#102 言語能力
トイレから帰ってきて数分後、目の前を親指の爪ほどには厚みがある冊子が一つずつ配置されては通り過ぎてゆく。高級感あって落ち着かないトイレの後は威圧感あって落ち着かない会議席だ。
「……こりゃ、すっかり忘れられてるな」
とほほ、と頬を軽く掻く。いや、しょうがないと言えばそれで済むのだが、ルリアさんがせめて何か配慮をしてくれてるんじゃないかなとは期待していた。……だけだったようだ。
「……どうかしたのか?」
「あー、あの、アルバさん……俺、字が読めないんですよ」
三秒ほど言葉を理解できない神妙な顔の後に「これはやっちまった」と言わんばかりの表情を浮かべながら眉が曲がる。文字はもはや象形文字のような謎の文体、書いてある内容は理解不能。二人とも別の事情で苦笑い。
(……どうしたらいいんでしょう?)
(書いてある内容は議題の順番にルリアが読み上げるはずだ、それを聞いてくれ。この場て読み書きができないことが露呈するのはさすがに問題があるぞ)
まあご尤もな意見。国の方針を決める会議に読み書きが出来ない子供を連れてきて何になる、という話だ。これでも有意性が見いだせそうな方は精神科か保育園へGO。
(どうせなら今のうちにルリアに事情を伝える手段もある。ギルドに副音声無線を繋いで解説を頼むこともできるはずだ。今は誤脱字を調べる時間、まだ余裕はあるぞ)
なるほど、周りの人たちがそろいにそろって冊子をパラパラ眺めているのはそういうことか。なら今が好都合、今のうちに事情を―――。
「……はい、第十二席、第一席へ発言権を求めます!」
「え、そんなかしこまらなくてもいいよ?でルイラ、冊子に何かあった?」
何というバッドタイミング。相談を持ち掛けようと体を傾けた瞬間にルイラの質問により機会を失ってしまった。
「いや、あの、そのー…………ヒっくん、文字読めないんじゃ……」
―――不安要素がすべて消し飛んだ。いい意味でも悪い意味でもだ。
その発言により総員の視線は一転に集中、そしてその先は案の定な俺の顔。前々から空気を読んで欲しい場面で壊しにかかるような奴とは知っていたが、まさかここまででピンポイントで効果が高い爆弾投下はなかなか起こりえないであろう。
「字が……読めない……!?」
「なぜそのような者をこの会議に招いたんだ?」
「さすがに僕でも読めるよ?」
「今までどうやって生きて……」
「話し聞きが出来るだけマシとは思わんか?」
「爺さん、アンタは読み書きの扱いが雑なんだって」
「アゼットさんは盲目ですからねー……」
なんか、バカにされてるのかむしろ褒められてるのか分からなくなってきた。少なくとも大多数に鼻で笑われてる感じがするが別に問題ない。それより―――。
少し離れた席で焦りと申し訳なさを両方含んだような顔をして座っているあの銀髪に何か言ってやりたい。この事情が知られたら少なくともこうなるであろうことは何となく想像できるであろうに。
「あー、確かにヒサメ君って字読めないんだったね……うーん、じゃあこれ」
テキストを変更したところで伝えようがないな、と呟きながらどこからか取り出した黒い小さな板を渡す。
「えっと、これは?」
「うーんとね、ヒサメ君は引っ掛ける部分は角でいいかな?よっと」
その小さな板は内部からの折り畳み構造で収納されていたコードを取り出し、先端を丸く結んで角に引っ掛けた後に黒い板を耳の周辺にぶら下げる。
『もしもし、こちら42。通信環境は問題ないわ。どうぞ』
若干音声にノイズが入っているような状態で黒い板からレイラの声が聞こえる。騒がしい環境音も一緒に流れていることからギルドの食堂だろう。どうやら耳掛け式の通話専用機らしい。
「中継はギルドにも流れてるから大体のことはレイラに聞いて大丈夫なはず。私は司会役だからあまりいろいろ答えられないからその代わりね」
「今はこんなものが……『もしもしこちら65、文字の勉強でもしておけばよかった』」
『あら、死ぬ前に勉強してても一年半もあれば脳が委縮して無意味になってたわよ?』
『止してくれ、元から委縮するほど脳が大きいわけでもない』
皮肉を皮肉で返すと通話先から笑い声のような環境音が。なんだこれ、この音声がギルドの食堂にスピーカーで流れてるとかそんな感じか?
『こちとらギルドから三人も出てるってもんで食堂の映像配信機の前に人だらけよ、たまったもんじゃないわ。で、この通話はその副音声ってわけ』
「他人の慌てふためく姿を副音声にして何が楽しいんだ……」
『結構面白いわよ、そうでしょ?』
レイラがどこかに質問をするような口調の後に流れ込んでくる、室内で反響した叫び声のような歓声。どうやら本当に公開放送されているらしい、一体どうしてくれよう。
しょうがなく解決策として渡された通信機なので今更外すこともできないが、これは微妙に外したくなる。ギルドに帰ったときに絶対グランツさんとかにネタにされるからだ。
「……どうしたヒサメ君、顔が引きつってるぞ」
「あー……はい、そうっすね……」
逃げたい、何としてもこの場から逃げ出したい。でもいろんな方面から逃げるなと威圧がかけられてるし、もはやルリアさんは「亜人種能力が制御できるようになったし大丈夫でしょ!」とか言ってくる始末。凡人が突如すごい力に目覚めても使いこなせるわけがないだろう、というかそれができるやつのことを『天才』と呼ぶのだ。
諸君、これは本気で覚えておいて欲しい。天才とは何でも出来る奴のことじゃなくて、『何でも扱えるようになる奴』が天才だ。物事を使用可能にするためにはあらかじめその概念を知る必要がある、知識と経験の違いがまさにそれ。
平たく言えば『数学の答えが最初から分かる人間』と『数学の解き方が分かる人間』くらいに違う。結果をポンと出されてもその経過が無ければ活用はできない。
さて。剣や弓などの武器だったらまだしも、自分自身が竜になるというトンデモ魔術を獲得したところで最初から使いこなせる人間などいるだろうか?
「俺は運があるのかないのか……まぁ、豪運ではあるんだろうな」
『さて、まずは去年の財政報告から始めるよー!テキスト開いてー!』




