1-2
午前中は何事もなく終わる。会長の接触はなかった。
昼休み。彼女が仕掛けてくるならここだ。警戒を怠ってはいけない。
「かーんーばーるー? 昨日の約束、忘れてないよねぇ?」
「分かってる、分かってる。S定食だよな」
授業が終わるなり、肉に飢えた獣(真咲)がのそりのそりと歩み寄ってくる。
昨日の約束を果たすように迫られるが、俺の方の覚悟は決まっていた。
その証拠に今日は弁当を用意していない。
「ポテトサラダくらいは分けてあげる♪」
「うわーうれしいなー(棒読み)」
肉を分けてください。そんな贅沢は言いません。
無欲な妖精として生きる。ポテサラの妖精とでも呼んでください。ぽてぽて。
「新学期だから学食も混んでそうよね。急ぎましょうか」
「あいあいさー」
そういえば真咲と二人きりで学食か。
異性とサシで食事するなんて一六年の人生で一度も経験がないな。
真咲の方は何とも思ってないだろうから、変に意識しないようにするけどさ。
「フンフフ~ン♪」
「ステーキがそんな楽しみか」
廊下に出てからしばらくして、真咲が鼻歌を口ずさみ始めた。
こんな上機嫌な真咲を見たことがない。いつもはもっと鹿爪らしいのに。
「それもあるけど、初めて神原と――――な、なんでもない!」
何かを言いかけて止めた。頬や耳が真っ赤である。
「真咲、顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」
必要なら保健室に連れて行くぞ、と付け加えようとしたが遮られる。
「た、体調は大丈夫だからっ! あーあー、早くステーキが食べたいなぁ!」
「ならいいけど……絶対、無理はするなよ?」
とりあえず元気そうでよかった。ホッと胸を撫で下ろす。
真咲の事となると必要以上に心配してしまう。
「や、やけに優しいじゃない……?」
「当たり前だろ。真咲が倒れたら、誰が部長たちと交渉するんだ」
彼女はかけがえのないビジネスパートナーだ。
「……神原、食後のデザートも追加ね」
「なんでだよ!?」
潤んだ瞳から一転、氷のような目で蔑んでくる。
「神原って絶対にモテないよね。ちっともデリカシーないし」
「そ、そうだな」
その認識で間違ってはいないんだが、昨日イレギュラーが発生したんだよな。
交通事故みたいな出来事なのでノーカンとしたいけど。
「私くらいだからね。神原にこんな付き合ってあげてる女の子。感謝しなさいよ」
「そりゃあ勿論。真咲じゃなきゃ、今日までやっていけなかったよ」
言われるまでもなく感謝している。
異性どころか同性とすらまともに会話ができないのに、生徒会でトラブルなく過ごせているのは真咲の存在が大きい。
俺のダメさを理解した上で根気よく向き合ってくれている。
「そ、そう? 分かっているならいいんだけどね? うん、まぁ、私も? 神原とは何だかんだ話やすいし? お互い様っていうか? あ、ステーキも半分あげるね?」
「お、おう……ありがとな……」
急に優しくなった。このチョロさが真咲らしい。
将来、悪い男に引っかからないか心配だ。なんか男の趣味が悪そうだしな。
「あとそうだ。この機会に仕事の分担も進めちゃいましょうか」
「あぁ、了解した。時間もないもんな」
部活動発表会の準備は毎日フル稼働して間に合うか怪しいレベルだ。この昼休みだって悠長にランチしている余裕はなかったりする。
結局、俺たちは労働から逃れられないのであった。
「やっと見つけたぞ、神原!」
――そして、彼女からも。
天災は忘れた頃にやってくる。地震しかり、噴火しかり、鳳朱音しかり。
「え、朱音さん?」
「か、か、会長……っっ!」
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。
予期しない告白の翌日。あの会長が血眼になって俺を探していた。
この事実だけで黄色信号を通り越して赤信号である。面倒事が起こるのは火を見るよりも明らかだった。
この場には会長を崇拝する真咲もいる。
爆弾の処理に失敗すれば、生徒会の人間関係が木っ端微塵になるだろう。
是が非でも対処をしなくてはならない。
「神原、あらためて言うぞ」
「あ……あぁ、しまった! 忘れてましたぁ!」
何を言い出すのか大体想像つく。会長に発言をさせてはいけない。
速やかにこの場から連れ出す必要がある。
「か、神原……?」
真咲が不安そうに俺を見上げる。
「ごめん、真咲! 俺、会長と約束してたんだ! 仕事のことで話があるって!」
「うむ? 私と神原でそのような約束など――――」
「か、会長っ! 約束ブッチしたからって、そんな怒らないでくださいよぉ!」
いかん。会長も会長で合わせるつもりがない。
会長目線、嘘を吐く理由も必然性もないからな。あぁ、七面倒くさい……っ!
彼女が余計なことを口走る前に話を進めるしかなかった。
「ってことで、真咲すまん! S定食はまた次回! では会長、行きましょう!」
「ほう、なるほど。そういうことか」
会長も得心が行ったようで、「神原は私と二人きりになりたいのだな。ふふ、愛いやつめ」と俺にだけ聞こえる声量で呟いた。
俺の「目的」は伝わっていないが、「手段」には同調してくれるみたいだ。
「すまないな、向日葵。神原を借りていくぞ」
「いえ、神原は私の所有物ではないので! どうぞ、こき使ってください!」
会長を前にして、真咲は借りてきた猫のようになっている。
良かった、会長の頼みなら素直に従って――――イタタタタタタっっっ!
めっちゃ脇腹をつねられている!
すんげぇ痛い! やばい! 千切れる、千切れちゃう!
「(裏切り者、裏切り者、裏切り者……っ!)」
会長には聞こえないように、耳元で怨嗟の言葉を吐き続ける。
「(今度、埋め合わせするから!)」
「(S定食×一◯◯)」
「(絶対に食えないだろ!)」
支払いにして九万円。払えるわけがないです。
そんな大金を持っているのならばS定食じゃなく叙◯苑行きたい。
いつかシャトーブリアンになりたい(なりたいのかよ)。
「各部との調整の件は後でじーっくり話しましょうね? 役割分担も含めて、ね?」
「殺生な!」
真咲は『ゴゴゴ……』と凄みのある笑顔を浮かべている。
例の件は白紙にするから覚えておきなさいよ、と暗に脅されています。
「あぁ、部活動発表会のことだよね? 部長たちとの調整は私が担当するよ! 二人の手を煩わせるのも心苦しいからね!」
「まじですか、会長!」
俺にとってのボトルネックが解消された。これにより真咲は交渉のカードを失う。
さて、真咲の様子はどうなのかというと――――
「神原のアホォォォォォォォ!!」
捨てゼリフを残して、廊下を全速力で駆け抜けていった。
罪悪感がすごい。ごめん、真咲。
さすがに叙◯苑は無理だけど、今度ちゃんと焼肉を奢らせてください。
「向日葵には悪いことをしてしまったな」
遠ざかる真咲の背中を目で追いながら、鳳会長は申し訳なさそうに言葉を溢す。
だが、切り替えは早かった。すぐさま俺の方に向き直る。
「まったく君も罪な男だ。私と逢引するために、同僚の女の子を泣かせるなんて」
「い、言わないでください! というか、逢引じゃないですから!」
「――――私は君が好きだ、神原」
堂々と、でもどこか照れが含有された声色だった。
昨日と同じく真っ直ぐな好意を伝えられる。
「それは昨日も聞きましたけどもっ! 誰が聞いてるか分からないんで、声のボリュームを抑えてください……っ!」
昼休みの廊下。言うまでもなく生徒の往来がある。
予想通りこういう話になった。真咲がこの場を去ったのが救いである。
「神原は秘密主義だな。でも、ちょうどいい。私も静かな場所に移動したかったんだ」
「いいですけど……変な事はしないでくださいよ?」
「それは君次第だな」
「絶対にやめてくださいね!?」
舌なめずりをしながら、ねっとりとした視線を向けてくる。
完全に捕食者のそれだった。隙を見せたら食われる。臨戦態勢で臨もう。
「さぁ、行こうか。神原」
そのまま会長の後に続いて歩き出す。はてさて、どこに駆り出されるのか……。
「やはり、屋上は開放感があるな。生徒会の特権だ」
「……職権乱用ですよ」
連行された先は屋上だった。一般生徒は立ち入れない。
生徒会役員は施設管理の名目にて開閉用の鍵を渡されていた。
「ふふ、これで神原がいくら叫んでも助けは来ないぞ」
「セリフが男女逆だと思うんです!」
「ん? なんだ、神原は私を襲いたいのか。もちろんウェルカムだよ。受け身がちな君に求められるのも存外悪くない」
「いや、襲いませんけれども! 頼むから真面目な話をしましょうよ!」
ぜぇはぁとなりながらツッコミを続ける。
会長のペースに飲まれるな。
この人の押しと勢いに負けたらおしまいだ。
「それもそうだな。せっかく交際を始めたんだ。私も神原をもっと知りたい」
「あれれー!? なんか付き合ったことになってます!? 俺は了承してませんけど!?」
「聞いてくれ、神原。一晩考えたのだが、やはり私は君と付き合いたい」
「そ、それは光栄なんですけども……」
会長みたいな美少女から言い寄られて悪い気はしない。そりゃしないさ。
けど、昨日も伝えたとおりだ。
生徒会の今後を考えたら、俺と会長は交際するべきではない。
「もちろん君の言い分も理解している。だが、理解をした上で無視をさせてもらう。私は君と付き合っている前提で日々を過ごすつもりだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 自分が無茶苦茶言ってるの分かってます!?」
「勿論だ。我ながら頭がおかしいと思っている」
「開き直らないでくれますかね!?」
自分で頭がおかしいとか言い出しちゃったよ。しかも改善する気がない、と。
タチが悪すぎて逆に笑えてくる。いや、笑えないけど!
「それくらい神原が好きだ。私は君が欲しい」
「な、なんなんですか……もうっ! 勘弁してくださいよ!」
頬が熱い。甘い言葉を投げかけられる度に、胸の奥が疼いて仕方なかった。
「これは私と君の勝負だ。交際を既成事実化すれば私の勝ちだな」
「あの、俺の勝利条件は……?」
「私が諦めるまで拒絶し続けることだな」
「こっちが不利すぎる! 会長が何かを諦めるなんて想像できないんですけど!」
「あぁ、私の辞書に『諦める』の文字はないな」
勝てるわけがない。厳密には会長の卒業というリミットはあるが、この人にはそんなの関係なさそうだ。
あの手この手で切り込んでくるに違いない。
「ほら、よく言うじゃないか。惚れられた方が負けだって」
「それを言うなら『惚れた方が負け』でしょ!」
「ははは、君との会話は愉快だな」
会長は快活に笑っている。四方の青空と相まって爽やかこの上ない。
対して、俺の心は曇天だった。
真咲、黒花、如月さん。あの三人が虫を見るような目で、俺を見下げている姿が容易に想像できる。
そのような未来は是が非でも回避しなくてはいけない。
「分かりました……その勝負引き受けます。ただし、条件があります!」
「条件?」
「この不安定な関係が周囲にバレないようにしてください! 露見した時点で会長の負け。俺の事はきっぱり諦めてもらいます」
「なんだそれは、私にメリットがないじゃないか」
組織の長なだけあって、会長は交渉事に関しては非常にシビアだ。
冷静かつ現実的に物事を判断をして、納得がいかない提案に頷くことはない。
「代わりといっては何ですが、俺も多少は折れます! 仮初の恋人として会長がしたい事に付き合いますし、それと月に一度だけ――会長の命令に何でも従います」
「じゃあ、私と付き合ってくれ」
「絶対言うと思いましたけど駄目です! 勝負の意味がなくなるでしょ!」
鳳会長は型破りでルールには縛られない。
だからこそ、突飛で非凡なアイデアを量産することが出来るのだと思う。
彼女と勝負をするのであればルールの確認は重要だ。
隙があればすぐに穴を突いてくるからな。
「ふむ、よかろう。その条件を飲もうじゃないか。つまり、二人きりの時は恋人のフリをしてくれるわけだろ?」
「えぇ、まぁ、そうですね……」
「それに、何でも――か。悪くないな。じゅるり」
「よだれ出てますよ……あの、常識の範囲内でお願いしますね……?」
せっかくの美貌が台無しだった。
うへへと破顔している姿は鳳朱音でも見るに堪えない。
「では早速、私のワガママに付き合ってもらうぞ。せっかく屋上に来たのだからな」
「な、なんでしょうか」
身構える。どんな無理難題が降ってくるのか。
「お弁当を作って来たんだ。食してもらえると嬉しい」
「あ、あの会長がですか!?」
手に提げていた風呂敷がずっと気になっていた。
まさか、中身が会長の手製弁当だとは想像していなかったけどな。
意外すぎる。人に奉仕するといった発想が、鳳会長にあるとは思わなんだ。
「君も大概失礼だなっ! 私にも好きな相手に手料理を振舞ってみたい――そういう乙女らしい感情はあるんだぞっ!」
抗議するように上目遣いで睨んでくる。
初めて見るいじらしい表情に見惚れてしまう。
まずい。浮ついた事を言いそうだったので、ぶんぶんと頭を振って自重した。
「あの……ありがとうございます。普通に嬉しいです」
「そう言ってくれると作った甲斐があるよ」
会長は「敷物も用意したんだ。掛けてくれ」とレジャーシートを広げる。
その上に胡坐をかいて座らせてもらう。そして、すぐ横に「ぴとっ」と鳳会長が腰掛けてくる。
だいぶ距離が近い。肩と肩が思いっきり触れ合っていた。
「神原、意外とまつ毛が長いんだな」
「ま、まじまじと見ないでくださいよっ! てか、会長に言われたくないですし!」
会長の顔を盗み見るようにして窺がった。
長く伸びた華やかなまつ毛。それにより強調されるくりっと大きな眼。その中心にある瞳はアメジストの煌めきを放っている。
まるで魔眼だ。絶対に直視してはいけない。
目が合ったらきっと逸らせなくなる。至近距離でそれはまずい。
「それは無茶な相談だな。私はもっと君を見ていたい」
「あ、あの! 早く食べないと、昼休みが終わってしまうと思うんですよっ!」
このまま甘い囁きに耳を傾けていたら理性が蒸発してしまう。
俺と会長しかいない屋上。
間違いが起こってしまっても誰も止めにはこない。
「ははは、それもそうだな。腹が減っては戦ができぬ。金言だな」
「いや、戦はしませんけどね?」
「それはどうかな?」
鳳会長は含み笑いをする。
意味深だ。あまり考えないようにしよう。
「そういえば神原。君、アレルギーはないよな? 特に鶏卵はどうだろうか」
「はい、食べ物のアレルギーはないっすね。なんなら卵料理は好物なので楽しみです」
「よかった。卵にアレルギーがあったら手詰まりだったよ」
「ん? それってどういう意味ですか?」
仮にアレルギーがあっても、卵を使っていない料理を食べればいい話だと思う。
数秒後、会長の言葉の真意を悟る。
「実は人生初の手料理なんだ……その、お手柔らかに頼むよ……」
いかにも高級そうな重箱を風呂敷から取り出す。
会長が勿体ぶらずに蓋を開けると、そこには一面の菜の花畑が広がっていた。
写実的に表現するなら、スクランブルエッグがぎゅうぎゅうに敷き詰められている。
「まさかの黄色オンリー!?」
「め、面目ない……」
会長がシュンとしている。ふざけている訳ではなさそうだ。
「卵焼きを作ろうと思ったのだが、失敗してスクランブルエッグになってしまった」
「いやいや、そういう問題ではないと思うんです!」
卵焼きの形が崩れてスクランブルエッグなってしまう。
慣れないうちはあるあるだ。
俺が驚いているのは、全部がそのスクランブルエッグになっていることだった。
ホテルのビュッフェ以外で見たことがない物量である。
「聞いてくれ、神原。私は5%の確率で奇跡的に作れる卵焼きか、95%の確率で生じてしまうスクランブルエッグしかレパートリーがないんだ」
「卵焼きの確率低っ!?」
加えて、作れる料理がその二種類しかないのであれば一つの疑問が生まれる。
重箱は三段ある。残りの二段は?
「えーと、他の箱には何が入っているんですか?」
「各種調味料を取り揃えているぞ。醤油、胡椒、ケチャップ、マヨネーズ、トリュフ塩、ウスターソース、粉チーズ、カレー粉、サルサソース、アンチョビソース、神原の好みに合わせてカスタム可能だ」
「どこに拘ってるんですか!」
中段と下段の箱を覗いてみると、各種調味料が容器ごと所狭しと敷き詰められていた。
現代アートだと言われたらギリギリ納得してしまいそうな外観である。
「すまない……料理はからっきしでな……」
「なんか意外ですね。鳳会長は全部が完璧だと思ってました」
「まさか。皆、私に期待し過ぎなんだよ。その期待には可能な限り応えようとは思うが、出来ないことの方が多い。とりわけ乙女の嗜みとされる事柄はほとんどな」
容姿端麗、才色兼備、文武両道。鳳朱音を表現する四字熟語は壮麗なものばかりだ。
だから、こんな風に不得意な分野があるなど考えもしなかった。
「失望したかい?」
「そんなことないです。親近感といいますか、会長も等身大な一人の女性なんだなと……今更ですけど」
「そうだよ、私は特別なんかじゃない。君のことが大好きな、ただの恋する乙女さ」
「か、か、揶揄わないでください……っ!」
「すまんすまん。こうして意中の相手と睦み合うのも憧れだったんだよ」
会長はクスクスと意地悪そうに笑っていた。今日まで知る由もなかった少女趣味な一面をまざまざと見せ付けられている。
その度に矛盾した二つの想いが生じてしまう――充足感と、そして罪悪感。
「…………どうして俺なんですか」
彼女から向けられる寵愛。その根拠となるものが不明瞭だ。
会長が俺を好きだというなら納得のいく理由を提示してほしかった。
現状はただただ据わりが悪くて仕方ない。
「えい」
「んぐっ……!? てょ、らにをっ!?」
突然、スクランブルエッグを口に突っ込まれた。卵の柔らかな甘みが口内にじんわりと広がっていく。
俺の問いに対する答えは『いきなり料理を食べさせる』だった。
「味はどうかな?」
「え、まぁ、美味しいですけど……調味料があるともっと良いですかね」
むぐむぐと咀嚼を終えて、率直に味の感想を告げる。
圧倒的に塩味が不足しているが、プレーン状態でも普通に美味かった。
「なら、よかった。存分に調味料を使ってくれていいぞ」
「ありがとうございます……えっと、それでさっきの質問なんですけど――むぐっ!」
「やれやれ、神原は欲しがりだな」
鳳会長は嫣然としながら、俺の唇に人差し指を押し当ててくる。
「まぁ、落ち着け。一度にすべてを曝け出すのは面白くない。時間は沢山あるんだ。気長にお互いを理解していこうじゃないか」
これ以上の追及は野暮だぞ、と優しく諭されてしまった。
致し方ない。ここは素直に従っておく。
モヤモヤは残るが、俺はまだ知らない方がいいのだろう。知ってしまったら、今以上に会長との接し方が分からなくなってしまいそうだ。
「……そうさせてもらいます。現時点でもだいぶお腹いっぱいなんで」
表情、言動、態度。何もかも初めて見る会長ばかりだ。
あまりに情報量が多すぎて食傷気味である。
「ふふ、こんなの序の口だぞ? 私はかなり乙女だからな。覚悟をしておくといい」
「ぜひとも手加減してください……」
「それは無理な相談だな。ほら、今度はケチャップでどうだ。神原、あーんだ」
「うへぇ!?」
口を開けるように促される。いわゆる『あーん』ってやつです。
先程のように無自覚のまま押し込まれるのとは訳が違う。
ラブコメで幾度と目にして、むず痒さのあまり壁や床を殴ってきたが(黒花にちゃんと怒られました)、まさか自分が当事者になるなんて。
「か、勘弁してください!」
無防備に口を開けて、食事を食べさせてもらう。無理だ。恥も外聞もない。
そんなことをしてしまったら、俺は二度とハードボイルドを名乗れなくなる(名乗ったことはないし、名乗る気もない)。
「月に一度、私の命令に何でも従うんだろ?」
「え、ここで使うんですか!?」
ここで惜しげもなく使ってしまうのは大胆というか。そこまでして『あーん』がしたいのかと驚かされる。
「君の羞恥に満ちた顔を見られるなら安いものだよ」
「趣味が悪いですよ……っ!」
「自覚はある。安心してくれ、私は変態だ」
「ちっとも安心できないんですが!?」
エネルギッシュな人間は性欲も凄まじいと聞いたことがある。
どうやら鳳会長もその例に漏れないようだった。
「ほらほら、観念するんだ。神原」
「うぐぐぐ…………あぁ、くそ! あ、あ、あーん!」
遠慮がちに口を開く。
餌を求める雛鳥の様相。ただ食事が運ばれてくるのを待つ。
なんだこれ恥ずかしすぎる。尊厳や矜持なんてあったものじゃない。
「あばばばばばっばばばばっばばばばばっばばばばばばっばばばっばばば!」
「ちょっ!? どうしました!?」
鳳会長は小刻みに震えながら、言語ではない音を吐き出し始めた。
人間の動きじゃない。ちょっとした恐怖映像です。
「す、すまない……君の表情があまりに扇情的で、頭がおかしくなりそうだった」
「なってましたけどね!?」
完全に頭がおかしい人の挙動でした。
「なるほど……私は狩る側だと思っていたが狩られる側でもあったということか……」
「ちっとも意味分かりませんけど、やるなら一思いにやってくださいよ!」
このままでは心臓がいくつあっても足りないぞ。
ギロチンみたいにスパッと終わらせてくれ。神原・ルイ16世になります(?)。
「わ、分かった……っ! 覚悟しろ、神原! ほら、あーん!」
「……っ! あ、あーん」
口を開いた瞬間、スクランブルエッグが押し込まれる。
頭の中は真っ白だった。ただ機械的に咀嚼を繰り返す。とにかく顔が熱い。
「た、た、食べましたよ……っ!」
「その、感想はどうだろうか?」
「そりゃ恥ずかしくて死にそうですよっっ!」
「ははは、味の感想を聞いたつもりなんだけどな?」
味に気を配っている余裕なんてなかった。
口に残ったケチャップの風味くらいしか感じ取れない。
「あとはもう自分で食べますから! では、有難く頂戴します!」
「おいおい、ゆっくり食べないと喉に詰まるぞ」
鳳会長の忠告は聞き流してスクランブルエッグを掻き込む。
味わうようには努めているが、真隣の会長が気になって味覚が上手く機能しない。
いよいよメンタル&コミュ力ゲージが限界だ。
この激甘空間に身を置いていたら妙な気を起こしかねない。食事を済ませて早々に退散させてもらおう。
「神原」
「ん、どうしました?」
一心不乱に食べ進めていたところ会長に肩を叩かれる。
「ケチャップが付いているぞ」
「あぁ、すみません。どのへんですかね?」
ハンカチで慌てて口元を拭うが、会長は「そこじゃない」と意地悪に笑っている。
「ここだよ、ここ――――――ぺろ」
「うひゃあああああああああああああああああああああああ!?」
鳳会長の顔が急接近したのも束の間、温かくザラザラと感触が頬と唇の間を伝う。
口元のケチャップを舌で舐め取られた。
言葉にすればシンプルなのに、脳の処理が追い付かない。
生体反応が先んじて違和への抵抗感を示し、素っ頓狂な悲鳴へと置換された。
「うむ、取れたぞ」
「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!? な、なにやってるんですか、会長!?」
ようやく頭で理解する。
舐められた箇所はわずかに温度を残しており、幻覚や妄想の類ではないことをありありと証明していた。
こんなのもう接吻と同等レベル――いや、それ以上の行為じゃないか。
「恋人同士のスキンシップだが?」
「やり過ぎですって! 今日が初日ですよっ!?」
「悪いな、神原。私の辞書に『自制』という文字はないんだ」
「しっかり編纂してくださいよ、その辞書!」
あぁ、やばい。
時間が経過するに連れて羞恥心が募っていく。顔から火が出そうだ。
駄目だ、会長の顔が見れない。胸の奥がズキンズキンと疼いて仕方ない。
「……神原?」
「えっと、そのっ! スクランブルエッグ美味かったです! ご馳走様でした! 今日のところはこれで勘弁してください! ほなさいなら!」
もう無理です。キャパオーバーです。
会長の「ひどいぞ、神原! こんなの生殺しだ!」という訴えは斥けて、脱兎のごとく逃げ出した。
仮交際の初日でこの濃度かよ。
俺が悶え死ぬのも遠い日じゃなさそうだった。




