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オフ・リミット  作者: 根本起男&黒岩研


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2/10

五~八

 五

 6月26日(木)昼 第一の選択

 三太は大手製薬会社の新堀製薬に勤めて二十三年になる。

 妻の加奈は大学のゼミがいっしょで、そのころから付き合いだした。女ぐせの悪い夫に愛想をつかして母親が離婚に踏み切った後、女手一つで育てられた加奈は、大学の授業料も奨学金でまかなわざるを得ない苦労人だった。しかし根っからの明るいキャラだし、夫としては自慢の美人妻だった。母親の遺伝子が発現したらしく、娘の郁美はぱっちりとしたまなざしにすらりと伸びた肢体を受け継いだ。義母は郷里の佐賀にずっと前に引っこんでおり、結婚式のあと、三太はじつは数回しか会ったことがない。仕事が忙しいわけでもなかったが、加奈のほうが気をつかって一人で帰省していた。そんな義母は一年ほど前に他界している。

 三太はずっと一線の営業マンとして走りつづけてきた。だがちょうど一年前に発覚したサプリメントへのカビ混入による健康被害問題のせいで、会社は存亡の危機に立たされた。一時は廃業が危惧されたが、今年四月になって米資本のエミット製薬ホールディングスの傘下に新会社として入ることで再出発することになった。三太は七月から新会社に再就職し、そこの営業部に配属されることになった。

 これも運命だ。心機一転、頑張るしかないなと決意を新たにした三太だったがこの日、思わぬ不幸が降りかかってきた。企業としての危機は乗り越えたが、一人の社員としては完全に進退窮まった。出社するなり三太は、部長から「すぐに人事部に行ってくれ」と指示された。人事部なんて顔を出すのは新入社員以来だった。

「急な話で非常に申し訳ないのですが」小さな会議室に連れこまれ、いすに腰掛けさせられるなり、三太は人事部長から切りだされた。以前から名前だけは知っている相手だが、会うのははじめてだ。言葉は穏やかだが、表情には決然としたものが感じられる。それでも三太はいったいなんの話が飛びだすか見当もつかない。地方の支店勤務でも申し渡されるのかとも思ったが、それなら営業の部長が通告すればいいだけの話だ。

「経営が外資に変わったことはごぞんじかと思うのですが、当初の業務内容を急に見直すことになりましてね。予期せぬ業務改革というのは外資ではよくあることのようです。というか、それくらい新堀製薬の経営状況が悪化しているということです。廃業寸前だったということはおわかりですよね。役員は全員退陣したし、給与も大幅に削減したけれど、それでも厳しい状況で、かろうじてエミットに拾ってもらったというのが真の姿です」

 ようやく三太は想定外の不穏な空気が足もとに忍び寄っていることに気付いた。

「元々、牟礼さんはメディカル・セールスチームに入っていただくことになっていたのですが、あらためて業務見直しを行うことになり、そこを司るメディカル事業本部の組織全体を縮小することになったんです」

「……つまり、どういうことでしょうか」やっとのことで三太は訊ねることができた。

 人事部長はじっと三太の目を見つめて言った。こういうことはこれまでに何度も業務として経験してきたのだろう。一気に言いきった。「再就職の内定が取り消されました。適法な整理解雇です。通常、三十日以上前に通告しなければなりませんので、三十日に足りないぶんの賃金は支払われます」この部長さまがこのあと何を言ったのか覚えていない。

 三太は五日後には無職となるのだ。

 職場にはもどらず、まっすぐに家に帰った。午前十時をすこし回ったときだった。加奈は仕事に出ていたし、郁美も学校だ。いつもは狭苦しく感じているリビングが、この日はやけにがらんとして感じられた。ネクタイを外しもせずにフローリングに文字通り倒れこむ。

 再就職の話は家族にしていたが、さすがにこの話はできないぞ。こんなことってあるかよ。いったいおれがなにをした。悪いのは不衛生なサプリメントを作った部署の連中、それに会社の経営陣だろう。おれはなにも関係ない。だが激しい憤怒に駆られつつも、エミット傘下の新会社への再就職を良しとせず、転職していった同僚のことが頭をよぎる。もっと以前、健康被害問題が発覚したさいにするりと転職を図った者もいた。自分もそうしておけばよかった。いまごろ思ってももう遅い。それがわかっているだけに怒りのやりどころがない。

 リビングの窓の向こうに灰色の巨象のようなものが目に入る。

 キャンカーだ。

 何度か家族三人で出かけたが、投資に失敗した四月以降はずっと雨ざらしで洗車すらしていない。三太はふらふらと立ちあがり、壁にかけたキーをつかんで玄関に向かう。

 車内にはむっとする熱気が充満している。外はもう三十度を超えている。なかは四十度近いんじゃないか。たまらずネクタイを外し、助手席に投げ捨てる。ひさしぶりにエンジンをかけるなり、エアコンが勢いよく吹きあがる。まだ三年かそこら。走行距離も三百キロそこそこじゃないか。いま売ったらいくらになる? いやでも頭をよぎる。

 こないだ乗ったのはいつだったかな。三太は頭をぶつけないよう気をつけながら、後ろの居住スペースに移る。メインベッドもロフトのベッドもシーツはしわ一つない。食糧さえそろえれば、いますぐにでも旅立てそうだった。家族三人、風に吹かれるまま日本中をこの車で旅することができたなら、どんなに幸せだろう。

 カネだ。

 なにをするにもそれだ。三太はベッドに腰かけ、目の前のテーブルをじっと見つめる。

 人生ゲームのボードが広げてある。せめてキャンプ気分でも味わおうと、この車で多摩川河川敷に向かい、バーベキューをしたあと、家にもどってから車内でスイーツを食べながらボードゲームに耽ったのだ。三太が子どものころに遊んだ人生ゲームよりも以前の時代の復刻版で、貧乏農場なんて言葉が平気で使われ、清算時には子どもを売るができると言われつづけた伝説のゲームだ。それをわあきゃあ言いながら三人で愉しんだのだが、途中で眠くなったのか、電話でもかかってきたのか、ボード上のコースに三台の車が分かれ、ドル札が束ねて小箱の切れ目にセットされたままだった。

 コマである車の位置を見るかぎり、トップは郁美、二位が加奈。三太はビリだった。

 ルーレットをつまみ、腹いせのように勢いよく回す。

 1

 ゲームの中でも三太は置いてきぼりだ。一つ進んで青い車がとまったマスは、カジノでのギャンブルをすすめてきた。でもいまは大金を狙ってルーレットを回す気にはなれない。たまらず三太は運転席にもどり、サイドブレーキを下ろしてアクセルを踏みこむ。妻も娘もどうせ夜までは帰ってこないんだ。あてもなく三太はキャンカーを走らせた。

 多摩川も川崎も横浜も越え、いつしか車は横須賀を走っていた。国道十六号線だ。隣を走る運転手さんも歩道の通行人も、たいていはチラ見してくる。キャンカーはいまでもめずらしい存在だし、リッチな雰囲気を漂わせている。運転席で三太は居たたまれなくなる。こんな車売ってしまうべきだろうか。いや、これを手放したら、おれ自身が消えてなくなってしまう。激しい葛藤に吐き気を覚える。

 横須賀は生まれ育った地だ。青々とした海を見わたすこんもりとした丘の上に広がる、昭和五十年代に造成されたごくふつうの住宅地の外れの家に三太は生まれた。父親は市役所職員、母親は看護師だった。二人ともいまは父親の郷里である大分に引っこんで畑仕事に精を出している。兄が一人いるが、こっちは転勤族でいまは家族で大阪にいる。だから横須賀に家はもうない。

 かつて子どもたちでにぎわっていた戸建て住宅が並ぶ街へと至る坂道をのろのろと上る。記憶の片隅に残る家並みはまだ残っていた。しかし暮らしているのは年寄りばかりだろう。それ以前に人の姿が見あたらない。まるで異世界に踏みこんだかのようだ。でもどうだ。逃げこめるべつの場所がいまあたえられるのなら、三太は喜んで飛びこむだろう。

 ノスタルジーに浸ることもできず、住宅地をひと回りしただけで坂を下りる。十六号線にもどり、コンビニの駐車場に死を前にした海ガメのようにのそのそと乗りあげる。正午だった。腹は減っていないが、無性にビールが飲みたかった。だがそんなわけにもいかないから、せめてコーラでもがぶ飲みしよう。

 一リットルサイズのペットボトルを買ってもどって来たとき、キャンカーの運転席をのぞきこむ金髪の太った男がいた。両腕にタトゥーを入れ、いかにも柄が悪そうだ。絡まれたくないので、すぐには運転席のほうにもどらず、助手席側に回ってペットボトルを開けた。

 ボトルをあおっていると視界の端に男が現れた。こっちを見ている。本能的に三太はそっちに背を向け、歩道に向かって歩きだした。かといって、いずれはもどらねばならないが、あそこにずっと立たれていたらもどれないじゃないか。

 そうじゃない。男は三太の後ろ姿をじっと見つめてわけではなかった。ちらりと振り返ったときにぞっとした。やつも歩道に近づいてきたのだ。車の停め方でも悪かったのか。それともたんなるキャンカーへの興味で話をしたいのか。もう振り返りもせずに歩きつづけながら三太は混乱した。

「サンちゃん……」真後ろで声がした。

「サンちゃんだろ。牟礼三太」

「え……」さすがに足がとまり、怖々と振り返る。

 目の前に仁王のように男が立ちつくしている。身長は三太より頭一つぶん大きく見えた。

「フルカワだよ。フルカワトオル。中学でいっしょだった」

 一秒か二秒か、それとも永遠か。三太は時間が完全に停止したような感覚に陥り、それからやっとのことで暗い湖の底に堆積していた記憶の断片をつかみ取った。

「トオル……」

「そうだよ。サンちゃんだろ、おまえ」

 もうそのときには記憶が鮮明によみがえっていた。中学時代の同級生で野球部でもいっしょだった古川トオルだ。

「うそだろ、トオルか。ぜんぜんわからなかった」

「おまえだってそうだよ。けど、どっかで見たやつだなって、よーく見たら、思いだした」

「コンビニにいたのか」

「そうだよ。ずっと後ろで見てた。気付かなかったか」

「車のぞいてるへんなやつがいるなって思ったんだ」

「へんじゃねえよ。でも、それでビビッて逃げようとしたんだろ」

「だって、おまえ……」三太はトオルの左右の腕に目をやった。

「こんなのたいしたことねえって。べつに半グレとかじゃねえんだからよ」

「三十年ぶりか……」三太は手のひらを額にあて、予期せぬ感慨を覚えた。「けど、面影はある。たしかにトオルだ。まだこっちに暮らしてるのか」

「ずっとおなじだ。おやじもおふくろもいっしょだぜ。おまえんちはもうないんだよな」

「だね。両親は大分に引っこんだ。おれは東京」

「なんだ、きょうはこっちにキャンプにでも来たのか。あんなすげえ車で」

「キャンプじゃないよ。ちょっとした……なんてゆうかドライブかな」

「平日にか」

「まあな。トオルはどうしてるのよ、いま」自分のことを棚にあげ、三太は訊ねた。

「いまは解体屋やってる。おやじも似たような仕事だったから」昔から太かった首筋の筋肉がさらに盛りあがり、真っ黒に焼けている。「高校出たあと、車の整備工場入って、それから何度か転職して五年前からいまの仕事やってる。意外と気に入ってるんだ」

「そうなんだ。解体業か……そういうの大事だからな」

「まあ、たいして儲からないけどさ」

 そう言ってトオルは苦笑する。その笑顔がいまの三太には、とてつもなく羨ましく尊いものに感じられたし、どことなくほっとした。というのもこの男、中学時代は札付きのワルで、高校時代は地元の暴走族に入って、あちこちで悪さを重ねていたと聞いていたし、クスリを使っていたとの話もあったからだ。

「サンちゃんは羽振りよさそうだな」トオルは立てた親指をコンビニにとめたキャンカーのほうに向ける。

「そんなことないって。無理して買ったんだ。でも持て余してる」

「仕事は?」

 いまこのとき一番聞いてほしくないことを聞いてくる。

「製薬会社。営業やってる」まだ過去形にはしない。旧・新堀製薬にはまだ所属している。きょうをふくめ、あと五日だが。

「すげえじゃん。やっぱ給料いいんだろ。けど、新堀製薬か……最近よく聞く名前だよな」

 こんな男でもニュースは見ているのかもしれない。顔がわずかに曇っている。

「まあ、いろいろあってさ」

「なんだよ」

「車、見てみる?」三太は同級生をキャンカーに誘い、エンジンをかける。

 海を見わたす公園まで移動し、三太はエアコンがぎんぎんにきいた居住スペースの仕様をひと通り説明してからベッドに腰かける。隣にトオルも座る。

 すっかり話してみた。午前中の出来事を。

「マジかよ……」巨体がひと回り縮んだかのようにトオルは肩をすくめる。

「マジだよ。それでむしゃくしゃしてさ。車走らせてこっちまで来たってわけ」

「ひでえ話だな。だって五日前だろ。就活だってできねえじゃねえか」

「ここんとこ、ろくな話がないと思っていたらこれだからな。一人娘は高二。声優になりたいとか言ってるけど、金銭的な応援はできない。いったいどうすりゃいいんだか」

「仕事探すしかないよな」

 絶対的な真実を元暴走族が口にする。三太は本能的に甘ったれた考えになる。「解体屋って、どんな感じかな」

 途端にトオルの顔に嫌悪の念らしきものが走る。「キツイぜ」体使って働いたことのないヤツには難しいだろうな。そう言ってるのが伝わってきた。「それにうちもそこまでの余裕がはっきり言って、あんまりないんだよなあ」

「ごめん、へんなこと言っちまって。まだ通告受けてから二十四時間もたっていないから、動揺しちまってさ。大丈夫。自分でなんとかできるから」

「いや、待て。これもなにかの縁かもしれない。運送の仕事とかはどうだ」

「運送……? トラックとか?」

「ふつうの車だよ。知り合いがいる。引っ越しの手伝いみたいなものだ」

「引っ越しか……それなら当面なんとかなるかな」

「すぐに決めろとは言わない。ただ、一回で十万にはなる」

「引っ越しの手伝いで一回十万……結構なもんだな」

「人手不足なんだ。それを月に四回やれば四十万だろ。週一の力仕事で年収四百八十万だぜ」

「バイトなのかな、正社員じゃなくて」

「サンちゃん」トオルが悲しい顔つきになる。「この先、サラリーマンで固定給もらえるなんて思わないほうがいいんじゃないのか。転職ってのはサラリーマンになるだけがゴールじゃないだろう。なんでもいいからまずはトライしてみて、うまくいくようなら、それを自分の仕事にしちまう。自営業、一国一城の主ってわけだな」

 いまの三太にはあまりに苦い薬、それでも良薬だった。「なんでもやってみないとな」

「あとで連絡するよ」

 トオルにうながされ、三太は携帯の番号を交換した。

「畑もやってるんだよ、おれ。おやじとおふくろといっしょに。良かったら野菜とか送るぜ」

 いますぐに貧乏農場に送りこまれるわけじゃない。それでもありがたかった。三太は恥ずかしさをうっちゃり、住所も伝えた。たしかにこれも縁だった。

 いいか悪いかはべつにして。


 六

 7月12日(土)昼 プレイヤー4

「はじめてだぞ、こんなの。どうしてくれるんだよ」

 電話の向こうにいる実行役の富永に向かってキヨシはいきり立つ。純白のレクサスSUVはまだ新車の優雅なにおいが満ちている。壁の薄い西新宿のボロマンションなんかより、ずっとこっちのほうが機密性が高い。芝公園沿いの日比谷通りに路駐しながらキヨシは一昨日の富永たちの失態をなじっていた。雨はきのうからずっと降りつづけている。

「なんで現金じゃねえんだよ」

「すいません……でも金庫が見つからなかったんです。なかなかしぶとくて、吐かなかったんです」富永は必死になって言い訳をした。

「それを吐かせるのがおまえらの仕事だろう」

「家じゅうすみからすみまで探したんですけど、金庫が見あたらなかったんスよ」

「あの家には金庫があるんだよ。事前リサーチがまちがってるとでも言いたいのか」

「いやあ、そうとは言いませんけど……でもなあ……」

 二十歳の小僧は生意気にも食い下がった。怖いもの知らずとはこのことだ。キヨシは公園のベンチに腰掛けるうらぶれた中年男に目をやる。三十一になった自分よりひと回りかふた回り上だろう。虚ろな目を足もとに向けている。自分だっていつあんなふうになるか知れない。マグロとおなじだ。泳ぎつづけないと死んでしまう。たとえどんな方法を取ってでも。

 カワイ――。

 おそらく偽名だろう。だが名前なんてどうでもいい。これまであの人からずっと仕事を発注されてきた。ターゲットに関する情報は極めて正確で、暮らしぶりはもちろん、家のなかのどこに金庫があるかもぴたりと言い当てていた。カワイがいったい何者なのか聞かされていないが、おそらくその手の情報を大量に持っているにちがいない。でもそれがあるからキヨシがずっと取引をつづけているわけではない。ぜんぜんちがう。富永やもう一人のおっさんたちには強面で通さないとならないが、キヨシだって立場は変わらない。

 恐怖に支配されている。

 カワイはマル暴か半グレのどちらかだ。つまり組織がついているということだ。やつはきっとその中枢にいるのだ。二週間に一度ぐらいの割で新しい仕事の話が降ってくるが、シックスセンスを介したテレビ電話に映るあの姿は、不気味そのものだった。全身にタトゥーが入ってるぐらいなら、元捜査一課の強行犯担当だった荒井清としても耐性があったが、あれはそういうのとはわけがちがう。黒頭巾の奥からのぞくしわだらけの灰色の肌と黄ばんで尖った歯、それにほんの一瞬だけ見える目はいつだって血走っていて、どことなく吸血鬼を連想させた。それに昼間は決して出歩かないタイプの人間だろう。もし人間だとしならだが。

 恐怖の一端に触れた実体験があった。一年ほど前、カワイの仕事を差配して実行グループを集め、八王子の金持ちの家に押し入って三百万を強奪した。ところが実行役の一人がそれを持ち逃げした。そいつがその後どうなったかは聞かされていないし、警察に捕まったとの話もすくなくともキヨシは知らない。昔の同僚からも連絡は入らなかった。ただ、奪ったカネがキヨシを経由してカワイに回らなかったのは否定しようのない事実だった。

 しばらくして小柄な銀縁眼鏡の男がキヨシのマンションにやって来た。玄関を開けるなり、スタンガンを食らい、手錠をかけられたうえで延々、拷問を受けた。男はひと言も発せず、ただひたすら愉しむようにガムテープで声の出ないキヨシの体に何度も何度も電流を流して無抵抗にさせ、ハンマーで指を三本折り、ペンチで前歯を引き抜いた。そして最後にスマホに映るカワイの姿を見せて帰っていった。つぎはもっと恐ろしいやつが訪ねて来て、殺される。キヨシは肌でそれを感じ取った。でも警察には行けない。行けるわけがない。

 それがこの仕事の本質だった。一度足を踏み入れたら決して抜けだせないのだ。それでもキヨシはこの方法でしか、もはや生きていくことができなかった。五年前までは警視庁の一課で事件捜査に従事してきたが、やがて生来の悪性が表ににじみ出てきて、押収した薬物を横流しした。それがバレてクビになった。

 だが警察官としての知識と経験は、いまの仕事に十分に生かされている。試しに銅線窃盗からはじめ、その後、盗難高級車の横流しで手数料を取るようになった。警察の捜査は皆無だった。だがコスパを考えると、もうすこし頭を使うほうがよかった。

 いまの世のなか、仕事をもとめる人間には事欠かないし、彼らと秘密裏に連絡を取り合うことも容易になっている。どういう仕事か彼らはまず訊いてくるが、一つの仕事を細分化してしまえば、それぞれは単純労働にすぎない。最終的な作業を担う者たちにはある種、一線を超える度胸のようなものがもとめられるが、そのほかはただのパーツだ。それら仕事一つひとつを並べ、流れ作業として完遂させて、アガリを頂戴する。もちろん企画に参加してくれた者たちには配当を支払うが、ディレクションする人間が多くを手にしてなにが悪い。

 コスパという観点からすれば、もっとも重要なのはターゲットの選択だった。せっかく実行犯や逃走支援者、カネの運び屋、保管屋、入金係を配役したところで、狙った相手がシケていたらどうしようもないし、力仕事をしてくれる者たちからこっちが見限られてしまう。しかしさまざまな個人情報を入手し、さらに自分でも実地調査を行わないことには、これは容易ではない。どうせなら最低でもひと晩で数百万の上がりが出るくらいの仕事を確実にこなしたいものだ。それを可能にしたのが、カワイとの出会いだった。二年前のことだ。はじめは向こうから連絡してきて、小さなヤマから実行していったのだが、情報は正確そのものだった。キヨシがレクサスの新車を堂々と購入できたのもカワイのおかげだった。

 だからこそカネはきちんと入金しないと。

「金庫には最低三百万は入ってるという話だったんだ。だから三百万、持ってこいや」

「三百万……スか……」

「そうだよ。じゃないとどうなるか、おまえだってわかってんだろ、このアホが」

「やめてください。もうあんな目に遭うのはごめんですから」富永は泣きながら訴えた。

「おれだってやりたくなかったんだよ。でもしょうがねえんだ。上が言うもんだから、やむなくやったんだよ」

 富永誉は大宮で両親と妹と四人で暮らしている。地元で塗装屋に勤めているが、一年ほど前から闇バイトに手を出すようになった。ところが三回目を依頼したら断りやがった。実行の期限が迫っていたからどうしてもやつの手を借りたかった。それでひと晩、やつが飼っている柴犬をべつのバイトにさらわせたのだ。家族らはどこに行ったかとあちこち捜し回ったが、やつにはちゃんと電話を入れてやり、愛犬の声を聞かせてやった。人間、愛情が深すぎるのも考えものだ。富永はつぎなる仕事を承諾し、きちんと実行したのち、愛犬と再会することとなった。もちろん傷一つつけちゃいない。やつは仕事をしてくれたのだから。

「だけど三百万はちょっと……」

「キャッシュカードがあるだろ」キヨシは、松村宅から富永たちが奪ってきたものを知っていた。「暗証番号書いたメモもあるみたいじゃないか」

「けど、もう使えないんじゃないかな。盗難届け出してるだろうし」

「だったらなおのこと早く動いたほうがいいんじゃねえか、おい?」

「いやあ……」

「いやあじゃねえだろ。それか、もう一件、やってもらってそのカネで埋め合わせるってのでもいいぜ。当然、支払いは倍になる。そりゃそうだろ。二回ぶんだからな。できないとかぬかしやがったら、おまえの妹をやるぞ。やるぞってのがどういう意味なのかよく考えとけ」

「……ぼくだけですかあ……支払うの……」恐怖を覚えつつも、不満を述べるだけの度胸がこの若造にはまだ残っていた。

「そこだよ。よく気が付いたな。おまえら同罪だからな。あのおっさんにもよく言っとけ。おまえの家の事情ならぜんぶわかってる、こっちはマジだからなって」

 そこまで告げてキヨシは電話を切った。

 サンタとかいう能天気な名前のあのおっさんは、多摩川沿いの鵜の木に住んでいる。本人は気付いちゃいないだろうが、住所なら把握しているし、それが本当かどうか自分の足でたしかめてきた。家族持ちだ。でかいキャンピングカーが置いてあった。あれを売れば、それなりにカネになりそうだ。だが子どもがいるから、それを活用するのが一番手っ取り早い。

 愛情が深すぎるのは、まったくもって考えものだ。


 七

 7月12日(土)昼 トラブルに見舞われる

「あのまま、まっすぐ川に行けばよかったんだよ」

 羽田空港を見渡す芦原は都会の隠れ家だった。そこにとめた車の運転席でポテトチップスを頬張りながら麻子がなじる。レンタカーだ。ピー助が免許証を見せて借りてきた。

 ずっと雨が降っている。

「絶好のチャンスだった。うまくやれば、いまごろカネにありつけてたよ。それをじゃまするなんて」

「ばか、そうじゃないって」後部座席の窓をすこし開け、ピー助はたばこをくゆらせる。

「ふん、防犯カメラでもあったって言うのかい?」XLサイズのピンクのTシャツの裾で指を拭きながら訊ねる。

「これまでのエスコートとちょっとちがうだろ。ラクちんすぎると思わなかったか」

 都庁じゃ、ずいぶんとお偉い仕事についていたものだ。物知りぶるし、相手の言うことをすぐに否定したがる。でもたしかにこれまでより格段にラクだった。「まあ、そう言われればそうかもしれないけどさ」

≪求むエスコート、東京近郊、Lev.0≫

 おとといの晩、シックスセンスで届いた求人の呼びかけに麻子もピー助ものることにした。発信元はたぶんおなじ人物だが、テキストだけのやり取りだからわかりようがない。でも二人はこれまでに四回、この人物からおなじ仕事を請け負っている。「エスコート」も「Lev.」もシックスセンスでしばしば見かける業界用語だ。エスコートは誘拐。Lev.はそのレベルを表しているとピー助が説明してくれた。

 Lev.1は身柄を確保して一定時間、手錠などで拘束・監禁する。

 2は指定場所での監禁。

 3は2に軽度の暴行がくわわり、写真を送らされる(2から3に移行するケースが多い)

 4は3の暴行の強度が増し、体の一部を指定場所に送らされる(おそらくべつの請負人がどこかに運ぶのだろう)。

 5はこれまで見たことがない。いきなり0になる。仕事の強度はこれが一番だ。

 殺害だ。

 0はこの人物以外に発注者を見たことがないが、こちらが応じるとすぐに当事者宛てに連絡が来て、具体的な指示を受ける。こちらの住所や携帯番号はそのときに押さえられる。もちろん住所はピー助の前のアパートだ。ちょっと調べれば、もうそこに住んでいないのはわかるはずだ。それなのに仕事をもらえるというのは、ことによるとこちらのブルーシートハウスがすでに把握されている可能性もある。今回の仕事をもらえたのも、誘拐の現場がうちらの棲み家に近い多摩川沿いで、きっと土地鑑があると判断されたからかもしれない。でもいずれにしろ、麻子は有事のさいは逃げだす自信がある。確たる根拠なんてないが。

 仕事はターゲットを殺して終わりではない。かならず遺体が警察をふくむ第三者に発見されるようにしたうえでシックスセンスに返信して完了報告を行わないと、報酬にありつけない。いまの世のなか、死んだように見せかけるフェイク画像なんていくらでもこしらえることができるからだ。それでいて自分たちがお縄にかかるわけにいかないから、しっかりと計画をたて、慎重に実行することになる。だから麻子もピー助も、発注者からもたらされるターゲット情報をつぶさに検証し、どこでどのタイミングで誘拐するか考え、まずはレンタカーを借りる。防犯カメラのない場所で拉致すれば、誘拐の被害者が車に乗っているとはバレない。盗難車なんて使ったら厄介なだけだ。

 それでも危険な仕事に変わりないが、Lev.0の報酬は高額だ。直近で半年ほど前、トータルでこれまでに四回請け負っているが、それぞれ二百万がピー助の口座に振り込まれた。それを山分けする。麻子もピー助も多少のトラウマが残ろうと、その程度のカネで人を殺せるぐらい追いこまれていたし、発注者の話では、ターゲットは全員、当初発注した仕事を途中でキャンセルしたり、失敗して逃げたりしているという。つまり、口封じと見せしめのための強硬措置なのだ。

 どれもクソみたいなやつばかりだった。

 ギャンブル狂のDV夫、ジャンキー、妻子持ちの上司と不倫中の女、美人局つつもたせの元締めである女ヤクザ――。

 身勝手な連中ばかりで、家庭や周囲にすでに危害をくわえているか、その恐れが極めて高かった。ピー助はそのあたりをどう考えているのかよくわからないが、麻子としては一線を越えるうえでの十分な大義名分だった。そこには自分の母親がいつだって浮かびあがってくる。自分のような目に遭う人間を増やしたくない。Lev.0を引き受ける基準はそこにあった。もちろん心の深みなんて、それ以上はのぞきこんだりしない。どうせまともに働こうったって、日雇いのつまらない仕事しかないのだ。生きていくためには前を向き、それなりのリスクとともに歩まねばならない。

「帰宅ルートを調べて路地裏で待ち伏せしたり、ホームセンターの駐車場の外れに停めた車にもどって来たところで襲って隣の車に乗せたり……これまでは計画練るだけでひと苦労だったろ。それが今回は『午後八時過ぎ、店の従業員通用口で待て』それで写真付きだろ。しかも拉致にうってつけの防犯カメラのない路地まで指定されていた。そんな至れり尽くせりの指示なんてなかったぜ。しかも報酬はどうだ? ふだんの倍以上じゃねえか」

「罠かなにかだって言いたいのか」麻子はリアシートを振り返る。スウェットパンツが尻に食いこむ。やれやれだ。体は大きくなる一方だった。

「話ができすぎてる。おれたちがこれまでやって来たことを考えてみろ。いくら無能な警察が相手でも、慎重にやったほうがいい。そう思っただけさ」

 麻子は舌先で分厚い唇をなめ、訳知り顔に話すこの男への怒りを必死に抑えつける。でも冷静に考えればピー助の言う通りかもしれない。


 きのうの晩は、蒲田駅西口のファストフード店の駐車場にとめ、従業員通用口の監視をつづけた。情報通り、午後八時過ぎにTシャツにハーフパンツ姿の若い女が現れた。行動を起こす路地のほうへ向かったので、先回りして車を停めて待った。多摩川の近くで、たしかにあたりに防犯カメラはないが、人通りが時々ある。だが連れこむのは一瞬だ。五分ほどしてターゲットがやって来た。

 (すみません……)

 暗がりから声をかけたのはピー助だ。

 (ニットー工機っていう会社を探しているんですが)

 ありもしない会社の名前を口にし、スマホのディスプレイを見せながら開放した後部ドアのほうへターゲットを近付ける。こういうときのピー助は元公務員らしく、言葉も態度もきちんとしている。彼女はなにも疑うことなく、誘蛾灯のように輝くディスプレイに顔を寄せる。前方は無人。バックミラーにも人影はない。首筋にスタンガンを撃ちこみ、あっという間に拉致完了。所持品は肩から斜めにさげたポーチのみ。それをピー助が取りあげ、キープする。ほんとに若い。まだ十代だろう。女子高生のバイトか。

 麻子は車を発進させる。助手席の足下には前回使ったプラスチック製の洗面器とミネラルウォーターの二リットルボトルが二本。前回とおなじだ。体の動きを麻痺させたうえで、外の暗がりに引きずりだして水を張った洗面器に顔を突っこんで抑えつける。五分もしないで相手は息絶えた。その後、神奈川県の相模川まで運び、浅瀬に転がしておいた。それでバイト完了だった。腕力がたいしてかからない相手みたいだから、今回もおなじ方法を取るつもりだった。溺死を偽装するわけではない。スタンガンの痕ならすぐに見つかるだろうし、車で移動中は手足を緊縛する。そっちも紫色の痣が残るだろう。そうじゃない。相手がたとえ鬼畜のような人間だろうと、目の前で命が絶えるのを司るなんていい気分じゃない。母親を名乗るあの女を殺ったときだって、そんなことをする自分を頭の片隅で責めていた。

 最初に殺しを請け負ったときは、誘拐したあと、山のなかで金属バットを使った。頭を一度殴りつければすむと思ったが、そうはいかず逆にこっちに襲いかかってきたから結局、三十回ぐらい叩きつけることになった。ピー助は見てるだけ。麻子一人でやった。帰るとき、服を脱いで川で体を洗わなきゃ車に乗れないくらい返り血を浴びた。

 二度目は、廃工場の地下で縄を使って首を絞めた。出血はしないが、バットで殴るより、ダイレクトに手に感触が伝わってきた。あの女のときみたいな個人的な憤怒がなかったぶん、やたらと時間がかかり、首の筋肉が元にもどろうとする反動と全身がけいれんする感触に思わず手を緩めそうになった。ピー助に手伝えと怒鳴ったことを覚えている。

 三回目は、全身を縛ってイモムシのようにしてから、包丁で喉元をかき切った。これは一番抵抗感がなかったし、すぐに息絶えた。返り血に備えて着替えを用意していったが、バスタオルをかぶせて“処置”したので一滴も浴びずにすんだ。でも不満が残った。ピー助だ。やつはこのときも見ているだけだった。すべての罪を、そして他人の死をたぐり寄せねばならない不快さを、まるっきり麻子に押しつけていた。

 洗面器を使うことにしたのは、それが理由だった。バットも縄も包丁も尻込みした。だったらと麻子が思いついたのだ。あたしが体重かけて体を押さえつけてるから、あんたは頭のほうをやりな。水を張った洗面器に相手の顔を突っこむ役目を命じた。やつがひるんだら、いつまでも仕事は終わらないし、失敗する。ピー助はぐずぐず言いそうになったが、「いやならやらないよ」と麻子はぴしゃりと告げた。結局は麻子が後頭部を肉厚の手のひらでぎゅっと押さえたのだが、そのときも相手の体の震えが、いやな感じで伝わってきた。でもそれは仕方ない。こっちだって生活がかかっているし、なによりやつらには死をもって償わねばならぬ真の罪がある……と聞かされていた。

 バックシートでぐったりとした若い女の両手両足をピー助が結束バンドで手早く縛る。まるでここまでが自分の役割だと思いこんでいるかのようだ。汚れ役はまた麻子にさせればいい――。

 そうはさせないよ。ちゃんと両手を使ってこの子の顔が洗面器から外れないようにする。最後まであんたがやるんだよ。あんたも人殺しに変わりないんだから。

「河原に出るかい。ぎりぎりまで車で下りられるところがある」

「いや、すこしドライブしよう」そう言いながらピー助は足もとに放りだしたスーパーのレジ袋から取りだしたガムテープを、ぐったりとした彼女の口もとに念入りに貼りつける。それからトランクスルー機能を使ってバックシートの背もたれを片方だけ前に倒し、がらんとしたトランクの空洞にきゃしゃな体を押しこんでシートを元にもどす。

「ほら、これ」後部座席のピー助が彼女のポーチを助手席の足もとに放り投げる。「スマホの電源は切っといた。あとは財布とハンカチが入ってるだけだ。カネは三千円もないな」

 ピンクのポーチを横目で見ながら、麻子は車を走らせつづける。ピー助はただ走れと言うばかりだった。やがてバックシートを叩く音が聞こえだした。それを無視して車は首都高にのり、横浜方面へ向かった。麻子はいらいらした。とっとと仕事を終わらせたかった。

 五百万。

 それがこの子の命の値段だった。


 誘拐してから十六時間がたった。まもなく正午になる。きょうは空がとりわけ低く感じられた。頭上をひっきりなしに旅客機が飛んでいく。

 いつまでに殺害しろとは指示されていないが、これまで請け負ったケースでは、二時間以内にあらかじめ決めておいた場所で実行していた。今回は多摩川から比較的近い横浜の鶴見川近くで殺して、そのまま川に放りこもうという話になった。遺体もすぐに発見されるはずだった。だが現場を下見しなかったのは失敗だった。どこも防犯カメラだらけだったのだ。

 やむなくふたたび相模川に向かった。雨が強くなりだしていたが、零時過ぎだというのに河川敷は人でごった返していた。小雨のなか決行された花火大会のあとの興奮がずっとつづいているようだった。人気のない場所を見つけようと、馬入橋を渡って平塚側から川沿いの道をのろのろと北上を開始したとき、信じがたい悲劇が起きた。

 左の前輪と後輪がそろって側溝にはまったのだ。深い側溝で前後輪ともに宙に浮いてしまい、前輪はハンドルを動かしても側溝の端をかんでくれない。公園の入口で、防犯カメラがレンタカーを真横からにらみつけているし、花火見物帰りのおせっかいな連中には事欠かなかった。雨のなか、牽引の手伝いを申し出る迷惑なカップルまでいたし、ジャッキアップすればなんとなると言ってトランクを開けるようせっついてくる厄介な輩までおり、麻子としては丁寧な言葉遣いで彼らにお帰りねがうのがひと苦労だった。

 ピー助はむだな抵抗はしなかった。多少の出費は必要経費だと言って、すぐにロードサービスに電話を入れ、状況を説明した。だがどこの業者も出動できる車両が出払っており、到着まで二時間以上かかるという。やむなくもっとも早く来てくれそうなところに依頼して、あとはひたすら待った。結局、作業が始まったのは深夜三時過ぎで、それから素人さながらのスタッフが延々一時間もかけてようやく側溝から脱出できた。

 河川敷の暗がりなんて、もうとっくに消え失せていた。土曜の早朝、雨にもかかわらず川釣りの客がつぎつぎとやって来て、悲しいことにランナーまで増えてきた。レンタカーは彼らに包囲され、外に出ることすらままならなかった。

 いや、出ねばならなかった。

 バックシートを開けてのぞいてみると、ぶるぶると震える少女の姿が確認できたからだ。いまにも漏らしそうだった。近くに見つけた公衆トイレの前に車をとめ、爪切りで結束バンドを切断し、口もとのガムテープを剥がして言った。

「声を上げたり、へんなまねをしたりしたら、またこれを使うからね」スタンガンの真っ白い電撃をひと筋、バチバチとデモンストレーションしてみせる。

「漏れちゃう……」その言葉に圧され、麻子は彼女のTシャツの後ろをつかんだまま、雨のなかへといっしょに降りる。

 トイレは無人だった。でも個室のドアを閉めさせるわけにいかない。開放したままの個室に背を向けて立ち、麻子は娘が用を足すのを待つ。緊張のあまり、尿管が詰まって出にくいなんてことはなかった。威勢のいい音が蒸し暑いトイレに響き、ロールペーパーを引きだすカラカラという金属音がする。

 と、そのとき、ハーフパンツを上げもしない格好で脱兎のごとく彼女が飛びだした。麻子は危うく逃がすところだったが、その首根っこを拳で強烈に殴りつけることができた。がっくりとひざをつく小娘の首筋を片手でむんずとつかみ、反対の手で電撃棒の先端を喉元に押しつける。

 スイッチを押す必要はなかった。彼女はのろのろと幽霊のように立ちあがり、尻を半分のぞかせたハーフパンツを怖々と引きあげる。あとは護送中の囚人のようにうなだれて車のなかへともどった。そのようすを何人かの釣り客が見たのはまちがいない。スタンガンは見えないように隠したが、もうだめだ。この場を離れないと。人目に注意して、結束バンドとガムテープを使い、ふたたびバックシートの背もたれを開けてトランクに押しこんだ。それから交互に用を足したのち、ピー助が車を発進させた。

 五時半になっていた。

 計画は完全に狂ってしまった。夜のとばりが下りるまで待たねばならない。だがいつまでもトランクに荷物を入れたままにしたくなかった。早いとこ空にしてレンタカー屋に車を返してしまいたかった。いちおう、二十四時間借りているからまだ余裕がある。途中、コンビニでパンとおにぎりとジュースを買って車を走らせながら食べた。おなじものをトランクにも放りこみ、背中の後ろで両手首を縛った結束バンドを切断し、ガムテープも剥がしてやった。なぜそうするのか麻子は自分でも理解できなかった。どうせもうすぐ死ぬのに。彼女は横になった格好ですなおに食事をし、ジュースをのんだ。空腹だったらしい。いや、食べないとまた暴行を受けると思ったのか。怖々と、それでいて恨めしそうな目を向けてきた。

 忌々しかった。だがそれは自分の母親に対してわきあがった感情とはどこかちがった。なんだか自分自身が責められているような不愉快な気分にさせられたのだ。だから一刻も早く、この小娘の息の根をとめたかった。

 五百万。

 それを手にするためのただの道具に過ぎないのだから。

 食事のあと、ふたたび結束バンドとガムテープを使い、トランクの闇に押しこめた。あとはあてもなく車を走らせる。日中だって人目につかない場所はあるだろう。そこさえ見つかれば、車内で洗面器を使い、息の根をとめてすぐに外に放りだせばいい。このさい、川に突き落とす必要もあるまい。たとえ川で見つかったとしても、両手両足に縛られた痕、首筋にはスタンガンによる火傷。誰が見たって他殺体だ。だがこれはという場所がなかなか見つからない。神さまが麻子たちをいじめているのはまちがいない。

 羽田の芦原についたときは、十時を回っていた。しぶとい雨が落ちつづける。いったいなにをぐずぐずしている。しかし麻子もピー助もどんよりと疲れていた。トランクのなかは静かだった。眠っているのだろうか、それとも息を潜めてロックを外そうと格闘しているのだろうか。でも逆に明るいから外に飛び出したのなら、すぐにわかる。

 麻子もピー助もわかっている。このままじっとして暗くなるまで待つほかない。

「あんたはどうでもいいところで考えすぎるんだよ」眠気で朦朧とするなか、ポテトチップスをコーラで流しこみ、麻子は口にする。「べつに河原じゃなくたってよかったんだ。広い海が目の前に広がってるんだから」

「いまさらしょうがないだろ。もしおとり捜査でサツに尾行されてたら、いまごろおれたちは留置場のなかだ」大あくびをしながらピー助が言う。

「そんなに心配なら、車に連れこむ前にもっとこの子のことを調べたらよかったろうに。だけどこんなに若い女刑事はいないと思うけどね」

「おれは慎重なだけだ。おまえは気付いちゃいないだろうが、体に発信機や隠しマイクをつけちゃいないか、連れこんだときにおれはちゃんと調べたんだぞ。尾行車がないかどうかの見極めはもっと時間がかかる。あちこち走り回る必要があったんだよ」

「さすがベテランはちがうんだね」

 嫌味を言ってやると、ピー助は口をとがらせる。「だいたい、脱輪は話がべつだろ。おれのせいじゃない。不慮の事故ってやつさ」

「不慮の事故ねえ」

 ピー助は降参したとばかりにバックシートで両手をあげる。「わかったよ。ここで殺って海にドボン。たぶんここならテトラポッドに引っかかってすぐに見つかるさ」

 麻子だってそうするつもりだったが、実行まで延々待たねばならない。もう一度、トランクの子が尿意を催したらどうしよう。また公衆便所に連れて行くのか。恐ろしいほどのリスクを冒して。眠気を噛み殺し、麻子はエアコンを調節する。ずっと息苦しいままで、頭全体が鈍い霞に覆いつくされていた。


 八

 7月12日(土)午後 未知との遭遇

 香織はこの日も鎌倉に向かった。

 ひどい雨だったが、現場百遍だ。それにご飯を食べて洗濯する以外にやることもない。それにきょうあたり、被害者の松村氏に話を聞けるかもしれないと思ったら、案の定だった。

「ガラスが割れる音がしたんで下りて行ったら、黒ずくめの男が立っていたんですよ」

 非常線は取り払われ、松村氏も在宅していた。ひどく殴られ、鼻を骨折したうえ、頬骨も陥没したといい、見ているだけで痛々しかった。

「自分がこんなことの被害者になるなんて思ってもみなかった。途中でもう一人入って来たんで、もうこりゃダメかもって観念したんですよ。あれ、ところであんた……ええと……」松村氏は老眼鏡をかけ直し、香織が渡した名刺に見入る。「テレビ東邦か。うちも通販枠やらせてもらってますよ。何度かスタジオにも行ったことがある」

「すみません。わたしは情報番組制作のチームなんで、そっち方面はぜんぜんわからないんです。でも会社を経営されているんですよね」

「事務所ね。何人かタレントが所属していてね、まあ細々とやらせてもらってるだけです。だからカネなんてそんなにないっていうのに」

「鎌倉は高級住宅地ですからね。それで狙われたのでは」

「だとしたら、とんだとばっちりもいいところですよ。ここは二十年ぐらい前に空き地があったから買ったんです。駅から遠くて不便だけど、そのぶん安かった。建物も都心で建てるより、ずっとリーズナブルだった。小さく暮らせればいい。ただそれだけの家ですよ」

「お一人なんですか」

「そう。妻とはずっと前に離婚していましてね」

「そうすると二人を相手にお一人で立ち向かったんですか」

「結果的にはそうなるけど、立ち向かえなかったですよ、はっきり言って。ただ、なんて言うかな、向こうもギリギリだったんじゃないかな。それで現金がこれ以上出てこないとわかると、勝手に退散してくれた。そう、勝手に退散。そんな感じだったかな」

「だけど通帳と印鑑は盗まれたんですよね」

「ええ、すぐに止めました。たぶんだいじょうぶだろうって銀行は言ってます。もしATMで下ろされたら、足がつくだろうし」

 あとは最近のワイドショーに対する個人的な見解を延々披露された。とりあえず被害者の談話は取れたが、だからといって独自取材と言えるほどの成果でもない。まあ、なにも聞けないよりはましだ。香織は気を取り直して、坂道を下りだした。

 そのとき見覚えのある女性が坂を上ってきた。モデルみたいなすらりとしたスタイルでさっそうとしている。会社で見かけたことがある。食堂でお昼をかきこんでいるとき、隣のテーブルで何人かと談笑していたのだ。でも名前が出てこない。

 そうだ。通販番組のプロデューサーだ。社員の方だったかな。あいさつもしたことがないが、隣のテーブルに聞き耳を立てたかぎりでは、香織が所属する「モーニング・スプラッシュ」放送後の通販枠を担当しているようだった。ちゃきちゃきとした話しぶりで、いかにもテレビ局にいそうなタイプだ。きっと子どものころから頭がよかったんだろうな。生まれつきってものを香織は最近よく考える。壁にぶつかってばかりだからだ。逆に言えば、新聞社時代もふくめて、はなから場違いな世界に放りこまれて分不相応な仕事にあくせくしている。むしろもっと単純で、頭も気も使わない職業のほうが自分に合っていそうなんだけどな。

 すれちがうときもプロデューサーは香織に気付かない。担当しているのは松村氏の事務所の所属タレントが出演する枠じゃないかしら。だったら出演者の事務所社長を見舞った悲劇はすぐに耳に入るだろう。それで様子を見に来たのかな。

「こんにちは」香織はにっこりと微笑んであいさつしてみた。こういうところで物おじしないところは、皮肉にも数少ない長所の一つだ。でもたいてい煙たがられる。

「はい……?」

 どうやらこちらのことは、やはりまったく知らないらしい。香織は名刺を取りだして話しかけてみた。「闇バイトの特集をやってるんです。『モーニング・スプラッシュ』で」

「知ってるわ。てゆうか、ええと……藤倉さんはごぞんじないかと思うけど、わたしも三月までおなじ番組にいたから」そう言って名刺をくれた。

 牟礼加奈。

 通販枠のタイトルが記され、その下に「プロデューサー」とあった。ずいぶん年上の印象だが、もしかすると香織とおなじぐらいかもしれない。

「え、そうなんですか」自分で口にしてみてさすがに恥ずかしくなったが、もう遅い。「じゃあ、闇バイトとかも――」

「わたしはそういう事件系はやらなかった。グルメ専門よ。でもいまは通販。社長が被害に遭ったって聞いて心配になってね」

「犯人ってどうなんでしょうね」

「けさ、出張から帰って来たばかりなの。くわしくはわからないわ。でも二人組なのよね」

「ええ、そうですね」

「社長に聞いてもこれ以上わからないと思うわ。あとは警察ね」

 やんわりと指導を受け、香織は半分赤面しながら、まさに転がるように坂を下る。だがこの日はもう一つ向かうべき場所があった。

 恵比寿だ。

 ごみ集積場に残されたビニール袋に詰められた衣類の写真の端に写った値札を調べ、それが安価で知られるシマヌキの恵比寿店だとわかったのだ。今回の事件と直接関係があるかわからなかったが、警察が持ち帰ったというのが気になった。

「先ほど、たしかに警察の方がいらっしゃってましたよ」

 土曜午後のかき入れ時にシマヌキ恵比寿店の店長が応対してくれた。JR恵比寿駅の駅ビルに入る店舗だ。店長の話を聞くかぎり、捨てられた衣類――黒のパーカーとカーゴパンツ――に警察が興味をしめしたのはまちがいなさそうだった。

「どんなお客さまが購入されていったのか、レジの防犯カメラの映像を確認していきました。あと、店の外の映像も。ただ、あくまで個人情報ですし、警察からも他言しないよう注意されていますから」

 いつ、どんな客が購入していったのか、まったく教えてもらえなかった。これではどうしようもない。香織は途方に暮れた。

「どうしようかなあ」

 店の外は相変わらずの雨だった。香織は大きな傘を広げ、恵比寿駅を背にとぼとぼと歩きだす。犯人が着ていたと思われるパーカーとカーゴパンツが、事件現場から離れたごみ集積場に捨てられていた。それだけでもニュース価値はありそうだが、だったら警察に取材して本当にそう見ているのか確認しなければならない。先にそれをすませてから恵比寿に来るべきだったが、気がせくあまり、所轄署に寄って来るのをおろそかにしてしまった。でも、まあしょうがない。来ちゃったんだから。それに捨てられていた衣類が犯人のものと見てまちがいないなんて、副署長だろうが刑事課長だろうが認めてくれるわけもない。

 恵比寿は晴れていれば、おしゃれですてきな街だ。一人で歩いていてもめずらしいお店にすぐに出くわし、退屈なんてしないだろう。けれど、こう雨がひどくちゃ、気持ちも萎える。香織はうらめしそうに灰色の空を見あげた。

 成果なんて出ることのほうがすくないんだ。いちいちしょげ返っていることはない。つねに前向きに――時として極めて自分に都合よく――物事を解釈できるのは、香織ならではの長所だ。ある意味、それは自分の負の部分――過去もふくめ――から目を背けるということである。だってそうでしょ。いちいち振り返ってなにになるの?

 とはいえ、このままじゃ、月曜のオンエアは散々なものになりそうだった。だいいち新聞記者なら原稿を書くだけですんだが、テレビの世界はそれを自分の言葉で伝えねばならない。マイクに向かってしゃべるのは、いまだに慣れないし、なにより言葉が出てこない。

 息継ぎがわりに香織は、土曜出番の竹中に電話してみた。

「なるほど。じゃあ、近くに公園とかないか」

「公園ですか?」

「闇バイト犯たちは、犯行におよぶ前に一度、公園とかで顔合わせてして、必要な道具を共有するケースが多いらしい。『モーニングスプラッシュ』でもそんな話をしていたと思う」

 香織はグーグルマップを開き、あたりを調べてみた。

 徒歩五分ほどの住宅地に小さな公園があった。砂場と滑り台、ブランコがあり、周囲にベンチがいくつか用意されていた。晴れていれば、お弁当持参で腰かける人もいそうだったし、それがたとえ闇バイトの顔合わせであろうと違和感はない。

 そのときカランカランと音がした。公園の向かいにある喫茶店のドアが開いたのだ。男たちが傘を開く直前、香織は二人の人物の顔を確認した。

 なるほど。わたしもまだ捨てたものじゃない。

 浮き立つ気持ちを抑え、香織は二人が離れていくのをたしかめてから、店のドアをカランカランと盛大に音を立てながら引き開けた。

 客はいない。カウンターの向こう側にいたマスターとおぼしき銀髪の男が小さく「いらっしゃいませ」とつぶやいただけだった。どうやらあの先鋭的なごみおばさんのスマホに撮影された警察官二人は、きょうは「捜査」の腕章もせぬまま、この店に訊き込みにやって来たらしい。奥のテーブル席に腰かけ、香織はぐるりと店内を見回す。静かなジャズの流れる雰囲気のいい店だった。お冷やを持って近付いてきたマスターに香織はぺこりと頭をさげる。

 おなかがぺこぺこだった。「ナポリタン……大盛りでおねがいします」

 マスターはわずかに苦笑する。「うちの大盛りはほんとに大盛りだけどだいじょうぶかな」

「どれくらいですか」

「三人前ぐらい」

「じゃあ、それで。おなかすいてるんで。あと、プリン・ア・ラ・モードもおねがいします」

 ナポリタンは手加減なかった。しかし香織は本当に空腹だった。ほかに客がいないのをいいことに顔を皿に埋めるようにして食べはじめ、あっという間に平らげた。仰天した顔のマスターがデザートを持参すると、これまた香織はぺろりと食べきった。

「気持ちいいぐらいの食べっぷりだね」

「わりと大食いなんですよ」そこで香織はひと芝居打ってみた。「天気がよければ、お昼になにか買ってきて、そこの公園で食べようと思っていたんです」

「あいにくだね、きょうは」

「ところであの公園でなにかあったんですか」

「なにかって?」

「さっき公園の先で警察に人に話を聞かれたんです。『黒い服の男たち』を見なかったかって。なにか事件でもあったんですかね」

 マスターは驚いたような顔になる。「ほんとに警察だったの?」

「はい、神奈川県警の人でした」

「黒い服の男たち……か。じゃあ、関係あるのかな」独り言のようにつぶやく。

「どうされました」

「いやね、お客さんが入って来る直前まで店に神奈川県警の人たちが来ていたんだよ。事件捜査の必要があって、防犯カメラの映像を見せてほしいと言われてね。なにかと思ったら、ほら――」マスターは天井を指さす。「うちのカメラって角度的に店内だけじゃなく、外の公園まで映しているんだよ。警察はそっちが見たかったみたいでさ」

「わたしには『強盗事件の関係で調べている』と言ってましたけど」

「強盗か……そこまでくわしくは話してくれなかったけど――」マスターは手元のノートパソコンを操作しはじめる。「ほら、これ。こないだの水曜、午後二時三十二分。この場面をUSBメモリーに落としていったんだ」

 水曜の午後はまだ雨が降っていない。夏の蒸し暑そうな昼下がりのカラー映像だった。

 喫茶店の広い窓の向こうに見える公園のベンチに、二人の男がこちらに背を向けて腰かけている。どっちもスマホを耳に当てている。右側の男は野球帽をかぶっているが、かなり若いようだ。左の男は白の半そでシャツ。ふつうのサラリーマンに見える。年齢は不詳だ。

 二人の間にシマヌキのビニール袋が置かれている。特徴的なロゴが印字されているのですぐにわかった。右の男がスマホで電話をつづけながら、おもむろにビニール袋に手を突っこみ、中身を白シャツに渡す。白シャツはそれを緑色のリュックサックに詰めてから、まるで疲れ果てたかのように背を丸めて時折、右の若い男のほうに顔を向ける。若いほうもちらちらと横顔が見える。スマホ通話をつづけながら、二人でも話をしているようだ。それが十分ほどつづき、二人は画角から消えていく。

 シマヌキに来店したのは若いほうだろう。そこでパーカーとカーゴパンツを二組購入して公園に向かい、相方に本番での衣装を渡した。そのうえで二人は電話の相手からなんらかの指示を受けた――。そう考えてみてもいいのではないか。

 まだ完全に空腹が満たされたわけではないが、香織は満足感を覚え、あらためて竹中に報告の電話を入れた。「すごいじゃないか、クラちゃん。本当にその映像のデータを警察が手に入れたというのなら、スクープだぞ。サツで確認したほうがいいな」

「はい、そうしてみます」

「ところで、丹沢の遺体のほうは聞いてみたかな?」

「あ……そっちはまだです」

「そろそろ解剖結果とか出るころじゃないか。県警本部に聞いてみたらどうだろう」

「はい、やってみます」香織は時計を見る。まだ三時だ。「所轄の秦野北署に行ってみます」

「だいじょうぶか、無理するなよ」

「へいきです。エナジーチャージばっちりですから」

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