九~十二
九
7月12日(土)午後 第二の選択
強盗に襲われた社長を見舞いに加奈が出かけたのち、郁美は二階の自室に引っこんだ。三太は一階のエアコンをとめ、窓をすべて開けた。やむ気配のない雨とむっとする熱気に気圧されたがしかたない。すこしでも節約しないと。多少は風も入ってくる。
リビングのソファに体を沈め、あの屋敷から奪ってきたファイルホルダーをバッグから取りだす。屋敷から退却した後、富永といっしょに調べたときには、暗証番号を記したメモが見つかっていた。それを使えば、ATMで預金は引きだせる。
インターホンが鳴った。
心臓が飛びだしそうだった。ただの宅配便だ。荷物を受け取り、もう一度ソファに腰を落ち着ける。もう汗まみれだ。警察が来るんじゃないかと気が気でない。自分がしたことが信じられない。とにかくなにか仕事をしなきゃと焦っていたし、トオルに「なんでもいいからやってみろ」とそそのかされたこともある。それに週一の力仕事で年収四百八十万。悪くなかった。でも冷静に考えれば、いったいなんてことをしちまったんだ。魔が差したとしか言いようがないが、もはや遅い。
現実から逃れようと三太はファイルをあらためてめくり、印鑑といっしょに収まっている通帳を抜きだす。松村庸一名義の銀行預金通帳だ。あのときは動転していたし、記載内容なんていちいちたしかめなかった。そんなことよりもっと根源的なことに関し、完全にノックアウトされていた。出張中のはずの妻が、ほかの男の家に真夜中にいっしょにいたのだ。
むっちりとした太ももをさらしながら。
己を責めるようにずきりと背中に鋭い痛みが走り、三太は小さくうめく。でも待て。どうしておれが責めを負わねばならない。
そりゃ、そうかもしれない。
おれは強盗だ。
トオルを恨んだ。ただの引っ越しの手伝いだという話だったのに、結果的には闇バイトに応募して一線を越えてしまった。でも松村は悪人なんだ。指示役の男はそう言っていた。だがこっちが犯罪者になり下がったのは事実だ。悪人はこっちだ。頭のなかがかっと熱くなり、三太はとてつもない罪悪感、そして恐怖にさいなまれる。あそこに加奈がいたのは、神さまによる罰なのか。失業したことを家族に告げることもできぬまま、悪の道に踏みこんだことを責められたのかもしれない。
ハローワークに行って就活すればよかったが、ぐずぐずしているうちに七月になってしまった。それでもワイシャツを着て家を出て、図書館で何日か過ごした。そこの掲示板でアルバイトの募集を見つけ、交通量調査に応募した。それで今週月曜から水曜まで、白金の桜田通りの交差点で日がな一日、真夏の陽射しに首筋を焼かれながら必死にカウンターを押しつづけた。時給はたいしたことないが、いまにして思えば、それがすこぶるありがたい仕事に思える。当然だ。絶対に手が後ろに回ることのない、真っ当な仕事なのだから。
待て。
もしあの場に加奈がいなければ、もっとちがう気分だったはずだ。だいいちあそこで松村を殴りつけたのは富永だ。おれはやっちゃいない。
加奈が帰宅する前にネットで調べた情報では、松村庸一はオフィス・ハナという芸能事務所を二十年ほど経営している。芸能事務所なんて羽振りがよさそうだが、所属タレントは聞いたこともない女の子が五人、あとは頭が白いか禿げあがった元アナウンサーのおやじたちが三人。どれもテレビに出ているのを見たことがない。ただ、事務所の経営状況は判然としないが、通帳の残高は二千六百万円もある。オンラインバンキングの時代だというのに先週ぶんまできちんと記帳してあり、遡ってざっと見るかぎり急激な収入増も大きな支出もなく、通帳上は残高の漸増傾向が見てとれた。
そのなかに三太の目をとくにひきつける記載が散見された。五月以降、毎月五日、きっかり十万円が振り込まれているのだ。
ムレカナの口座に。
加奈はフリーのプロデューサーだが、形のうえでは番組制作会社に所属しており、給料はそこから振り込まれる。通販番組に移ってからもそれは変わらないはずだ。その会社の名前はオフィス・ハナではない。それともその会社の役員かなにかを松村が務めていて、それで松村の口座から給与が振り込まれるのか?
そんなはずはない。
夏場、家にいるときはいつだってショートパンツだし、パンティ姿はもちろん、風呂あがりのようすもふだんから目にしている。しかしおとといの晩、鎌倉の屋敷で目にしたあの太ももは、それまで感じたことのないほど艶めかしく、エロチックに見えた。たとえ四十六のおばはんでも、七十過ぎのジジイからすれば生娘のようなものだ。生白いその脚をやつがよだれを垂らしながら見つめ、手をのばすところが頭をよぎり、三太は吐き気を覚える。
なにやってんだよ、おまえ。そんな関係をずっとつづけてきたのか。このカネはその見返りなのか。愛人契約の。いったいいつからだ。奪ってきた通帳の始まりは今年の四月。それ以前はわかりようがない。テレビ業界なんてろくなものじゃない。男女関係がひどく乱れているなんて話はしょっちゅうネットに流れている。
ずっとだったのか。
でも問いただせない。
絶対に。
気が遠くなり、頭のなかが真っ白になる。正気を保とうと三太は通帳をいったんファイルにもどし、ホルダーに収められたほかのものを点検する。といってもあとはすべて契約書などの文書のたぐいだった。そのなかに振り込み通知書があった。支払い元は松村の事務所所属のタレントが出演するテレビ東邦の通販番組で、二十五万円が振り込まれている。通知書は三枚ある。四月から六月までの三か月分だ。支払い担当者として牟礼加奈の名が印字されている。プロデューサーだからギャラの支払いも管理しているのか。内訳が目に入った。
岡村文乃様 出演料 15万円
間島久美香様 諸費用(メイク担当)10万円
メイク担当ってなんだ。通販番組のナビゲーターでも女優並みにメイク担当者がつくのか。その費用も合わせて二十五万か。
加奈が担当になったあと、三太は一度だけ番組を見たことがある。そのときに出演していたのが岡村文乃なのだろう。さっきオフィス・ハナのサイトをのぞいたときも見覚えのある顔写真が掲載されていた。平日の帯番組だが、ほかにもナビゲーターがいるにちがいない。でなければ一か月働いて十五万というのはブラック過ぎる。いや、もはやテレビの出演料なんてその程度なのかもしれない。
三太はあらためてオフィス・ハナのサイトを開く。岡村文乃は四十六歳。加奈とおない年だが、写真を見るかぎり加奈より派手めで若く見える。なるほど、こういうタイプなら専属のメイク担当者を要求するかな。プライドも高そうだし。
間島久美香の名前をサイトの一番下に見つけた。まだ二十一歳の新人だ。出演作品として舞台がいくつかあるようだ……と思ったところで、三太は眉をひそめる。出演ってこの子、女優なのか。それがどうして「メイク担当」なんだ?
「どうしたの、パパ」
いきなり背後から声をかけられ、ぎくりとする。郁美が下りて来ていた。さりげなく隠したつもりだったが、見つかってしまった。
「いま通帳広げてたでしょ。気が滅入るよ、そういうの」
「ちがうよ、ただ確認してただけ」何事もなかったかのように三太はゆっくりと――落ち着いて――ファイルホルダーを閉じる。
「退職金の入金とか?」
「よせよ」三太は反射的にうんざりした顔になる。前の会社の退職金ならもう払い込まれている。二十年働いてたったの七百万円。額面だけ見るなら特別利益のようだが、大半はローンに消える。手元に残るのはスズメの涙だ。「ただ、いろんなことを確認しとかないといけないだろ。仕事も変わるんだし」
「もう変わったんでしょ」
「そうだよ。もちろんだ」
「だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶだって。心配しないでいい」三太はファイルホルダーをバッグにしまう。
探るような目を娘は父親の手元に向けてくる。さっき家族三人で昼食をとったときとは、あきらかに雰囲気がちがう。母親の前では口にしにくいかのようだ。
「営業なんだよね」
「ああ、そうだ。前と変わらない」
「じゃあ、もう外回りさせられてるんだ」
「え……?」まるで条件反射のように三太の手が焼けた首筋にあてがわれる。
「だってずいぶん日焼けしてるじゃん。前はそんなことなかったのに。まるでキャンプ行って来たみたい」
「そうじゃないって」話しながら三太は深呼吸をする。ここで取り乱すわけにいかない。でも交通量調査のバイトは陽射しがきつかった。あっさりその成れの果てがバレるなんて。「やっぱり初心に帰ろうと思ってさ。知ってるお客さんのところへもあらためて足を運んでるのさ」
「ふーん、そうなんだ。ママには言ってるの? そういう話」
「言ってないよ。だって言う必要ないし、聞かれもしないから。でもわかってくれてると思う。パパも必死なんだって。会社があんなふうになったわけだから」挙げ句の果てに決まっていたはずの再就職が反故にされちまったわけだから、とは口が裂けても言えない。
「ほんとに仕事、だいじょうぶなの?」
父親の顔をのぞきこみながら郁美はもう一度訊ねてくる。
「だいじょうぶだって」
「そうかなあ……なんか最近、パパもママもへん」
「へんって……なにが」
「へんよ、なんか」
三太は思わず口にする。「パパはだいじょうぶだって。でもママはへんなのか」
「なんとなく……ね」
「なんだ、そりゃ。具体的に言えよ」愛人がいるとか。
「ねえ、ぜんぜん感じないの? パパ」
「わかんないよ。べつにふつうだと思うけどな」
「ちょっとそれって能天気過ぎるかもよ」
意味深なことを告げ、郁美はふたたび二階へ上がっていった。娘は母親の不倫をとっくの昔に知っていたというのか。胸の奥が痛いくらいにざわめく。
夕方になって加奈が帰宅した。強盗被害に遭った芸能事務所の社長を見舞いに行ったのだ。二人組の犯人の片割れが自分の夫だとは露知らずに。とはいえ自分があの現場にいたことはべつとして、三太はなんとしても妻を問いただしたい衝動に駆られ、ソファからふらふらと立ちあがった。窓を閉め、エアコンをつける。待ってましたとばかりに勢いよく冷風が吹きだす。
「どうだった……社長さんのほうは」
「ひと晩、検査入院しただけですんだから、それだけでも不幸中の幸いよ」帰って来るなり、加奈はいつものショートパンツにはきかえる。三太のなかで真っ赤な怒りが噴出する。おとといの晩にはいていたもののほうが、短いし尻にぴっちりと張りついていた。「手足は問題ないから生活には支障ないみたい」
「いつからなんだ」
口を突いて出てしまった。それも吐き捨てるように。
加奈はきょとんとして夫の前に立ちつくす。夫がそれまで見せたことがないくらい怖い顔になっていたらしい。あわてて言い直す。
「いつからいっしょに仕事してたの」
「ああ。社長と仕事していたわけじゃないのよ。事務所に所属するタレントさんを春から起用するようになったの。それでね」
関係するようになったのか。だがなんと訊ねていいものか口ごもる。どういう人なの、ストレートには聞けないから結局「いい人なの?」と、なんだかわけのわからない訊き方になってしまった。
「面倒見のいい人よ。ずっと前はテレビ局員で、番組作っていたんだけど、二十年ぐらい前に独立してタレント事務所やるようになったの。業界ではそこそこ知られた人。この春、わたしが担当になったとき、ちょうど新しいナビゲーターを探していたんで相談してみたの」
「なるほど。前から知ってたんだ」
「広いようで狭いのよ、業界は」
「ナビゲーターって一人だよね」
「そうよ」
「じゃあ、社長のところにもそんなにギャラが入るわけじゃないんだろうね」
「はは、自分がおカネの管理やってるからわかるけど、まあ出演一回につき数万円の世界よね」それで月に十五万か。「それを事務所と出演者さんで分けるわけ」
「なるほど。そうすると、鎌倉に豪邸があるのに意外とカツカツなわけだね」
「よく知ってるわね、豪邸だなんて。そっか、ニュースで映ってたか」
危ない、危ない。三太は唾をのみこむ。怒りに任せて思ったことをうっかり口にしてしまった。そのうち犯人しか知りえぬ事柄までしゃべってしまいそうだ。
「いや、なんとなく、そう思っただけさ。鎌倉に住む“社長さん”なんて、カネ持ちのイメージしかないから。一人暮らしなんだっけ?」
「ずっと前に離婚してる」
「じゃあ、事件のときも一人だったわけか」
「そう」
うそつきめ!
めらめらと燃え盛る怒りの炎で三太の体のほうが焼き尽くされそうだった。もはや立っていられなくなり、三太は倒れこむようにふたたびソファに腰を下ろす。そのとき名案を思いつく。
「ところで、さっきイクちゃんが妙なこと言ってたんだけど」
「え?」
「ええと……最近……ママがへんだとかなんとか」
「へんってなによ」さすがに加奈も気色ばむ。
「知らない。おれもわかんないよ」
「へんなこと言った覚えはないけど……でもやっぱり、夏期講習のこと根に持ってるのかもなあ」
愛人契約の対価が毎月振り込まれるのなら、それを投じてやってもよかったんじゃないのか。自虐的な発想に三太はますます体から力が抜けていく。
「あの子のパスモ、最近ぜんぜんオートチャージされてないみたいなのよ。自分で節約してなんとかしようと思ってるのかしら。それでわたしに神経をとがらせているのかな。だけどわたしだって無駄遣いなんかしてないのに」
インターホンが鳴った。
膠着したいまの空気をかき消すにはちょうど良かった。宅配でもなんでもいい――警察だけは困るが――三太はソファからすっと立ちあがった。
加奈のほうが早かった。リビングの壁に据え付けたモニターの前に立って通話ボタンを押す。
「すみません。牟礼さんはいますか」カラーモニターには、傘を手にした野球帽の若い男が映っている。
「主人ですか」
「はい」
「どちらさまでしょうか」
返事を聞くより先に三太は玄関に飛んでいく。
妻のことなんてもうどうでもよくなった。
十
7月12日(土)夕 道に迷う
横浜駅西口から歩いて五分の路地裏にある韓国料理屋の二階にキヨシは上がり、端っこのテーブルで待つひと回り年上の巨漢にぺこりと頭を下げる。
古川トオルは先に生ビールを飲んでいた。キヨシは酒は飲まない。ノンアルコールビールを注文し、すぐに本題に入る。
「いつが締めだ」トオルが訊ねる。
「あさっての月曜です。こんなのはじめてですよ」
トオルがさっと周囲のテーブルに鋭い目を走らせる。若い連中で盛りあがっている。いつだって自分たちのことしか考えないやつら。こっちの話は聞こえない。
「三百万か……どうするんだ」
「自腹切れってやつらには言ってあります」
「どうだろうな。ダメならおまえが自腹切るのか」
キヨシは一瞬、不服そうな目をトオルに向ける。トオルとは一年ほど前からおなじ男、つまりカワイのもとで仕事をしている。それぞれリクルーター兼指示役で、別々の案件をこなしてビジネスとして成立させている。集金したカネは、カワイが運営するダミー会社が表向き販売する男性化粧品の購入代金として振り込む。それをカワイが確認したのち、こんどはキヨシやトオルが運営するダミー会社の商品購入代金として手数料が支払われるのだ。
実行役集めで難航するときは、たがいにやりくりしている。鎌倉の一件では、トオルが一人紹介してくれた。電話番号はもちろん、自宅の住所まできっちりと。紹介料を支払うことになったが背に腹は代えられなかった。
それがあの幸せそうな名前のおっさん、
牟礼三太だ。
失業中だからなんにでも食いつくはずだって言うから雇ったのに。でもそんなことはトオルには言えない。
「女がいたんだろ」
「ですね」
「姦っちまえばよかったんだよ。そうすりゃ、現ナマのありかを吐いたはずだ」
「そうしようと思ったんですけどね、どうやらおっさんのほうがビビっちまったみたいで」
「じゃあ、やつらに払わせるしかないな」
「カネ、あるんですよね。あのおっさん」
「あると思うぜ。都内に一戸建て持ってる。それにすげえキャンピングカーがあるんだ」
「でも現金がいいっすね、やっぱり。カワイは待ってくれないでしょう」
「だろうな。焦る気持ちはわかるよ。おれも前にひどい目に遭ったから」
例のスーツの男はトオルのところへもやって来ていた。キヨシとおなじ目に遭っていたが、唯一ちがうのは、トオルは棒状のスタンガンを肛門に撃ちこまれたことだった。あまりの激痛に一時間ぐらい動けなかったし、一週間も出血がつづいたという。
「デカ時代の仲間に訊いたんですけど」キヨシはスマホ画面にカワイのスクショを表示して声を潜める。「アジア拠点の特殊詐欺のグループともつながりがあるんじゃないかって。だから億単位で荒稼ぎしてるみたいっす」
「そのぶん、脇もがっちり固めてるってわけだな。バックレたら殺される。マジに殺される。そっち方面にもちゃんとカネを払うから、手を挙げるやつに事欠かない」
「カワイ絡みの死体があがったって話は、おれのところにも聞こえてきてますよ」
「たぶんグループっていうか、組織になってるんだろうな。その首領がカワイなんだ」
「なんだかドツボにはまっちまったみたいっす」
「おまえ、逃げたいんだろう。だったら自分でやつを始末するしかねえぞ」
「できないっすよ。会ったこともないんだし。ずるいんですよ。こっちは住所とか居場所を明かしてるって言うのに」
「ずるいって、そんなこと言えるか? あの男に」
悔しくなり、キヨシはジョッキをあおる。いくらネットの闇サイトで検索してもやつに関する情報は皆無だし、元同僚の話では、警察も確たる情報はつかんでいないようだった。
「だけど、ターゲットがどれくらいカネ持ってるかとか、どこでつかんでくるんですかね」
「ものすごく正確だからな。税務署とかの人間かもしれないぞ」
「たしかに。そうかもしれないな」
「あとは蛇の道は蛇ってやつだろ。スネに傷のある連中、ムショ仲間とかから情報を引っ張ってるのかもしれん」
「だから今回だって、もっとギリギリやるべきだったんだ。ちくしょうめ。あのオッサンが――」
「だけどな、冷静に考えると、ちょっとへんだよな」
「なんですか」
トオルは巨大なから揚げにむしゃぶりついてから話す。「これまでカワイが引っ張ってきた案件でいうなら、みんな、すぐに金庫が見つかって、なかにちゃんと現ナマが入っていたじゃないか。それが今回は見つからなかったんだろ」
「あのオッサンの相方はそう言ってますね」
「もしかするとそれが真実だったのかもしれないな」
「見立てがまちがっていたと?」
「そう。だったらカワイだってすこしは考えてくれるんじゃないか」
「トオルさん、他人事みたいなこと言わないでくださいよ。とにかくあのオッサンを揺さぶってカネ出させますよ」
「まあ、あんまりひどいことはよしてくれよ。いちおう中学の同級生なんだからな」
「よく言いますよ、トオルさんも」
十一
7月12日(土)夕 パンドラの箱
運転席に身を沈めたまま、麻子は爆睡してしまった。
雨はやまない。もう五時前になっていた。このところたしかに疲れやすくなっている。ホームレス生活の無理がたたっているのかもしれない。ただ、眠りから覚めたのは、疲労が十分回復したからではない。妙な揺れを感じたからだ。
地震?
はっとして目を開ける。エアコンが静かに回っている。数秒後、バックミラーに麻子は目を凝らす。一瞬、そこに映るものがなんだか把握できなかった。
くぐもった悲鳴のようなものが耳に突き刺さったとき、麻子は事態を理解し、即座にバックシートに飛びかかった。
背もたれがすべて開放され、がらんとのぞくトランクの洞穴でピー助がこちらに背を向けて横たわっている。生白い尻を丸出しにして。両手はさらってきた少女を背後から抱きすくめ、腰を相手の尻に密着させている。彼女のハーフパンツもすでにひざまで下ろされていた。
「なにやってんだよ! このバカ!」
怒鳴りつけ、ピー助の首筋と背中とわき腹に強烈なパンチを立てつづけにくりだしてから、やせぎすのその体に覆いかぶさるようにして首筋に右腕を巻きつける。車が激しく揺れる。
「よ……せ!」
ピー助が喉の奥から声を絞りだす。それでも麻子は腕に力をこめつづけ、しまいにはピー助の体をバックシートの足もとのくぼみへと滑り落とす。手早く彼女の体をトランクへと押しこみ、背もたれを元にもどす。まるで暴漢から守るように。
「なんだよ、この野郎!」麻子にのしかかられながら、ピー助が騒ぎたてる。「痛ぇじゃねえか!」
「バカなことした報いだよ」麻子は唾を吐き散らしながらどやしつける。それでなくとも蒸し暑い車内の温度がたちまち二、三度上昇する。
「ふん、なにがバカなことだ。おまえの知ったことかよ」
「頭おかしいんじゃねえか、おまえ」左ひざをバックシートにつき、右足で立ったまま、麻子は低い天井の下で腰をかがめる。「ズボン下ろしてなにやってんだよ」
「いいだろ、どうせ殺しちまうんだから、好きにさせてくれよ。バレねえって」
「バレるだろ、おまえの小汚い汁とかが飛び散ったりしたら」
「うっせえよ。妬いてんのか」
「はあ? バカじゃないかい、おまえ」
「ちがうのか、麻子。だけど、おまえとこの娘はちがう。くらべようがないだろ。妬くほうがバカげてる」
麻子はピー助をひとにらみしてから後部ドアを開けて外に出て、そのままピー助の両足をつかんで力いっぱい引きずりだした。麻子の腕力をもってすれば、ピー助は幼児のようなものだった。
泥のなかに放りだされたピー助は、すぐさま四つん這いになって立ちあがろうとしたが、ずるりと足を滑らせる。その腹に容赦なく麻子のキックが飛んでくる。ピー助はもんどりうって背の高い芦原のなかに後頭部から突っこむ。それをたしかめもせずに麻子は運転席に乗りこみ、サイドブレーキを外して一気にアクセルを踏みこむ。
タイヤが音を立て、激しい泥しぶきを巻きあげて車は隠れ家のような芦原をあとにする。ピンクのTシャツとスウェットパンツは、あちこち泥がはねている。
いったいどこへ行こうっていうんだい。
頭は真っ白だった。
あの日、母親を名乗る女の首を絞めたあと、たしかこんな感覚だった。自分が自分でなくなり、いったいなにをしているのかわからずに体が勝手に暴走しているような――。
五百万。
それだけが頭の真ん中に居座っている。だってそれがなきゃ、なんのためにこんなことをしているのかわからない。
夕暮れ。
六時を回った。いったいどこを走ったのだろう。どこかの埠頭まで来ていた。近くに公園がある。周囲を巡りながら防犯カメラの死角を見つけ、車をとめる。エンジンをかけたまま外に出て後部座席に滑りこむ。スマホにはピー助からさんざん電話がかかってきていたが、サイレントモードにしてあるからだいじょうぶだ。
公園に誰もいないわけじゃない。雨なのに釣り人と作業服にヘルメットの男たちが時々、車のわきを行き来する。麻子は助手席に手をのばし、さらってきた娘のピンクのポーチをつかむ。
ピー助が言ったとおり、財布とスマホとハンカチしか入っていない。スマホは電源を落としたままだ。いまごろ親から何十回と電話が入っているはずだ。黄色い合皮の折りたたみタイプの財布には現金のほか、いろいろなカード類が入っているが、麻子は見るつもりはない。この娘が何者であろうと自分には無関係なのだ。
強烈な空腹を覚え、麻子はアーモンドチョコの箱を開ける。十粒ほどいっぺんに口に放りこみ、ボリボリやってるうちに気持ちが落ち着いてくる。もう一度あたりをたしかめてから、シートの背もたれを慎重に手前に倒してみる。
まるで洞穴人のように彼女は暗がりの奥へと身をよじって逃げる。
背もたれを完全にフラットにしてから、麻子はトランクをのぞきこむ。さっきは悪かったね。けがはしていないかい――。そんなことを口にしたら世界が音を立てて崩壊しそうな気がしたので、なにも言葉はかけない。ただじっと見つめるだけにした。
怯えきった目でこちらを見つめ返し、ガムテープが貼りつけられたままの口をもごもごと動かして何事か訴えている。手足を緊縛されているから抵抗はできない。
麻子は尿意をもよおした。いくらトランクに押しこんで、縛りあげているとはいえ、この子を残したままトイレに行くのは危険だ。こういうとき男ならラクなんだろう。さっき飲み干したコーラのペットボトルにホースをうまいこと向ければいいんだから。だけどちょうどいいことに洗面器が助手席の足もとに転がっている。麻子はシートの背もたれを一度元にもどしてから、洗面器をつかんで後部座席の暗がりにしゃがんだ。
それから後部ドアをすこしだけ開けて、洗面器に溜まった尿を外に捨てる。自分だけすっきりしたが、この子だっておなじだろう。なにしろ十二時間以上、トイレに行ってないんだし。いや、もしかするとさっきピー助がひどいことをしたときに失禁してしまったかもしれない。麻子はもう一度、背もたれを倒して声をかける。これぐらい口にしたところで、自己矛盾には陥らないだろう。
「おしっこするかい」
彼女は即座にうなずいた。すでに全身ががたがたと震えている。麻子は両手を伸ばして彼女の体をつかみ、ぐいと引きずりだす。
「悪いけど、トイレには連れていけないんだ。この洗面器にしとくれよ」そう言って洗面器をシートの足もとに置き、麻子は巨体をかがめて反対側のシートに移る。「見てないからへいきだよ」
言ってるそばから彼女は後ろ手に縛りあげられた両手でハーフパンツをおろそうと奇妙な動きで格闘を開始する。だがぜんぜんうまくいかない。尿意をこらえきれないのか顔が歪む。麻子はまるで見世物小屋の客のような気分になり、たまらず爪切りで背中の結束バンドを切ってやる。いったい何本新しいバンドを使えばいいんだ。
彼女はようやくシート下のすき間にしゃがみこむ。麻子は目を背けながらもへんな動きをしないか注意し、頃合いを見計らってティッシュを渡してやった。彼女はすばやくハーフパンツをはきなおす。
麻子はあごでトランクにもどるよう指示した。彼女の動きを警戒しながら、洗面器の中身をさっきとおなじようにして捨てる。車内にほのかなアンモニア臭が残った。それと麻子の汗の臭いも。周囲はみるみる暗くなっていく。
こちらに背を向けてトランクに横たわった彼女は、両手を背後に突きだしてきた。どうせまた縛られると思っている。小細工をしたらまたスタンガンを撃ちこまれると本能的に抵抗を諦めているのかもしれない。
「こっちを向きな」
その言葉に彼女は恐るおそる体を反転させる。
「両手を出して」
結束バンドは体の前で縛ることにした。
「だけどね、本番はこれからだから」目をすがめてにらみつけると、彼女はトランクの奥に逃げこんだ。
防波堤のへりまで十メートル。その間、防犯カメラに捉えられる空間はないし、釣り人も作業員の姿もまもなく絶えるだろう。
やるならここしかない。
洗面器にペットボトルの水を張り、一気にこの子の顔を突っこむ。五分間、全身に力をくわえる。あとは防波堤のぎりぎりまで車を進め、結束バンドを切ってから遺体を海に捨てればいい。真下にテトラポッドがあるから沖まで流されて遺体が見つからなくなるなんてこともあるまい。自分一人でも仕事を完了できる。カネはピー助の口座に入る。やつは腹を立てているだろうが、仕事の肝となる部分を実行したのが麻子であるのはまちがいない。もらうものはもらわないと。
いや、それよりも考えねばならないことがある。
五百万も大事だが、いったん請け負った仕事を無視したらどうなるかだ。そうした連中を始末してきた身からすると、容易に想像がつく。あたしの命の値段はいくらだろう。百万もしないんじゃないか。身寄りもカネもないホームレス。生きてる価値なんてこれっぽっちもない。やむなく闇バイトを請け負って食いつないでいる。そんなしがない殺し屋の殺し屋がやって来るのだろうか。
でもそれがあたしの末路なのかな。
母親殺しの罪はぬぐえない。もっと言うなら、生まれてきたことそのものが罪なんじゃないかな。麻子は自分を生んだあの女を恨み、自分を嫌悪した。それまでこんなふうに思うことなんてなかったのに。ピー助がいないと、いちいち自分の内側に目が向いてしまうのかな。あのバカな男でも、あたしにとってはある種の安全弁だったのかもしれない。余計なことを考えないようにするための。
おびえる子猫のようにトランクの奥できゃしゃな体が丸まる。
うなり声が聞こえた。
麻子の喉から漏れていた。心の奥のもう一つの気持ちが空気の塊となって放出されたみたいだった。
あんた、なにをしたんだい。
それともなにをしなかったんだい。
あいまいな気分が形を取って現れ、麻子はめまいを覚える。もう二十年以上、自分のなかに抑えつけてきた感情のようなものが、すぐ喉元までせり上がってきていた。
もう一度、ポーチをあらためる。財布に収められたカードのなかには、彼女が何者なのか、すくなくとも名前を持つ存在であることをしめすものが必ずあるはずだ。ルームランプをつけてそれをいますぐたしかめたい衝動に駆られる。
だけどそんなこと、これまでただの一度だってしたことがない。ターゲットに関する情報はすべて依頼人からもたらされてきただけだ。自分の母親のような身勝手で無責任なやつら――。でもそれをいちいち自分で確認してはいない。そもそもそれが気になるくらいターゲットと時間を共有することもなかった。長くてせいぜい二時間だ。今回は例外が重なっている。
危険水域だった。
怖かった。
この子のことを知ったら心が揺らぎはしまいか。
静寂が破られたのはそのときだった。
またしても自分の喉が鳴ったのかと思ったがちがった。グーという特徴的な音はトランクの奥からたしかに聞こえてきた。彼女のおなかが鳴ったのだ。おしっこをして胃腸の動きがよくなったのかもしれない。どうせ殺すつもりだったから食事なんてあたえる必要はなかった。だけどあまりに時間がかかったため、けさ、コンビニのパンとおにぎりを食べさせた。それっきりだった。麻子なら考えられない絶食だった。
チョコレートが残っていた。それを箱ごとトランクのなかへ滑りこませると、自分で口元のガムテープを剥がし、縛りあげた両手で一つひとつ、チョコの粒をつまみあげて食べていく。消え入りそうな命の炎がふたたび赤くなりだしたかのようだった。
「プリンがあるんだった」
体をよじって麻子は助手席に手をやり、コンビニの袋からプリンとプラスチックのスプーンをつかみだす。プリンは一つしかない。どういうわけかスプーンは二つあった。麻子はふたをめくり取り、スプーンでひと口味見する。うまい。やっぱりプリンは最高だ。もうひと口。
それからもう一つのスプーンを残ったプリンに突き立て、トランクの奥のほうへ腕をのばす。今度は娘の両手に手渡ししてやる。そのとき熱を帯びた柔らかな手のひらに肌が触れた。
電撃が走ったかのようだった。
麻子は三十二歳。この子はいくつだろう。
これまでただの一度も経験したのことない複雑怪奇な感情に衝き動かされ、麻子はルームランプを灯す。
財布のなかには、高校の学生証があった。
小近咲世。
二年生だ。
裏面に小さなイラストが貼りつけてあった。麻子はそれに釘付けになった。
十二
7月12日(土)夕 カジノで大博打
玄関を開けるなり、富永は雨でずぶ濡れになった右足をドアの内側に入れてきた。
当然、顔もなかに入る。
三太は妖怪の塗り壁なったつもりで立ちはだかったが、もはややつの視線は背後に立つ妻をとらえていた。
「そっか」一瞬にして状況をとらえたらしい。富永は視線を妻からそらすことなく、三太の耳元でつぶやいた。「なか、入っていいっすか」
「待て……」
やつにしか聞こえない音量で告げると、振り返りもせずに三太は加奈に伝える。
「会社の人なんだ。車を見に来た」
瞬時に思いついたにしては真っ当そうに聞こえるうそだった。「ああ、はい」という妻の返事が聞こえたか聞こえなかったのか不明だが、打ち寄せてきた大波を押し返すように、体でやつを押しだし、後ろ手に玄関をしめる。
「なるほどね」即座に富永は詰めてくる。「そういうことだったとは」
「そこで待ってろ」
三太はいったん家にもどり、壁にかけたキャンカーのキーをつかむ。加奈がふしぎそうな目で見つめてくる。
「忘れてた。キャンピングカーが見たいって言われてて、約束してたんだ」
「この時間に?」
「そう。ちょっとだけだから」
外に出るなり、大粒の雨が落ちるなか、車のドアを開け、若造を押しこむ。エンジンをかけ、まずはエアコンを最強にする。
家のリビングから加奈がじっと見つめている。三太は引きつった笑みを浮かべ、レースのカーテンをさっと引く。べつに陽射しなんて入ってこないのに。
「すげえ車っすね」
「どうしてわかったんだ、ここだって」
「いったいいくらしたんすか。一千万ぐらい?」人生ゲームが広げたままのテーブルわきのベッドに、富永は勝手に腰かける。
「答えろ。なんで住所がわかるんだ」
「マジ、すげえや。おれも一度こういうので旅がしたいな」
「てめえ!」
三太は両手でチンピラ男の胸ぐらをつかむ。
「やめてくださいよ。あっちから見えちゃいますよ」富永はカーテンをひいたリアウィンドーのほうに顎を向ける。リビングにはまだ妻が立っている。じっとこちらを見ているようだ。
「ちくしょう……」冷静になるんだ。自分に言い聞かせ、三太は手を放し、富永の向かいにあるスツールに腰かける。通販で買ったクロムメッキの椅子で、郁美のお気に入りだった。「でもどうして……携帯の番号しか言ってないのに」
「うちらのボス、キヨシさんはなんでもお見通しなんすよね」
「だからってどうして……」
「知りませんよ。ぼくはただ行って来いって言われただけっすから。でね、いいですか、サンタさん。さっきからずっとおれらのこと見てるあの女の人、おとといの晩、あそこにいたエロチックな美人さんですよね」
「おい、言葉に気を付けろ」
「へっ、すいませんね。だけどどう見てもそうですよね。あの家でサンタさんをゴルフクラブで殴りつけてきた人ですよね。ニュースで見たけど、あの家、うちらが聞いてた話とちがって、じいさんの一人暮らしだったみたいじゃないすか。もしそうなら、あんな夜更けにあんな女の人がいるってどういうことですかね。カノジョですかね、それとも――」
「うっせえ!」
「おぉ、怖っ……だけど要するにいま、サンタさん、かなり複雑な状況なわけっすよね。強盗に入った先で自分の妻が不倫していた……んじゃないかって。おい、おまえ、おれ以外の男とヤッてるのかなんて、訊きたくても訊けやしない。だって自分だって犯罪に手を染めたわけだから。その現場で発覚した事態だから。でもね、ぼくにはそんなことどうだっていい。関係ないんすよ。あの晩のこと、ちゃんと終わらせてくれればそれでいい。そうでないと、サンタさんだけじゃなく、ぼくも困るんすよ。だからちょっとその話をしとかないと」
「おれは運転……てゆうか引っ越しの仕事を請け負っただけだ」
前日だったか、トオルから電話があって「引っ越しの手伝いでよければ、頼みたいって人がいるんだけど、どうする?」と言われた。それでリンクが送られてきて開いたらシックスセンスだった。それがどういうものか知らなかったが、すぐに三太あてに連絡が来て、キヨシと名乗る男と電話で話をした。それが木曜の晩の出来事につながったのだ。
富永は怖いくらい落ち着いている。
「本気で夜逃げの手伝いかと思ったんすか。ないっすよ、そんなの。あるなら、ぼくだってそっちにのりますよ。そうじゃないでしょ、いまどき」
あのとき、キヨシにせっつかれるままに車から出て富永のようすを見に行ってしまった。三太はいまさらながら強い後悔に駆られる。
「ぼくもサンタさんもおなじ船に乗っちまったんすよ。だから下りるときもいっしょ。無事に下船したいならなんとかしないと」
「なんとかってなんだよ」わかっていながら訊き返す。
「三百万っすよ。立て替えないと」
「だけど金庫なんてなかったじゃないか。それがあるって話だったんだろう」
「言いましたよ、その話は。キヨシさんに。話がちがうんじゃないですかって。けど、あの人にはそんなの通用しない。てゆうか、もっと上がいて、キヨシさんだって中間管理職みたいなものなんすよね」
知ったような口をきくこの若造が憎たらしかった。会社の若い連中だって、こんなに生意気なやつはいなかったし、そもそもこいつはまともに学校なんて出ていないのだ。生きる世界のちがうチンピラ野郎だ。そんなやつを相手にしなければならない日がやって来るなんて想像だにしなかったし、自分を呪うほかなかった。
「どうしろって言うんだよ。ないだろ、そんな大金。あるわけないんだよ」三太はめまいを覚え、スツールから滑り落ちそうになる。
「あるでしょ。預金通帳にキャッシュカード、それに印鑑も。どさくさに紛れてサンタさん、自分で持ってっちゃったじゃないすか。いったいいくら残高あるんすか」
「二千六百万」
「うひゃあ、すごいじゃないすか。これでとりあえずは命拾いだ」
「バカ、もうとっくにとめられてるよ」
「ですよね。ATM行ったら、その場で逮捕されますね。だけどあさって、月曜が期限なんですよ。その日のうちに三百万、キヨシさんに渡さないといけない。だけどぼくにはそんなおカネはない」
「おれが払うっていうのか」
「いや、それも心苦しいっすから、これは一つの提案なんですけど、もう一件、ご協力いただけませんかね。じっさいキヨシさんもそれでいいと言ってるし、あてもあるみたいっすから。払いはこないだのと合わせて倍になりますが、しかたないでしょう」
この若造が地獄の餓鬼のように見えてきた。「断る。おれはこれ以上、おまえらには付き合わない」
「だけどキヨシさんは許しちゃくれません。じっさいぼくがここに来てしまったわけですし」
「おい、いいか、おまえ」三太はできるかぎり怖い顔をして富永をにらみつける。加奈がまだこっちを見ているかどうかなんてかまうものか。「いますぐ警察に行ってもいいんだぞ」
たちまち富永が腹を抱えて笑いだす。
「できるわけないでしょ、いまのあなたにそんなことが」
三太は負けるものかとにらみつづけるが、道理は変わらない。
「キヨシさんから聞いた話を一つお伝えしましょうか。サンタさんとおなじように二度目の仕事を断った人がいるんですよ。そうしたらその人の娘さんが行方不明になりましてね。二十四時間後に家に帰って来たんですが、かわいそうにキズものにされていた。処女だったかどうかわかりませんけど、まあ、このさいどっちでもいいでしょう。そういう細かいことは。それでもその人はつぎの仕事をするよう、指示役に迫られた。そこでついに警察に通報したんです。通報っていうか、自首ですよね。だって最初の闇バイトに手を染めてるんだから。当然、その人は逮捕されましてね、初犯だったけど、社会問題になってるから一罰百戒の意味をこめて実刑判決がくだった。でも指示役は捕まらなかった。結局、その人だけが刑務所に送られて、家族は崩壊。ただそれだけだったそうです」
「卑劣だな。家族に手を出すなんて」
「そんなこと言うのバカバカしいっすよ。だってそういう相手なんだから。それでね、キヨシさんからはこう言われてるんすよ。『娘をさらえ』って」
血の気がひいた。
トオルにしゃべってしまっていた。郁美のことを。
三太は手のひらでテーブルを力いっぱい叩く。「おまえ……殺すぞ……マジに」
「あんたにはできない、そんなこと」富永は穏やかな声音で言った。「一番現実的なアドバイスをしましょうか。この車ですよ。売ったらいくらになります?」
それには即答できないし、するつもりもない。ただ、購入価格は六百万。いまならどうだろう。三百万で売れなくもないかな。
自分でも落ち着かねばならないとわかっていた。三太は深呼吸してから口にする。「あさってまでに払う必要があるんだろ。いまから車売るとしても絶対に間に合わないぞ」
「先にどっかで借りちゃえばいいんですよ。つてならないわけじゃない。それでとりあえず立て替えておいて、あとでこの車の売却代金で借金を返済すればいい。意外と短期間ですむ話だと思いますけど」
三太は唇をかみしめ、じっとテーブルを見つめる。
人生ゲーム。
三太の青い車はカジノのマスにとまったままだ。こないだ横須賀にドライブに行ったとき、坂を上ったり下りたりで、加奈や郁美の車のコマやドル札のたぐいは床に散乱してしまったが、どういうわけか、三太の青い車だけがおなじマスにとまったままだった。まるでルーレットの負けを必死に取り返そうと、朝になってもスロットマシンにかじりついているギャンブル狂のようだ。でも思い描いたような逆転劇はありえない。それもまた経験則に基づく世のなかの道理だ。
「それですむのか」ぽつりと三太は訊ねる。
「とりあえずは」そのときはじめて富永が困ったような顔になって返事をする。額にはいつしか汗が噴きだしていた。エアコンはギンギンにきいている。いやな汗のようだった。「でもわかんないな」
「だろうな」
「キヨシって、どんなやつなんだ」
「おれもよくわかんないっす。人づてに紹介されただけっすから。ただ、まあ……おれらよりは凶暴かな。もしかしてサンタさん、警察にあの人を逮捕させる方法はないかって考えてるんじゃないすか」
「だったらどうだ。別件でアゲるんだよ。脱税でも暴行でもなんでもいい。刑務所に入ってくれるのなら」
「すぐ出てきますよ。殺しとかならべつでしょうが、そんな危ない橋は渡るはずがない。それに警察だってバカじゃない。キヨシさんが闇バイトにかかわってることはつかんでるんじゃないかな。余罪を追及するはずだ。そうしたらうちらのことだって、あっさりバレる。うん、まちがいないっすよ。キヨシさんはそういうので取り引きしようとするはずだ。些末な情報を小出しにして、すこしでも自分に有利になるように話を持っていく。つまるところ、痛い目を見るのはうちらみたいな末端ってことっすよ」
しばらく考えてから三太はゆっくりと話す。
「わかったよ。カネは月曜の昼までに用意する。三百万だな。用意できしだいこっちから連絡する」
「借りる先はありますか。紹介しますけど。できるだけ良心的なところを」
「いや、だいじょうぶだ。自分でなんとかする。前の会社の退職金もまだ残っているし」
「そいつは心強いっす。あとはあれっすね、奥さんの秘密、のみこんじまったほうがラクなんじゃないっすか」
「余計なお世話だ」
「へへっ、すんません」
ぺこりと頭をさげると、富永は車から出て行った。
三太はゲーム盤の自分のコマをじっと見つめたまま、動くことができなかった。




