一~四
一
2025年7月10日(木)深夜 プレイヤー1
「一人じゃ無理だ。見てこい」
ワイヤレスイヤホンから聞こえる氷のような声に三太はおののく。話がちがう。ただの運転役。レンタカーのワゴン車のハンドルを握り、真夜中に鎌倉の丘の上まできのう会ったばかりの若造を一人乗せていく。そいつが荷物を抱えてもどって来たらピックアップしておなじ道をもどって来る。請け負ったのはそれだけだ。車に乗るときからゴム手袋をするように指示されていたのは奇妙だったが、それ以上考えるのはやめた。
住宅地の外れにとめたあと、若造は通話中のスマホをクリップでホルダーごとカーゴパンツのへそのところに固定し、蒸し暑い夜気のなかに出ていく。特攻隊さながらに自分を鼓舞するように肩を怒らせて坂道を上っていった。
何軒か先にほかの家よりひと回り大きな屋敷があった。富永と名乗る若造はそこに吸いこまれていった。あとはここで待っていればいい……はずだった。でもたしかに二十分以上たっているし、なかのようすはいやでも耳に入ってくる。想定外の事態が起きているようだった。
「早くしろ、サンタ」
富永のスマホのレンズは外を向き、動画撮影がオンになっている。その映像を通してなかのようすをチェックしていた男が、有無を言わせぬ態度で三太に指図する。それに圧され、非常用に持たされたホッケーマスクを手に三太は渋々外に出る。こっちはマイクしかつながっていないから、富永がどうなっているか映像ではわからない。かといってカメラをオンにするのは抵抗があった。それじゃまるで一味に正式に仲間入りしたみたいじゃないか。
一味――。
考えるな、いまはそんなときじゃない。
「運転していればいいって……荷物を取りに行くのはあの若いやつだって……」
「うるせえ、殺すぞ、おまえ。ぐずぐずするな」男は怒鳴らない。それでいて本気で言ってるのが伝わってくる。どうやら当初の打ち合わせ通りにはいってないらしい。
「じゃあ、見てくるだけですからね」独り言のように告げると、三太はマスクをかぶり、とぼとぼと坂道を上りだす。人気はまったくない。
目指す屋敷はこんもりとした林に囲まれた三階建てで、隣家からは左右ともに離れている。玄関とは反対側の一階の部屋に明かりが灯っていた。門のところから見ても、窓ガラスが割れているのがわかる。でも物音はしない。
「マジかよ」本能的な抵抗感を覚えながらも三太は足音をしのばせて近づいていく。事前の指示では、夫婦二人しか住んでいないとの話だった。
すこしだけ開いた窓の向こうにフローリングが見える。リビングのようだった。おなじ戸建てでも、多摩川沿いにひっそりと建つ狭小住宅の代表例でもある三太の家とはわけがちがう。巨大なディスプレイが壁に据え付けられ、高級木材製のキャビネットには、これまた高価そうな酒瓶がずらりと並んでいる。ありゃ、なんだ。テレビドラマでしか見たことのないトナカイのはく製がテレビの棚のわきからにゅっと首を突きだしている。
Ⅼ字型ソファの背の向こうにホッケーマスクをした富永の姿が見えた。しゃがみこんでいる。やつもこっちに気付いて、三太を気ぜわしく手招きする。三太は口のなかに苦みを覚える。富永の手が真っ赤だった。血にまみれている。マジにテレビドラマだ。
「サンタさん、たのむよ……」踏ん切りのつかぬ中年男に業を煮やし、富永が泣きそうな顔で口を動かす。
やつのマイクを通じてその声が聞こえたのか、イヤホンから指示が飛ぶ。
「急げ、おまえら。難しい話じゃないだろ。やつは悪人だ。善人からカネを巻きあげてる。それを取り返すだけだ。早くしろ。そこでぼうっとしてたらサツが来るぞ」
三太は躊躇する。ここにはいったい誰が住んでいる、なにをしている輩だ、金持ちはみんな悪人なのか……でも警察はまずい。ようやく足に力が入り、土足のまま窓のすき間から家のなかに上がっていく。
ソファの向こうで富永は男に馬乗りになっていた。白髪の年寄り。顔はわからない。血だらけだからだ。鼻と口から出血している。それでもじいさんは、結束バンドで手首どうしをつながれた両手を振り回し、なにごとかうめきながら抵抗をつづける。まるで囚われたゾンビだ。その口を片手で押さえながら、富永は反対の手で顔面を殴りつづける。わきには剥がれたガムテープが転がっている。だがあと一人、妻がいるはずだ。この騒ぎだ。気付かないわけがない。潜んでいるのか。通報されたらまずい。そっちを捜して制圧すべきだろうか。
「金庫だよ……金庫、どこだ! 現金だよ!」
押し殺した声で富永はじいさんを恫喝する。ガムテープで一度は口をふさいだものの、金庫が見つからずにあらためて訊問する必要に迫られているようだ。しかしじいさんは狂ったようにかぶりを振るばかりだ。
三太は呆然として富永の背後にしゃがみこむ。富永の真っ黒いスウェットのポケットに突っこんだ結束バンドを一つばかり拝借して、じいさんの足首どうしを固定しようと思ったわけじゃない。なにがなんだかわけがわからなくなり、立っていられなくなったからだ。おれにはできない。こんなこと……。
「おまえら、なにやってんだ!」イヤホンの向こうで男が静かにいきり立つ。「早くしろ!」
「ヤバいよ……これ……」そうつぶやいた瞬間、三太の背中に激痛が走る。富永のわきに転がり、恐怖に青ざめて背後に目を向ける。
痛みは吹き飛んでいた。
それどころでない。
自分が目にしているものが信じられない。ホッケーマスクの内側であんぐりと口を開けたまま、全身が硬直する。
鬼の形相でそこに立つTシャツにショートパンツの女は、躊躇することなく手にしたゴルフクラブをもう一度振りかぶる。それが頂点に達し、力の向きが逆方向に変換される刹那、三太は本能的に横に逃げる。ゴンという盛大な音がしてクラブが床にめりこむ。
富永が立ちあがり、女に飛びかかる。隠れていた妻が現れて反撃してきたのに、相方のオヤジはぶざまに倒れこんでいる。この女も自分で緊縛するしかない。それが富永の認識だ。
じいさんは気絶していた。もしかすると死んでしまったのかもしれない。やつがあんまりにも激しく殴ったせいで。
すでに富永は女の手からクラブを奪っていた。「このアマ! 金庫どこだ!」一撃を食らわせようと振りかぶったとき、耳元で声がする。
「よせ」
それで思いだした。夫婦二人暮らしだが、痛めつける相手はオヤジのほうにかぎられていた。富永もそれを思いだしたらしく、クラブを投げ捨て、女のTシャツの胸ぐらをつかんで押し倒し、馬乗りになる。
「カネ出せよ、おい!」
遠くでサイレンが聞こえた。三太はイヤホンを外し、富永の肩を力いっぱいつかむ。血走った若造の目がにらみつけてくる。それでも三太はひるまずに必死に首を振る。声を出すわけにいかなかった。とりわけ目の前にいるこの女には聞かれたくなかった。黙りこくったまま、窓の外を必死に指さす。パトカーだ。パトカーが来る。
ようやくそれに富永も気付く。撤退だ。どこが引っ越しの手伝いだ。冗談じゃない。イヤホンの向こうにいる指示役には、そんな選択肢なんてどこにもなかったが、現場にいるのは三太と富永だ。
富永は女から離れ、ソファに転がったファイルホルダーを引っつかむ。そこへ女が女豹のように飛びかかる。三太はそこに割って入り、女の体を抱きかかえるようにして床に腹這いに押し倒して背中に馬乗りになる。ぎゃっという、それまでの暮らしではついぞ耳にしたことのない動物的な生々しい声が、三太を責めるように女の喉から放たれる。
じいさんは昏倒しているが、女のほうは拡声器のようだった。三太はゴム手袋の内側が汗まみれになっている両手でその口元を抑え、絶叫をミュートした。その間に富永が女の両手首を後ろ手に結束バンドで縛り、同じように足首も固定する。最後に富永はガムテープで鼻から下をぐるぐる巻きにした。
撤退だ。失敗だ。
幸か不幸か、まちがいなくサイレンは近付いていた。急げ。いまはとにかく逃げるしかない。それにしても――。
屋敷から先に飛びだした富永のあとを必死に追いかけながら、三太は悲しく自分を呪う。これは現実なのか。なんでこんなところにいる。おかしいだろ、絶対に。だっておまえはおれの――
妻だろ。
二
7月10日(木)深夜 プレイヤー2
おなじころ、すこし離れた都会の片隅で星空を見あげながら、麻子は腹のうえで揺れる男が終わるのを待っていた。べつに不快ではない。自分だって体と頭の奥に溜まった澱のようなものをかきだしてもらっている。一種の排泄行為だ。毎朝、公園のトイレを拝借して腰かけるのとおなじだ。でもいくら原始的な快感がわきあがっても、心の奥にしつこく揺らめく虚ろさだけは拭えない。
ピー助といっしょに過ごすようになって三年になる。
どっちもすねに傷のある身だ。半年前まではピー助が借りた安アパートで暮らしていたが、家賃を一年も滞納すれば、そりゃ追いだされる。以来、多摩川河川敷を中心に転々としている。ピー助は「ノマド」だと言ってるが、ただのホームレスだ。アパート時代の住民票があるから、日中は日雇い仕事にありつけることもあるし、生活保護も受けているが、新たに借り直すなんてむだだ。そんなことよりスマホを持ちつづけたほうがましだ。だいいち、冬の凍える寒さをなんとかしのげたんだから、意外とこのままでもいけそうだった。
屋根と壁がおぼつかないが、ただそれだけの話で、あとは麻子も身ぎれいにしている。二日に一度は銭湯に行くし、週に一度はコインランドリーを使う。その点はムショにいたころと変わらない。まあ、こっちはいちいちゼニがかかるけど。ピー助はそのへんをケチって酒代に使ってしまうが、麻子は飲まないからだいじょうぶだ。でもそのぶん食いつづける。つねになにか口に入れてむしゃむしゃやっていないと落ち着かない。体がもとめるのだからしょうがない。ガリガリのピー助とは正反対で、麻子は脂肪を筋肉に変えさえすればプロレスのリングに立てそうな身長百七十五センチ、体重百キロの立派すぎる体格だった。すでに実証ずみだが腕力にも自信があった。
それがもっとも発揮されたのは十一年前。井沢麻子の不幸の終わりで始まりだった。
この世に愛なんてものは存在しない。とりわけ親の愛なんてものは。生まれたときから麻子の心にはそれが染みついている。体に残った無数の痣とともに。
世間的には母親だという女から逃れ、一人暮らしを始めて一年ほどたったある日、玄関のブザーが鳴った。ドアを開けるなり、麻子は絶句した。どうしてここがわかったのだ。考えをめぐらせるより先に女はずかずかと部屋にあがりこみ、すぐさまカネの無心をしてきた。そのころ麻子は都内の清掃工場で非正規雇用だったが働きだしていた。髪を金に染め、派手なネイルをほどこした女は、酒の臭いがした。まだ四十前なのに、どんよりとした目つきは五十過ぎに見えた。地獄から這いあがってきた魔物そのものだった。
「ほんと、どうしようもない子だね」たばこに火をつけると、決まり文句のようにつぶやいた。そのたばこを「あんたも吸ってみな」と無理やりくわえさせられた妹は四歳までしか生きられなかった。泣きやまないからと、家に連れこんだ男に言われてこの女がベランダから逆さづりにし、そのまま転落死したのだ。警察は巧妙にだまされ、事故死あつかいとなったが、この女がわざと手を放したのは、その場にいた七歳の麻子には疑いようがなかった。そのときのせせら笑いは忘れることができない。
「これまで育ててもらったのに恩を仇で返すとはこのことだよ」女は麻子をなじり、カネの無心をはじめた。このまま一生、この女につきまとわれる。そう思ったときには、もう麻子は首に手をかけていた。苛烈な虐待を受けつづけ、目を泣きはらす日々を送っていた少女は、自分でも驚くほど成長していた。女の体の痙攣がとまるまで時間はかからなかった。
十年服役し、出てきたときには、それまで以上に麻子は空っぽだった。巨体のなかに、外よりも薄まった灰色の空気が詰まっているだけの生きる風船のようなものだった。
「ちょっとだけなかで出しちまったかもしれねえ」体のうえからそそくさとどいてから、悪びれもせずにピー助がつぶやく。
「よしてよ……でもだいじょうぶかも。最近狂ってるから」
北村幸男はティッシュで拭ってから短パンをはきなおす。こんなぜい肉の塊みたいな女にもむしゃぶりつくなんて、どうかしてるとも思うけど、蓼食う虫もなんとやらというか、挿れる相手があたししかいなくても、体のなかのどうしようもない猛りを放出しないわけにいかないのだろう。
ピー助はブルーシートの掘っ立て小屋に敷いた自分のマットレスに横になるなり、たばこに火をつける。悔しいことにこの男は軽快だ。ピー助とは、ハッピーの「ピー」。幸男という名前にちなみ、昔からそう呼ばれていたという。お調子者にはぴったりだ。でも四十二歳になるこの男も五年間、ムショにいた。大学出で都庁の職員だったが、カネを使いこんだ。出所したときには離婚され、妻子がどこにいるかももうわからない。それでも一向にピー助は気にしない。「おれよりあこぎな連中ならいくらもいる」そう言いながらカネのためならなんでもやる。まともに働くつもりはない。半分以上、人生を投げている。ハッピーとは縁遠い。この男も虚ろだった。そこが二人を結びつけている。
「山で遭難したら、やっぱり熊とかに食われるのかな」スマホをいじりながらピー助が言う。
「なんだい、いきなり」
「ニュースさ。丹沢で男の白骨遺体だって。けさの話だ。登山客だろうって。白骨化する前にめちゃめちゃにされたんじゃないかな」
「そんなことまで書いてないんだろ」
「だけど、獣ってほんとに鼻が利くらしいぜ」
「だから火葬にするのかね。だけど、土に還るのが自然だと思わないかい、動物も人間も。途中で食われてもしかたないんじゃないか。それも自然の営みなんだろうし」
「自然の営みねえ……自然と言えば、これから雨になるみたいだな」
「こんなに星がきれいなのに?」訊ねながら麻子も自分のスマホを開き、天気予報をたしかめる。「ほんとだ。ここまで水が来たらイヤだね」
蚊取り線香を焚いた二人のねぐらは、巨大な橋の下だが、川べりまで七メートルほどだった。岸から水面まで一メートル。こないだ台風が来たときは水が目の前まで迫ってきた。
「ここは居心地がいいからな。また引っ越すのはめんどうだ。早めにあっちに避難しとくか」
ピー助は堤のうえの遊歩道のほうに親指を向ける。遊歩道の向こう側、橋脚との間にすこしだけ原っぱが広がっている。そっちはべつのブルーシートハウスが二軒、すでに建っていたが、まだすき間はある。あいつらとはふだん交流はないが、あいさつぐらいはしている。ときどき、じろじろといやらしい目で見られるのが気色悪かったが、注意は怠らないし、ナイフは肌身離さないから心配ない。
「そうだね。そんなに降らないといいんだけど」
「異常気象ってやつだな。地球全体が壊れちまったんだよ」
そのときスマホが着信した。二人同時だった。テレグラムよりも秘匿性が高いとされるシックスセンスだ。言葉には出さないが二人とも同質の緊張に包まれる。半年ぶりだった。ディスプレイの明かりがブルーシートハウスを照らしだす。
≪求むエスコート、東京近郊、Lev.0≫
「ゼロか」口のなかに蛾でも飛びこんできたかのようにピー助は吐き捨てる。だが無視はしない。それが麻子にもわかる。いやな記憶がよみがえるが、生きるための貴重な情報だ。「話だけでも聞いとくか」
「そうね」
三
7月11日(金)朝 プレイヤー3
「モーニングスプラッシュ」のスタッフルームでオンエアを見ながら藤倉香織は不満だった。せっかくきのう半日かけて登ってきたっていうのに、崖下の遺体発見現場の映像はすべてカット。以前に使った丹沢の遠景映像にスタッフが作った地図が添えられただけだった。原稿は社会部がきのうの夜ニュース用に書いたものが使い回された。つまり香織のきのうの苦労はなに一つ報われないまま、朝の情報番組は天気予報に移り、昼前から都心は強い雨になることが伝えられた。
「もうちょっと早く現着していればなあ、クラちゃん」
ネットニュースのデスクを務める竹中弘がスタッフルームにふらふらとやって来て同情する。香織とはおなじ東邦新聞の出身だが、こちらは定年後に系列であるテレビ東邦に嘱託デスクとして安月給で雇われる六十二歳。香織のほうは、人事交流の名のもとにこの四月に新聞社を床払いされ、四十五歳にして情報番組のディレクターをまかされた元文化部記者だ。竹中も文化部に在籍していたが、元は社会部で警視庁キャップだった。香織はといえば、地方支局で警察取材はかじったものの、本社に上がってからは文化部での取材経験――それも専門は美術――しかない。つまりろくな取材経験もないまま、生ニュース中心の世界に放りこまれたというわけだ。
「五十メートル以上ある崖なんですよ。そのすぐわきに登山道がある。中高年のお気楽登山がいかに危険か映像で見せれば一発だと思うんですけど」香織は食い下がった。
「そうはいっても、遺体が見つかったってニュースだからな。警察の現場検証なり、遺体を運びだすところなりが撮れてないと厳しいだろ。まあ、現場百遍だ」
遺体きのうの朝見つかった。標高千五百メートルの丹沢・熊尻山の山頂キャンプサイトの崖下に人の体のようなものがのぞいているのをキャンパーが見つけたのだ。岩の合間でなかば白骨化しており、獣に食われた痕跡も見られた。着衣や所持品にも身元に直接つながるようなものは見つかっていない。ふもとのバス停から一泊行程の登山が静かな人気を呼んでいるコースで、登山届を出している人もいるので、そのなかから絞りこんでいくしかない。
「なんか悔しいなあ。せっかく登山靴まで買って登ったのに」
竹中が鼻を鳴らして笑う。その買い物に一時間もかけたんだろうとは口にしないが、香織のことなら昔からたいていわかっている。すなおだし行動力もあるが、何事にものんびりとしている。その性格は、すくなくともサツ回りでは時として災いをもたらす。
「ま、いっかあ。いい空気が吸えたんだし。ドンマイかな」
「そうだよ。おれなんてとんと山登りなんてしたことがない」
「休みの日に車借りて行こうかと思います。新しい登山靴履いて、お弁当持って」
「その前に遺体の解剖結果と身元調べぐらいはフォローしといたほうがいいだろうな」
「ですよね。あとで所轄に聞いてみます」ぺろりと舌を出してから、トートバッグをがさごそとやり、香織の興味は朝食へと向かう。けさは自分で大きなおにぎりを二個作ってきた。具は明太子と鮭のフレーク。から揚げはさっき会社の食堂でテイクアウトしてきた。自分でもふしぎに思うが、どんなに仕事でへこんでもおいしいものを食べれば、すぐに立ち直れる。
「うまそうだな」
後ろから声をかけられる。チーフ・ディレクター、つまり香織の直属の上司にあたる上野陽三がいつの間にか立っていた。上司といっても香織と同い年で入社年次もいっしょ。親会社である新聞社から押しつけられたお荷物であるとは重々知りながら、竹中同様、香織にはフレンドリーに接してくれる。ただ、仕事の発注は有無を言わせない。
「さっき社会部が原稿出してきたんだけど、また緊縛強盗があった。鎌倉だ。一人暮らしの七十代の男性が狙われた。命に別状はないが、顔をめちゃくちゃ殴られて鼻が折れている」
「闇……バイ……ですかね」もごもごやりながら香織が訊ねる。口の端に米粒がついている。
「食べてからでいいよ、クラちゃん。もちろん闇バイトだと思う。週明けのメインでいこうと思うんだけど、どうする?」
「はい、やります。ずっと追いかけていますから」といってもこの話は、香織が担当する情報番組「モーニング・スプラッシュ」にかかわるディレクター全員が取り組むテーマだった。
「クラちゃんだけが頼りなのさ」
「よく言いますよ。でも燃料チャージしたらすぐ取りかかります」そう言って、もう一個の巨大な米の塊にむしゃぶりつく。われながら驚くほど香織は調子がいい。というか安請け合いする。それであとできりきり舞い。でもこの年になったら、そういうところは修正のしようがない。当たって砕けろだ。いつもそれで――。
上野から渡された社会部の原稿と補足メモに香織は目を通す。
緊縛強盗致傷事件がこんどは鎌倉で起きました。十日深夜、神奈川県鎌倉市浄明寺の会社役員、松村庸一さんから家に強盗に入られたと一一〇番通報がありました。警察によりますと、松村さんは一人暮らしで、深夜十一時ごろ、居間のガラスを割って入ってきた二人組に縛りあげられたうえで、暴行を受けたということです。松村さんは病院に搬送されましたが、鼻の骨を折るなどの重傷です。犯人は銀行のキャッシュカードや預金通帳などを奪って逃走しました。松村さん宅はJR鎌倉駅の東一キロほどの山林地区にあり、隣の家から数十メートル離れています。犯行の手口などから、関東一円で起きている闇バイト強盗の可能性もあるとみて、警察が犯人の行方を追っています。≪《》≫
記者注:松村庸一(まつむら・よういち、一九五四年四月三日生まれ)、オフィス・ハナ社長(芸能事務所、会社住所は自宅とおなじ)。容疑者は二人ともホッケーマスクで覆面。服装は上下黒。ワイヤレスイヤホンをつないだスマホで誰かと通話をつづけ、撮影も行っていた模様。一人は日本語でカネを要求。外国人なまりなし。もう一人はあとから部屋に入って来て、終始無言だったとのこと。現場周辺は雑木林に囲まれ、近くに防犯カメラなし。
そっか、まずはそっちの現場か。丹沢の白骨遺体はそのあとでいい。
香織は大きなおにぎりの最後のひと口を飲みこみ、ズタ袋のようなバッグを引っつかんで外に飛びだした。だけどどうしてこんなひどいことばかり起きるんだろう。へいきで人を傷つけられるなんて信じられない。ほっといたって人はいつか死ぬんだし、自分も死ぬんだから、もっとみんなが生きてることをたいせつにできないのかな。だが、いまにも泣きだしそうな空を見あげ、香織は急に恥ずかしくなる。そんなえらそうなこと、自分に言う資格なんてないもんね。逆に言えば、人は誰かを傷つけないと生きていけないのかしら――。
鎌倉の現場には十一時過ぎに到着した。
もうちょっと早く着いてもよかったが、駅前でバスを待っている間にあれこれと買い物をしてしまった。だって目の前の和菓子屋においしそうな出来たての道明寺が並んでいるんだもの。それを逃がす手はないし、ほかにお煎餅を焼くいい香りにもひかれてしまった。おかげで一本バスに乗り遅れたのだ。
バス停からひいこら息を喘がせながら、香織は坂道を上る。うっそうと生い茂る緑の竹やぶに頭上まで覆われ、まるで異世界への入口のような場所だった。鎌倉ってこういうところが多い。こんな場所に暮らせる人ってどういう方たちなのだろう。もちろんお給料もいいんだろうけど、それ以上になにか特別な価値観を持って暮らしつづけているような気がした。
わたしには無理かな。
いつだってあたふたと目の前のことに追われてばかりで、一度立ちどまってなにかをじっくりと考えてみたり、ゆったりとした時間を過ごしてみたりなんていう感覚は、この年になっても無縁なままだ。なにしろ不器用だ。でもそれでいてそんなにまじめってわけでもないし。自分が本当はずる賢い人間であることは、もうとっくの昔にわかっている。ちゃんとした会社に入って、もらい過ぎなくらいのお給料をいただいているけど、あんなことがなければ、いまごろニートか非正規雇用にあまんじてこの年を迎えねばならなくなっていたっておかしくない。そう思うと恐怖を覚えるし、いまの幸運に感謝しないと。
松村庸一さんは一人暮らしのはずだが、ずいぶんと大きな家だった。芸能事務所の社長だからそうなのかしら。非常線の外から小さなカメラを回していると、制服の若いおまわりさんが近づいて来て、どこの社か訊ねてきた。ほかのマスコミは取材して帰って行ったという。
「テレビ東邦です。被害者の方にお話をうかがえないかと思いまして」
「それはどうでしょうね。いま誰もいないんじゃないですか」
そうか。松村さんは大けがを負ったのだ。もしかすると入院とかするかもしれない。
「二人組だったんですよね」
「そういう話は署のほうでおねがいします。わたしはみなさんのような方が非常線の向こうに入らないようにするだけですから。マスコミの方には副署長が対応します」
せっかくここまで上って来たのにこれだ。ひと通り撮影したあと、鼻を鳴らしながら香織は坂道を下りはじめる。もうおなかがすいてきた。
坂の途中の家々でインターホンを押し、前夜のようすや被害者との面識、界隈の治安等について、ひと通りの取材をすませる。都会と田舎の中間ぐらいの地域だが、人間関係は都会と変わらなかった。松村さんとふだんから交流がある人は皆無。あいさつをする程度で、どんな仕事をしていたのかもわからないという。
あっという間に下のバス通りまで下りて来てしまった。現場からはもう三百メートル以上離れている。あとは所轄である鎌倉東署に向かったほうがいいかもしれない。
「またやってるよ」ついさっき下りたばかりのバス停に向かって歩きだしたとき、後ろで聞こえた。昭和の風情を醸す門柱の間から顔が突きだしている。ランニングシャツ一枚のおじいさんが汚いものでも見るような視線をバス通りの反対側に向けている。
ごみ集積場でやせぎすのおばあさんがカラスよけのネットをめくりあげて、なにやらごそごそとやっている。
「どうされました」香織は踵を返して声をかける。「テレビ東邦なんですが」
「テレビ東邦……」おじいさんは一瞬困惑したが、ここぞとばかりに話しだした。「どうもこうも、あのばあさん、いつもなんだよ。あそこまでやらんでもいいのに。まったく暇人ってのは困ったもんだな」
おばあさんは、マジックで何事か大きく書いた紙――おそらくチラシの裏紙――を集積場にぽつんと残されたビニール袋に貼りつけていた。香織はそれに目を凝らす。
燃えるゴミは月木。正しい曜日に出して!
「自分が出したゴミが収集されずに残されていたら、出す日がちがっていたんだろうって、見ればわかるだろう。あんなもの貼ったって、出したやつが取りに来ることなんてないよ。嫌がらせ以外の何物でもないよな。警察にも文句言ってたよ、さっき」
「警察が来たんですか」
「ああ、さっきね。一時間ぐらい前。あのばあさん、あんたたちがちゃんとパトロールしないから、勝手に捨てるやつが増えるんだとかなんとか、えらい剣幕だった」どっちが暇人だかわからない。おじいさんは自宅の目の前のごみ集積場での出来事を観察していたらしい。「それって警察の仕事じゃないよな。けど、あんまりうるさいから、警官が一つ引き取っていったよ。大方、どっかべつの集積場に紛れこませるんだろうな、きっと」
「警察がそんなことしますかね」
「いまの警察なんてそんなもんだろ。目の前のゴタゴタだけ鎮めりゃ、それでおしまいさ。一方でああいうばあさんみたいの増える。へんな世のなかだよな、まったく」おじいさんはそこまで言うと、痰まじりのつばを香織の足もとに吐いた。
香織は顔をしかめ、通りの反対側に向かう。
「こんにちは、テレビ東邦ですが」大きなバッグを肩からさげ、汗まみれになったまま香織は、ピンクのポロシャツに黒いレギンス姿の女性に声をかける。「ごみ捨てのルールを守らない方が多いようですね」
「警察のつぎはテレビ局かい」女性はにらみつけるような目を香織に向けるなり、一気に自分の言いぶんをまくしたてた。「悪質なんだよ。ほかのごみの下に押しこむなんてさ。だけど収集の人だって、ちゃんとわかってるから、そういうのは持っていかない。あとはつぎの回収日まで野ざらしさ。この時期だよ。生ごみだったら、たいへんなことになるだろう。近所の人たちみんなが迷惑することになる。ルールを守れない人は住んじゃいけないんだよ。そうだろ、あんた。そういうの、ちゃんとテレビで言ってくれなきゃ」
香織は大きくうなずいてから訊ねてみた。「警察の方が来たんですか」
「そうだよ。鎌倉東署の人たち。あたしがなにかよくないことでもしてると思ったのかね」
「そこの坂の上で」香織は下りて来た坂道を指さす。「強盗があったのはごぞんじですよね」
それを女性は知らなかった。テレビもラジオもないし、もちろんネットも使っていないという。それも一つの見識かもしれない。めんどくさいだけのいまの世のなかを生き抜くうえでは。香織はすなおに納得した。
「若い人と中年の人と二人やって来て話をしたんだけど、そんなこと言ってなかったよ」
というか、きっとこの女性が一人でしゃべりつづけたのにちがいない。社会の不正義とそこからの救済について。「でさあ、いくつか燃えるごみの袋があったんだけど、一つだけ回収していった。ちゃんと言えば、警察も働いてくれるのよ。でも、だったらぜんぶ持っていってよって言いたいんだけどね」
「警察が持っていったのは、生ごみですか」
「ちがうわ。でもへんなにおいはしてた。汗臭いっていうか、鉄臭いっていうか。衣類よ。黒いやつ」
「なかを開けたんですか」
「いつもそうしてるわ。引っ張りだして確認したの」
「どういう衣類でしたか」
「パーカーみたいのとズボン。どっちも二着入ってた」
「二着ですか」香織はメモを取る。「黒いやつが」
「見ればわかるわ」
女性はレギンスのポケットからスマホを取りだし、撮影した画像を香織に見せる。一つは「捜査」の腕章をした二人の男のむすっとした表情。もう一つはごみ袋を広げた画像だった。たしかにパーカーのようだ。鉄臭いとか言ってたけど、もしかすると新品かもしれない。香織はディスプレイに親指と人差し指をあてて拡大してみる。
値札がまだついたままだった。
四
7月12日(土)昼 支払いのマスにとまる
妻の加奈はおとといもきのうも帰って来なかった。
木曜から二泊三日で出張に出ているのだからしかたない。通販番組のプロデューサーとして、関西の酒蔵を巡っているのだ。すくなくとも夫である牟礼三太はそう告げられていた。
そしていまは家にいる。
十一時前に帰宅したのだ。それも予定通りだ。昨日来の大粒の雨が降りしきるなか帰って来たため加奈はずぶ濡れで、ひどく憔悴しているように見えた。雨だけのせいではないだろう。三太は気が気でなかった。
「どうだった?」ゴルフクラブで殴られた背中は痣になっている。その痛みを堪えながら、三太はシャワーから出て来た妻にたまらず訊ねる。
「どうだった……って?」濡れ髪をタオルで拭いながらけげんな顔をする。
「出張さ……関西の酒蔵なんだろ」
「どうってことはないわ。いくつかおもしろいお酒造ってるところもあったけど」
「ふーん、そっか」生返事をしながら三太は妻の手首と足首に目を走らせる。富永は結束バンドを力いっぱい引き絞っていた。だからいまだって痣か痕が残っているはずだ。逆にそれが見あたらなければ、他人の空似だったということになる。世界には自分とそっくりの人間が三人はいると言われている。そのうちの一人がたまたま鎌倉にいたというだけだ。
ほっそりとした足首はきれいなままだった。しかし右の手首には、くっきりと紫色の入れ墨のような痕が残っていた。三太の体から力が抜けていく。いまにもひざを突きそうだった。
「あ、これね」目の前に呆然と立ち尽くす夫の視線に気付き、加奈が説明する。「ホテルに大浴場があったんだけど、脱衣場と浴室の間の扉に挟んじゃってさ。痛いのなんのって」
「だいじょうぶ……なの……?」
「うん、もうへいき」
なぜだ。
おまえはへいきでも、こっちはぜんぜんへいきじゃないぞ。
あのときサイレンを鳴らしていたパトカーが来たわけではなさそうだった。きのう見たニュースでは、住人男性――会社役員の松村庸一とかいう名前だった――がしばらくしてから通報したように思えた。松村氏は一人暮らしだとアナウンサーは説明していた。ということは、通報を受けてやって来た警察官に対し、松村氏がそんなようなことを告げたのだろう。もちろん一人暮らしでも、来客はあるだろうし、それが日中に限定されるとは言えまい。夜中、しかも女性がいっしょにいたとしても、たとえば松村氏が正真正銘の独身者なら、誰からも指弾のしようがない。
犯行当時、家に女がいたのは事実だ。三太がこの目でたしかめているし、富永に聞いてもいい。でも松村氏もそれを警察に伝えたのかもしれない。そのうえで警察は、それが犯人しか知りえない事実に当たりうると考えて、あえて報道発表から省いたとみることもできる。
製薬会社の営業マン時代に買った、東急多摩川線の鵜の木駅から徒歩五分の戸建ての狭苦しいリビングで、一昨日の真夜中に訪問した邸宅に置かれていたゴージャスなものとは雲泥のちがいがある安っぽいソファに腰かけ、三太は思案する。
人聞きの悪い話だが、その場にいた女性を通報前に松村氏が逃がした可能性が皆無だとは、誰にも言えまい。それは松村氏としても、その女性がいたことが警察に伝わり、巡り巡って第三者の耳に入ることをよしとしない事情があったからかもしれない。
それってなんだよ? 松村氏は七十一だとかいう話だった。加奈は三太の一つ上で四十六。ありえない話じゃない。
「だけどさあ」ドライヤーで髪を乾かしてから昼食のしたくに台所に立った加奈がぼそぼそと話しだす。「ちょっとまずいことが起きちゃってさあ。きのうでも連絡しとけばよかったんだけど、バタバタしちゃって。サンちゃんに言うの遅くなっちゃった」
まるで言い訳でもするかのような口ぶりだ。たまらずこっちのほうが緊張して、ソファからびくんと立ちあがってしまった。「なによ……どうしたの……」
「きのうの朝、連絡が入ったんだけど、最近入ったナビゲーターの子の事務所の社長が襲われたんだって」
「襲われた?」
「家に強盗が入ったんだって。二人組の」
ぞくりとする。「東京なの?」
「鎌倉よ」
ビンゴ!
ニュースでは言ってなかったが、松村氏は芸能事務所の経営者なのか。「それってもしかしてニュースでやってたやつ?」
「そう、それ」
「けがしたんだよね」やったのはおれじゃないが。富永、あの猫背の若造がキレたんだ。
「鼻の骨が折れていて重傷よ」
「お金は取られたの?」
「暗証番号を書いたメモとかといっしょにキャッシュカードと通帳と印鑑をファイルホルダーに入れて本棚にしまってあったんだけど、ホルダーごと持っていかれたって」
「怖いな、ほんとにそう言うのってあるんだ」自分で口にしてあまりの空々しさに恐ろしくなる。とりわけ通帳の記載は、夫として大いなる疑念を抱かせるに十分だった。
「ホッケーとかで使うマスクで顔を隠していたんだって」
おいおい、“だって”じゃないだろ。おまえ、その場にいただろう。三太は必死に言葉をのみこむ。同時にあのホッケーマスクを渡されたとき、引っ越しにしてはすこし特殊なタイプの作業、ことによると夜逃げってやつかもしれないな――ぐらいにしか考えがおよばなかった自分が悲しくなってくる。それでも三太は先をうながす。
「その対応に追われてたの?」
「いや、そんなでもないんだけど、知らない人じゃないし」だろうな、あんな時間にむっちりとした太ももを丸出しにした短パン姿だったんだから。「これからお見舞いに行こうと思うの」
あのとき、あの場に自分がいたとは口が裂けても言えない。なんなんだ、この皮肉は。
「おかえり、ママ。おなか空いちゃった」一人娘の郁美がだぶだぶのTシャツに短パンで二階から下りてくる。「お昼、なに? 朝、クッキーかじっただけだからペコペコよ」
「なんか作ればよかったのに。レトルトでもなんでも」
「だって面倒なんだもん。パパはやってくれないし」
「言えば作ってやったのに」三太は憤然とするが、なんだかんだ言っても娘が夫婦の緩衝材になっているのは事実だ。今回の件は別次元のような気もするけど、とりあえずこの場はいったん思考を停止し、降りかかった究極の難問から逃れられそうな気がした。
「パパはなに食べたの?」
そう問われて三太は困り果てる。金曜の午前一時過ぎに帰宅して以来、なにも食べていない。水だけだ。とりあえず仕事に出かけるふりをして外には行ったものの、いつまでたっても空腹を覚えなかった。五里どころか千里霧中だった。
「煎餅食ったよ」
「なによ、二人とも。チャーハン作るから」
「ヤッホー!」
「じゃあ、あんたも手伝って。卵割ってくれるかしら」
「アイアイサー! 何個?」
「六個かな」
郁美は冷蔵庫をのぞきこみ、卵のパックをつかみだす。女二人が昼飯作りを開始する。三太はふたたびこの先のことに思いを巡らせながら、ぼんやりとテレビに見入る。
「そういえば、さっき咲世のママからメールが来たんだけど」
小近咲世は郁美の高校の同級生だ。二人ともアニメ狂いで、声優を目指している。ほんとならこの夏、二人して声優の専門学校が主催する講座に参加する予定だったが、とある事情から郁美のほうが参加できなくなり、だったらつまらないから自分もやめておこうと咲世も参加しないことになったと三太は聞いている。
娘には好きな道に進んでほしい。三太も加奈も親として当然そうねがっていた。だが牟礼家のまわりには春先から暗雲が立ちこめていた。なかなか口に出しては議論しにくかったが、親子三人、ずっと頭の片隅から離れない共通の問題を抱えていた。
「なんかあったの」
「きのうの夜、無断外泊したんだって」
「ええっ、あの子が。あんたならやりそうだけど」
「やってないでしょ。じゃなくて、咲世のことよ。帰って来なかったんだって」
「友だちとか彼氏の家とかに泊まったんじゃないの」
「まだ帰って来ていないんだって。どこに行ったか知らないかって」
「え、じゃあ、無断外泊かどうかわからないってことかしら」
「そうなのよ」
「それってさ」三太も話にくわわる。「ちょっとやばくない? 事件とか」
「そうよね。警察には相談したのかしら」
「やだ、ちょっと。だけど心配よ、マジにね……でもさあ、うちだったらどうする? あたしがひと晩帰らなかったら」
「うーん……まあ、心配だけど……」チャーハンの具材をフライパンでてきぱき炒めながら加奈が自問する。「小学生なら速攻で警察に通報するけど、高二だからなあ」
「ビミョーでしょ。けど、あの子はずっとまじめだから。咲世のママからしたら小学生とおなじかも。警察行ってるかもしれないな。まさかウリとかやってたのかな」
「こら、なんてこと言うの」加奈が娘をたしなめる。
だが郁美は平然と告げる。ストレートパンチのように。「あの子はだいじょうぶよ、そんなに困っていないから、おカネに」
おカネ――。
そうなのだ。この春から牟礼家には貧乏神が憑りついていた。
言いたくはないが、投資ブームに乗って加奈が三年ほど前から株や投資信託にのめりこみすぎたのが始まりだった。でも投資なんてものは三太だって経験がない。なににどこまでカネを突っこむか証券会社の言われるがままだった。SDGsを意識した企業への集中投資を行う米ファンドへの投資信託をすすめられ、リスクよりリターンの数字に踊らされて四百万ほど突っこんだ。それで投資を実体験した加奈は毎日、株式市場をウォッチするようになり、知らぬ間にさまざまな企業の株を購入するようになった。ある意味、分散投資なのだが、世界経済の急激な変化、さらに日本経済のファンダメンタルズの脆弱さにたたられ、徐々にマイナスが膨らんだ。気付いたときには損金は五百万円。なに一つ手にしていないのに、カネだけが家から逃げていった。まさに貧乏神に憑りつかれたというわけだ。
いくら甘い言葉にのせられたとしても、投資は自己責任だ。詐欺じゃない。加奈も三太もそれがわかっているから、たがいに口に出しはしないが、それでも後悔ばかりが募った。前を向くには、家計からこれ以上の不要な支出を出さないことだった。投資をはじめたころ、将来のリターンを期待して三太は趣味のオートキャンプを本格化させようと、それまで乗っていたワゴン車を売り、代金を頭金にして中古のキャンピングカーを六百万円で購入していた。夢のオートキャンプに家族で何回か出かけ、大自然を三人で満喫し、夜は焚火の前で三太が怪談を話して聞かせた。それが四月以降途絶え、玄関の前に野ざらしになったままのキャンカーは無用の長物と化し、ローンだけがのしかかっていた。それを手放す決断もそろそろしなければならないのだろうか。それになにより、家のローンがまだ四千万以上残っている。考えるだけで三太は情けなくなった。
不運は追い打ちをかけてきた。
加奈は元々、フリーのプロデューサーで、三月まではテレビ東邦で朝の情報番組「モーニング・スプラッシュ」でグルメコーナーのプロデューサーを務めていた。そのコーナーが春の改編により消滅したため、加奈の契約も打ち切りとなったのだ。制作会社に所属しているといっても社員ではなく、いわば派遣労働者のようなもので、収入はいきなりゼロとなった。誰も手を差し伸べてくれず、途方に暮れたが、つてをたどって六月から「スプラッシュ」放送後の通販枠を担当させてもらえることになった。とはいえ収入は以前の三分の一。投資の損金を取り返すなんて夢のまた夢となった。
一家の節約方針が加速した。郁美は小遣いこそ減らされず、それまで通り、オートチャージのパスモを持たされたが、だんだんと無駄遣いをしなくなった。親が放つ灰色の気配に息を詰めているようで、三太も加奈も口にはしないが、娘の背中を見るたびに重苦しさを覚えた。とはいえ、夏の声優講習を受けたいとやっとのことで言いだした娘に向かって、なにより先に「いくらぐらいかかるの」と母親は聞かざるをえなかった。三太もその場にいたが、具体的金額を聞くより先に、どうしたら娘の興味をちがう方向――できれば出費のかさまないなにか――に向けられまいかと必死に頭を巡らせていた。四月の連休前のことだった。
「じゃあ、気晴らしに山登ってくるわ」連休初日、そう告げて咲世と登山に出かける娘を玄関で見送ったときは、なんだか強烈に非難されているようなくさくさした気持ちになった。でもどうしようもない。家計を考えれば、講習に十万支払うぐらいなら、せいぜい二、三万のキャンプ――結局、たったの二泊だった――で満足してもらったほうが安上がりだった。そのぶんをすこしでも損金回復にあてることができる。
だが牟礼家の貧乏神はまだまだ居座りをつづけ、ねじくれた古木の杖を振りかざしてつぎなる衝撃を放った。こんどは三太に向かって。
そう。
しぶとい背中の痛みも元はと言えば、そこに端を発していた。




