどの悲しげな顔をして。

 先に口を開いたのは加奈だった。「長い話になるわ。いつか言わなきゃって思っていたんだけど」

 外は薄暗くなってきていたが、雨は本当に弱まっているようだった。たしかに天気予報でも明日は晴れるし、暑くなると言っていた。

 夏。

 酷暑。

 焼けてしまえ。燃えてしまえ。なにもかも。

 郁美が階段を下りて近づいてくる。言葉は発しない。ダイニングチェアをそっと引き、腰かける。手持ちぶさたらしく、テーブルのうえのかごをがさごそと探り、味のついていないクラッカーの包装を開ける。エアコンがとまり、死んだような静寂が広がった家のなかに、その音がやけに生々しく響く。

 何年になる。三人で暮らした家――。

 始まりがあれば

 終わりがあるのか。必ず。

「だいじょうぶだ」

 三太の口をついて出る。真っ暗闇のただ中に突き落とされたばかりだというのに。空元気を超えた絵空事の世界を浮遊している自覚だけはあった。

「雨もやんだ。キャンプ行こう」

「え、なに言ってんの」郁美がクラッカーを手にしたまま唖然とする。

「ガソリンも満タンだし、行こうよ。イクちゃん、明日学校休みなさい」

「いまから? 本気なの?」郁美はふらふらと立ちあがり、ソファに近づく。

「本気さ。だってずっとがまんしてたじゃないか。やっぱりがまんのしすぎはよくないよ。なあ――」

 同意をもとめられ、加奈も当惑を隠せない。「でもあした仕事が」

「これより大事なことなんて、あるかな」

「でも」

「ないでしょ。一番大事でしょ。だからいますぐ出かけよう。旅に出るんだ。買い物は途中ですればいい。仕事も学校もお休みだ。それでどっかで人生ゲームやろう。たしかやりかけだったんじゃなかったかな」


 十六

 午後7時30分 金鉱を発見する

 小近咲世の学生証の裏に貼りつけてあったのは、三センチ四方の紙にペン書きした熊のイラストだった。三匹いる。大人の熊の間にいるのは子熊だ。仲良く手をつなぎ、ニコニコと微笑んでいる。みんなおなじ赤いリボンを首に巻いている。

「上手だね」麻子は口走っていた。

「母が……わたしに……」プリンをかきこみながらかわいらしい声で答える。

「描いてくれたのかい」

 返事のかわりに小さくうなずく。

 麻子の胸の奥がずきりと痛む。

 母か。

 麻子にとっては、物心ついたときにはすでに失われた存在だ。だからわかるはずがないのに、なぜか喉元が締めつけられる。ただ、悪い感じではない。認めたくないだけだ。麻子の心のまわりには、認めたくないものが分厚い層になって取り巻いていた。

 母親が娘のために三匹の親子熊のイラストを描いてやる。

 娘はそれを学生証の裏にテープで貼りつけている。

 しっかりと。

 それが意味するものを、麻子は認めたくない。

 知りたくない……のかどうか。

「ありがとうございます」

 プリンを食べ終えると、咲世が耳に残るはっきりとした声で告げた。

「おいしかったかい」

「はい……」直後、いきなり泣き出した。「たすけてください……家に帰り……たい……!」

 堰を切ったようにわめきだす。もうこの時間だから公園に人気はないが、気が気でない。ルームランプの消えた暗がりのなかで、麻子はトランクに向かって人差し指を立て、じっと見つめる。

 十秒ほどそのままでいると、咲世は泣きやみ、鼻をひどくすする。麻子はティッシュペーパーを渡してやる。

 落ち着くのを待って麻子は学生証を見ながら訊ねる。

「オヂカサキヨっていうのかい」

「コヂカです……」かすれ声でつぶやく。「コヂカサヨです」

「サヨか……最初に一つだけ言っておくけど、あんたに選択権はない。あんたをどうするかは、あたししだいだってことを覚えときな」

「わたし……どうして、こんな目に……うちはおカネ持ちなんかじゃないんです。ふつうのサラリーマンです」

 いまにもまた泣きだしそうな声になっている。やれやれ。こんな展開、予想だにしない。やめときゃよかった。麻子は自分が後悔していることを認める。でもやりきることが必要だった。それはわかっている。

「あんたのうちからカネを取ろうなんて思っちゃいない。そうじゃないんだよ。だけどうちら……いや、いまはもうあたし一人か、とにかくやらなきゃいけないことがあるんだよ。それがうまくいったら、カネをもらうことになってる。あくまでビジネスの話なんだ。あんたは、そのビジネスの目的だっていうわけ」

「なんなんですか……」咲世は唾を飲みくだし、まっすぐに訊ねてくる。「そのビジネスって」

「あんたの命を奪うことさ」

 回りくどいもの言いは得意じゃないし、嫌いだった。ピー助もそういうクセがあるが、話の長いやつにろくな人間はいない。ムショ暮らしをへて麻子が学んだ教訓の一つだった。だからいくら咲世がショックを受けようと、結論からまずは伝えた。

 その言葉に圧されたように咲世はトランクの奥へと逃げる。そこで行き止まりだ。殺ろうと思えば、にゅっと太い腕をのばして引きずりだし、小鳥のように細っこい首を絞めることもできる。以前同様の不快な感触は残るだろうけど。

「どうして……」蚊の鳴くような声で訊ねる。

 麻子はバックシートに寛ぐように座り、咲世から目を離さぬよう気をつけながらポテトチップスの新しい袋を開ける。

「理由はそういう仕事だから。それにもうキャンセルもできなきゃ、失敗もできない。実行するしかないんだよ」ボリボリやりながら麻子は、言葉とは裏腹なことが頭を巡っている事実が不愉快だった。だってそんなことを考えるのはおかしい。物事の土台が引っ繰り返るような話になってしまう。フェイクニュースレベルの噴飯ものだ。

「誰かがわたしを……憎んでるんですか」トランクの暗がりから咲世がじっとこちらを見つめる。恐怖と困惑が漂っている。

「たぶん」麻子は言ってやる。「そういうことなんだろうね」

「なんで……」

「理由はわからない。けど、そういう発注を受けたの。やるしかないわ。しかたないのよ」麻子は自分に言い聞かせるように告げる。

「おねえさんが……わたしを殺すんですか」

「そうだよ」さらりと答えたつもりだが、麻子はひどく動揺する。

 おねえさん――。

 そんなふうに呼ばれたことは一度もない。これまでの人生、ほんのわずかでも麻子のことに敬意を払う、というよりふつうの人としてあつかってくれる相手はいなかった。いつだって蔑まれてきたし、ムショで世話になった先生たちなんて、腹の底では麻子のことを虫けらだと思っていた。

「あたしはそれを請け負った。だからあたしが殺る」

「おねえさんは……それが仕事なんですか」

 咲世はトランクの奥から相変わらず見つめてくる。こんなふうに話をしながら、すきあらば逃走しようとたくらんでいるのだろうか。でも足を縛っているから逃げるのは無理だ。せいぜい大声を出して助けを呼ぶぐらいだろうが、あいにく誰も通りかからない。

「仕事っていうか、生きていくためにはしかたないの。そういうことでしか生きられない人間もいるってことなの。ただ、こんなこと、いまさらあんたに教えてもなんの意味もないけど」

「教えてください。いくらもらうんですか。わたしを殺して」

「聞きたいのかい、そんなことが」麻子は窓の外の暗がりに目をやる。いつのまにか雨があがったらしい。だけど蒸し暑い夜に変わりない。「五百万。これまでのなかでも破格の金額だね。こんな仕事、断るやつはいないと思うよ」

「人の命の値段がたった五百万円だなんて……でも、じゃあそれ以上のおカネを払ったら許してもらえますか。警察には絶対に言いませんから。親を説得します」

 予想外の展開だった。

「じゃあ、一千万、いや、六百万。それだって大金だよ。あんた、さっきふつうのサラリーマンの家庭だって言ってたじゃないか。そう簡単に払えるものなのかね」

「なんとかしてくれると思います。それに警察のことも」

 麻子はうんざりした顔になる。

「たぶん、そういう問題じゃないと思うよ。たとえあたしがあんたの家から六百万円もらって、あんたを見逃したとしても、注文主は目的を果たしていないんだ。またべつの殺し屋を雇うだろうし、仕事をぶん投げたあたしのことだって許さないだろう。だからあんたもあたしも、行き着く先はおなじってことさ」

「そうなのかなあ」

 街灯の明かりがわずかに差しこむトランクのなかで、咲世が小首をかしげる。ふいにそれが幼子のしぐさに見える。そう、両親の間に割りこんで二人の手を握る子熊がするような。

 遠い記憶がよみがえる。

 麻子は妹といっしょだった。地獄のようなあの部屋で、いつだって妹は姉にすがりつき、幼いながらにほんのわずかでも安らぎを手に入れようと格闘していた。

 おねえちゃん――。

 あまりに遠い記憶がかすかに浮かびあがる。

 咲世は麻子とは親子というには年が近すぎる。でも姉妹と呼ぶには離れすぎている。だけどこの薄暗い車内では、時もたがいの立場もなにもかもが歪みだしているような気もする。

 あたし、なにやってるのかな。

 心の遠くから放たれた矢がついに意識の表層をかすめたような気がする。それだけじゃない。水平線の向こうから信じがたいほどの大波がやって来る。否定しようのない感覚に麻子は身震いする。

「注文主って誰なんですか」

「あんたねえ」麻子はあきれる。こんなことをストレートに訊いてくるこの子の率直さ、大胆さ、無神経さに。「はっきり言えば、こっちが聞きたいぐらいだよ。それがわかれば方法だって考えられるだろうに」

 方法?

 自分で口にしてみて思わず顔をしかめる。いったいなにを考えてるの。

「やっぱりあのニュースと関係してるのかな」

「え?」思わず聞き返す。「ニュースがどうしたって?」

「わかんないですけど。ただ……気になることが一つだけあって。でもおねえさんに話したところで――」

「話してごらんよ、聞くぶんにはぜんぜん困らないから」

「ありがとうございます、おねえさん」

「アサコでいいよ。麻薬の麻に子どもの子。でもだいじょうぶ。クスリはやったことないから。いまのところね」

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